あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

幸田 文

2016-10-31 | 人物忌

 

 

10月31日 随筆家・小説家の 

幸田 文 が亡くなっている。
(1904(明37)─1990(平2)年)

 明治の文豪 幸田露伴 の次女で 

父 露伴 を看取ったのちに

40代で 遅咲きの文壇デビューしている。

  主な作品は

「終焉」「さヾなみの日記」「流れる」「闘」と

「おとうと」は 何回か映画にもなっている。


露伴と住んだ文京区・表町
善光寺坂の途中に
旧居(蝸牛庵)現 青木邸がある。

 因みに 幸田文の一人娘 

青木玉1929╶)
祖父幸田露伴 母文と三人で暮した
十年余を「小石川の家」として刊行し 

「二階の祖父の書斎に座れば
まるで木の枝の上に居るような感じで

廊下のガラス戸を開ければ
枝先がさわれそうだ。」

と綴っている。

 また 本の表紙にはこのムクノキが描かれている。
(安藤光雄画)

 

  椋木の右側 白壁が幸田邸 

 

 


柄井 川柳

2016-10-30 | 人物忌

 

 

 今日 10月30日は 柄井川柳 が亡くなっている。

1718(享保3)─1790(寛政2)年

江戸時代中期に 前句付けの点者として活躍した。

辞世の句は「木枯らしや 跡で芽をふけ 川柳」

であったと 伝えられている。

 

昨今は サラリーマン川柳などでも 親しまれているが

名のとおり ”川柳” は 彼の名に由来している。

川柳は 五七五の十七文字の定型で

成り立つ短詩だが
口語が主体で 

季語や“や・かな・けり”などの“切れ字”の制限がない。

 詠む対象は 社会諷刺や人間模様などが多く

俳句とは 趣を異にしている。

 台東区蔵前 三筋2丁目交差点 脇には 

1757(宝暦7)年 この地にて

初めて万句会を開いたことから

250年後の
2007(平成19)年 

「川柳発祥の地」として記念碑が建てられている。

 

 


子規の句碑

2016-10-22 | 人物忌

 

9月18日の「子規忌」から 

「子規と団子」(10/3)
「子規と野球」(10/11)と話題にした。

今回は「子規の句碑」
都内にはまだまだ沢山 句碑があるが
その中の一部を取り上げる。

 

 

 「寄席はねて上野の鐘の夜長哉」

  上野・下谷神社境内にある句碑。

 

上野・下谷神社

  下谷神社は 奈良時代に創建され 
      都内で最も古い「お稲荷様」

祭神名は 大年神 (オオトシノカミ) と
日本武尊 (ヤマトタケルノミコト) で
五穀を主宰し 厚く産業を守護し 
「商売繁盛」と「家内安全」の
御利益がある神様と いわれている。

 


1798(寛永10)年 初代 三笑亭可楽が
下谷の稲荷社(下谷神社)の境内に

 寄席の看板をあげたのが 
江戸で最初の 噺家による
落語の席だったと言われている。
 

 
寄席発祥の地碑は
この200周年を記念して
1998年(平成10)年に 建てられた。

「寄席発祥之地」の文字は 柳家小さん師匠の書。


 

  「雑閙や 熊手押あふ 酉の市」

台東区 千束 鷲神社境内

 2001(平13)年 子規没後百年記念を記念し建立。 

 


 
鷲神社は 天日鷲命(アメノヒワシノミコト)と
日本武尊をお祀りしている神社


現在は「おとりさま」として親しまれ
11月の酉の日に行われる酉の市は有名


 

  

 「落葉して北に傾く銀杏かな」 

神田の銀杏樹を見て 

千代田区 神田小川町 共同ビル横にある句碑  
 

 


新渡戸 稲造

2016-10-15 | 人物忌

 

 

今日(10月15日)は 
新渡戸 稲造(1862-1933)が
亡くなった日 (享年72歳)

日本の教育者であり思想家
 国際人として活躍し

国際連盟の事務次長として
「太平洋のかけはし」にならんと知られている。

1904(明37)年から
没する1933(昭8)年まで
住んだ旧居跡が
東京・文京区小日向にある。

説明文によれば

当時は 内外の訪問客を迎え
「ニトベ・ハウス」とも呼ばれていた。 


盛岡・南部藩士の子として生まれ 
内村鑑三らとともに札幌農学校に学んだ。


その後 東京帝国大学に学び 
アメリカ ドイツに留学し

帰国後は 自由主義的 人格主義の教育者として
多大な影響を与えた。

1891(明24)年 
アメリカ人のメアリー夫人と結婚して帰国。


札幌農学校で教えた後 第一高等学校長
東京帝国大学教授 東京女子大学初代学長
拓殖大学の学藍(学長)も務めた。

1920(大9)年 国際連盟事務次長となり
”連盟の良心”といわれた。

1927(昭2)年に帰国して
太平洋問題調査会理事長となり

1933(昭8)年 国際会議に出席し
カナダで亡くなった。

 現在は その居はなく 囲いがあって
覗くことができなかった。

 


子規と野球

2016-10-11 | 人物忌

 

 

 正岡子規は 1884(明17)年

 東京大学予備門時代に

ベースボールを知り


野球に熱中したといわれている。


1889(明22)年7月には 郷里の松山に

バットとボールを持ち帰り


松山中学の生徒らにベースボールを教えた。


1896(明29)年には「日本新聞」に

連載された「松蘿玉液」の中で


野球のルール 用具 方法などについて

くわしく解説している。


野球を詠んだ短歌 俳句も数多く見られ

 新聞や自分の作品の中で紹介し


野球の普及に多大な貢献をした。

 

その子規の思いを記念して 

東京・上野公園に「正岡子規記念球場」がある。

この球場は 公式戦を行うのではなく

草野球用に貸し出されているようだ。

加えて 2002年 野球の殿堂入りもしている。


 

 
上野恩賜公園開園130周年記念事業(2010年)の
一環として建立された子規の句碑

「春風やまりを投げたき草の原」

 


牛山 純一

2016-10-06 | 人物忌

  


今日(10月6日) 
ドキメンタリスト「牛山純一」(1930-1997)が
肝不全で亡くなった日。(享年67歳)

来年 没後20年になる。

 
かつて テレビで観た「すばらしい世界旅行」の
制作者 牛山純一 の記念ライブラリーがあるという 
茨城県「龍ヶ崎市立中央図書館」へ

 

 玄関入口にある案内板

 

牛山は 代表作「老人と鷹」
(1962年 カンヌ・ユーロビジョン・グランプリ)や
「すばらしい世界旅行」などで 
映像の世界に「ドキュメンタリー分野」を確立し
世界的なプロデューサーと称賛された。


ライブラリーには 
世界中を飛び回って収録した
貴重な映像作品752本が

ビデオとして保管されており
月1回2作品が 館内のビデオ鑑賞コーナーで
公開されている。

まだ 海外旅行が 高嶺の花だった時代に
世界各国の風俗・文化・歴史など
貴重な映像を紹介した

当番組に見入ったものだ。



1966年から1990年まで
毎週日曜日に放送された

「日立ドキュメンタリー すばらしい世界旅行」の
放送回数は 1010回を数えた。
そして 山本直純作曲の オープニング曲

小林亜星作曲の 
エンディング「日立の樹」
      (この木なんの木気になる木)が

聞こえてくる。
また ナレーター久米明の声も

 ( 参照 You Thube )
 

 牛山と龍ケ崎市の関わりは 小学6年生の時に
東京都内から当時の大宮村(市内宮淵町)に移住し
龍ヶ崎中学校(現竜ヶ崎一高)を卒業するまで
龍ケ崎市で過ごしたことから

生前からの希望で 
第2のふるさと龍ヶ崎市に
代表作600本が寄贈された。


 


2階ギャラリーには 写真やトロフィー・盾など
ゆかりの品々が展示されている。

 

「すばらしい世界旅行」Tシャツ (管理人所有)

 

 牛山が通った 竜ケ崎一高(旧龍ヶ崎中学校)

 

埼玉県新座市にある「平林寺」に眠る。
戒名「映光院純徳報真居士」 


《追記 》

 「テレビは男子一生の仕事: 
   ドキュメンタリスト牛山純一」が 

     今年 平凡社から出版された。

 

 

 


子規と団子

2016-10-03 | 人物忌

 

          


子規忌(9月18日)に続き 

子規と団子の話題を

「子規庵」から北西に数分の所
(荒川区東日暮里5丁目)

芋坂みちに
創業1819(文政2)年の

羽二重団子」のだんご屋がある
。 

店の屋号は だんごが「きめ細かく羽二重のようだ」と

評判を呼んだところから 名前がついたそうだ。

羽二重団子は

昔ながらの生醤油の焼き団子と

渋抜き漉し餡団子の二種類があり

店内で 中庭を眺めながら 食べることもできる。

 


子規も大いに利用し 句にも詠んでいる。

  芋坂も団子も月のゆかりかな 
  芋坂の団子の起り尋ねけり
  芋阪の團子屋寝たりけふの月
  名物や月の根岸の串團子
  芋阪の團子売る店にぎわひて團子くふ人團子もむ人

説明文では 妹さんと団子のことで
言い争いがあったともある・・・。


 

王子街道から天王寺の五重塔や谷中に
向かう「芋坂みち」の石柱