あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

東欧旅行(95) 電気自動車

2013-01-31 | 東欧5カ国紀行

                         プラッツア通りを 荷物を運ぶ 電気自動車

 

  前回の 路地に関係して 

  旧市街地は いわゆる市壁の内 世界遺産でもあるので

   環境への配慮 観光客にも危険のないようにと 車の乗り入れはできない。

    加えて 狭い路地ばかり  市街区内での物資の移動は 

     写真のように 「電気自動車」で運搬している。

      当然 喧騒もなく ゆっくり観光ができる。

       歴史・文化遺産 そして観光には こう言った 配慮は必要ですね




東欧旅行(94) 路地

2013-01-30 | 東欧5カ国紀行

 
  プラッツア通りを除けば すべて狭い路地になっている。

  今まで見てきた シベニク トロギール スプリットも
   狭い路地が迷路のように張り目ぐされていた。

   何故 こんなに狭いのかは 一番の理由は 外敵からの防御だが

    昔から アドリアの海岸に面した都市には 気候を活かした知恵がある。

    西側の直線は 夏の強い日差しを避け 西からの風を吹き込ませ
     そして 東側はカーブして 冬の北東の寒い風が吹き込まないようにと

     工夫がなされているからだそうだ。

   しかし ここドブロブニクは 市壁に囲まれているため
    直接風が吹き込むことがないようなので 直線的な通路に
  
      また 山側(北側)は 階段状の路地になっている。

 


東欧旅行(93) プラッツア通り

2013-01-29 | 東欧5カ国紀行

    市壁からプラッツア通りを望む。  左手にはフランシスコ会修道院の鐘楼が聳える。

     
                    
                     鏡の如く照り輝く石畳


    西のピレ門から入り 大噴水の横から東端のルジャ広場まで
     直線に伸び200m続く

       ドブロブニク旧市街のメインストリートである 「プラッツア通り」である。

    通りの両側は ショップ カフェテラス お土産屋が軒を並べているが

     看板一つとしてない 美しい通りになっている。

    
敷き詰められた石は 長年の人の通行により 鏡の如く照り輝き
      歴史の重みを写しているようだ。    

    この通りは かつては水路で町は二分され
     通りの南側は ドブロブニク発祥の小島
 つまり ラテン人のラグーザ
      北側は スラブ人の居住区だった。

    水路を埋め立ているので 旧市街の中では かなりの道幅になっている。
     そして 通りからは 狭い路地が網の目のように延びている。

    よく見ると 道路の面には、2本の長い雨水排水のクボミが見える 
     道路の傾斜を利用し 海に配水されるようになっているのだそうだ。




東欧旅行(92) 聖フランシスコ会修道院

2013-01-28 | 東欧5カ国紀行

            フランシスコ修道院の入り口


   オノフリオ大噴水と プラツッア通りを挟んで
   向かい側にあるのが 「フランシスコ会修道院」。

  入り口の上の両側には 聖イエロニムと洗礼者聖ヨハネが立ち
    その中央には ピエタの彫像がある。

     彫像は 15世紀にレオナルドとペーター・ペトロビッチ兄弟に
      よって制作されたとされている。

  14世紀~15世紀に建てられた修道院は、
   もともと 市壁の外にあったが 外敵から守るために
    14世紀に現在地に移された。

   
現在の建物は 1667年の大地震後 再建されたものだが
   中庭は当時のままで 
ロマネスク様式の細い柱が並ぶ
     優雅な回廊とマッチングして美しい。


  当時 貧しく病める人々の為の治療院があったそうだが 今はない。 
   しかし 修道院の建築物内に 1317年に開業されている
   古い薬局「マラ・ブラチャ薬局」がある。

     世界に数ある薬局のなかでも 三番目に
       古い歴史を持った薬局であり

         現在でも 薬剤師を置いて ドブロブニク市民に
           薬を提供しているそうだ。

    ところで 修道院オリジナルのコスメは 
   修道女達が薬草を独自にブレンド゛し作り上げた スキンケア製品で
    
日本の雑誌等にも 取り上げられたことから 有名になり 
      ツアーの女性群は 盛んに買い求めていた。




東欧旅行(91) ペンダント

2013-01-27 | 東欧5カ国紀行

 

        オノフリオ大噴水の前で
 
       昔のドブロヴニクの 兵士? 商人? 町人? 姿のお兄さんが

         ハート形の看板を掲げ

  
         小さなハートのペンダントを 1ユーロで売っていたので

              買って 家人の首掛けてあげたら

                ツアーの人々から 歓声が上がったのには

            
           少々照れてしまった。
   
        あとで 『 こんなもので 誤魔化さないでよ! 』 の一言が・・・

        
       



東欧旅行(90) オノフリオ大噴水

2013-01-26 | 東欧5カ国紀行

                         市壁 ピレ門の上から望むオノフリオの大噴水

          

           レリーフの蛇口から 絶え間なく水が滴り落ちている。

   プラッザ通りに 一歩踏み入れて 直ぐ右手に 
    大きなお椀を被せたような ドーム型の噴水
     貯水や水道の役割を持った 「オノフリオの大噴水」がある。
 

   ラグーサ共和国(ドブロブニクの前身)当時は
    水の確保が 重要課題あった。
      雨水 海水 井戸等と対策はあったが
   1438年にイタリアの建築家 オノフリオ・デラ・カーバによって
     12km先の源泉から水を引いて 

        この噴水が造られたことから 一挙に問題解決となり
          その功績により 彼の名が付いている。

   1667年の大地震では損傷を受けたが
     現在も 噴水の下部分には 16面のレリーフで飾られており
       その水道口から 水が滴り落ちている。

   今でも 実際に飲めるというので ツアー客は手酌で飲んでいた。 


東欧旅行(89) 復旧復興

2013-01-25 | 東欧5カ国紀行

 

  ピレ門を入った先の市壁に 戦争 地震等で
    破壊消失した 建築物や建造物が
     
復旧・復興されたかを示す図が掲げてある。


  その図では 色別に 14世紀 17~18世紀 19世紀を
     被害の状況が 建造物等ごとに 色分けされている。

   しかし 恐ろしいほどの点で図面は埋め尽くされており
    
被害と再生 復旧 修復が繰り返されている。

   最近では 1991年のユーゴスラビア崩壊に伴う紛争で
    セルビア・モンテネグロ軍らにより7ヶ月間包囲され
     山側から砲弾を 海側から艦砲射撃 
       空からは爆撃機で空爆され 建物は破壊され
        多くの市民が犠牲となって その被害は甚大であった。

  そのユーゴスラビア内戦から わずか3年で
   市民自らの手によって 歴史的文化と 景観を取り戻していることは
     驚きだ。

 

 

 


東欧旅行(88) ピレ門

2013-01-24 | 東欧5カ国紀行

 

  世界遺産 ドブロヴニク旧市街の第一歩は

    旧市街の西 深い堀の上に架けられている メインゲートのピレ門から。

   門が現在の姿になったのは 1537年 

    この市壁の中で一番美しいと言われている。
  

    門前には 木製の跳ね橋があり かつては 侵入者を防ぐため

     または 夜間の出入りを制限するため 

      日没になると 鎖を巻き上げられ 門は固く閉ざされたという。

   門の上には 316年に殉職した司教で 

     町の守護聖人「聖ヴラホ」の像がある。

 


東欧旅行(87) ラグーサ共和国

2013-01-23 | 東欧5カ国紀行

 

                                  幾つかの市の苦難から守ってきた大砲                   


   ドブロブニクの名が資料に初めて登場するのは 1189年。

  前身は 「ラグーサ共和国」という。

  
ブドバ(モンテネグロ)と共に古代ギリシャの植民地都市を経て
   ローマ領となったが
 7世紀のスラブ人侵略に対しては
    要塞を築き 東ローマ保護下の自由都市となった。

  十字軍後の13~14世紀半までは 
    ベネチアの支配下に置かれたが

  1272年に ベネチアと対等の「ラグーサ共和国」として独立
  15世紀のオスマン帝国侵入後は その保護国として 
   ベネチアをもしのぐ海洋国家として発展した。


  しかし 1667年 大地震で壊滅的になり
  1699年 背後の
内陸部とネウム海岸を 
   オスマン領(現ボスニア)に割譲 

  
  そして 1806年 ナポレオン軍の侵入によって滅亡に至る。

 
  1814年 オーストリア=ハンガリー二重国家が占領後
   ハプスブルク家の別荘として観光開発が進展したが

  1918年 新生ユーゴスラビア王国に編入し
   市名は ラグーサからスラブ語の
    「ドブロブニク」(樫の木の町の意)に改称。

  第二次大戦後 ユーゴ連邦内のクロアチア共和国に編入され 
    現在に至っている。
 
 

 


東欧旅行(86) ドブロブニク(世界遺産)

2013-01-22 | 東欧5カ国紀行



                                ドブロブニクの全景を望む。 右手はスルジ山

 

   ツアー第6日目の朝が明け

     今回のツアーのハイライトでもある 世界遺産「ドブロブニク」の観光が始まる。 

   ドブロブニクは 地中海の東部と西部との要衝にあって

   古くから 海洋国家として栄え

      14から15世紀に市壁都市として発展し 特に16から17世紀には

        ラグーサ共和国として 繁栄を極めた。

         世界で 最初に奴隷制を廃止した 都市国家でもある。


    現在も 南ダルマチア地方の中心都市として 人口約4万3千人が住み。

       紺碧のアドリア海に面し 堅固な市砦に囲まれた美しい街並は

          「アドリア海の真珠」と呼ばれ
1979年 世界遺産に登録されている。


     また「マイ・フェア・レディ」などで有名な 英国の劇作家 バーナードショウも

         「ドブロブニクを見ずして天国を語ることなかれ」と言ったことでも

                有名になった。

 

 


東欧旅行(85) 国境の町「ネウム」

2013-01-21 | 東欧5カ国紀行

 

                                国境の町「ネウム」


  ボスニア・ヘルツェゴヴィナに入国して
    すぐに「ネウム」の町に到着する。
     
 アドレア海のマリストン湾に面した人口5千人の町だ。

  「クロアチア」のお土産は「ボスニア・ヘルツェゴビナ」で
    買った方が物価が安いということで
     
 トイレタイムをスーパーマーケットで買物兼ねて寄ることになった。

  このスーパー 日常的にも 周辺に住むクロアチア人も多く買出しのため
   また 観光客も土産購入のために大挙して訪れているスーパーマーケットだった。


  因みに 現地通貨のKM(コンバーティブル・マルク)と
   クロアチアのKN(クーナ)の 
交換レートは 4:1。

  このスーパーマーケットで 我々ツアーで人気のあったのは
   土産品
『KRAS』のチョコレート 「バヤデラ」であった。

 

    スーパーマーケット 日本人観光客は上得意さんのか日章旗も飾られている。

 


東欧旅行(84) 国境・飛び地

2013-01-20 | 東欧5カ国紀行

 

                          ボスニア・ヘルツェゴヴィナ領の海岸

 

  クロアチアと ボスニア・ヘルツェゴヴィナの国境に到着

  アドレア海の海岸線に沿って 細長く伸びて クロアチア領になっているが
  そのわずか9kmだけが クロアチアを分断するように
  ボスニア領が 唯一海に面しているところだ。
  したがって 9km先には 再び国境を越え クロアチアに入国しなければならない。

  将来は 島伝いに橋を架け迂回するルートを 計画しているようだが。
  現在は ドブロヴニクに行くには ここを通らなければならない。

  国境の検問所は 緊張が走るが 運転手が「ヤーパン」と人数を告げて
  スムースに通過するが むしろ 再びクロアチアに再入国する方が 時間がかった。

  何で こんな飛び地状態に なってしまったのか?
  海洋貿易で繁栄したラグーサ共和国 現在のドブロヴニクが
  1667年の地震で壊滅状態となり これに乗じて
  当時ダルマチア地方を支配していた
  ヴェネツィア共和国が 国境を侵犯するのを警戒して
  自国領のネウム周辺を オスマントルコへ割譲して
  ヴェネツィアとの”緩衝地帯”にした。
 
 その結果 クロアチアとボスニアが独立するするにあたり
  
この時の国境線が 今に残っているとのこと。

     国境・領土問題は 何時の時代 どこの国でもあるものだ。


東欧旅行(83) マカルスカ・リビエラ

2013-01-19 | 東欧5カ国紀行

 

 

  スプリットでの見学を終え昼食後 
   バスは 一路212km先の ドブロヴニクに向かう。
 

  1700m級の山が連なるビオコヴォ山脈の石灰岩の崖が
   アドリア海にせまる道筋を更に南下していく。

  この周辺は 「マカルスカ・リビエラ」と呼ばれる
   50km も続く海岸になっており

    途中は 風光明媚で海の汚染もなく 
      小じんまりしたいくつものリゾート・タウンが点在している。
       日本でいう民宿のような宿泊所が幾つも車窓から見られた。
        ”リビエラ”と聞くと森進一の歌「冬のリビエラ」が浮かぶが
         「リビエラ」とはイタリア語で”海岸”をいう。

   そのアドリア海沿岸リゾートの中心地が 「マカルスカ」を通過。

   ラベンダーで有名なフヴァール島が見え
    その奥には『東方見聞録』で日本のことを黄金の国「ジパング」と
     紹介したマルコポーロの生まれたコルチュラ島も見える。

 


東欧旅行(82) ナロニド広場

2013-01-18 | 東欧5カ国紀行

 

 

  西門の前にある「ナロニド広場」

   宮殿の外にあって 旧市街の中心になる広場になっている。

    この広場は 14世紀以降 スプリットの行政や商業
 
     また市民生活の中心地となっており

      
カフェやお土産屋が建ち並び 街の活気を感じることができる。

  また この先に アドリア海の新鮮な魚介類を商う魚市場があるが

   かつて 宮殿内にあったが 現在地に移転して 広場同様の賑わいをていしている。

  広場に面して 右側に三つのアーチが見える ゴシック様式の

    かつてのヴェネチア共和国庁舎で ヴェネチア様式の建物に

     なっており 内部に市庁舎 劇場 牢獄なども置かれていた。

 


東欧旅行(81) グルグリ・ニンスキ司教像

2013-01-17 | 東欧5カ国紀行

     左手に聖書を持ち 右手をかざしているが 指先を見ると 映画「ET]を思わせる。

                

            何故左足なのか分からないが・・・
                この銅像の左足の指に触ると
                  “幸せになる” “願い事が叶う” ともいわれている。         
           

  城壁の北門「金の門」を出ると

   目の前に 大きな像が立ちはだかっている。

    “クロアチアのロダン”とも言われる有名な作家

     イヴァン・メストロヴィッチが 
1929年に作った

      グルグリ・ニンスキ司教の像。

  グルグリ・ニンスキ司教は 

   10世紀に開かれたスプリットの宗教会議で教会でのスラブ語の

    使用を禁止されたが その撤回を求めたことで知られている。

  この像 当初は「列柱広場」置かれていたが 

    大き過ぎて場所にそぐわないということで

     1954年に現在の場所に移されたという。