あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

遠藤周作 周作忌

2020-09-29 | 人物忌


 (日本経済新聞 2003/6/14)

 

9月29日は 小説家 遠藤周作が
亡くなった周作忌。

遠藤周作は

1923(大正12)年  東京・巣鴨で誕生
  父の仕事のため満州で幼少時代を過ごす。
  帰国後  12歳でカトリックの洗礼を受ける。
 上智大学を中退 
1948(昭和23)年  慶應義塾大学文学部仏文科卒業
1950(昭和25)年  渡仏。帰国後批評家として活動
1955(昭和30)年「白い人」で芥川賞を受賞
1957(昭和32)年  小説「海と毒薬」を発表
1958(昭和33)年  新潮文学賞、毎日出版文化賞を受賞
   マルキ・ド・サド研究のため渡仏
1960(昭和35)年  体調を崩し入院
  手術を繰り返す。

1963(昭和38)年  転居した町田市玉川学園の 家を
「狐狸庵」と名づけ

「狐狸庵山人」の雅号を使って
  軽妙なエッセイを継続的に発表。

1966(昭和41)年「沈黙」で谷崎潤一郎賞受賞。
 
以降「イエスの生涯」
            (国際ダグ・ハマーショルド賞)

        「キリストの誕生」(読売文学賞)
        「侍」(野間文学賞)ほか
  一貫しカトリック作家として
  日本人とキリスト教の問題を根底に
 
人間の心の奥底を追究している。

また 狐狸庵もの ぐうたらものと
面白エッセイや娯楽性に富んだ
大衆文芸作品も多く執筆している。

1993(平成5)年「深い河」を発表(95年映画化)
1995(平成7)年 文化勲章受章。
1996(平成8)年9月29日 病没  享年73


 

 


秋葉原電気街

2020-09-27 | 出来事・行事

 

 

 

先に 秋葉原について触れたが


秋葉原が 電気街になったの
は 

戦後 神田小川町から神田須田町界隈に

広がっていた露店商に対して

GHQが 1949年「露店撤廃令」を

発したことにより 東京都と国鉄は

代替え地として 秋葉原駅のガードを提供した。

また1951年 民間ラジオ放送が始まり

ラジオの需要が高まったが

当時ラジを生産する工場もなかったことから

電機学校の学生がアルバイトで

ラジオを組み立て売った。

それらの真空管・部品等を

売る店も集まって

以降 秋葉原駅界隈に

電化製品販売店が進出し

今日に至っている。 

しかし 
ラジオ店があっても

テレビと名の付く店がない。

カメラ店はあるが 電化製品店だ。

 


秋葉原

2020-09-24 | 出来事・行事

 



先に「秋葉原」の
語源について触れたが

現在の秋葉原駅を中心とする
電気街「秋葉原」は 
通称の地名である。


正式な住居表示では

「秋葉原」は台東区にあって 
千代田区では
「外神田(1・3・4丁目)」
「神田佐久間町(1丁目)」
「神田花岡町」「神田練塀町」
「神田松永町」等に
行政区分されている。

よって 電機街は
千代田区外神田等に
あって商業地区 


台東区秋葉原は
商業と住宅街の
混在地域になっている。

因みに現在の地名は
1964(昭和39)年の
住居表示法施行による。

なお「台東区秋葉原」は
「台東区松永町」と
「台東区練塀町」から変更された。


 


御木本幸吉

2020-09-21 | 人物忌


 (中央区銀座4丁目 ミキモトパールビル)


9月21日は 真珠王 御木本幸吉が亡くなった日。

御木本幸吉は 実業家で真珠の養殖と
そのブランド化などで富を成し

御木本真珠店(現・ミキモト)の創業者。
世界の真珠王とも呼ばれた。


銀座 ミキモト店舗脇にある
「真珠王記念碑」の説明文には

「 銀座文化碑
御木本幸吉翁は本年九十五歳
養殖真珠の創始者で

真珠王の名は全世界に及んでいる
當處南北十間の地は

翁の店舗の場所である

昭和28年4月 銀座通聯合会 」

略歴は
1858(安政5)年   三重県鳥羽大里町に生まれる。
1878(明治11)年 20歳のとき東京、横浜へ視察旅行
1881(明治14)年 鳥羽藩士の娘うめと結婚
1888(明治21)年 大日本水産会幹事長・柳楢悦に面会
 神明浦で真珠貝の培養試す。

1890(明治23)年 柳の紹介で箕作佳吉博士に面接
 真珠養殖の指導を受ける。

1893(明治26)年 相島(真珠島)で半円真珠完成
1899(明治32)年 東京銀座裏に御木本真珠店を開店
1905(明治38)年 赤潮被害の中で真円真珠5個発見。
1908(明治41)年 真円真珠特許権を受ける。
1951(昭和26)年 有限会社御木本真珠ケ島
 (現・ミキモト真珠島)創立
1954(昭和29)年 9月21日 死去 享年96

 

 


秋葉原と秋葉神社

2020-09-18 | 出来事・行事


秋葉神社 (台東区松が谷3丁目)


先日 当ブログ 
神田佐久間町(20/9/12)で
江戸・明治の火事について触れたが

当時 秋葉原界隈は  江戸から明治にかけて
火事に悩まされていた。

1869(明治2)年の相生町の大火を機会に
東京府は 9000坪(約3万㎡)の火除地を
当地に設置し  翌年 遠州(静岡県)から
火除けの秋葉大権現を勧請し
鎮火神社として祀った。


当初は 鎮火原と呼ばれたが
鎮火神社が秋葉神社と改められると
「秋葉原(あきばはら・あきばっぱら)」と
呼ばれるようになり
「秋葉原」が この地の語源となっている。

1890(明治23)年に
上野から鉄道が延長されて
当地に「秋葉原貨物取扱所」と
名付けられ開設された。


この「秋葉原」は駅名と共に
その名前が一般化し
全国的には「あきはばら」となっていく。


また 秋葉神社は
現在の台東区松が谷3丁目に移転した。

神社の由緒と移転の経緯は
秋葉神社にあった。


「秋葉神社御縁起


1 御祭神 火産霊大神(ホムスビノオオカミ)火の神
     水波能売神(ミヅハノメノカミ)  水の神
     埴山比売神(ハニヤマヒメノカミ)土の神
1 主祭日5月18日例大祭
    11月6日鎮火祭・火渡神事

1 御由緒
 明治初年東京府内に火災が頻発し
市民の難渋せる状を
御憂慮せられた
英照皇太后(明治天皇御母)の思召を以て、

明治天皇より太政官に御下命になり、
宮城内紅葉山より
鎮火三神を奉還し
東京府火災鎮護の神社として

現今の秋葉原の地の創建せられたのが
当社の始めである。

明治21年鉄道駅設置のため
境内地を払下げ現在地に
御遷宮となる、
秋葉原の駅名も当社名にその因を発する。

台東区松が谷3丁目 鎮座
           秋葉神社 」

 

 


9代目市川團十郎

2020-09-14 | 人物忌

9代目市川團十郎像 「暫」 (台東区浅草寺)



9月13日は

9代目市川團十郎が亡くなった日。

九代目 市川團十郞 は
明治時代に活躍した歌舞伎役者。

1838(天保9)年に江戸に生まれる。

7代目市川団十郎の5男で
本名は堀越秀(ひでし)。

生後まもなく
6代目河原崎権之助の養子となる。

1852(嘉永5)年
  初代河原崎権十郎を襲名

1854(安政1)年
   兄の8代目団十郎が自殺

1861-62(文久2-3)年
 「勧進帳」「助六」初演

1868(明治元)年
   養父の権之助が強盗に刺殺される。

1869(明治2)年
   7代目河原崎権之助を襲名

1873(明治6)年
   河原崎三升を名乗る。

1874(明治7)年
   河原崎座を芝新堀町に 
   新築開場を機に市川家に復帰して

   9代目市川団十郎を襲名。
1876(明治9)年
 12代目守田勘彌に
   招かれて新富座に出演。

1877(明治10)年以降
 「活歴物」に注力

1887(明治20)年
 天覧歌舞伎開催

1889(明治22)年
 歌舞伎座が開場

 5代目尾上菊五郎 
   初代市川左団次とともに「団菊左」で
  明治歌舞伎の黄金時代を築く。

1897(明治30)年
 養子に迎えていた5代目市川新蔵が急死

1903(明治36)年9月13日
 急性肺浸潤に尿毒症を併発して死去。
   享年64.

9代目は
演劇改良運動に意欲を燃やし
史実を忠実に舞台にあげようとする
「活歴」を創始するなど様々な活動した。

その数多い功績から
「劇聖」(げきせい)と謳われ

また歌舞伎の世界で単に
「九代目」というと、
通常はこの九代目 市川團十郎のことをさす。

父7代目団十郎の
「歌舞伎十八番」制定の遺志を継いで
活歴物 松羽目物のなかから
「紅葉狩」「鏡獅子」など
得意芸を集めた「新歌舞伎十八番」を
選定している。


活躍した舞台跡が 
東京・中央区と港区にある。


説明文には

「新富座跡
所在地 中央区新富2丁目6番1号
新富座は万治3年(1660)
木挽町五丁目(現在の銀座6丁目、
昭和通り西側)に創建された
「森田座」を引き継ぐ
歌舞伎の劇場でした。

森田座は代々森田勘弥(かんや)が座元で、
天保14年(1843)浅草猿若町
(現在の台東区浅草)に移り、
安政5年(1858)に「守田座」と改めました。
明治5年(1872)には、
守田座12代勘弥が新富町に移転進出し、
同8年(1875)に「新富座」と改称しました。

新富座は市川団十郎・尾上菊五郎
・市川左団次などの名優を集めて
積極的な興行を行いました。
劇場は近代的な様式を取り入れた
大規模な建物で
「東京第一の劇場」と称され、
周辺には歌舞伎関係者が多く居住し、
一帯は芝居町となっていました。

明治22年(1889)に歌舞伎座が開場するまで
芝居興行の中心的存在でしたが、
大正12年(1923)の
関東大震災で焼失しました。

明治期の錦絵には海鼠壁(なまこかべ)の
上に絵看板を並べた大劇場の様子が見え、
往時の繁栄ぶりがうかがえます。

平成16年3月
  中央区教育委員会 」

 
港区芝2丁目

説明文には

「河原崎座跡地
(7代目河原崎権之助が
現在地に開場した
河原崎座において、

明治7年7月9代目市川團十郎を襲名す。
河原崎座は、その後新堀座等に
改称したが、

明治18年11月に廃座となる。」

 

 


神田佐久間町

2020-09-12 | 出来事・行事


代田区町名由来板

 

先日 NHK番組
「日本人のおなまえっ!」で

東京・千代田区・神田佐久間町に
ついて触れていた。

 

内容は

この佐久間町は 
かつて出火の多い町で

「悪魔町」と陰口を
ささやかれることがあったが

ある日から噂されるとことが
なくなったというものだった。


この佐久間町の由来は
千代田区の「町名由来」によれば

町名は佐久間平八という
材木商が住んでいた
ことから生まれたという。

商人の名がそのまま
町名になるほどこの界隈は
材木商が軒を並べていた。

しかし この界隈から火事が
頻発し 江戸中を火の海に
なったことが 度々あり
いつしか
「佐久間町」をもじって
「悪魔町」と
ささやかれるようになった。

1923(大正12)年9月1日の
関東大震災のとき
住民が 一致団結して
猛烈な勢いで襲ってくる
火の手に力を合わせて
バケツリレーを行い
丸一日以上にもおよんだ
命懸けの消火活動により
佐久間町から和泉町にかけての
一帯は 奇跡的に延焼を免れた。

それからは 汚名返上!
悪口を言われる
ことはなくなった。


NHK番組「日本人のおなまえっ!」から


当時の東京府が
防火協力守護地とした
記念碑が 秋原原駅近く
神田和泉町の
和泉公園内に 置かれている。


碑文には

「防火守護地
 この附近一帯は
大正12年9月1日関東大震災の
ときに町の人が一致協力して
防火に努めたので
出火をまぬかれました。

その町名は次の通りであります。
 佐久間町2丁目、3丁目、4丁目
 平河町 練塀町 和泉町

 東神田3丁目 
 佐久間町1丁目の一部
 松永町の一部

 御徒町1丁目の一部
  昭和43年4月24日 
   佐久間小学校 
   地元有志 
   秋葉原東部連合町会 」

 

 


水上 勉

2020-09-08 | 人物忌

(日本経済新聞 2003/9/27)

 

9月8日は 
小説家 水上 勉が
亡くなった帰雁忌。

水上 勉は
1919(大正8)年 福井県に生まれ。
幼時臨済宗相寺の徒弟になる。

立命館大学国文科中退。
宇野浩二 に師事。

1961(昭和36)年
 「雁の寺」で 直木賞。

 社会派推理小説の「飢餓海峡」
 女性の宿命をえがいた
「越前竹人形」などで
 流行作家となる。

1971(昭和46)年
 「宇野浩二伝」で 菊池寛賞

1984(昭和59)年
 「良寛」で 毎日芸術賞

1998(平成10)年
 文化功労者。 芸術院会員。

2004(平成16)年9月8日死去。
 享年85


作品「五番町夕霧楼」
「越前竹人形」は

母性思慕をモティーフとして
女性の目覚ましい進出時と
相まって人気になった。

また 自らの経歴体験を
もとにした「雁の寺」では
直木賞受賞し

「宇野浩二伝」「一休」
「寺泊」「金閣炎上」
「良寛」などがある。


更に 北陸や京都を舞台とした
「五番町夕霧楼」
「越前竹人形」などでは

弱者の視点から
社会を描いている。

 

特に「飢餓海峡」では
純文学と推理小説の
間の境界線が消え

純文学作家が 次々に
推理小説にも筆を進めており

推理小説でデビューした作家が
一般の文学賞を取ることも
珍しくなくなった。



  青森県下北半島西岸「仏ケ浦」

 

 

 


岡倉天心

2020-09-02 | 人物忌

 


9月2日は 
美術行政家・思想家
岡倉天心 が亡くなった日。

岡倉天心は
1863(文久2)年 
横浜に生まれる。本名は覚三。

東大卒後  文部省に入り
美術教育・調査保存にあたる。


1884(明治17)年
 フェノロサと鑑画会を結成
 新日本画の開拓に努め
 美術調査員としてともに渡欧。

1890(明治23)年
 東美校校長となり
帝国博物館理事等を兼任
この間 美術誌「国華」を創刊。


また 日本青年絵画協会及び
その後身である
日本絵画協会を組織した。 

1898(明治31)年
 校長排斥運動(美校事件)で辞職し

 橋本雅邦 横山大観 
   菱田春草らと日本美術院を結成した。

1904(明治37)年 
ボストン美術館東洋部長に就任。

 また文展審査員・国宝保存会委員も
つとめ 明治期美術の
指導者としてばかりでなく、

すぐれた国際感覚のうちに
日本及び東洋の文化の
優秀性を内外に訴えた。

著作に「東洋の理想」
「日本の覚醒」「茶の本」など。

1913(大正2)年 死去。享年50。

その日本美術院等跡が 
台東区谷中にある。

構内の説明文には

「東京都指定旧跡
 岡倉天心宅跡・旧前期日本美術院跡
  所在地 台東区谷中5丁目7番 
  昭和27年11月3日

日本美術院は明治31年(1898)
岡倉天心が中心になって
「本邦美術の特性に基づき
その維持開発を図る」ことを
目的として創設された民間団体で、
当初院長は天心、
主幹は橋本雅邦、
評議員には横山大観、
下村観山らがいた。

活動は絵画が主で、
従来の日本画の流派に反対し、
洋画の手法をとり入れ、
近代日本画に清新の気を与えた。

この場所に建てられた美術院は
明治31年(1898)9月に竣工した
木造2階建で、南館(絵画研究室)と
北館(事務室・工芸研究室・書斎
・集会室)からなり、附属建物も
2、3あったといわれている。
明治39年(1906)12月に
美術院が茨城県五浦に移るまで、
ここが活動の拠点となっていた。

昭和41年(1966)
岡倉天心史跡記念六角堂が
建てられ、堂内には
平櫛田中作の天心坐像が
安置されている。

 平成11年3月31日建設 
  東京都教育委員会 」

とある。

 

  六角堂

茨城県天心記念五浦美術館 (北茨城市)

五浦の六角堂