旧市内の一角に ライトアップされた「ベオグラード大学」があった。
えっ! これが大学? 飾りつけがないので 商業施設ではなく
何か 役所的な建物に見えたが・・・
1808年に創立されたセルビア共和国で最も歴史のある大学で
30の学部および8つの研究所を擁し 教員数約3千人
学生数約10万人の規模とのこと。
また 1976年からは日本語講座も開設され
大学の植物園には日本庭園もあるそうだ。
旧市内の一角に ライトアップされた「ベオグラード大学」があった。
えっ! これが大学? 飾りつけがないので 商業施設ではなく
何か 役所的な建物に見えたが・・・
1808年に創立されたセルビア共和国で最も歴史のある大学で
30の学部および8つの研究所を擁し 教員数約3千人
学生数約10万人の規模とのこと。
また 1976年からは日本語講座も開設され
大学の植物園には日本庭園もあるそうだ。
(資料から)
ここベオグラードにもある。
この広場は1945年11月29日の共和国制公布を記念して命名されている。
コソボ紛争時にはNATO軍の空爆にて ここ周辺は大きな被害を受けた。
しかし 現在は 広場に面して国立博物館や国立劇場などの建物が並び
町の中心的な広場であるので 多くの人々が待ち合わせるなど
場所としても有名になっている。
前回 ミハイロ公の名が出たので
その「ミハイロ・ オブレノヴィッチ公爵」の像が
ミハイロ通りの先の共和国広場に建っている。
セルビアは長きにわたってトルコの支配下にあったが
父のミロシュ・オブレノヴィッチは 武装蜂起し 戦争の結果
トルコから公の称号を得て セルビア公国を成立させた。
しかし ミロシュは 専横的な政治を実施したために
国民の人評価はそれほど高くなかった。
その跡を継いだ「ミハイロ」は ヨーロッパ風の
近代的な都市づくりを推進し また軍の近代化と行政改革を実施し
セルビアのトルコからの完全独立をめざしたが
1868年 政敵によって暗殺されてしまう。
だが 1878年のベルリン会議によって セルビアは
トルコから完全に独立が認められて ミハイロの思いは成就された。
それにより 1882年 フィレンツェの彫刻家
パッツィによって製作された 騎馬像が
共和国広場に建てられている。
ツアー一行は カレメグダン公園を後にし
旧市街地の 「クネズミハイロバ通り」へ
この通りは ユーゴの流行や情報の発信地にもなっており
ベオグラードにおける“シャンゼリゼ”とも言われる。
街並には 高級ブティック カフェ 本屋 画廊などが店を開き
歩行者天国として 夜になっても人通りは混雑している。
通りは 1867年 カレメグダン公園(城塞)と
旧市街を結ぶことを目的に建設されている。
命名の由来は 1870年 セルビアをトルコから解放し
独立へ導いた英雄として
今も市民の人気を得ている「ミハイロ公」の名前が付けられた。
因みに クネズとは、「公」という意味。
土産になるので 何枚か買い求めたが
今では”5000億ディナール”も 宝くじのハズレ券と同様1枚の紙切れに!
カレメグダン公園から旧市街地に通ずる道端では
土産物売りがパラソル型テントを並べている。
その中で 現地ガイドが案内してくれたのが 地元のおばあさんの店。
売っている物の中に 旧紙幣があったが。
その紙幣の金額の桁数を見て ビックリする。
0の数を数えて見たら11個もある。
一体こんな金額も見たこともないが 何と 「5000億ディナール」とか。
1ディナールが2円として 1億円になる。
旧ユーゴでデノミは7回行われ うち5回は1990年~94年に行なわれ
1993年の通貨切り下げでは
5000、1万、5万、50万、500万、5000万、5億、50億、500億
5000億ディナール紙幣が次々発行された。
1万ディナール紙幣を除いて
5の数字ばかりという不思議な組合せであった。
その当時 ミルク一杯が4億ディナール
ソーセージ4本が14億ディナールと 気の遠くなるような物価だった。
わが国は アベノミクスで ”デフレ脱却”がなるか!
カルメグダン公園の見学を終え
旧市街地側のゲートを出たところに大きなモニメントがある。
これは 第1次世界大戦の際に同盟国として
セルビアを支援してくれた「フランスに感謝する銅像」だそうだ。
女神が舞い 台座には銃を構えるフランス兵士?が刻まれている。
また あとで分かったことだが
公園の一角には “鹿おどしを模った噴水”があり
その脇に「日本国民に感謝する泉」のプレートが置かれていて
これは2010年 ベオグラード市が日本からのこれまでの支援に
感謝するモニュメントとして設置されている。
フランスへの感謝像と並ぶ公園内の記念碑となっているそうだ。
ベオグラードの市旗
ドナウ河とサバ川が合流し 緩やかな丘陵地に広がる
セルビアの首都「ベオグラード」は 国の総全人口のうち
24%の約180万人が暮らし 年間平均気温は11.7℃で
穏やかな大陸性気候だが
主に秋と冬には“コシャバ”と呼ばれる乾燥した風が吹く。
ベオグラードは ヨーロッパ最古の町の一つで
アテネ ローマに次いで古い首都。
古くから西欧と東欧の道が交わる重要な交差点であり
約2千年に渡る歴史から見て その恵まれた地理的な環境から
ケルト人 ローマ人 ビザンチン人 スラブ人 ハンガリア人
トルコ人などにより占領され そのたびに砦を造ってきているため
いろいろな様式が取り入れられている。
そして 文明の十字路としても 町並みや建築だけでなく
食文化 音楽などにおいても 中央ヨーロッパとオリエントの
様々な影響を受けてきている。
ベオグラードの町の由来は、「白い要塞」という意味。
かつて この都を攻め落とそうとしたオスマン帝国軍の将兵は
ドナウ河とサバ川の合流を見下ろす
“白く光っている石積みの要塞” を見て付けた名前で
“ベオ”は 「白い」
“グラード”は 「要塞・城砦」(または「町・都市」) という意味だそうだ。
カレメグダン公園ら見る。 左側サバ川がドナウ河へと合流する地点
ドイツを源流とし 中央ヨーロッパ大陸を潤し延々と流れてきたドナウ河と
一方 アルプスの麓から流れ出て バルカン半島の中央を流れるサバ川とが
ここで合流し 東へと流れを変え 黒海に向かって流れ下っていく。
このドナウ河とサバ川は 昔から国際的にも重要な水路であり
また 自然的な国境線となっていた。
ベオグラードの歴史は この合流地点という地理的位置とともに発展してきた。
そのため 「バルカンへの入り口」「中央ヨーロッパの玄関」とも呼ばれていた。
ここから眺める夕日は最高らしいが 生憎の曇り空とその時間では無かった。
城内の真ん中どころに デンとどっしり構えた建物があり
何かと後で調べる。
これは 「ダリ・アマ・パシャ」
トルコ支配期の総督の棺が安置されている祠だった。
「パシャ」は オスマン帝国の高官 高級軍人の称号をいう。
まだまだ 城内には オスマン帝国 トルコの名残が あちこちにあるようだ
カレメグダン公園内にある
ベオグラードのシンボルになっている「勝者の記念像」は
サバ川とドウナウ川の合流と 遠く広がるパンノニア大平原を
見下ろし建っている。
第一次世界大戦のセルビア王国の勝利を記念し
1928年に建てられて 高さは14mあるが
高台にあるのでその高さはさらに高く見える。
像の勝利者は 右手に剣を 左手に鳩を持っているので
思うに「戦争と平和」を象徴しているようだ。
カラジョルジェヴィッチ王の友人メシュトロヴィッチという
クロアチア人の彫刻家が作った作品とのこと。
城内でも 際立って印象的に見える 「時計塔」(サハト・クーラ)は
1740年~1789年にオスマン帝国によって建設されたが
防戦のための高楼と同時に
イスラム教徒に お祈りの時間を 告げる役割を担っていた。
“時計塔”というのは オスマン帝国統治を受けた
ヨーロッパ地域独特の建築であり トルコ本土では見られないそうで
バロック様式の影響を受けている。
オーストリアが鐘楼を その土台になっている門は
トルコによって建てられている。
時計門の手前 二重の壁の間は お濠になっていたが
今は埋め立てられて 第二次世界大戦の際に使用された
戦車や迫撃砲などの兵器が 野外展示されている。
また 軍事博物館は 古代から第二次世界大戦に至るまでの
戦争の記録 城郭の模型や武器などを 各個室に分けて展示し
特に ナチス・ドイツの占領に対するパルチザン闘争の
チトー率いるパルチザン部隊が ゲリラ戦を繰り返しながら
ドイツを撃退していく様子が 詳しく展示している。
また この博物館の歴史は古く セルビアがトルコから
独立した直後の1878年に創立され
1904年 一般公開されている。
しかし どの国行っても戦争の記憶としてその経緯や機器などを
展示し その悲惨さ 愚かさを訴えているが
歴史的見ても また再び 繰り返されているのが 現状か・・・。
写真は 要塞のメインゲート「スタンボル門」
スタンボルとは セルビア語でイスタンブールをいう。
スタンボル門は その名のとおり ベオグラードからイスタンブール
へと続く出発点であった。
ベオグラードは オスマン帝国において イスタンブールにつぐ
最大の都市で 10万人もの人口だったととのこと。
この古い城塞の建築物のほとんどは トルコ又はオーストリア
によって建てられたものであるが この門は その名の示すとおり
トルコが構築している。
門の奥には バロック様式の 白い時計塔 が見えるが
オーストリアが その土台になっている門(時計門)は
トルコによって建てられているので
先に旅したイスタンブールを思い起こす。
しかし 現在 そのイスタンブールはデモで騒然としている・・・
上方が南 手前ドナウ河と南からサバ川が合流し 東へ流れる。
ベオグラードは 大きく 二つの地区に分けられる。
案内板の左側 サバ川とドナウ河右岸の旧市街(スタリ・グラード)と
右側 サバ川左岸の新ベオグラード(ノビ・ベオグラード)。
ベオグラードでの第一歩は その旧市街地で中州に面している突端
サバ川とドナウ河の合流する丘の上の 「カレメグダン城址公園」。
トルコ語で、“カレメグダン” とは (カレは町 メグダンは野)の意味で
紀元前4世紀には すでに城壁を有した堅固の城塞が造られていたという。
しかし 現在残るものの多くは 18世紀以降に造られたものだそうだ。
また 今の城内は 公園として開放されベオグラード市民の
憩いの場になっており 中世から第2次世界大戦までの武器などが
展示された軍事博物館や動物園 トルコ風浴場施設やカルラ6世門なども
残されている。
梅雨の晴れ間を利用して
我が家の ”梅”を 収穫をする。
今年の「実」は 例年に比べ 大きく バケツ一杯(7kg)程になるが
少々足りないので 「南高梅」を買いたいして
梅漬け 砂糖漬け にした。
毎日 家人は 私に弁当を作ってくれているが
この”梅干し” が いつも ご飯の中心にある。