あかない日記

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小説家 森鴎外 11 鴎外荘

2022-08-31 | 人物忌

森鴎外旧居の跡 (水月ホテル鷗外荘)





台東区池之端に
森鴎外の旧居の地がある。

説明文には

「 森鴎外旧居跡

森鴎外は文久2年(1862年)正月19日、
石見国津和野藩典医森静男の長男として生まれた。
本名を林太郎という。
 明治22年(1889年)3月9日、
海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、
その夏に根岸から 
この地(下谷区上野花園町11番地)に移り住んだ。
 この家は、現在でもホテルの中庭に残されている。
 同年8月に「国民之友」
夏季附録として、「於母影」を発表。

10月25日に文学評論「しがらみ草紙」を創刊し、
翌23年(1890年)1月には
処女作「舞姫」を「国民之友」に発表するなど、
当地で初期の文学活動を行なった。
 一方、陸軍二等軍医正に就任し、
陸軍軍医学校教官としても活躍した。
 しかし、家庭的に恵まれず、
長男於菟(おと)が生まれた
23年9月に登志子と離婚し、
翌10月、本郷区駒込千駄木町57番地に転居していった。

平成15年3月 台東区教育委員会  」

 

森鴎外は
1889(M22)年 西周の媒酌で 
海軍中将男爵赤松則良(1841-1920)の
長女・登志子(17歳)と結婚したため 
この家が新居とされた。

なお 新居には二人の弟(篤次郎・潤三郎)と
赤松家の姉妹(登久子・加津子)が同居している。

しかし 翌年 鴎外は登志子と
生後間もない長男・於菟を残して

千駄木町に転居し破局を迎えている。
注)2012年 別居問題について 
 赤松家の長男が父親に報告する手紙
(M23/10/6付)の下書きが見つかった。

離婚理由は 長男・ 於菟(1890-1967)が
「父親としての森鴎外」(1955年)に記している。

「家庭で良き教養を受けてまた書道、
国漢学、長唄、舞踊などの
たしなみは特に深かったのであるが、
父に嫁した時年なお17歳で
わがままの脱けきらぬ所があり、
気むずかしい書斎にのみ親しむ
父の機嫌をとることが拙かったと見える。」

なお 登志子は1900(M33)年29歳 
肺結核で亡くなっている。

この家は 1886(M19)年に
赤松家の持家として建てられた。
宮大工が建ており基礎がしっかりしていたことから
関東大震災に耐え第二次大戦等の空襲も免れている。

この家が旅館となった経緯は

1943(S18)年 鴎外荘の隣で水月旅館が
創業していたが 鴎外荘が売り出され
1946(S21)年 水月旅館が買取って宿泊できるようにし
森鴎外が『舞姫』を書き文壇にデビューした旧居として
鴎外文学発祥の地としている。

追)当旅館は2020年に
 コロナの影響で予約が激減して
 約1年間の休業の後いったん営業再開したが
 2021年10月15日限りで閉館した。

 


小説家 森鴎外 10 鼠坂

2022-08-24 | 人物忌

   鼠坂 坂下から

   鼠坂 坂上から

 

森鴎外は 坂を題名として
「鼠坂」(1912年)を書いている。

文京区には同名の「鼠坂」がある。

説明文には

「 鼠坂  音羽一丁目10と13の間

音羽の谷から小日向台地へ上る急坂である。
鼠坂の名の由来について「御府内備考」には
「鼠坂は音羽五丁目より新屋敷へのぼる坂なり、

至てほそき坂なれば鼠穴などと
いふ地名の類にてかくいふなるべし」とある。

森鴎外は「小日向から音羽に降りる
鼠坂と云う坂がある。
鼠でなくては上がり降りが
出来ないと云う意味で 
附けた名ださうだ・・・
人力車に乗って降りられないのは勿論、
空車にして挽かせて降りることも出来ない。
車を降りて徒歩で降りることさへ、
雨上がりなんぞにはむづかしい・・・」と
小説「鼠坂」でこの坂を描写している。

 また、“水見坂”とも呼ばれていたという。
この坂上からは、音羽谷を高速道路に
沿って流れていた、弦巻川の水流が
眺められたからである。

  文京区教育委員会  平成17年3月 」

 

現在の鼠坂は 写真にあるように 
幅4m 高低差14m 100mほどの坂道で

車は通れない。

 

以上が 小説「鼠坂」の舞台であるが 

鴎外が書いた怪談でもある。
あらすじは

人力車も通えない急な鼠坂の坂上に
新築した屋敷は、日露戦争のとき
満州で金儲けをした家主夫妻が
西遊記の怪物が住みそうな家を建てた。

その新築祝いの夜、酔いの回った
家主が以前新聞記者の小川から
聞いた満州での悪行を語りだす。

20歳くらいの中国人女性を服従させ
凍り付くような寒さの抗の中で死なせたと・・・
その夜 小川は幻覚に悩まされて死んでしまう。

 

森鴎外は 軍医として戦地に赴いており
多くのあくどい悲惨な事件を
漏れ聞いていたのではないか。

また 逃げ場のない坂道を舞台として
「鼠坂」の名を用いて 
怨念をテーマとしている。


なお 森鴎外は 
軍医として二度戦地に赴いている。

○日清戦争(1894/7-1895/4) 
 中路兵站軍医部長 
 1894/9 ~1895/5  朝鮮半島

 第二軍兵站軍医部長として中国・山東半島 
   1895/5 ~1895/10台湾(台湾征服戦争)

○日露戦争(1904/2-1905/9)
 第二軍軍医部長 
 1904/2~1906/1 中国大陸

 

 


小説家 森鴎外 9 S坂

2022-08-19 | 人物忌

 
   坂下 根津神社前から

 

 

森鴎外の作品には いくつかの「坂」が登場するが

その一つ「青年」にある“S坂”について触れる。

坂の説明文には

「新坂(権現坂・S坂)
本郷通りから、根津谷への便を考えてつくられた
新しい坂のため新しい坂のため、

新坂と呼んだ。
また、根津権現(根津神社の旧称)の表門に
下る坂なので権現坂ともいわれる。


森鴎外の小説「青年」(明治43年作)に,
「純一は権現前の坂の方へ向いて歩き出した。
……右は高等学校(注・旧制第一高等学校) の外囲,
左は出来たばかりの会堂(注・教会堂 今もある)で,
…… 坂の上に出た。地図では知れないが,
割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに
書いたように屈曲してついている」とある。
旧制第一高等学校の生徒たちが、
この小説「青年」を読み、
好んでこの坂をS坂と呼んだ。
したがってS坂の名は
近くの観潮楼に住んだ森鴎外の命名である。
根津神社現社殿の造営は宝永3年(1706)年である。
五代将軍徳川綱吉が、綱豊(六代将軍家宣)を
世継ぎとしたとき、その産土神として、
団子坂北の元根津から、遷座したものである。

   文京区教育委員会 平成14年3月 」

 

現状のこの坂 
多少くねってはいるが S状には見えない
当時の鴎外にとっては
そう見えたのかもしれない。 

登場人物は 前回に記載

注)
・高等学校は、旧制第一高等学校(現在の東京大学)

・会堂は、坂を登りきった右角に
 ある聖テモテ教会(1902・M35年創設)

 


小説家 森鴎外 8 根津神社

2022-08-13 | 人物忌


 根津神社(文京区根津1丁目) 神橋と楼門

 
  (中央公論Adagio 16号)



1706(宝永3)年 
根津神社現社殿が造営された。

五代将軍徳川綱吉が、
綱豊(六代将軍家宣)を世継ぎとしたとき、
その産土神として、
団子坂北の元根津から、遷座した。

 

「青年・ 壱」に根津神社の描写がある。

「坂を降りて左側の鳥居を這入る。
花崗岩を敷いてある道を根津神社の方へ行く。

下駄の磬のように鳴るのが、好い心持である。
剥げた木像の据えてある随身門
から内を、
古風な瑞籬(たまがき)で囲んである。
故郷の家で、お祖母様のお部屋に、

錦絵の屏風があった。その絵に、
どこの神社であったか知らぬが、
こんな瑞垣が
あったと思う。
社殿の縁には、
ねんねこ絆纏の中へ赤ん坊を負って、
手拭の鉢巻を
した小娘が腰を掛けて、
寒そうに体を竦めている。
純一は拝む気にもなれぬので、
小さい門を左の方へ出ると、
溝のような池があって、
向うの小高い処には常磐木
の間に
葉の黄ばんだ木の雑った木立がある。
濁ってきたない池の水の、
所々に
泡の浮いているのを見ると、
厭になったので、急いで裏門を出た。」

 

 

 「我武維揚」とある

 

陸軍軍医であった鴎外が
日露戦争の“戦利砲弾”を

奉納した時(1906・M39年)の台座が
水飲み台として置かれている。
その裏面には
「陸軍医監 森林太郎」の刻字が見える。

 

  

境内にある「文豪憩いの石」は

  鴎外や漱石が腰掛けたと言われる。


小説家 森鴎外 7 団子坂

2022-08-05 | 人物忌

 

 団子坂上 坂下方面 右へは「藪下通り」 

 

団子坂は文京区千駄木2丁目と
  3丁目境を東へ下る坂

団子坂の説明文には

「団子坂」の名前の由来は、
坂近く団子屋があったからともいい、

悪路のため転ぶと団子のように
なることからといわれる。


また「御府内備考」に七面堂が
坂下にあるとの記事があり、

ここから「七面坂」の名が生まれた。
「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が
望見できたためと伝えられている。

幕末から明治末にかけて菊人形の
小屋が並び、明治40年頃が
最盛期であった。

また、坂上には森鴎外、夏目漱石、
高村光太郎が居住していた。

  文京区教育委員会  」

 

森鴎外「青年」(1911年)には
団子坂界隈の様子がある。

「壱  

四辻(よつつじ)を右へ坂を降りると
右も左も菊細工の小屋である。

国の芝居の木戸番のように、
高い台の上に胡坐(あぐら)をかいた、
人買か巾着切りのような男が、
どの小屋の前にもいて、
手に手に絵番附のようなものを
持っているのを、
往来の人に押し附けるようにして、
うるさく見物を勧める。

まだ朝早いので、通る人が少い処へ、
純一が通り掛かったのだから、
道の両側から純一一人を
的(あて)にして勧めるのである。

外から見えるようにしてある人形を
見ようと思っても、
純一は足を留めて見ることが出来ない。

そこで覚えず足を早めて通り抜けて、
右手の広い町へ曲った。」

「二十一

午後二時にはまだなっていなかった。
大学の制服を着ている大村と一しょに、
純一は初音町の下宿を出て、
団子坂の通へ曲った。

 門(かど)ごとに立てた竹に
松の枝を結び添えて、
横に一筋の注連縄(しめなわ)が
引いてある。

酒屋や青物屋の賑(にぎ)やかな店に
交って、商売柄でか、綺麗(きれい)に
障子を張った表具屋の、
ひっそりした家もある。

どれを見ても、年の改まる用意に、
幾らかの潤飾を加えて、
店に立ち働いている人さえ、
常に無い活気を帯びている。」


団子坂は 多くの文芸作品に登場している。

 ・二葉亭四迷「浮雲」(1891年)
 ・江戸川乱歩「D坂殺人事件」(1925年)

 

新撰東京名所図会(明治40年)団子坂菊人形興行
‘資料・文京ふるさと歴史館

 

団子坂は 菊人形で有名であった。
菊で飾った人形で 芝居や伝承の
名場面を見せる見世物。

江戸時代に巣鴨・染井の植木職人が
菊細工としてお寺で参拝客に見せていたが、

明治になって、団子坂に移ってから
たくさんの見物客を集めるようになり

秋になると団子坂の両側には
菊人形の小屋が 20軒以上立ち並んだ。

最盛期は 明治20~30年代で 
明治44年が最後の興業になった。

 

・夏目漱石「三四郎」(1908年)
「一行は左の小屋へ這入った。
曽我の討入りがある。

五郎も十郎も頼朝もみな平等に
菊の着物を着ている。

但し顔や手足は悉く木彫りである。」


・正岡子規
 『自雷也もがまも枯れたり団子坂』

 と団子坂の菊人形の様子を詠んでいる。

団子坂下近くにある 
せんべい屋「菊見せんべい」

創業は1875(M8)年 
屋号のとおり菊人形見物の土産であった。