宮殿2階から眺め
バロック時代の城には
フランス庭園が付随するが
この庭園は、城の東南側に広がり、
城と一緒にデザインされ
シメントリーに広がる。
入園には別途料金が必要だったが
宮殿からの見学で済ました。
宮殿2階から眺め
バロック時代の城には
フランス庭園が付随するが
この庭園は、城の東南側に広がり、
城と一緒にデザインされ
シメントリーに広がる。
入園には別途料金が必要だったが
宮殿からの見学で済ました。
ここは「公夫人のトイレ」
トイレだけあった
公夫人の寝室から隠し扉で通じている。
こんな所まで見学させてよいものかと思うが
18世紀ヨーロッパで使われていたトイレ用具だという。
しかし 一つあればよいと思うが
広い部屋にいろいろと器具が置かれている。
ビデか 水洗用の水筒か?
説明文はあったが
何をどのように使うかは分からなかった。
「大理石の広間」
食堂として使われていた広間。
壁面を覆う人工大理石から
そのような名でよばれている。
部屋の広さに比べ 食卓は意外に小さい。
また、食卓に並べらえた食器類は
柄等も揃っているが 意外と質素な感じがした。
赤いダマスク織りで壁面が覆われた
「公の謁見室」
ルイ16世ペーテル公が好んだ
調度品でまとめられている。
別名、「赤の書斎」とも呼ばれている。
館内の部屋を見てきて
黄金、白。青、緑、赤などと
色に拘っていて面白い。
各部屋にタイルストーブは、
ロシア式暖炉・ペチカが置かれている。
古く1740年に製造されたものという。
どのように使ったのだろうと
部屋の裏に回ってみると、
やはり熱源は薪だ。
暖房を絶やすことなくしなければならない
裏方の大変さが分かる。
バラの間から「公の寝室」へ
この部屋は、宮殿の中心に位置する
最も重要な部屋で、
緑色でコーデネイトされている。
寝室であるためか 少々暗く天井には
シャンデリアがなかった。
また、この部屋だけは
2対のタイルストーブが据え付けられている。
もしや公は寒がりだったか?
更に 左の壁面にはビロン公と
妻ベニグナの肖像画が並べて飾られていたが、
よく見ると ダブルベットではないようだ。
ご夫婦仲は? 余計な心配かな。
図書室から廊下を経て「バラの間」へ。
館内で最も風変わりで 美しい部屋の一つ。
ピンクの人工大理石の壁画に
21の花飾りが添えられた豪華な部屋。
天井には女神フローレンスが舞う。
磁器の間を観たあと、
再び、白の広間と黄金の間を通り、東南棟へ。
最初に訪れるのは
東南の角部屋にある「図書室」。
宮殿のパンフレットの表紙にも写っている部屋だ、
テーブルには、当時のクールラント公国の
支配領域の地図や地球儀も置かれている。
因みに、クールラント公国は、
1562年から1795年まで
バルト海沿岸部に存在した公国で、
ポーランド王冠とその後身である
ポーランド・リトアニア共和国の封土。
その名前はバルト人の部族である、
クール人、セミガリア人にちなむ。
1791年に完全独立を果たしたが、
4年後の1795年 第3次ポーランド分割に
際してロシア帝国に併合された。
クールラント公国
白の広間の奥に付属した部屋
「楕円形の磁器の間」がある。
45の台に東洋の磁器が整然と並べて飾られている。
水が流れるような台座を滝を
イメージして配置いるという。
グランドギャラリーの奥に、
舞踏会が行なわれた「白い広間」がある。
白一色の装飾は、ここに舞う女性や
美しいドレスを引き立てる効果があったそうだ。
J.M.グラフのロココ様式の漆喰彫刻は、
農村風景や動物神話などを写し出している
壁や天井のレリーフは一見大理石のように見えるが,
石灰岩を加工した材料を用いて
細かいところまで綺麗に表現している。
また、踊った後に一休みするための
婦人専用の「次の間」も用意されている.
姿見もある、女帝アンナの目線で設けられたのか?
こんな心遣いもあった。
先ず東南棟の階段を上がり
最初の部屋は「黄金の間」
広い豪華な部屋は.
戴冠式など公式行事が行われた、
宮殿で最も豪華な広間。
また宮殿で最も古い(改装されていない)部屋でもある。
金箔の漆喰彫刻は、
プロイセンの彫刻家のJ.M.グラフによるもの。
知恵、力、正義などのテーマを
寓話的に描いた天井画は、
イタリア人バロック画家の
F.マルティーニとC.ツッキの作品。
写真左端に居られるご婦人は、我々の後ろから付いて回り
内装や調度品の管理のため監視されている方です。
2階建ての宮殿には、138の部屋があり
中央部分(図上)は 公爵の営舎で、
東側(図左)に黄金の広間、
白の広間、グレート・ギャラリー
西側(図右)には 公爵や支配者階級の
家族の住居になっている。
このうち見学できるのは、2階の44部屋で
長短のコースが設けられている。
宮殿内部を見学するには 入口で
ビニールのシューズカバーを履かなけれならない。
また、入館料とは 別にカメラを持ち込むときは
館内撮影代2ユーロを払って
シールをよく見える所に貼ることになっている。
これらの料金は、
修復費用の一部になっているようだ・
駐車場から宮殿に続くプロナードを行く。
黄葉が彩を添えている。
宮殿全体図
堀の橋を渡って正門へ 二頭のライオンがお迎え
目の前に広がる宮殿
バウスカから 西へ車で10分ほどの所
広大な田園風景の中に
「ルンダーレ宮殿」がある。
ルンダーレ宮殿は、ラトビアで最も素晴らしい
バロック-ロココ様式の記念建造物の一つになっている。
この地がクールラント公国に属していた頃、
一時この国を統治していたア
ンナ・イヴァノヴァ(ロシア女帝・在位1730~1740年)の
愛人として寵愛を受けていた
エルンスト・ヨハン・フォン・ビロンの邸宅として
1736−40年にロシアの宮殿を手掛けた
イタリアの建築家ラストゥレリにより建てられた。
そのビロン公はアンナの愛人,男妾だったそうだ、
やがて,死の床にあったアンナ女帝から,
1737年ロシア国家の摂政にまで任じられる.
しかし女帝の死(1740年)後
幼帝の摂政となったが
政敵に襲われ,失脚.全財産没収され,
長年シベリアに追放となったそうだ.
第二次大戦で被害を受けたが、
1972~2014年にかけて修復された。
ルンダーレ宮殿周辺
リガの見学を終え
リガから南 約85km
バウスカに向かう。
リトアニアとの国境に近いこの町は
ゼムカレ地方の中心地
ムーサ川とメーメレ川が出合い
リエルベ川となる合流点にある。
15世紀半ば、リヴォニア騎士団が川を
望む丘に強大なバウスカ城を建てた。
リトアニアとの交易の拠点として発展した。
しかし 17世紀から18世紀にかけて
スウェーデンや帝政ロシアの攻撃を受けている。
旧市街に16世紀建造の聖霊教会、
西郊外には これから訪ねる18世紀に
建てられた「ルンダーレ宮殿」がある。
(バウスカ城全景 Web資料から)
車窓からバウスカ城を望む