あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

信州紀行 松代町 30 松代温泉

2016-08-25 | 国内・長野

 

 

今宵の宿泊は 
町の東 松代温泉(加賀井温泉)
にある国民宿舎「松代荘」へ



日蓮上人が 佐渡島へ流されたとき
その行き帰りに この湯で 旅の疲れを
休めたという。

また 武田信玄の隠し湯としても 知られている。


宿舎は(1964年オープン・ 1998年リニューアル)
武家屋敷風の総平屋建てになっており

玄関の門構えは 真田邸の文化財の門(冠木門)に似せている。


源泉温度は 45.2℃ 加水・加温 
循環ろ過式は一切なく 毎分740ℓも湧き出て
100%源泉掛け流しの温泉。

源泉は 元々透明だが 鉄分が酸化して
黄金色になり また 浴槽等にも付着している。

泉質は 含鉄ナトリウム・カルシウム塩化物を含み
他の温泉の成分数値を 大幅に上回って
全国屈指の “濃い温泉” になっている。 


また 精神安定や美肌効果もあるという
今日の疲れを癒すため ゆったりと浸る!




信州紀行 松代町 29 閻魔堂

2016-08-24 | 国内・長野

 

この「典厩寺」は 松代町ではなく
長野市・篠ノ井地区であった。

典厩寺 本堂の前に 閻魔堂がある。

川中島合戦後300年を記念して 建立され

その堂内に 鎮座する ”閻魔大王像”

 頭部は木造 身体が漆喰造りだが

興奮しているのか? 顔の赤さが際立つ。


日本一大きく(約6m)東洋一大きいとも。

天井の格子状に33観音 背後には四天王像が描かれている。

左右の壁には十王図と川中島合戦図が掲げられている。

             

   また 境内の「川中島合戦記念館」では
寺宝60余点を収蔵展示しているが
境内の武田上杉両雄合戦之碑や
八幡原史跡公園の信玄・謙信一騎打ちの像は
この絵をもとにしているという。

 何故か?
境内に「ボケ封じの石」が置かれていた。

 

 


信州紀行 松代町 28  典厩寺

2016-08-23 | 国内・長野

 

 

「松井須磨子コース」を終え

大方巡ることができたので

松代駅の観光案内所に戻り
 

あらためて 観光案内図を見て 

「風林火山コース」に中に 

「典厩寺(てんきゅじ)」のあることに気づき

また 2年前の春「川中島古戦場」に訪れたが 

この典厩寺には 寄れなかった。

しかし ここからは 北西

千曲川を挟んだ先にあるので 

自転車を返し 車で行くことにした。

 

この「典厩寺」は 1561(永禄4)年の
川中島合戦(第4次)最大の激戦で討ち死にした

武田信玄の弟・武田典厩信繁と
両軍6千余名の戦死者を葬った寺だが

その後 松代藩主・真田信之が信繁の
唐名から「典厩寺」と あらため菩提を弔ったという。

そこに真田家の真髄を見るような気がした。

 

 「首きよめ井戸」

信繁は 討死して上杉方に首級を取られたものの
家臣が追いかけ取り返したという
 家臣の主人への思いも見える。

  


信州紀行 松代町 27 松井須磨子2

2016-08-22 | 国内・長野

                                                                                                              (2010年 撮影)

松井須磨子のお墓は 

東京・新宿区弁天町の真言宗寺院・多聞院にもある。

多聞院は 都営地下鉄大江戸線牛込柳町駅から
徒歩8分程度の所。

戒名「貞祥院實應須磨大姉」
何故 この寺にかは 分からなかった。

芸術座の女優として 主役を演じ
その劇中歌の「カチューシャ~」などを
レコードとして ヒットさせるなど 活躍した。

 しかし 芸術座主で恋人でもあった
島村抱月が スペイン風邪で 病死してしまい

その最愛の人を追って
33歳で 自ら その命を絶ってしまった。

自ら歌った
「ああ 命みじかし 恋せよ乙女・・・」
のとおりの人生であった。

 


信州紀行 松代町 26 松井須磨子 1

2016-08-21 | 国内・長野

                                                                       実家の裏山にあるお墓  


昼食後 観光案内図を見て
「松井須磨子コース」が目に入る。

案内では 実家とお墓まで
自転車で10分程度とあるので訪ねてみた。


しかし 案内図ではアバウトすぎて
 到底10分では無理だった !

 たどり着くまで迷いに迷い しかも山際
自転車を降り押して行くことにもなった。

 


「松井須磨子」は この松代出身で
明治から大正時代にかけて活躍し

「復活」はじめ 大正初期の芸術座の舞台では
女優として主役を演じた 新劇女優である。


       

                                            林正寺                林正寺「須磨子演劇碑」

        林正寺に 演劇碑があるというので 先に訪れる。
丁度 寺は改修中 演劇碑のみで
  他の資料的なものは 見れなかった。

  碑には トルストイ原作「復活」の
劇中歌である「復活唱歌」

「カチューシャかわいや 別れのつらさ・・・」
と一節が刻まれている。

            

                 墓所案内                 実家表門

再び 汗ふき迷いながら 
やっとのことで実家・墓所にたどり着く。

17歳で 上京するまで この地で育ち
そして この地に眠っている。

墓所からは 生い茂る木々の先に
長野盆地 信州の山々が望める。

  


信州紀行 松代町 25 日暮し庵

2016-08-20 | 国内・長野

 

いろいろと 町内を巡るうち 

気が付けば 昼食の時を かなり経過している。

腹ごしらえに 案内図の食事処の一つ

 殿町にある「日暮し庵」へ


店全景は 撮れなかったが 

この家屋 江戸時代後期の武家屋敷を

活かしており 登録有形文化財にもなっている。

店内に入ると ソバ屋とは 思えない 喫茶店のようだ。

大分 暑さの中を巡ってきたので 

冷たい信州ソバが 食感良く 味わう。

ところで「日暮し庵」の屋号は

真田家6代幸弘が 藩主の時代 

恩田木工民親の行った 藩政改革の

業績を綴った『日暮し硯』から


28年前(昭63)開店するにあたり

名づけられたという。

 


信州紀行 松代町 24 矢沢家表門

2016-08-19 | 国内・長野

 

殿町 松代病院の近くにある

 松代藩家老・矢沢家の表門へ

筆頭家老の屋敷として 

重厚な門が風格をたたえている。


説明文によれば

矢沢家は 江戸中期以後は
石高1400石 預同心40人の藩中最高の家格であった。


1792(寛政4)年に再建されたこの長屋門は

間口13.19m 奥行3.72m 高さ6.83mで
屋根は入母屋造の瓦葺。


鬼瓦や破風に配された六連銭や

白漆喰の壁など 城門を思わせる格式を持っている。

1967(昭42)年
長野市有形文化財(建造物)に指定された。

2005(平17)年の火災により類焼被害を受けたが
約2年間の修理工事を経て甦っている。

 

 

 

 

 

 


信州紀行 松代町 23 武家屋敷

2016-08-18 | 国内・長野

  

松代は 城下町として数多くの武家屋敷が残されており

見学コースも設けられている。

その中で 山寺常山邸 や 横田家は 既に話題にした。

他に 「樋口家」「前島家」へも訪れてみた。

いずれも 端正で 無駄や華美さは一切なく

質実な気風が うかがえる。

また ボランティアの方々が 湯茶や手づくりの漬物など

“おもてなしの心” で 迎えてくれてもいる。


樋口家は 松代藩の目付なども務めた上級武士で
屋敷は 城のすぐ東南にある。

上級の武家屋敷町の中心的な位置にあり
藩の目付役などを務め 幕末には禄高が230石であった。


また 前島家は 上田 松代を通じて真田氏に仕え
禄高は 江戸中期に300石 幕末には200石であった。


真田氏が上田から松代に来た時から
この地に屋敷を拝領し 昭和初期まで 居宅として使われていた。


一族の中には 真田昌幸・信繁(幸村)父子が
和歌山県の九度山に幽閉された際に
お供をした者もいるとか。

2006(平成18)年 長野県宝に指定された。




PCの故障?

2016-08-17 | 出来事・行事

 

 

パソコンが 突然フリーズ してしまった。

この暑さで ダウン? ウインドウズ10のトラブル? 

再起動を繰り返しても ヘルプ機能を作動するも

まったく 手に負えない 状況になってしまい。

丸一日 悪戦苦闘するも 解決に至らず

寝て一日様子を見ることにする。

明けて 再挑戦するも 事態は変わらず。 

OSのトラブルか または ウインドウズ10も

今では 再インストールするには 有料になっている。 


もうこれは 専門家に委ねるしかないか・・・。

しかし それは 最後の手段として 

やるだけのことはしなければと 再挑戦。

 
しかし 画面上は 相変わらずだ。 

もしかして ワイヤレス・マウス?


電池を取り換えるも “異常なし” だ。

いよいよ手立てがない。

待てよ!と思い

マウスをワイヤーに取り換えたら


何と! あっさり 正常に動くではないか。

やれやれ。


ワイヤレス・マウスが正常のごとく

中途半端に作動するものだから

すっかり PC本体の異常と思ってしまったのだ。

意外なところに 落とし穴・原因 があったとは・・・

よい勉強になりました。

 

 


信州紀行 松代町 22 祝神社

2016-08-13 | 国内・長野

 

 

住宅街の一角 こんな所にと思う神社がある。

「祝神社」だ。 

“いわいじんじゃ”と呼ぶのかと思ったら

“ほうりじんじゃ”というそうだ。


この神社 延喜式内社埴科郡五社の一つで

千年以上の歴史を有し


城下時代は 町方の産土神 総鎮守社として祀られ 


今でも 親しみを込めて「お諏訪さん」と呼ばれており

毎年11月には「えびす祭り」が催されている。


境内には 稲荷社 八幡社 天神社 西宮神社(恵比寿神社)

猿田彦社
宗像社などがあり

学問 商業 家屋敷 食物 治水 漁業 道案内 他


まさに 八百万の神が祀られているのだ。



信州紀行 松代町 21  電信発祥の地

2016-08-12 | 国内・長野

 

鐘楼の敷地内 北横に

「日本電信発祥之地」と刻まれた石碑が建っている。

資料によれば

佐久間象山 自らオランダ語を習得し

“ショメール百科全書” を基に電信機を製作し


鐘楼から 70mの電線を通して 

日本で初めて1849(嘉永2)年に

電信実験を成功させた。

 この時の 電信機は “トンツー” の電鍵ではなく

指針を円盤上に配列した文字に合せて 回転させ


この回転を接点の断続数として送信し 


受信機では電気パルスの数だけ指示針が


回転する仕組みの 指字型電信機 であった。

この装置が 象山記念館に展示されている。

 

 

 


信州紀行 松代町 20 鐘楼

2016-08-11 | 国内・長野

  

松代駅から 南東に 400mの所に “旧松代藩鐘楼” がある。

埼玉・川越市にも ”時の鐘” があるが

こちらは 高さは(12m)ないが 大きく見える。

説明文によれば

時計がなかった江戸時代 藩では

昼夜の区別なく 一刻(2時間)ごとに

大鐘をつかせる決まりがあった。


藩士や城下の人々は この “時の鐘” で時刻を知り

また 当初は 火の見櫓(やぐら)の役割を兼ねていた。


この鐘楼は 初代藩主・真田信之が

1622(元和8)年 松代城主となって間もない


1624(寛永元)年に 火の見櫓とともに設置された。


その後 3度の大火で焼け

現在の鐘楼は1801(享和元)年に

鐘楼と火の見櫓を別棟にして再建され 2012年に修復された。


長野市の指定有形文化財(建造物)に指定された。


なお 鐘は太平洋戦争で供出したため

現在の鐘は 1991(平成3)年に

旧鐘の寸法や重さを模して設置され 4代目。

 その楼の構造は 石積みの基壇の上に建ち

高さ約12m 屋根は 切妻(きりづま)の瓦葺き 


内部は 三層になっている。

  

 

 

 

 


信州紀行 松代町 19 長国寺2

2016-08-10 | 国内・長野

 

 

さらに 奥の囲いの中 

真田家の墓所がありその面積800m2。

藩祖 信之にはじまり 

信政・幸道・信弘・信安・幸弘

・幸専・幸貫・幸教・幸民の10代の墓と


信之の祖父 幸隆 その長子 信綱

信之の父 昌幸 信之の弟 幸村と 

その子の大助 らの供養塔が並ぶ。

さすが 真田家 一族が敵味方分かれても

この墓所が お家の存続を

成し遂げられていることを
物語っている。

 


信州紀行 松代町 18 長国寺

2016-08-09 | 国内・長野

 

 

松代駅から東に徒歩で15分ほどの所にある

真田家の菩提寺「長国寺」へ

本堂の甍にそびえる鯱(海津城から移築した)と

真田家紋章六文銭が印象に残る。

本堂脇の庫裏で 境内の案内を請う。 

 



境内の奥 「初代 真田信之」と

「4代 真田信弘」2棟の霊屋がある。

構造は撞木屋根唐風付 

黒塗りのなか壮麗な外観が目を引き

見応えがる。

 

唐破風の部分の彫刻(雌雄の鶴)は

名工・左甚五郎の作

また 屋内には狩野探幽らの筆と伝わる

壁画と格天井がある と説明がある。

 





信州紀行 松代町 17 大英寺

2016-08-07 | 国内・長野

 

 

今 NHK真田丸で話題の

松代藩初代藩主・信之の妻・小松姫
(本多忠勝の娘・徳川家康の養女)の
菩提寺「大英寺」がある。

訪れた時は 丁度 改修工事中のため
残念ながら 境内への見学はできなかった。

資料によれば

上田の常福寺(現芳泉寺)に祀られていたのを
信之が上田から移封された際
ここに移したと伝えられ

現在の本堂は もとは御霊屋で 万年堂とも呼ばれている。

小松姫の戒名は 大連院殿英誉皓月大禅定尼で
大英寺の名前もこれによっている。

上田に造ったお霊屋と鐘楼を運んで建てなおした。
その頃の大英寺にはお霊屋や鐘楼のほかに
諸堂が建立され大変立派だったと伝えられている。


慶安2年には 幕府より百石の御朱印を賜り
宝永7年に本堂と庫裏 衆寮などを建立した。


享保19年 火災を起こして焼失し
寛保元年再建に着手し 同2年完成した。


また 天明5年 お霊屋の大修理等
全て真田家によって行われたが


明治維新後は 真田家の援助もなくなってしまったので

いくつかの堂を取り壊し 
真田家援助により お霊屋を本堂にし
残りの材で庫裏も造ったという。


1966(昭41)年 本堂・表門は長野県指定県宝に
宗派は 浄土宗  本尊は 阿弥陀如来。