あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

台湾紀行(122) 張栄發基金會

2013-12-31 | 台湾紀行

  

                    財団法人「張栄發基金會」

  
    中正紀念堂の西側に 台湾の海運会社エバーグリーン・マリーンや
  エバー航空などを経営するエバーグリーン・グループ(長栄集団)の
  総裁で アジアの海運王とも呼ばれる 張栄発氏が私財を基金として
  設立した「財団法人・張栄發基金會」がある。

  このビルは 以前 台湾国民党の本部であったが
  2006年にこの基金に売り渡している。

  張氏は 2012年2月 自分名義の財産は子孫に残さず
  すべて「張栄發基金會」による公益事業のため使うことを明らかにしている。

  因みに 世界経済誌『フォーブス』が 2011年に公表した
  世界富豪番付によれば 張氏の資産総額は
  16億ドル(約1227億2000万円)とも。


  また 2011年の東日本大震災では、義援金として
  個人で10億円を日本赤十字社へ寄付をしており
  2012年 春の叙勲で「旭日重光章」が贈られ 皇居で伝達されている。

 

     今年も 今日で 2013年の店じまい

      一年間 毎日 ご訪問頂き ありがとうございました。

              皆様方には 良き年を お迎え頂きますよう・・・

        

 


台湾紀行(121) 台湾大学付属病院

2013-12-30 | 台湾紀行

 

 

 景福門のロータリーを通ると 並列している現代的な大きな建物が見える。
 この建物は 台湾大学附属病院の新館だが 
 かつて 日本統治時代に建てられ80年以上もたつ
 今でも外来診療部門として使われている

 「台湾大学医学院附設医院旧館」が 写真左手西側奥にある。

 

            (資料から)

  1924(大13)年 近藤十郎を設計者として 赤レンガと
 白色のラインを配した様式にて建てられている。

 近藤十郎も 森山松之助と同じく 東京駅の設計者 辰野金吾の
 弟子だからか どこか東京駅を思わせるが
 
当時この病院は本国と同様な医療を提供し
 また被統治国としての日本の支配力を見せるという目的もあったとのこと。

 そのため 病院とは思えないほどで 特に正面の2本組みの列柱
 車寄せやバルコニーなどの豪華さ また土台を高くし衛生面にも配慮し
 威厳をもたせた造りとしている。

 こんなところから 映画やドラマのロケとしても利用されているとか。
 日本が台湾に残した建築遺産として是非見たかったが・・・。

 


台湾紀行(120) 景福門

2013-12-29 | 台湾紀行

 

 

  台北の観光名所 中正紀念堂や総統府の先のロータリーに
  どっしりとした中華式の華やかな
建物がある。

  この建物は 「台北府城東門」で またの名を 「景福門」という。

  清の時代に台北の街を囲んでいた城壁の門の一つ。 
  建設当初は、非常事態時には閉門する密閉式の造りだったが
  戦後 1965年に國民政府が
     “全市内の景観を観光ニーズに合わせる”
    という理由で
 東門や 南門 小南門は
  現在の北方宮殿式の造りに建てかえられている。



台湾紀行(119) 森山松之助

2013-12-28 | 台湾紀行

  

           台北賓館  後方のビルは「新光三越百貨・台北駅前店」

 
 台湾総督府を設計した 森山松之助について話題を 

 森山松之助(1869(明2)~1942(昭24)年)は
 日治時代の台湾総督府に在任中

 台湾の官庁建築を多く手がけたことで知られる。

 その主なものは 

 前回の話題の台湾総督府(現 総統府 1919年) 
 その総督府正面をみて
 右に今回写真の 
 総督官邸(現 台北賓館 1912年)や
 先に話題にした 
 台南市の台南州庁(現 国立台湾文学館 1916年)もある。

 また一方 日本でも多く 
 当ブログで「信州旅行(6)」(2011.11.05)取り上げた

 片倉館会館(1928年 国の重要文化財)も 
 その一つに数えられている。


 そのほかに
 本所公会堂 (現 両国公会堂 1926年 東京都墨田区)
 新宿御苑 台湾閣 (1927年 東京都新宿区 都選定歴史建造物)
 旧久邇宮邸 (現 聖心女子大学パレス 
  1924年 東京都渋谷区 登録有形文化財)

 


台湾紀行(118) 総統府

2013-12-27 | 台湾紀行

 

 

  市内 重慶南路に台湾を代表する建築物 「総統府」がある。

  日本統治時代に建てられたもので 
  当時の呼び名は「総督府」 台湾で建築された建物の中で最大級のもの。

  1907年 日本では最初の設計コンペが開かれ
  1909年 長野宇平治の作品が選ばれたが

  森山松之助らの修正が加えられて 7年の期間を経て
  1919年に竣工している。


  出来上がった建物は 東向き(日本の方向)
  さらに上空からから「日」の字に見えるとのこと。 

  しかし 第二次世界大戦末期にはアメリカの空襲に会い
  建物の一部が破壊され 内部は消失したが
  台湾が主権を回復した1946年に修復改装され
  総統府 として現在に至っている。

  建物は 5階建て 中央塔の高さは 60m 敷地面積6930㎡
  外見はコンクリートと御影石で飾られ 赤と白のコントラストが印象的。
  1998年 国宝級古跡に指定されている。

  現在 建物の一部は博物館として 
  午前中は無料で一般公開されているが 我々は車窓から。



 


台湾紀行(117) 故宮博物院

2013-12-26 | 台湾紀行

 

 

  九份の観光を終え 台北へ向かう
  市内に入る直前から雷とスコールに見舞われる。

  しかし 天候には左右されない 一番目の見学は 「台北・故宮博物院」 
  世界4大美術・博物館 (メトロポリタン ルーブル エルミタージュ)の
  一つに数えられ 
台北観光の最たるもの。

  中国・北京の故宮博物院にも行ったが
  歴代皇帝が住んだ巨大な敷地にある建物を中心としている。

  それに対して こちらは 宮殿ではなく 内戦に敗れ
  中国から台湾に脱出した国民党政府が 故宮の宝物を台湾に運んで
  建てた故宮博物院。

  収蔵品数 約60万点以上と 膨大なコレクションを誇り
  その中で 常時6,000点位を展示し

  「翠玉白菜」といった有名なものを除いて
  3か月に1回展示品を入れ替えていて 
  全ての収蔵品を見終わるのに 10年かかるといわれるほどで
  小物やケースには まったものが多く 見学には努力が必要。

  しかも 館内は暗く 混雑の中 予備知識もないと
  どこを見てよいやら分からないうちに終ってしまう。

  因みに 来年6月から11月 日本で初めて「台北・故宮博物院展」が
  東京と福岡で開催され「翠玉白菜」「肉形石」を含む計185件が
  展示されるとのこと。

 
     お土産品の「翠玉白菜」

*最も有名なものの一つ「翠玉白菜」は 翡翠を白菜の形に彫刻したもので
 石の色を生かして 本物そっくりに彫ってあり さらに小さな虫も白菜に取り付いている。

 

 


台湾紀行(116) 基陸湾

2013-12-25 | 台湾紀行

 

     九份から東シナ海 基隆湾方向を望む  右に浮かぶ島は基隆嶼

 
  前方に見える港町の「基隆(キールン)」は
  台湾島北端部にある台湾を代表する国際貿易港で
  
南部の高雄港と並び台湾の二大国際貿易港となっている。

  別名「陰陽海」とも言われていて 黄色とブルーの海としても知られて
  当初は台金会社の精練の汚れだと思われていたそうだが
  金瓜石の黄鉄鉱が海の中で 黄色く変化してのことだった。 

  日冶時代は 採掘した石炭を基隆港から日本へ向けて積み出していたが
  日本の敗戦により 台湾に入植していた日本人の多くが
  この港から内地へ帰ったとも。

  現在は 沖縄・石垣島との間に国際フェリーが往復している。

 


台湾紀行(115) 一青姉妹

2013-12-24 | 台湾紀行

         階段(豎崎路)の中程 阿妹茶酒館前の小庭にあるモニメント

   九份の街については 先に話題にしたが
   この九份の金鉱にまつわる話題を

   1895年 日清戦争後 台湾は日本の植民地となり
  日本の財閥(藤田組)が金鉱を管理するが

  その後 台湾の事業家 ”顔 雲年” に譲られて
  顔家(台陽鉱業)が 九份のオーナーになった。


  戦後 顔家の 台陽公司 のもとで金の採掘が行われ
  活況を呈したが 
次第に金脈が枯渇し 1971年に閉山している。

  ここで 台陽鉱業のオーナー「顔」家は
   台湾の5大財閥に数えられほどで

  日本の女性歌手 一青 窈(1976年生)の 父方の姓で
  顔一族の長男 顔恵民 が父親とのこと。

  母親は 石川県の出身で 「一青」は 母方の姓だそうです。
  また 女優・エッセイストの 一青 妙(1970年生)は姉。

  九份は 一青姉妹にとって 亡き父の故郷だった。


台湾紀行(114) 映画館

2013-12-23 | 台湾紀行

 

  九份の街は 日治時代のゴールドラッシュの頃
  一攫千金を求め 鉱夫が殺到し 
 3~4万人の街に膨れ上がり
  居酒屋 女郎屋 そして映画館が建ち

  “小上海”“小香港”とまで呼ばれた。

  豎崎路・階段の中程の脇に その映画館「昇平戯院」がある。

 1934(昭9)年 台湾北部で初めて建てられた映画館で
 台湾でも最大級の規模だった。 

 
 しかし 閉山後は廃れ 1986年に閉館してからは
 荒れほうだいになってしまった。

 
 今は 街も再び活気づき 往時と変わらぬよう修復されて

 2011年9月に 九份のシンボルとして リニューアルオープンしている。


台湾紀行(113) 基山街

2013-12-22 | 台湾紀行

 

  前回話題の階段・豎崎路を主柱に見て
  その主柱から枝が伸びるように階段を挟んで

  等高線に沿って 幅2~3mほどの狭い小道が2本ある。
  これは金鉱時代のトロッコ道の名残で 基山街と軽便路だ。 

  基山街は 土産物屋や小さな飲食店が軒を並べ
  
連続した庇がアーケード替わりになっている。

  また 日本人観光客も多く訪れているので日本語の看板等も目につく。

 

             こちらは もう一方の軽便路 

  抗口の数は 155 全長165㎞にも及んでいる。

 


台湾紀行(112) 賢崎路

2013-12-21 | 台湾紀行

            

     

街は 山を背後に海に面し
急な斜面に はりつくようにしてある。

その斜面に一本の階段があり
「豎崎路」という。

群馬県・伊香保温泉の階段のような
素朴で狭い石段が続く。

階段の両側には 
華やかな時代を思わせる建物が残り

今は 趣のある茶館に姿を変えているが
一種独特な雰囲気が漂って

街並みは「産業遺産」にもなっている。

夜には ”赤いランタン”が
更にノスタルジックな
雰囲気に誘うとのこと。

中程には 
「千と千尋の神隠し」の参考になった
酒館茶藝館「阿妹茶酒館」がある。

 


台湾紀行(111) 悲情城市

2013-12-20 | 台湾紀行

                                   「悲情城市」の名の喫茶店

 

  何度か話題にしてきた 「ニニ八事件」 
  永く闇に葬られていた 台湾の暗黒時代のこの事件を
  正面から取り上げた 映画「悲情城市」(1989年)が
  ヴェネチア国際映画祭で 金獅子賞を得て空前のヒットとなる。

  九份がそのロケ地となったことで 廃墟同然であった街が
  再び脚光を浴びるようになり 観光案内 ガイドブックや
  メディアにも取り上げられ

  また 映画を通じノスタルジックな風景に魅せられて
  次第に訪れる人が多くなって
  一躍 今では台湾を代表する観光の地となった。

  そして 「悲情城市」の名の喫茶店や茶藝館
  みやげ物屋などが建ち並んで
 観光客で賑わっている。

 


台湾紀行(110) 九份

2013-12-19 | 台湾紀行

  

   「千と千尋の神隠し」の湯婆婆が経営する温泉旅館 油屋の建物の
     モデルとなったと言われている「阿妹茶酒館」

  九份は 台北市から北東へ約30km 台湾北部に位置する山あいの町。

  地名の由来は諸説あるが 一般的には「開墾した土地の持分を
  9人で分けたもの」の意で

  一方では 清朝初期に9世帯しかなく 物を買うときに
  いつも「9つ分」と言っていたことからとも。

  その昔 九份は 19世紀末に“金”の採掘がはじまり 徐々に町が発展し
  日冶時代に日本の会社の手により 最盛期を迎え 数万人が住む街となった。
  そのため街並みは 当時の酒家(料理店)などの建物が多く残され
  日冶時代の面影を色濃くのこしている。
   戦後は金の採掘量が減り 1971年に閉山されてから
  街は急速に衰退し 
町自体が人々から忘れ去られて
  元の素朴な静かな町になってしまった。

  しかし ベネチア国際映画祭でグランプリを受賞した
  映画「悲情城市」のロケ地となったこと

  「千と千尋の神隠し」(2001年)の参考になった街として紹介されたため
  再び脚光を浴びることとなり 世界的な観光の地となっている

 


台湾紀行(109) 七堵

2013-12-18 | 台湾紀行

 

       七堵駅前   玄関脇には鉄道で使う”タブレット受”?を思わせる巨大なオブジェがたつ。


  特急「タロコ号」は 花蓮から約2時間
   途中配られた駅弁で昼食摂りながら 「七堵駅」に到着。

  「九份観光」の最寄り駅は瑞芳駅だが
   この駅に特急は停車しないので 七堵駅にて下車する。

  基陸への観光にも利用される駅でもある。

  因みに 「堵」とは 垣根を意味するが 地名の由来は不明。 

  また ここ周辺には七堵 とか九份 というように

  数字の付く場所が多くある。

  台湾鉄道の駅名から調べたら
   一から十まであった。加えて百(百福)もある。

  第一分道 ニ結 三坑 四城 五堵 六塊 七堵 八堵 九曲堂 十分

 


台湾紀行(108) ネコ村

2013-12-17 | 台湾紀行

  

                                    工場跡と 右端は猴硐国民小学校

 

  タロコ号は 七堵駅手前

  「侯硐(こうどう)駅」を通過するが

  ここ台湾鉄路では数少ない郷土の風光を持つ駅である。 

  しかし この街 あることで有名なのです。

  それは「猫」ネコ好きにはたまらないそうだ。
  ネコ好きが 多く住んでいることから「ネコ村」­とも呼ばれている。
  駅には大きな猫の像が迎え 街を歩くと猫の姿が多くみられ
  集落の中心には 猫の村管理センターがあって
  猫たちの情報まで提供している。

  また 日治時代、猴硐では石炭の採掘が始まり
  「瑞三鉱業」は­ かつて台湾最大の炭鉱であった。
  しかし、1990年に炭鉱が生産を停止し
  瑞三鉱業の遺­構だけが残り 工場跡が歴史感を漂わせている
  とのこと。