あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

エストニア・タリン 25 独立戦争戦勝記念碑 

2017-12-31 | バルト三国紀行

 

 

自由広場「ワバドゥセ広場」は 
旧市庁舎からハルユ通り500mほど南に来たところにある。

その西側に建つ十字架は、
1991年8月20日に独立したことを記念して
独立後の1923年
「エストニア独立戦争戦勝記念碑」として建てられた。

 その経過は

           1988年 タリンの歌の原で行われた集会を
               きっかけに独立運動が広がる。

           1990年の選挙で独立派が勝利する。
           1991年 国民投票で独立の支持が確認され、
               独立運動と並行してソ連との交渉も進む。
           1991年8月20日 エストニア共和国が復活する。

 

この右手奥には「日本大使館」がある。

 


エストニア・タリン 24 キーク・イン・デ・キョク

2017-12-30 | バルト三国紀行

 

 

更に自由広場へ向かう途中 右手奥に塔が見える。
「キーク・イン・デ・キョク」で
 “台所を覗く” という意味の 高さ38mの塔。


かつて兵士らが塔の上から、
下に見える家の台所を覗き見できると
冗談をいった事から こう呼ばれるようになったという。


1470年に建造されたこの塔はすぐに 
壁の厚さ4mに補強されたことにより、

1500年代後期のリヴォニア戦争では、
イヴァン雷帝の軍が最上階を爆破して
大きな穴を開けようとしたが、塔は維持された。


戦後の修復期において、4つの大砲の弾が、
新しく作られた石の壁に一列にして
記念物として据え置かれ 
塔の南東側で見ることができる。

現在 6階建ての塔の中は、
タリンの砦、武器、中世の生活に関する
軍事・防衛博物館となっている。

 

 


エストニア・タリン 23 聖ニコラス教会

2017-12-29 | バルト三国紀行

 

 

ラエコヤ広場から南へ 自由広場に向かう途中
右手
緑豊かな中に ゴシック様式の
大きな教会「聖ニコラス教会」がある。


13世紀に 船乗りの守護聖人ニコラスに捧げられ、
ドイツ商人の居住区の中心に建てられた。

非常時には要塞としての機能も果たしてきた。

第2次世界大戦中 ナチス・ドイツの占領下だった
1944年3月 ソ連の空爆を受け大きく被害を受けたが
 戦後 当時のまま再建された。

しかし 教会としての機能は一切なく、
現在は たまにコンサート会場として
使用される博物館となっている。


内部で展示されている神秘的な
「死のダンス」は
絵画(縦1.6m 横7.5m)は
特に有名、
人間が骸骨と踊る死のダンスは、
ドイツの芸術家、バートン・ノトケによって

15世紀に描かれている。

当時、ヨーロッパではペストが大流行し、
人々は死の恐怖に襲われていた。


この絵の中には、王族、貴族、僧侶、農奴など、
いろいろな身分の人が骸骨と踊る様子が描かれ、
誰しも死によって、身分や貧富の差がなく、
無に統合されるという死生観が示されているようだ。

 

 

外壁には 空爆を受け破壊された当時の写真が展示されている。 

 

 

 


エストニア・タリン 22 市議会薬局

2017-12-28 | バルト三国紀行

 

 

 

ラエコヤ広場の北東の角に 
1422年に創業したヨーロッパ最古の
「市議会薬局」があり
今でも現役の薬局として営業している。

外壁に飾られている“ヘビとカップ”は
「アスクレピオスの杖とヒギエイアの杯」

といって、医学のシンボルマークになっている。

 ギリシア神話の名医アスクレピオスが
持っていた蛇の巻きついた杖に由来し、

世界保健機関のマークにも使われている。


ここには、もともとは3つの建物があり、
最初は真ん中の建物が薬局で、
左のアーチのある部分は計量所、
右の建物は牧師の家であった。

その後、薬局が左右の建物を買いとり、
改築して一つの建物にしたという。


店内では一般の薬を販売しているが、
奥の部屋に行くと中世時代の薬「焼き蜂」や
「ユニコーンの角の粉末」などが展示されている。

 


エストニア・タリン 21 旧市庁舎

2017-12-27 | バルト三国紀行

 

ラエコヤ広場の南側にある「旧市庁舎」は、
北欧に現存する最古のゴシック建築といわれている。

この場所は、1322年に宗教法廷として使われた記録があり、
1363年には劇場として使われていた。

1372に市庁舎ができ、
1404年に現在の石灰岩のゴシック建築が建てられた。


バロック様式の尖塔は、1781年に取り付けられた。

旧市庁舎の内部は、
現在 迎賓館やコンサートホールになっており、
見学ができる。



  

 

壁から飛び出しているのは、ドラゴン装飾の雨樋。

その口からは丁度雨が滴り落ちている。

 

 


この旧市庁舎の塔は65mあって、
その先端には中世の衛兵の姿をした
「風見トーマスおじいさん」が見える。

1530年に作られたタリンのシンボルになっていて 
オリジナルは1944年のソ連軍の攻撃で被害を受けているが、
今は市庁舎の中に展示されている。

広場にある店の看板も「トーマスおじいさん」


エストニア・タリン 20 ラエコヤ広場

2017-12-26 | バルト三国紀行

南方向 中央は旧市庁舎 右は聖ニコラス教会の尖塔

 

タリン旧市街・下町の中央にある「ラエコヤ広場」へ。
広場の周りには中世の市庁舎や薬局の他、
かつてのドイツ豪商の館が建ち並び、

オープンテラスのレストランも多く、
中世の雰囲気を醸し出している。


14世紀には広場の南側に市庁舎ができ、
1404に現在の建物が建てられた。

それ以来、ここは「ラエコヤ広場(市庁舎広場)」と
呼ばれるようになった。


デンマーク王がトームペアに城を築く以前から、
スカンジナビアの商人たちが市を立てて以来、
1896年まで市場として機能し、
この広場を中心として町が広がってきた。


広場は、今でも祭りや結婚式などの
行事が行われる場所でもある。


オムレツの味をめぐって僧侶とウェイトレスの間で論争になり、
僧侶がウェイトレスを殺害してしまったことから
1695年に僧侶が公開処刑された所に
“L字の敷石”あるというが

当方には分からなかった。

    北方向 聖霊教会の尖塔

また 広場の中央にある丸い敷石からは、
旧市街の主要な塔が見られるそうだが

旧市庁舎(南)、聖ニコラス教会(南南東)、
聖霊教会(北)
しか見えなかった。

 

 

 


エストニア・タリン 19 聖霊教会

2017-12-25 | バルト三国紀行

 

 ピック通りの三角広場 
左がピック通り 右はビュハヴァイム通り 

左手に「大ギルドの会館」 
正面は タリンで最古のカフェ「マイアスモック」
 右手には「聖霊教会」がある。

 

  

この聖霊教会は、元々街の病人や老人を対象とした、
隣の聖霊救貧院の一部として14世紀に創立され、
中世にかけて、住民の主要な教会であった。

木造で、特別の八角形の搭が特徴。

教会内には、宗教革命の破壊を逃れた
貴重な文物が収められている。
特に15世紀に造られた祭壇は、
木彫りの像で有名である。

また、ファサードの時計は、
1684年に造られたタリンで
最も古い公共の時計であり
四隅には福音記者の彫像が彫られている。

 

 

 

 

 

 


エストニア・タリン 18 老舗カフエ

2017-12-24 | バルト三国紀行

 

 

オールド・ギルドと精霊教会に挟まれて

1806年創業のタリン最古の
老舗カフェ「マイアスモック」がある。

現在の場所では、1864年から営業している。

黄金色の模様が施された優雅な天井が華を添える店内、
1階はカフェ、2階はケーキに加え軽食ができる。

 ウインドウには、カップとソーサーが
載った観覧車が飾られている。

エストニアの土産の定番
 チョコレートも売られている。

 

 

 


エストニア・タリン 17 グレート・ギルド

2017-12-23 | バルト三国紀行

 

右側の建物が「グレート・ギルド」
建物と建物の間は通路になっている。

 

長い足門から 少々下ったところに
三角形の広場がある。


その広場、外壁がレモン色に塗られた
三角屋根の建物(Pikk_17)が

タリン商人の交流の場だった「グレート・ギルド」。

主に裕福なドイツ商人たちで結成され、
市長や市議会議員も この会員の中から選ばれていた。


なお ギルドの目的は、
商人たちの既得権益を守り、
無駄な争いをさけ 助け合うこと。


1410年に建てられた後期ゴシック建築で、
タリンで 旧市庁舎に次ぎ
二番目に大きい中世建築になっている。

現在は、歴史博物館になっており、
ヴァイキングの時代から近代までの
出土品や生活用具、文書、伝統衣装、
再現ジオラマなどが展示されている。



 

 


エストニア・タリン 16 長い足通り

2017-12-22 | バルト三国紀行

 

 長い足の坂上方面

 

写真は「長い足(ピックヤルク)」と呼ばれている通り。

アレクサンドル・ネフスキー大聖堂の北東角から、
下町へと下る。


石畳と石垣で覆われていて、
雨に濡れた石が趣を一層深めており
雨の長崎の坂を思い起こす。

貴族が住んでいた丘の上のトーンペア地区の
山の手の通りを「長い足通り(ピックヤルク)」
商人が住んでいた下町を「短い足通り」(ピック)と分けられ、
この2本の路が山の手と下町を結んでいた。



写真左 坂の途中のカフェ「長い足」があり
 長靴の形をした雨樋を看板にしている。

坂の下「長い足門」

 


エストニア・タリン 15  ホテル

2017-12-21 | バルト三国紀行

 

 

展望台から 新市街地方面を望む。

風見鶏の左のビルは 
昨夜 我々が 宿泊した ホテル「VIRU」。

2つのショッピングセンターと 旧市街のヴィル門に
囲まれたタリンの中心地にあたる場所に建つ、

高層の3つ星ホテルで 
旧ソ連時代の 1972年に完成している。

驚いたことに 
このホテル歴史的にも隠された部分があった。

エストニアが ソヴィエトに統治されていた頃、
エストニアで最も高級であった
このホテル「Socos hotel」の
最上階をKGBが借り切って、

諜報活動をしていたのだ。

一般旅行者のみならず、公人もここに宿泊し、
様々な国家情報が集まる場所であったため
盗聴器がいたる部屋に仕掛けられ,
会話などが傍受されていたという。

なお、外からホテルを見ても、
23階には窓もないので
部屋があるとは分からないようになっている。
つまり 22階建てのように見え、
あくまで秘密裏になっていた。

 * KGB は「ソ連国家保安委員会」、
ソヴィエト連邦の諜報活動を行っていた秘密組織。


2011年の11月から、
その一室が博物館として展示されている。
見学は予約制。

 

 

 


エストニア・タリン 14 聖オレフ教会

2017-12-20 | バルト三国紀行

 


 ひと際高く見える教会は、

旧市街の北側、ライ通りとピック通りの間にある
124mの高さの塔をもつ
ゴシック様式の「聖オレフ教会」

ノルウェーの聖人王を祀った教会で、
13世紀ごろに建てられ、159mの巨大な尖塔は、
当時世界一高い塔で寄港する船への道標となるとともに、
避雷針として、とても役立った。 

しかし、落雷が繰り返し尖塔を直撃し、
建物自体は3度、完全に焼け落ちてしまったが、
1840年には現在の姿になった。


この教会の真裏 
外壁にキリストの受難を描いた8枚のレリーフと 

最下部に「石になったオレフ」の像がある。

この像の由来は、
この教会の完成直前に塔の頂に
十字架を取り付けていたオラフという職人が転落し際、

彼の口からヒキガエルとヘビが飛び出し
 体はすぐに石になってしまったという。


オレフを哀れんだ市民たちは
彼の名前を教会の名前とした。という。

 


エストニア・タリン 13 タリン市

2017-12-19 | バルト三国紀行

   

 

タリン市は、バルト海東部のフィランド湾に面し
中世ハンザ都市の一つとして栄えた港湾都市で
 現在もバルト海クルーズの寄港地でもある。

11世紀中頃 トームペアの丘に要塞が造られ、
13世紀初頭にデンマーク王国に支配され、

その後ドイツ騎士団やスゥエーデンによる支配と変遷を経て、
大北方戦争(1700~1721年)の間に
ロシア領となった以後はバルト3国と同じ歴史を辿っている。

城壁に囲まれ、中世の空気を今に伝える
旧市街は「タリン歴史地区」として 
1997年 世界遺産登録されている。

人口は約40万人 構成はエストニア人55%、
ロシア人37%とロシア人の比率が高い。


四季は、北の国でありながら比較的はっきりしている。
冬は長く寒い時期が続くが 平均気温は1~4度。

一日中日が沈まない白夜はないが、
夏至の頃は 23時ぐらいまで明るく、
冬至の頃は 16時には暗くなる。


      

   (googleから)


エストニア・タリン 12  展望台

2017-12-18 | バルト三国紀行

 

 パックトリ展望台
正面の尖塔は聖オレフ教会 奥にはバルト海が広がる。

トームペアの丘には 800年の歴史を誇る
タリン旧市街地の街並みが一望できる
絶景ポイントが数か所あるが
 その2か所を巡る。


北端にある「パットクリ展望台」からは旧市街の先に港が

北東の「コフトゥ展望台」は 旧市街の先に新市街が望める。 

また、13~16世紀にかけて建設された
総延長2.5kmの城壁
に囲まれて塔が46あったが
現在 城壁は1.85km、塔 20個が残っている。


                           〇北端:パットクリ展望台

                           〇北東:コフトゥ展望台

 

 


エストニア・タリン 11 大聖堂(トームキリク)

2017-12-17 | バルト三国紀行

 



アレクサンドル・ネフスキー聖堂から北 

大聖堂(トームキリク)がある。

特にガイドの説明がなかったが 資料によれば。


1219年 デンマーク人がトームペアを
占領した時に建設した教会で、

エストニア本土で最古の教会になっている。

創建当初は、木造の教会だったが、
その後 石造の大聖堂が建立され、

聖母マリアに捧げられたことから、
聖母マリア大聖堂とも呼ばれている。

何度も修復が繰り返されたため大聖堂は、
さまざまな建築様式が混在する教会となっている。

1684年には、トームペアを襲った
大火災によって大部分を消失し、

約100年の歳月をかけて再建されている。

この大聖堂の特異さは、
教会でありながら「墓所」としての役割も果たしていること。

教会の壁には無数の墓碑銘や紋章、墓標や石棺があり、
教会の床には
墓石(最古のものは13世紀から)が横たわっている。


また、動物が描かれた肉屋のギルドや
靴屋のギルドの墓石などがあるという。