「青い街」シャウエンの家々には
白壁の上にブルーのメルヘンチックな
カラーが塗られている。
この青の塗料
漆喰と呼ばれる前は 石灰と表記されていたものに
地元で採れる青の塗料を混ぜて 塗っているとか
混ぜ割合によって 色の具合が違ってくるという。
因みに 街中の壁が青く塗られている理由は
「かつてこの地に隠れ住んでいたユダヤ人の
天空・神・心の平静・海などを
象徴する聖なる色であった」というもの。
そのほか「虫除けの効果がある」
「夏の暑さを視覚的に和らげる」
などと諸説あるとのこと。
「青い街」シャウエンの家々には
白壁の上にブルーのメルヘンチックな
カラーが塗られている。
この青の塗料
漆喰と呼ばれる前は 石灰と表記されていたものに
地元で採れる青の塗料を混ぜて 塗っているとか
混ぜ割合によって 色の具合が違ってくるという。
因みに 街中の壁が青く塗られている理由は
「かつてこの地に隠れ住んでいたユダヤ人の
天空・神・心の平静・海などを
象徴する聖なる色であった」というもの。
そのほか「虫除けの効果がある」
「夏の暑さを視覚的に和らげる」
などと諸説あるとのこと。
街中の建物が青で染められた街
モロッコのシャウエン。
その幻想的な光景は
「死ぬまでに一度は見たい!」と
旅行パンフレットでも 絶賛している。
坂や小道が多いメディナの中は
迷宮のように入り組んでいて
おとぎの世界に迷い込んだ
ようだとも形容されている。
でも今現在 シャウエンは
世界遺産には登録されていない。
モロッコの街は ほとんどが昔からある
旧市街地(メディナ)と
近代に入ってから作られた
新市街地に分かれており
ここシャウエンの「青の街」は 旧市街地にある。
モロッコは アフリカ大陸にありながら
ヨーロッパの雰囲気が漂うのは
イベリア半島からユダヤ教徒や
イスラム教徒が移住してきているからといえる。
「豊かさは内に秘めるもので
決して外から見えるものではない。」
との教えから
イスラム建築の特徴は
城壁はあっても 各々の建物には垣根はなく
また外部に庭を作らない。
日本のような楽しい我が家的な生活が
見えないので一種独特の雰囲が感じられる。
首都ラバトから 約240km
地中海に沿ってある リフ山脈
北の麓に「シャウエン」がある。
正式名称は「シェフシャウエン(Chefchaouen)」
シャウエンとは
ベルベル語で「角(シャウエン)」の意味で
ティスカート山(2050m)と
メッグ山(1616m)の
二つの山が ヤギの角のように
見えることから 名付けられたという。
1471年に 建設された街だが
1492年 スペイン女王イサベラによって
成し遂げられたレコンキスタ(国土回復運動)による。
グラナダ陥落で スペインから逃れてきた
イスラム教徒によって
人口が 増大したという。
その後 今度は 1920年から
スペイン領に取り込まれ
1956年に 再びモロッコの独立となり
イスラム文化圏になった。
街の入り口にあるモニメントの歓迎門
前回 列車の話題でしたので
モロッコの鉄道についての話題
モロッコ国内に幅広いネットワークを持ち
国内主要都市間の長距離旅客輸送でもあり
モロッコの主要産業である
リン鉱石の物資輸送などを大きな柱としている。
国内の 全1,907Kmの ネットワークのうち
1,537Kmが単線 370Kmが複線で
軌間は 1.435mmの標準軌になっている。
また 1,003Kmが電化され
904Kmが 非電化区間だそうだ。
一方 現在 カサブランカ~タンジエの間
350km ユーロスター(TGV)の建設が
進められているようで その工事現場を見た。
所要時間 4時間45分とのことで
半分に短縮される。
広大なモロッコ王国のインフラは
徐々に進められているようだ。
ラバトからの高速道路を降りて
一般道を進むうち 右折
丁度 タンジェ方面に向かう
列車が通過するところで
踏切ストップ 通過するのを待つ。
脇の標識には
「Chefchaouen」(シャウエン)まで112km
ラバトから約240kmを
予定しているので 中間点になる。
「何回かモロッコに来ているが
列車を近くに見るのはなかった
皆さんもラッキーですよ!」
と添乗員はいう。
通過する列車には「ONCF」の見字が見えたが
Office National des Chemins de Ferの略で
“モロッコ国鉄“を表す。
客車には 1等車 2等車があり
長距離にはコンパートメント型や
寝台車も接続しているそうだ。
乗ってみたかったなあ~
さらに進むうち 「塩田」を見る。
モロッコは 砂漠のイメージ
塩田は 海辺ではわかるが
海から遠い この地でと思う。
しかし モロッコの塩と言えば
昨今話題になった「レモンの塩漬け」がある。
これは レモンを発酵させたもので
モロッコが 発祥の地だそうで
タジン汁を始めアフリカの
各料理でも使われているという。
この酸味と塩気が
肉や魚のグリルにドレッシングとして使用され
スパイス代わりになることから
万能調味料として重宝されている。
また一般家庭でも
簡単につくれることから
ジブラルタル海峡を渡って
スペインに伝わり
そこからヨーロッパ各地に広がり
世界中の調味料となったとも。
ツアーバスは 広大な平野地
アトラス山脈方面に進むなか
高架式用水路を見る。
モロッコ 海岸沿いは 地中海性気候だが
内陸部は 大陸性気候
アトラス山脈の東側は 砂漠性気候のため
平均降水量は 日本の5分の1以下で
しばしば 干ばつに 見舞われている。
加えて 農業が基幹産業であるので
水資源の確保が 最重要になっている。
雨水に頼る農業から脱却するため
日本の協力得ながら
用水路の整備が行われている。
しかし 国土は広く
整備状況は進んでいないようだ。
ラバトを後に ツアーバスは
約240km先の「シャウエン」に向かう。
途中 通信塔に無数の黒い塊が見える。
お判りでしょうか?
これ「コウノトリ」の巣なのです。
「今は ヨーロッパ方面に出かけていているので
巣は空っぽですが そろそろ戻ってくるでしょう。」
とガイドが言う。
先に首都ラバトの成り立ちについて触れたが
ここでは ラバトの近現代を話題に
西北部大西洋岸に位置する
モロッコの首都ラバトは行政の中心で
現国王のムバンマド6世の王宮や
歴史的遺跡が残る旧市街と
各国大使館が並ぶ新市街には
アラブ・イスラムと西欧文明が共存しあい
落ち着いた雰囲気のある街を形成している。
このことから 2012年 世界遺産に登録された。
因みに ラバトとは「城壁都市」を意味する
現在 人口65万人 沈泥により
港湾機能は失われて来ているが
モロッコの産業として有名な絨毯製造の他
近代では 繊維 食品加工 建設などの産業が盛んだ。
日本とモロッコの関係は
1938年 初めてカサブランカに領事館を開設
1956年 モロッコが独立した後
新たな外交関係が設立
1961年 ラバトに日本大使館が新設
1965年 東京にモロッコ王国大使館が開設
主な見どころの
未完のハッサン塔 ムハンマド5世廟
ウダーヤのカスバなど
見て都市ラバトを離れる。
ムハンマド5世廟の向かいに
整然と並ぶ白い石柱 360本が
チェスのように見える。
早朝とあってその影が長く伸びている。
その奥に建つ四角い塔が
「ハッサンの塔」
高さ 44m 一辺の幅 16.2m
1195年 ムワヒド朝の
ヤーコブ・マンスールが
世界最大のモスクを造ろうと
88mの塔を目指したが
その4年後死亡したため中断となり
未完の塔となってしまった。
なお ”ハッサンの塔”の
名前の由来は建築家ハッサンに因む。
また スペイン・セビリアのヒラルダ(93m)
マラケシュのクトゥピア(67m)と並んで
同建築家の名塔の1つに数えられるそうだ。
この塔や石柱の高さを延ばし
完成したモスクをイメージしてみたが・・・
当方のイメージでは おさまらなかった。
廟の中へ
入場料なく 室内の写真撮影もおとがめなし。
廟は シャンデリアに照らされ
4面の壁には国旗が立ち並べられている。
その中央には メッカの方向に顔を向け
ムハンマド5世の石棺が置かれている。
また 両角の石棺は
左が弟のアブドゥラー王子
右が前国王ハッサン2世(1999年没)の
棺も安置されているが
遺体は地下に葬られているとのこと。
天井にも見事な装飾が施されている。
廟に入るには 4か所入口があり
それぞれに深紅のマントに
銃を持つ衛兵が守り立つ。
まともに写真を撮ると
この銃で撃たれるのではないかと思い
横から恐る恐る撮影。
後で 自由に撮ってよいのだと
ガイドがいうのであらためて撮影しました。
また 時間が来れば
この衛兵たちの交代式があり見学できるそうだ。
モロッコには18か月の徴兵期間があって
50歳まで予備役義務が存在する。
これらの衛兵は徴兵なのかはわからない。
廟の脇には 大きな壁がそそり立つ
塀面に無数の四角い穴が掘られている。
ガイドの説明では 塀を建設するときに
この穴に木材を挿入して 足場としていたという。
今は その穴を住処として
ハトの団地化しているようで
飛び交い 壁の上から我々を見下ろしていた。
右に見える車庫のような屋根は
乗馬した衛兵がいるところ。
時間がはやかったので
まだ配置されていなかった。 残念!
モロッコ第2日目
世界遺産ラバトの見学は
昨日見学したウダイヤのカスバへ
戻る丘の上にある
「ムハンマド5世廟」。
モロッコの国王であった
ムハンマド5世の霊廟で
1961年に51歳で崩御後
1971年に完成している。
5世は 1956年フランスからの独立時の
英雄的な存在で「独立の父」でもある。
ムハンマド5世の2人の息子も収められている。
ムハンマド5世は 現国王ムハンマド6世の祖父
モロッコの王室は 18世紀に始まり
面々と続くアラウィ―朝で
ムハンマド5世の時代までは
スルタン(宗教的及び政治的指導者)を
名乗っていた。
16世紀になり
ヨーロッパでのイスラームの時代は終わり
熱心なイスラム教徒が
スペインから追い出され
この地に要塞(カスバ)を築いたが
今は その内側は
一般の居住区(メディナ)として使われている。
うす暗くなった カスバの中に入ると
その中には 白と青の壁の家々と
迷路のように入り組んだ路地が続く。
家々の扉が閉まる中
売店だけが扉を開けている。
店には生活用品が並べられているので
居住地であることが分かる。
また 狭い路地には 余分なものはなく
街全体もこざっぱりしている。
外灯に灯が入り 迷路な道を
迷子にならぬよう 急ぎ足で前に続き
見学は 20分ほどで終わる。
文京区目白台の田中邸
12月16日は 内閣総理大臣だった
田中角栄が亡くなった日。
1918(大正7)年―1993(平成5)年 享年75歳
衆議院議員(16期)郵政大臣(第12代)
大蔵大臣(第67~69代)通商産業大臣(第33代)
内閣総理大臣(第64~65代)等を歴任した。
しかし ロッキード事件で逮捕・有罪となった。
このところ 小説「天才」のきっかけで
汚名返上 名誉回復の機運が高まっている。
そんな田中角栄に関することを
都内からピックアップしてみた。
増上寺からみる東京タワー
田中角栄が 1957(昭32)年
岸内閣の郵政大臣になった当時
「展望台を備えたテレビ塔は
建築基準法の高さ制限に抵触する。」
として東京都が「待った」をかけ
工事が中断していた。
そこで 田中大臣は 電波行政の采配から
「この塔は 高さ制限に該当する建築物ではない。
煙突や広告塔と同じで工作物として
解釈すればよい。」とした。
その解釈どおりとして 建設がすすめられ
1958(昭和33)年12月23日
高さ333mの東京タワー
(正式名称:日本電波塔)が誕生した。
このことから 田中は
”東京タワーの生みの親” ともいわれている。
また 田中角栄の都市伝説として
目白の田中邸から地元新潟県西山町の実家まで
わずか3回曲がるだけで着くというもの。
後日 テレビ局が実証したところ 本当のようだ。
田中邸に隣接して
「目白台運動公園」があるが
この場所は 田中角栄の遺産相続で
物納した分も含んでいるところ。
こちらは 1974(昭和49)年
雑誌「文芸春秋」に
“田中角栄研究~その金脈と人脈”を
発表した立花隆氏の
文京区にある書庫兼仕事場。
この発表は 大きな反響を呼び
田中首相退陣のきっかけを作ったとされる。
神楽坂には 田中角栄が
繁く通った芸妓置屋があった。
当時「神楽坂通り」は
”角栄通り”とも呼ばれたとか。