あかない日記

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北白川宮能久親王

2021-10-28 | 人物忌


  北白川宮能久親王の馬上銅像

10月28日は
幕末・明治の皇族  陸軍軍人の
北白川宮能久親王
(よしひさしんのう)が亡くなった日

 

能久親王は

1847(弘化4)年
 伏見宮国家親王の第9皇子として誕生

1858(安政5)年
 上野寛永寺の門跡
 (皇族・貴族が勤める特定の寺社や
 その住職)となる。

 その後 徳川慶喜の助命嘆願や
 蜂起した彰義隊に擁立されるなど
 幕府寄りの立場をとり

 ついには  奥羽列藩同盟の盟主に
 担ぎ出されたため   同盟崩壊後
 謹慎・蟄居の憂き目となる。
明治維新後
1870(M3)年
   還俗(げんぞく)して伏見宮に復帰
   軍籍に就く。

1872(M5)年
   北白川宮家を相続

 後にドイツ留学を果たした。

 なお   留学先のプロイセンでは
 貴族の未亡人と婚約し
 帰国後  強い反対をうけあきらめる。
 結果謹慎
1884 (M17) 年 陸軍大将
1895 (M28) 年
     近衛師団長(当時陸軍中将)として
    ドイツより割譲された
    台湾の征討任務で台湾に渡るが 
 10月28日現地で病にて亡くなる。 49歳



征討作戦中の死であったことから
外地で皇族が戦没した初めての例となる。
(死後陸軍大将に特進)。

なお その子もパリで客死し
孫は昭和15年モンゴルで
砲兵少佐として戦死している。

銅像は 北の丸公園内の
国立近代美術館工芸館
(旧近衛師団司令部)近くに建つ。

建立されたのは 没後の
1903年(明治36)で
製作は新海竹太郎
芸術的にも高く評価されている。

新海竹太郎は北白川宮が
台湾にあった当時近衛騎兵として
仕えていたとも。

鋳造は陸軍砲兵工廠。

建立当時は 北の丸内に駐屯していた
近衛歩兵第一・第二連隊正門前
(現在地より東方約60m)にあったが
1963年 北の丸公園整備計画に従って
現在の位置に移されている。



儒学者 山鹿素行

2021-10-23 | 人物忌

 


    新宿区弁天町1番地の宗参寺

 

10月23日は 儒学者 山鹿素行がなくなった日

 

山鹿 素行(やまが そこう)は

号・素行  名・高興(たかおき)
字・子敬(しけい) 通称・甚五左衛門。

江戸時代前期の儒学者、軍学者で

山鹿流兵法及び古学派の祖である。

その思想は忠臣蔵の大石内蔵助ら赤穂藩士、
幕末の吉田松陰、
陸軍大将・乃木希典ら
後の武士社会に大きな影響を与えている。


1622(元和8)年 
 陸奥国会津(現・会津若松市)にて
 浪人・山鹿貞以の子として生まれる。
1628(寛永5)年 6歳で江戸に出る。
1630(寛永7)年 
 9歳のとき大学頭を務めていた
 林羅山(1583-1657)の
 門下に入り朱子学を学ぶ。

1636(寛永13)年
 15歳からは小幡景憲(1572-1663)
 北条氏長(1609-1670)の下で
 甲州流の軍学を、
廣田坦斎らに神道を、
 それ以外にも歌学など様々な学問を学ぶ。
1653(承応2)年 
 築城中であった赤穂城の縄張りについて
 助言したともいわれ、これにより
 二の丸門周辺の手直しが
 なされたという説があり、
 発掘調査ではその痕跡の
 可能性がある遺構が発見されている。
1662(寛文2)年 
 朱子学に疑問を持つようになり、
 新しい学問体系を研究する。

1665(寛文5)年 
 天地からなる自然は、
 人間の意識から独立した存在であり、
 一定の法則性をもって
 自己運動していると考えた。

 この考えは、門人によって編集され
 「山鹿語類」などに示されている。
1666(寛文6)年 
 朱子学を批判したことから
 播磨赤穂藩・浅野家へお預けの身に。
1675(延宝3)年
 許されて江戸へ戻り、
 その後の10年間は積德堂で軍学を教えた。

1685(貞享2)年 死去 64歳。

名言:「世の乱れは、言葉の乱れである」
   「天地これ師なり、事物これ師なり」
   「常の勝敗は、現在なり」

 

(参考:ウキペディア他)

 

 

 


講談社 野間清治

2021-10-16 | 人物忌


   「講談社野間記念館」(文京区関口2丁目)

 

 

10月16日は 講談社の創立者
 野間清治が亡くなった日


野間清治は

1878年
 群馬県山田郡新宿村
(現・桐生市)の教員住宅で生まれる。


1900年
 群馬県立師範学校を卒業,
 2年間小学校の教師をしてから

 東京大学臨時教員養成所国語漢文科に入学。
1904年
 卒業して沖縄県に行き
 中学教師と視学をつとめた。

1905年
 沖縄県立中学校
(現・沖縄県立首里高校)の教諭になる。

1906年
 沖縄県視学(地方教育行政官)となる。

 1907年
 東京大学法学部の事務官となる。

1909年
 大日本雄弁会を創立。

1910年
 最初の雑誌『雄弁』を創刊。

1911年
 講談社創業 雑誌「講談倶楽部」を創刊

 その後は「少年倶楽部」「面白倶楽部」
 「現代」「人倶楽部」「少女倶楽部」
 を次々に創刊
1924年 12月
 「キング」を創刊し
 その創刊号 (1月号) は 74万部売れた。

 「おもしろくて ためになる」という
 編集方針が大衆に支持された。

1925年
 1月号は 150万部売れ
 最初のミリオン・セラーの雑誌になった。

1930年
 報知新聞社の社長となり
 キングレコードの経営にもあたった。

 「世間雑話」 (1935) など著書もある。.
1938年 
 10月16日 急性狭心症で死去

 


  「講談社発祥の地」(文京区千駄木3丁目)

 

説明文には

「        講談社発祥の地
1909年(明治42年)11月、青年・学生の弁論と精神修養
のための雑誌「雄辨」発行を志した30歳の野間清治は、
東京団子坂下の借家(旧・本郷区駒込坂下町48番地、
現・文京区千駄木3丁目)の門柱に「大日本雄辯會」の
看板をかかげた。―講談社の創業である。
 創業時よりこの地にある伊予青石に刻まれた文字は、
第6代社長 野間佐和子の揮毫になる。 
                1996年7月4日
                株式会社 講談社 」

 


イラストレーター 和田 誠

2021-10-07 | 人物忌

「落語横車」(講談社文庫)

  一筆書きのように描く志ん生    
     落語にも造詣が深い

 

 

2年前の 10月7日は 
イラストレーター 和田誠が亡くなった日


和田誠は
イラストレーター グラフックデザイナー
 エッセイスト 映画監督であった。

1936(S11)年
 父・精が勤務していたNHK大阪局の
 赴任地大阪市で生まれる。
1945(S20)年
 父の失職により一家で
 世田谷区代田に転居するが 
 一人千葉県で敗戦を迎える。

1955(S30)年
 多摩美術大学図案(現・デザイン)科入学
 杉浦非水(1876-1965)に学ぶ。

1957 (S32)年
 第7回日宣美展で「夜のマルグリット」の
 ポスターが日宣美賞を受賞

1959(S34)年
 ライトパブリシティに入社

1965(S40)年
 雑誌「話の特集」にADとして参加

1968(S43)年
 フリー。「週刊サンケイ」の表紙に
 似顔絵を描く(4年間AD田中一光)

1972(S47)年
 平野レミ(1947-)と結婚

1974(S49)年
 講談社出版文化賞(ブックデザイン部門)

1977(S52)年
 「週刊文春」の表紙(絵とデザイン)を担当

1984  (S59)  年
 映画「麻雀放浪記」を初監督し
 第9回報知映画賞新人賞受賞

1993(H5)年
 自著「銀座界隈ドキドキの日々」が
 第9回講談社エッセイ賞

1994(H6)年
 第42回菊池寛賞

1997(H9)年 
    時間旅行展が毎日デザイン賞

2017  (H29) 年
 「週刊文春」の表紙絵が
 2000枚を迎える。
2019(R1)年
 肺炎により死去 享年83

 

 


 
   授業の時間割表は先生の似顔絵!


       活字も手書き!

ポスター「夜のマルグリット」が
日宣美賞を受賞(1957年)

これをきっかけに似顔絵と
TVコマーシャルのアニメーションの仕事が入る。

 


1977年より「週刊文春」の表紙
(絵とデザイン)を担当し2000号超える。

没後1年を追悼して 描いた全表紙を掲載する
「表紙はうたう 完全版 和田誠・週刊文春の
カヴァー・イラストレーション」が発売されている。

 

日本専売公社が発売予定の
新商品紙巻きたばこ「ハイライ」の
パッケージデザインコンペで採用される。

なお 同製品のデザインは1964年開業の
東海道新幹線の車体の配色の参考ともなる。

 

 

*写真「落語横車」以外は
 BSテレ東「新美の巨人たち」から