あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

リトアニア・カウナス 49 バスケットボール

2018-04-18 | バルト三国紀行

 

 

リトアニアで 忘れてならないのが
最も人気のあるスポーツ
国技 “バスケットボール”。


男子の半分は
バスケットボール選手になる夢を抱き、

成人男性の3分の1は、
趣味としてバスケットボールをしているそうだ。


特に、ここカウナス市には 
70年間ほど続く名門チーム
「ジャリギリス」あることから
バスケットボールの首都ともいわれている。

また 2011年バルト三国で最大の
17500人収容のアリーナがオープンして
年間100回以上の試合が行われているという。


リトアニアでバスケットボールが人気のある理由は、

・リトアニアチームが1937年、1939年、2003年の
3回にわたってヨーロッパチャンピオンになった。
世界ランキングでもアメリカ スペインに次いで第3位。


・カウナス市の「ジャリギリス」男子チームが
1999年にユーロリーグのチャンピオンになった。
  また主力選手がカウナスの出身。

・リトアニア人選手が
NBA(北米のプロバスケットボールリーグ)
プレーヤーとして活躍している。

 

* * * * * * * * * * *

今回で「フィンランド・バルト三国紀行」は 終了いたします。

ご覧いただきありがとうございました。

 


リトアニア・カウナス 48 ネマン川

2018-04-17 | バルト三国紀行

 

 

カウナス中央駅から西南  

独特な形の鉄橋が架かっている

「ネマン川」を見る。


リトアニアの人は

ネマン川を「父なる川」と呼んでいるが、

その長さは937kmで、欧州第14番目に長く、

ベラルーシから459km、リトアニア国内を359km、


その先116kmを流れてバルト海に注いでいる。


深さは最大で5m、川幅は最大500mと

ゆったりと流れている。

また カウナスは、

二つの川が合流することから


「結婚の象徴」「結婚の街」とも言われている。



 

 


リトアニア・カウナス 47 カウナス中央駅

2018-04-16 | バルト三国紀行

 

 

   駅構内の表示板

       ワルシャワ 469km     ヴィリニュス 104km
       ベルリン  1056km     リガ    244km

       アムステルダム 1576km   タリン   620km

       ロッテダム 1613km     ヘルシンキ 700km

       ブリッセル 1688km

 

 

「LIERUVOS GELEZINKELIAI」(リトアニア鉄道)と国章が見える。

リトアニア鉄道は、
国有の鉄道会社(本社・ヴィリニュス)。

1860年に最初の路線が開通し、
今の会社は1919年に開業し、 

リトアニア国内全ての路線の運行を行っている。

 幹線は1749 kmの広軌で、
うち122 kmが電化されており、

 同様に22 kmが標準軌。

 


リトアニア・カウナス 46 杉原千畝 5 名誉回復

2018-04-15 | バルト三国紀行

 

 

1991(平3)年 バルト三国と
51年ぶりに国交樹立にあたって

鈴木宗男代議士(当時・外務政務次官)が
杉原氏の名誉を回復と外務省が謝罪すべきと奔走し

人道的かつ勇気ある判断を高く評価、
杉原家に謝罪し名誉回復をおこなった。

外交官としての名誉回復は、
実に44年後になっていた。

 

しかし すでに杉原氏は 
1986(昭61)年7月31日86歳で逝去されて

本人へ直接伝えることができなかった。

 

 

        

 外務省の「外交史料館」には

「勇気ある人道的行為を行った外交官
 杉原千畝氏を讃えて」

 (2000年10月10日)の顕彰プレートと
 杉原氏の関係資料が展示されている。

 

    (写真はAbs朝日「昭和偉人伝」から)

 


リトアニア・カウナス 45 杉原千畝 4 ヤド・バシェム賞 

2018-04-14 | バルト三国紀行

 

 


 

 杉原氏は 1947(昭22)年 帰国し、
外務省を追われるように退職し、

その後は 民間会社に勤めるなどし、
ひっそりと余生を送っていた。 

 “チウネ” の名前は外国人にとって
発音しずらいと思い
自らを “センポ” と名乗っていたという。


戦後 そのため難を逃れ、
生き延びたユダヤ人難民たちが、

命の恩人「センポ」さんを、
日本で探し出そうと試みたが、

“センポ”に該当する者はいないと
外務省は回答していたため、

長年見つけ出せなかったという。

しかし1964(昭39)年 イスラエル・宗教大臣
(この人も“命のビザ”の発給を受けていた)により
杉原氏の所在が突き止められて、
1969(昭44)年 イスラエル政府から叙勲を受ける。

さらに 1985(昭60)年 イスラエル政府から
「ヤド・バシェム賞」
(諸国民の中の正義の人賞)が贈られた。

その宛名も “SEMPO” だった。

杉原千畝は 「東洋のシンドラー」と呼ばれるが、
当のシンドラーは ユダヤ人を
自分の商売に使っていたことから、

純粋にユダヤ難民を救済したかどうかわからない。
しかし、結果として 千人以上の人を救っている。

杉原氏の行為は、
人として当たり前のことをしようと
決断していることは
シンドラーとは別の意味で
尊く重い価値ある行為だとの評価もある。

そのシンドラーとは
第二次世界大戦時にナチスドイツによる
ユダヤ人の組織的大量虐殺(ホロコースト)が
東欧のドイツ占領地で進む中、
ドイツ人実業家シンドラーが
1100人以上ものポーランド系ユダヤ人を
自身が経営する軍需工場に必要な生産力だという
名目で絶滅収容所送りを阻止し、
その命を救った。

その実話が スティーブン・スピルバーグ監督により
映画「シンドラーのリスト」(1993年)が
公開され有名になった。

 

 (写真は、Abs朝日「昭和偉人伝」から)
 


リトアニア・カウナス 44 杉原千畝 3 カウナス中央駅

2018-04-13 | バルト三国紀行

 

 

 



一方 こちらは 杉原千畝が退去命令を受けて
出国時に利用したカウナス中央駅。

第2次世界大戦後に再建された建物だが、
杉原千畝が194094日にリトアニアを発った際に
利用した駅として記念碑が設置されている。

杉原千畝が列車に乗り込み、
発車した後でさえも多くのユダヤ人らが
ビザを求めて集まったとのこと。

「許してください、私にはもう書けない。
皆さんのご無事を祈っています。」と

最後の最後まで車窓から手渡された書類に
手書きでビザを発行していたそうだ。

 


リトアニア・カウナス 43 杉原千畝 2 記念館2

2018-04-12 | バルト三国紀行

 

   必死にビザを書き続けた執務机



 ビザとリストが置かれている、

 

入館して まず ビデオ「葦のようにしなやかに」を見る。

このビデオは 杉原千畝の故郷
岐阜県八百津町有志が制作したものだった。


内容は千畝の生い立ちから

1900年1月1日八百津町で生まれ
早稲田大学在学中の1919年に
外務省の試験に合格し 外交官となった。


その赴任先 リトアニア共和国領事代理時代の
1940年7月18日早朝、

この日本領事館前に突然人垣ができた。


 

 (Abs朝日「昭和偉人伝」から)

 

 当時 ナチスは欧州全土からユダヤ人を迫害しており
ポーランドからリトアニアに逃れたユダヤ人が生きる道は、
唯一シベリア鉄道を使って日本を経由して
海外・米大陸などに向かうしかなかった。

そのため “日本の通過ビザ” の発給を求めてきた人々だった。

そこで 日本政府の指図に背きながらも
何とか彼らの命を救いたいと思う
人道的な気持ちから独断でビザを発給する。

それは領事館を退去するまでの約1カ月間
 ビザを書き続け 2,193人ものビザを発給した。

これによって実際に第三国に逃れた
ユダヤ人は約6000人を超えるという。

ビデオ見た後 館内の資料展示物を見て回る。


リトアニア・カウナス 42 杉原千畝 1 記念館1

2018-04-11 | バルト三国紀行

 

 

カウナス旧市内から東 

この丘一帯はグリーンヒルと呼ばれる高級住宅地。

路は狭くツアーバスもやっとのことで進む。

そこに「杉原千畝記念館」があった

旧日本領事館(1939―1940年)というから

大きな建物を想像していたが 

隣近所と同じような一般住宅を少々大きくした建物だった。

丁度工事中で 建物周りは足場が組み立てられていた。

2018年1月 安倍首相が訪れていたときの

ニュースを見ると竣工していた。

 

 入口の門に「希望の門、命のヴィザ」とあった。


リトアニア・カウナス 41 聖ミカエル教会

2018-04-10 | バルト三国紀行

 

 

市内を走る途中 
ライスヴェス通りの先、
独立広場の中心に建つ
「聖ミカエル教会」が見える。

聖ミカエル教会は、
ネオ・ビザンティン建築(円形アーチなどが特徴)の
ローマ・カトリック教会で、
聖ミコラス大天使教会ともいう。

当初は正教会の教会で、
1893年にカウナス要塞として建設された。

第一次大戦でカウナス砦が陥落後,
鐘はドイツに運ばれ,教会は1919年まで閉鎖された.

1919年から1939年までは
ローマカトリック教会として使用された。


1944年から1990年のソ連占領下時代は
カトリック信仰を否定されたことで

アートギャラリーとして使われ
リトアニア独立後に
ローマカトリック教会に戻されている。

 

 


リトアニア・カウナス 40 ライスヴィス通り

2018-04-09 | バルト三国紀行

 

  旧市庁舎広場から新市街方面



旧市街のメインストリートである

「ライスヴィス通り」だが、

“ Laisves aleja” は英語で

Liberty Avenue= “自由の通り“ という意味。


旧市庁舎広場から新市街へと

東西に 1.6km 延びている石畳の道は、


東欧で 最長の歩行者天国になっている。


現在、カウナスで最も賑わう通りであるとともに、


ホテルやカフェ、レストラン、雑貨店なども多く、


カウナス観光の中心になっている。

 


リトアニア・カウナス 39 カウナス大聖堂

2018-04-08 | バルト三国紀行

 

 

市庁舎広場の東北側に  15世紀前半に建造された、
カトリック教会の「カウナス大聖堂」がある。


正式には「聖ペテロ&パウロ大聖堂」と呼ばれ,
聖ペテロと聖パウロに捧げたカトリック教会。


当初、赤レンガ造りの ゴシック様式で建築されたが、
17世紀半ばに 
ロシア=ポーランド戦争の際に一部が破壊され、

その後 修復され ルネサンス様式の建物となった。

 

 

    大聖堂の内部

 

内部は 18世紀後半
ポーランド=リトアニア共和国の
最後の国王、
スタニスワフ2世アウグストにより
施された 彫刻やフレスコ画の装飾が残されている。

また、聖書台や聖歌隊席も設けられ,
現在の形態になったのは
19世紀からの再改築によるという。

主祭壇には、磔刑のキリスト像を中心として
上部と周囲に13体の聖像が祀られている。

先に見てきた ヴィリニュスの
聖ペテロ&パウロ教会は白一色だったが,

こちらは壁や柱に彩色され,
所々に金箔があって 華やかに見える。

 


聖堂のヴィリニアス通り側の壁には、

この教会の神父であった詩人のマイロニスの墓がある。

ユーロ前の 20リタス紙幣の顔にもなってる

 

 

 


リトアニア・カウナス 38 イエズス教会 

2018-04-07 | バルト三国紀行

 

 

旧市庁舎の左手に

1722年に建立された「イエズス教会」がある。

修道院・神学校も併設されている。

1824年にロシア皇帝の命令で

ロシア正教会の教会に宗旨変えさせられ、


独立回復後 1924年に元の教会に復活している。

暗い過去を持つ教会だが、

広場にある市役所,旧市庁舎よりも


建物自体は非常に美しく、

パステルカラーが

清楚な雰囲気を醸し出している。

 

 

 


リトアニア・カウナス 37 市庁舎

2018-04-06 | バルト三国紀行

 

 

広場に塔を持つ白い建物、
教会のように見えるが「カウナス旧市庁舎」。

1542年に建築が始まり,
時間の経過とともに
外観はゴシック,ルネッサンス,バロックにと
1775年,現在のバロック様式の
優美な姿に再建された。


塔の高さ58m 細長く優雅な外観の
美しさから「白鳥」とも称されている。


リトアニア臨時政府が置かれていた際には政権の中枢として、
その他シアターや、消防署、ロシア人クラブ、
政治犯収容所などリトアニアが歩んだ歴史とともに
様々な用途で使用された。

 


 

 現在内部は市の結婚登記所、
地下はセラミック博物館となっている。

 

   地下の遺跡が覗けるガラスケース


リトアニア・カウナス 36 市庁舎広場

2018-04-05 | バルト三国紀行

 

 右は旧市庁舎 左がイエズス教会

 


神学校の東南

カウナスで最も広大で歴史のある「市庁舎広場」が広がる。

中世には市場がたった場所。

現在も中世の佇まい残し旧市街の中心で、

周囲のゴシック建築様式の歴史的建物は、


ギャラリーや博物館として使用され、

またレストランやカフェ、博物館などが

入っていることから 夏場には市民や観光客で

最も活気あふれる広場になっているそうだ。

 

 


リトアニア・カウナス 35 カウナス神学校

2018-04-04 | バルト三国紀行

 

 

カウナス神学校」

広場の北西端にあるイエズス会の神学校で、

1864年にリトアニア西部の

ヴァルニアイ市からこの地に移設された。


その時の司教だった

モティエウス・ヴァランシウス(1801-1875年)の

記念碑が学校前に建てられている。