あかない日記

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信州紀行 軽井沢19 近衛文麿別荘2

2020-01-31 | 国内・長野

 

別荘は 2016(平成28)年
軽井沢町文化財
(指定第19号)に指定され
「資料館分室市村記念館」
から「旧近衛文麿別荘
(市村記念館)」に
名称を変更している。

 

 

近衛文麿が軽井沢で
過ごした様子のパネルや
書斎コーナーが設けられている。

 

近衛文麿(1891-1945)東京出身
京都帝大卒
大正-昭和時代前期の政治家

近衛篤麿の長男。

貴族院議長などをへて
1937(昭和12)年第1次近衛内閣を組織。


日中戦争に
不拡大方針でのぞむが
戦局の拡大を容認。

1940(昭和15)年
新体制運動を組織し
第2次内閣を組閣。

日独伊三国同盟を締結
大政翼賛会を結成。


1941(昭和16)年
日米交渉打開にむけて
第3次内閣を組閣したが

失敗し 総辞職。

戦後 戦犯容疑で指名され
1945(昭和20)年
12月16日自殺。55歳。

 

 2階和室

 

 


信州紀行 軽井沢18 近衛文麿別荘

2020-01-30 | 国内・長野



旧雨宮邸の奥 木立の中に
「旧近衛文麿別荘」がある

別荘とは思えないどっしり
とした二階建て 
色具合が美しい
取り合わせになっている。

この建物は
1918(大正7)年
野沢源次郎により野沢原
(軽井沢駅の北西部)で
分譲販売された
洋風住宅建築会社
「あめりか屋」の
アメリカ式別荘の一つで

1926(大正15)年に
近衛文麿が
別荘第1号として購入した。

1933(昭和8)年
町出身の政治学者で
近衛と親交があった
市村今朝蔵・きよじ夫妻が
購入し、
翌年に南原
(現在地より路線を挟んで
南方向)に移築され使用された。

夫婦没後 1997(平成9)年
現在の場所、雨宮池の
端に移築され
遺族から町に寄贈され
1999(平成11)年に開館した。

近衛文麿をはじめ
市村今朝蔵とその妻で
名誉町民となった
きよじ、
雨宮敬次郎らの
資料が展示されている。

 


信州紀行 軽井沢17 杉浦非水

2020-01-29 | 国内・長野

 

・右上:地下鉄銀座線
 (上野―浅草)開通ポスター(1927)

・左下:タバコのパッケージ
  デザイン「みのり」(1929-)

・右下:三越呉服店 
  新館落成ポスター(1914)

 

軽井沢町歴史民俗資料館内に
杉浦翠子と夫・非水の
特別コーナーがあった。

杉浦 非水(1876-1965)は
愛媛県松山市生れ 本名 朝武。

日本のグラフィックデザインの
黎明期より活動し、

商業美術の先駆けであり
現代日本のグラフィックデザインの
礎を築いた一人であり

多摩帝国美術学校
(現・多摩美術大学)の
初代校長でもあった。

また 杉浦夫妻は
美術と文学の先端を行く

モガ・モボ時代の寵児とも言われた。

特に 三越呉服店の
広告デザインにおいて

百貨店としての
新たなブランドイメージをつくり出す

「イメージメーカー」の才能を発揮し
「三越の非水か、非水の三越か」と言われ
「今日は帝劇、明日は三越」などの
キャッチフレーズも作っている。



ここで 先に訪れた 
須坂の田中家で展示されていた 

「明治天皇御製かるた」を
思い起こした。

 (田中家・明治天皇御製かるた)

かるたの絵札は
この 杉浦非水 が
デザインしていたことを。

このカルタは
明治天皇崩御後の
1912(大正元)年に

明治天皇の御製100首を
あつめてつくられている。


 

 

 


信州紀行 軽井沢16 杉浦翠子

2020-01-28 | 国内・長野

 

軽井沢歴史民俗資料館の
玄関前に 
杉浦翠子 の歌碑が
置かれている。

 

この歌碑は 1961(昭和36)年
夫・杉浦非水により
翠子の別荘に没後1年後に建立され

その後1999(平成11)年に
遺族が町に寄贈した折に
この資料館玄関脇に
移設している。

 

浅間山の情景を詠った

「あめつちに 
 おのれさびしと 

 おもうとき 
 浅間はもゆる 
 陽のいりぎはを」

と刻まれている。

 

杉浦翠子(1885-1960
・旧姓 岩崎翠)は 川越市生まれ

女子美大、国語伝習所などで学び

北原白秋や斎藤茂吉に師事し 
日本を代表する女流歌人。

軽井沢には
夫・非水と別荘を構えていた。

 

なお 福沢桃介
(1868-1938)は 兄で

福沢諭吉の養子になり
「電気王」「電力王」と
呼ばれる実業家。

 


信州紀行 軽井沢15 雨宮邸

2020-01-27 | 国内・長野

 

歴史民俗資料館がある 離山は
中軽井沢と旧軽井沢の間に
位置する標高1256mの小さな山

1時間程で登れる。

その麓に広がっているのが
「離山公園」

園内には 旧雨宮邸・市村記念館
(旧近衛文麿首相別荘)
・軽井沢民族資料館
・町立図書館 が並立し

軽井沢の文化と歴史の
多くを知ることができる。

旧雨宮邸は雨宮御殿とも呼ばれ
重要な文化遺産である。

雨宮敬二郎(1846-1911)は
山梨の名家に生まれ 
生糸、養蚕業で成功し

明治時代一代にして財閥を
築いた人物であり

甲州財閥集団の一人
「天下の雨啓」
「投機界の魔王」とも呼ばれ
軽井沢の開発者として知られる。

1883(明治16)年
最初は 軽井沢の荒野を

ぶどう畑にしようとしたが 
気候が合わず失敗
やむなくカラマツを植樹したところ
これが成功し 年30~40万本を植え
最終的には700万本も植えている。

更に 軽井沢に最初の
別荘が建つよりも早く

軽井沢の拠点として離山のふもと
中山道沿いの
この地に事務所として

100坪の邸宅を建設した。

また 明治の末期には120坪の
新座敷建設し
政財界の賓客を迎えていた。

雨宮亡き後は 
夫人の弟・市村藤吉氏が

軽井沢での事業を受け継ぎ
さらにその息子の市村今朝蔵氏が
引き継いだが
その代で雨宮家の事業は没落した。

 

*甲州財閥とは
明治期顕著な経済活動を行っていた
甲州(山梨県)出身の
実業家たちのことで


著名な人物は
若尾逸平、若尾幾造、若尾璋八、
雨宮敬次郎、根津嘉一郎、
小野金六、穴水要七、小池国三、
佐竹作太郎、神戸挙一がいる。

その中でも
若尾逸平と雨宮敬次郎は
二大巨頭と言われている。

   西の家

新座敷

新座敷は 明治末期に建築され
総理大臣「伊藤博文」が
招かれたといわれる。

この他政府・財界の大物が
軽井沢に避暑に来る折
この屋敷に宿泊している。

 



蔵の中では
年間を通して絵画、創作家具、漆器、

パッチワーク等のさまざまな
展示会が催されている。


 

 


信州紀行 軽井沢14 軽井沢町歴史民俗資料館 

2020-01-24 | 国内・長野

軽井沢町歴史民俗資料館

 

追分宿郷土館から中軽井沢駅の先
国道18号 南原交差点脇にある

「軽井沢町歴史民俗資料館」へ

 

 

1963(昭和38)年 
元大蔵大臣勝田主計の別荘を
軽井沢町が買い取り
町内の遺跡出土品や
各種民俗資料などを収蔵・
展示し
「軽井沢町資料館」
として開館した。

 

その後 
1980(昭和55)博物館法に
準拠した資料館として

新たに建設され開館した。

2000(平成12)年 
軽井沢町歴史民俗資料館に
名称を変更している。

     

館内撮影禁止のためパンフレットから

 

展示には 
縄文時代の茂沢南石堂遺跡や
入山峠祭祀遺跡の出土品

中山道宿場関係資料 
別荘模型 軽井沢彫などが
展示されている。

 

 

 


信州紀行 軽井沢13 追分宿郷土館

2020-01-23 | 国内・長野

文学館から東
町営駐車場の向かいにある

「軽井沢町追分宿郷土館」へ

 

郷土館は 追分宿及び
軽井沢町西地区の資料を

一堂に集め 宿の構造や歴史などへの
理解を深めるために保存し

1985(昭和60)年に開館した。

 

建物は

旅籠を模して造られた建物で
宿場の雰囲気を出すため 
内外観ともに木造風を基調とし

外観は江戸時代の旅籠に似せて
コンクリート壁に木造の
出桁造りを巡らしている。

展示は

茶屋(追分桝形の茶屋を
実測した1/3の模型)の

一部を復元し 当時使われていた
品々を配するなど

追分地区ゆかりの資料を
中心に展示している。

また 縄文時代から現代までの歴史を
年代を追って辿ることができる。

2階には軽井沢出身の書家、
稲垣黄鶴女史の書や
追分に関係する古書・古文書、
桝形の茶屋・油屋をはじめとする
旅籠・茶屋の模型などが展示されている。

 

展示室 茶屋コーナー
(茶屋の一部を復元) 
 *リーフレットから

 


信州紀行 軽井沢12 堀辰雄文学記念館3

2020-01-22 | 国内・長野

 

旧宅 辰雄が晩年 
読書と療養の日々を過ごした部屋

映画女優・高峰三枝子(1918-1990)から
贈られたという藤の椅子セット

床の間の掛軸は 
川端康成から贈られた「雨過山如洗」 

 

 

 

説明文には 

書庫 この完成を心待ちにして
病床で蔵書の並べ方まで
妻に指示していたが、

死の10日前に
出来上がったこの書庫に、
思ったとおり本が並ぶのを
遂に見ることなく世を去った。

今は その指示とおり
配架されているという。

常設展示場

敷地には 旧堀辰雄邸と
書庫、管理棟を兼ねた展示室と
常設展示棟がある。

常設展示棟は
2010年 96歳で亡くなった
多恵夫人が
 堀辰雄の没後に建てて
夏を過ごしていたもの。

 館内には  原稿・書簡
・初版本・遺愛の品々が展示され
堀 辰雄の生涯と文学の背景を
知ることができる展示室

愛蔵書が納められた書庫がある。

 

 

 


信州紀行 軽井沢11 堀辰雄文学記念館2

2020-01-21 | 国内・長野

 

 

堀 辰雄(1904-1953)は

明治37年東京に生まれ
昭和初期に活躍した作家。

大正12年 19歳の時に
師である室生犀星に連れられて
 大正14年には滞在中に
芥川龍之介らとドライブで
 追分を訪れて
静かなこの地が気に入り
 毎年のように
この地を訪れるようになり
自然のなかで構想を練り
軽井沢を舞台とした数々の作品を残し
堀ほど軽井沢に
ゆかりの深い作家はいない。

旧軽井沢の別荘から 
昭和19年 疎開と療養を兼ねて
この追分に定住している。

昭和26年には家を新築し
亡くなるまで1年10ヶ月
療養の日々を送り
昭和28年5月28日
この家で48歳の生涯を閉じた。

1993(平成5)年4月 
堀 辰雄 終焉の地となった場所に
「堀辰雄文学記念館」が開館した。

 

 代表作
 ルウベンスの偽画(1927・S2年)
聖家族  (1930・S5年)
風立ちぬ (1936-1937・S11-12年)
菜穂子  (1941・S16年)
曠野   (1941・S16年)
大和路・信濃路(1943・S18年)

 

 


信州紀行 軽井沢10 堀辰雄文学記念館

2020-01-20 | 国内・長野


油屋の先「堀辰雄文学記念館」がある。

その門だが 
私邸には似つかぬ門だなと思う。

疑問の答は 脇の説明文にあった。

 

明治に入り 追分宿の
衰退については 触れたが
その後
「本陣門の移築
本陣は明治の末期頃、追分宿に近い
御代田町塩野地区の
内堀家表門として移築される。

内堀家では追分宿本陣の
門として大切に扱い、
門に覆屋をかけて約100年間の間、
内堀家の門として役目を果たしてきた。

内堀家においては、
本陣門が軽井沢町の
歴史遺産である事をご理解され、
平成17年に
内堀家(当主の内堀志通彦氏)より
軽井沢町へ寄贈された。」
とあった。

因みに 約1700万円の移築に要した。

 

なお 門の構造は

「材料は全て欅材 一間冠木付き門
・切妻造(桟瓦葺)・妻蟇股
・二軒繁垂木・背面控柱。

  棟札・・維持 天保二 辛卯仲秋二十四日
・大工 越後国 片桐伴と明記され建築年

と大工の棟梁名が分かる。
(追分郷土館に展示)」

 

 


信州紀行 軽井沢9 油屋

2020-01-17 | 国内・長野

 

本陣跡の東隣に「油屋」がある。

 

江戸時代 旅寵は大きなのが
5戸、中17戸、小さいものも多くあり、

脇本陣には甲州屋と油屋があった。

1872(明治5)年の
芸娼妓解放令以降は旅館となり、
堀辰雄・立原道造・室生犀星らに愛された。

特に、堀辰雄の小説「菜穂子」
「ふるさとびと」に登場する
“牡丹屋”という旅館は
この油屋がモデルとなっているという。


しかし 1937(昭和12)年11月
隣家からの失火に煽られ
ほぼ全焼してしまい、

現在の所に再建された。

その昭和12年は 
堀辰雄が「風立ちぬ」を
書き上げた年でもあった。

                         


現在 建物の1階には
ギャラリーやShopがあり

2階が素泊りの宿
『油やSTAY』になっている。

 

当日は休みで
館内には入れなかった。

 

 

近年になり旅館閉業で
解体の危機になったが、

2012(平成24)年 
NPO法人「油やプロジェクト」が発足し

修復・改装して再生した。

「信濃追分文化磁場油や」として
場所を提供している。

 

 


信州紀行 軽井沢8 本陣跡

2020-01-16 | 国内・長野

 

石垣の上に
「中仙道追分宿 旧本陣」
とあるが

現在建物は現存せず 
本陣跡としている。

 

説明文によれば

「追分宿の本陣は
歴代土屋市左衛門を世襲した。

 追分が宿場の機能を持つのは
慶長7年(1602年)中山道の

伝馬制度を徳川家が
整備した以後である。

本陣文書に「定路次駄賃之覚
(慶長7年6月10日)」の
記録があり、

本陣が問屋を兼ね宿継、
伝馬人足の継立ても生業としていた。

本陣の建坪は238坪あり
中山道の宿場中、塩尻宿・上尾宿に

次ぐ大きな宿泊施設を
整えていた本陣である。」とある。

しかし 明治になって
明治11年 明治天皇の

北陸御巡幸により追分本陣が
行在所として使用されるが、

明治26年に信越線が
全線開通すると宿場の機能が
衰退してしまった。


街道に面して
「明治天皇行在所跡」の碑がある。

 

本陣脇の角に
「浅間山道路第一詣石」の
石標が立っている。

北に向かうこの道は 
沓掛宿の西の通称「うま道」と
呼ばれていた草津道と合流している。

 

 


信州紀行 軽井沢7 高札場 

2020-01-15 | 国内・長野

 

 

高札場は、江戸時代、
幕府からの法度、
掟書といった
通達事項を記した
高札を掲げた場所で、

古文書を参考にして 
昭和58年に復元されている。

 

説明文には

 「追分宿高札場

追分宿の高札場は、
問屋前の路中央にあった。

法度、掟書きなどを記した。

また、さらし首、重罪人の
罪状を記し、
高くかかげた板札を 高札という。


寛永10年(1633)の
古文書によると、広さ 9尺、
横一間、高さ三尺の
芝土手を築き、

高札場の柱は
5寸角のものを使用し、
駒よせ柱は 4寸角で、
高さ 6尺の規模であった。

昭和58年、
当時の古文書などから、
高札場を復元した。

ここに掲示してある高札は、
複製品で、現物は
追分宿郷土館に
保管展示されている。」

とある。

また 高札の下に 
通達事項内容のサンプル
「定」と「農商への布告」が
掲示されている。

 

 

 


信州紀行 軽井沢6 泉洞寺 

2020-01-14 | 国内・長野

 

 

 

碑の説明文には 

「浅間山 香華院 泉洞禅寺

宗派は 道元禅師開山の
福井永平寺、宝山禅師開山の
横浜鶴見総持寺を

両大本山とする 曹同宗に属し、
本尊は 聖観音菩薩。

慶長3年(1598)3月、
上州(群馬県長野原町)
常林寺5世心庵宗祥禅師
により開創。

禅師は 三州の人で元は武士、
俗名を 林主人といい、
天正3年(1575)
長篠の戦いに遭遇、

数多くの戦死者を
目のあたりにして
無常心をいだき、
長篠の曹洞宗医王寺にて
剃髪し 出家をさたという。

境内には 当地出身の
女流書家・稲垣黄鶴の
句碑、筆塚があり
他に慈母観音、
牡丹地蔵等がある。

詩人の 立原道造、
作家の 堀辰雄、
後藤明生 等も散策し、
当寺に関わる作品も
数多く残している。」

 

                                                  

泉洞寺は、寺名「仙洞寺」で
あったが江戸時代、
火災に遭遇したことから、

火災等の災難を除けるようにと
祈願して「仙洞寺」から、

水を持って寺を守る様にと
「泉洞寺」と改名している。

                       

境内の裏手には、
ここへよく散策に来ていた
堀辰雄が愛した如意輪観音の
半跏思惟像がある。

頬に手を置いていることから
別名「歯痛止めの仏さま」
とも呼ばれている。

 


信州紀行 軽井沢5 追分公民館

2020-01-10 | 国内・長野

 

 

旧街道の途中に 
現代的な建物がある。

地元住民と別荘会の
寄付により建設された
「追分公民館」である。         

 

 

プレートの説明文には

「平成7年(1995)建築 追分公民館

 立原道造と石本建築事務所の同僚であり、
追分に別荘のあった

武 基雄(1910-2005)が設計した。

町民が立原の卒業設計の芸術家コロニーをもとに
図面を頼んだが、
武は「それは難しい」と言いながら受けてくれた。

立原のレリーフ(加太肇江作)と
玄関の表札(稲垣黄鶴筆)もある。

軽井沢町」

 

 

*立原 道造(1914 - 1939)

東京に生まれ 第一高等学校で
堀辰雄、室生犀星と交流する。

帝国大学工学部建築学科中には
辰野賞を3度受賞している。

石本建築事務所に入所し、
その合間に詩集『萱草に寄す』や
『暁と夕の詩』に

収められたソネット(十四行詩)に
音楽性を託したことで、

近代文学史に名前をとどめることとなる。

しかし 結核のため24歳で夭折した。 

*武基雄は 早稲田大学卒業後、
石本喜久治建築事務所に勤め、

立原道造と同期であった。

                       

稲垣黄鶴(1903-2007)は 
追分宿三浦屋の
子孫「はま」として生まれ

岩田鶴皐に師事して女流書家となって
書道界の重鎮として活躍する。

1985年 軽井沢名誉町民となる。

   

加太肇江
(かぶとちょうこう・1932-)彫刻家