あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

東欧旅行(179) 狙撃兵通り

2013-05-31 | 東欧5カ国紀行

 

 

  サラエボを流れるミリャッカ川の北側にあり
  ホリディ・インのあたりから西へ延びている
  トラムが通る広い通りが「スナイパー(狙撃兵)通り」と言われている。


  ボスニア紛争時に この道では動くものはすべて 高層ビルに潜んだ
  セルビア人狙撃兵の標的になって 狙撃が絶え間なく行われたことから
  こんな名前がつけられ 物騒な名の通りは 今でもこの名で呼ばれている。


  この道を横断する人は、「三人目になるな!」と
   狙撃兵は  「一人目に狙いをつけ」
           「二人目に焦点を合わせ」
           「三人目で引き金を引く」  という逸話もあったようだ。

 

 


東欧旅行(178) ボスニア織

2013-05-30 | 東欧5カ国紀行

    

     「SARAJEVO」のタペストリー                室内履き

 

   職人の工房 土産物屋や食べ物屋がひしめく
   バシュチャルシヤの一角

   ボスニア絨毯織のタペストリーが下がる土産物店に入る。

   店内は ボスニアの独特の模様が織り込まれた品物でいっぱい。
  その模様はいろいろあって それぞれ意味をもっているそうだが
   いかにも手作りさが滲んでいる模様がいい。

  家人は 室内履きを買い求めた。


東欧旅行(177) セビリ(水飲み場)

2013-05-29 | 東欧5カ国紀行

 

 

  バシチャルシァの広場に 独特の形状をした「セビリ(水飲み場)」がある。

  1891年に建てられ サラエボのシンボルにもなっている。

  セビリの名前は、アラビア語で「道」を意味する「Sebil」に由来している。

  どこに行っても 石の建造物が多い中で
   しかも水を扱うのに木造つくりとは珍しい。


  15世紀から 約400年間にわたる オスマントルコ支配時代を残す
  モスクとセビリが並んで印象的であった

 


東欧旅行(176) バシュチャルシヤ

2013-05-28 | 東欧5カ国紀行

   

                                旧市街のメイン・ストリートの「バシュチャルシヤ」

    16世紀にアラブのスークをモデルに 建造された商業地区で
  赤瓦葺き屋根の木造建築が軒を連ねている。
  軒が低く 東京の下町にさえ 感じられるほどだ。

  「バシュチャルシヤ」の呼称は トルコ語に由来して
  「バシュ」は トルコ語で 「主要な」「第一の」を
  「チャルシヤ」は 「市場」「バザール」を意味している。


  ボスニア・ヘルツェゴビナを支配したトルコ的な雰囲気が漂う職人街で
  最盛期には 千を越える 民芸品店、宝石店があったそうだ。

  現在は べボスニア・ヘルツェゴビナの代表的な土産品である
  金銀細工の装飾品 銅製のトルコ様式食器のほか
  指輪アクセサリーなどが売られている。

  紛争中に使用された砲弾や銃弾の薬きょうでつくられた
  花瓶やペン等もあるそうだ。

 


東欧旅行(175) 他民族多宗教

2013-05-27 | 東欧5カ国紀行

 
          フェルハディヤ・ジャミーヤ

   サラエボの町は 宗教的な多様性で知られており
  正教会 カトリック教会 ユダヤ教のシナゴーグ
  イスラム教のモスクが何世紀にもわたって共存してきて
  約200m四方の区画に4つの宗教施設が建ってることから

  “リトル・エルサレム”とも呼ばれている。

  ボスニア・ヘルツェゴビナ出身のノーベル文学賞作家
  イヴォ・アンドリッチの「サラエボの鐘」でも
  それぞれの教会(モスク)の鐘が異なる時間に鳴り響く様を
  当時の他宗教間の不協和状態を書いているとか。

  民族が多様であれば 当然その宗教も多様で教会もしかり。
  その全部ではなかったが 一部を垣間見ることができた。
  
  見学最後に イスラム教の寺院「フェルハディヤ・ジャミーヤ」が
  バシュチャルシヤ広場にあった。




東欧旅行(174) カトリック大聖堂

2013-05-26 | 東欧5カ国紀行

  

 

  ムラ・ムスタフェ・バセスキイェ通りとフェルハディヤ通りに
  挟まれて「カトリック大聖堂」がある。

  大聖堂は、正式名称を「イエスの聖心大聖堂」といい
  ボスニア・ヘルツェゴビナで最大のカトリックの大聖堂であり
  イエス・キリストの聖心を記念している。


  1884年から1889年にかけて建造され
  ロマネスク様式とゴシック様式の融合の建築で
  フランスのノートルダム寺院に似ているとも。 
  かなり大きく 1200人も収容できる。

  正面入口の上にあるステンドグラスのバラの飾りは特徴的で
  窓のデザインは サラエボ県の県旗や県象に描かれ
  2本の塔はサラエボの市旗や市章に描かれている。

                     

  この聖堂もボスニア紛争の被害を受けて何度か改築されている。
  また 紛争後の97年には ローマ法王のヨハネパウロ2世が
  この聖堂で平和の祈りをささげている。

 


東欧旅行(173) セルビア正教大聖堂

2013-05-25 | 東欧5カ国紀行

       

                 鐘楼の奥にドームが見える。


    旧市街に セルビア正教のバロック様式の大聖堂が
    その存在感を示すようにあった。

    正式名称を「生神女誕生大聖堂」といい
    生神女(聖母マリア)の誕生を記念する大聖堂。


    この教会 サラエボの正教徒のために 1868年に建造された。

    聖堂は3つのバシリカと十字架を備え
    5つのビザンチン様式のドームがあるのが特徴になっている。

    またこの教会は、ローマ教皇から祭式の特権を与えられた聖堂でもある。

    1872年に時計塔が増築され、その後92~95年の
    ボスニア紛争によって損傷したが

    99年にギリシャ政府の援助によって修理がなされている。



東欧旅行(172) サライ

2013-05-24 | 東欧5カ国紀行

 

 

  「サラエボ」の地名の由来ともなった
    「キャラバン・サライ(隊商館)」が
 旧市街の一角に 今もある。 

   しかし サライに入ると 様子は変わって 土産品やら装飾品を売る店に。
   中庭はイス テーブルが並べられて オープンカフェになっている。

   その奥には 郷土料理を味合うことができる
   有名なレストラン 「モリチャ・ハン」もあった。

   ツアー一行は ここでもお土産を買い求めていた。

 

 


東欧旅行(171) メシャ・セリモビッチ

2013-05-23 | 東欧5カ国紀行

      

 

  前回に引き続き 人の話題です。

  セルビア正教会脇の公園に 写真の銅像がある。
  この肖像は「メシャ・セリモビッチ」という人。

  ユーゴスラビアの作家で
  彼の作品テーマは 個性と権威 生と死の間の関係等で

  小説「死とダーヴェィッシュ」は
  第二次世界大戦後のユーゴスラビアの中で
  重要な文学作品として評価された。

  
そのことから 日本の夏目漱石が 日本の紙幣にあるように 
  ボスニア・ヘルツェゴビナの
    「5マルカ紙幣
」の肖像画にもなっている

 

 

 


東欧旅行(170) サラエボ大学とオシム監督

2013-05-22 | 東欧5カ国紀行

 

                          サラエボ大学経済学部

  旧市内を巡る 途中 「サラエボ大学」があった。

  1940年代に創立されて 90年代の紛争に被害を受けたが
  その後復興され 現在は40以上の大学と提携を結んでいる。

  去年この大学で 日本でも馴染のある サッカー元日本代表の
  イビチャ・オシム監督に 「名誉学位」が授与されている。

  オシム監督は ここサラエボ出身で 学生とサッカー選手の二足の
  わらじを履いていたが 
プロになることを選択し
   理数学部数学科は中退
   (のちにプロ監督ライセンスを取った際に 体育学部を卒業)。

 
  オシム元監督が ボスニア・サッカー連盟の要職に指名され
  20年ぶりに サラエボに「定住」しはじめたのを機会に

  本来は 首席のみに与えられる「金メダル」もあわせて
  理数学部の教授たちの発議で贈呈されたとのこと。

 


東欧旅行(169) 永遠の灯

2013-05-21 | 東欧5カ国紀行

            
               「永遠の灯」(資料から)

 

  前回でも少々触れたが 今度は目に見える形で
  サラエボ市内には 戦争 紛争の記憶を忘れじと
   いろいろな形で記念したものがある。

    その一つ旧市街の一角に「永遠の灯」(ヴィエチュナ・ヴァトラ)がある。

 第二次世界大戦時 バルチサンがファシストを打破し
 サラエボが1945年に解放されたことを記念して
 犠牲者をしのび 記念板が聖火前に建てられた。

 今も灯が絶えることなく燃えているが 
 92~95年のボスニア紛争中には石油不足で一時その火が
 消えてしまったこともあるとか。

 また ボスニア紛争が終結した95年に
 聖火前の記念碑の文章は改正され 現在のもになっている。

 


東欧旅行(168) フェルハディア通り

2013-05-20 | 東欧5カ国紀行

 

                                     イスラム教徒の女性が行く

   サラエボ博物館から更に歩を進め
  サラエボ唯一 全長1km程の歩行者天国の「フェルハディア通り」にでる。

   ウィンドウ・ショッピングを楽しみながら そぞろ歩く人が多い。

   昨年の4月6日 内戦開始から20年を迎えて この通りで
  サラエボ包囲で死亡した市民らの人数と同じ 1万1541脚の
   赤い椅子が 約800メートルに渡って並べられ 
   座る人のいない椅子に向けて 追悼式典が行われたニュースがあった。

   また 所々に 紛争中に受けた路上の砲撃跡に赤ペンキが
   塗られた「戦争のバラ」が
紛争の悲劇を忘れないために残されている。

   ボスニア人(ムスリム)、セルビア人、クロアチア人の
   主要3民族が 三つ巴で戦った紛争は 3年半続き
  20万人ともいわれる人々が死亡している。

   しかし 見た目には平和感が漂う街だが
  未だに 各民族は内戦終結後も 政治的な対立を続けており
   和解は 容易に進んでいない状況にあるようだ。

 

 


東欧旅行(167) サラエボ博物館

2013-05-19 | 東欧5カ国紀行

 

   前回掲載のラテン橋を渡った角に 「サラエボ博物館」がある。

  まだ紛争当時の傷跡が残る 建物を改修し

  1階外壁の七つのショーウインドウには 「サラエボ事件」の
  当時の写真等が飾られている。

  館内では 1878年に ボスニア・ヘルツゴビナが オーストリアに
  併合されることによって 
人々の暮らしが いかに変わったかを 紹介しており

  また 暗殺事件についても 更に詳細な説明が 展示されているそうだ。
      何がきっかけで戦争や紛争になるか
     またまた某国では「侵略」が問題になっている。


東欧旅行(166) ラテン橋

2013-05-18 | 東欧5カ国紀行

 

 

  図書館からミリャツカ川沿いに進むと 少々アーチ型の石橋がある。 
   
これが「ラテン橋」 かつての「プリンツプ橋」。 

 1914年6月28日 オーストリア・ハンガリー帝国の
  フランツ・フェルディナント大公が ボスニア・ヘルツェゴビナ駐留軍の
   演習を観閲するためにサラエボを訪問した際
    同帝国のボスニア・ヘルツェゴビナ占領・統治に反対する
     「青年ボスニア党」のセルビア人青年ガブリエロ・プリンツィープ
      により暗殺された「サラエヴォ事件」の現場すぐそばにあり
       歴史の舞台となった橋として有名。 


  この暗殺を契機に第一次世界大戦が勃発している。

   橋は ユーゴスラビアの愛国主義を記念し
   プリンツィプ橋と改称されたが ユーゴスラビア崩壊後には
    再びラテン橋に戻され 2004年に修復されている。




東欧旅行(165) 国立図書館

2013-05-17 | 東欧5カ国紀行

 

 

   サラエボでの ツアーバスから降りての第1歩は
    旧市内北部のミリャツカ川べりの広場

   その目の前に トルコ風の「国立図書館」がある。
        二股に分かれる通りに面して 建物は三角形になっている。 


   オーストリア・ハンガリー帝国時代(1894年)に市庁舎として建設され
    サラエヴォのシンボルであった。

   1949年からは 国立図書館として数々の貴重な書物が
    特に歴史書は「街の記憶」として知られ 保存されていたが

     紛争開始直後の1992年 砲撃を受けて炎上し
      建物は外壁を残して 約200万の貴重な蔵書等を消失し
       大きな被害を受けてしまった。

   今も 修復工事が行なわれており 
    2014年6月には 復旧オープンするそうだ。