あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

信州紀行 松代町 14 寺町商家

2016-07-31 | 国内・長野

 

寺町商家(旧金箱家住宅)は

松代において江戸時代末期から昭和初期にかけて
質屋などを営んでいた商家・金箱家の旧屋敷である。

表門から敷地内に入ると 明治期から大正期までの

商家の営みを伝える歴史的建造物と

下町の泉水路でつながる池を中心とした庭園が

現存していることが分かる。

松代における明治期の豊かな商家の暮らしぶりを

伝える貴重な屋敷として

2012(平24)年 長野市の有形文化財に指定され

2015年 4年にわたる保存修理工事を経て
一般公開されている。

武士だけでなく 商人も活躍していたことを知る。


信州紀行 松代町 13 旧横田家2

2016-07-30 | 国内・長野

  

前回 話題に挙げた「旧横田家」
この中級武士の家から 
その後多くの秀才が生まれていることを知る。


世界遺産にもなった「富岡製糸」にかかわる「和田英」

 1857(安政4)年-1929(昭4)年
明治時代の製糸技術者で 横田家の次女である。

1872(明5)年10月に開業された富岡製糸場では
工女の募集がうまくいかないなか

その募集の責任者であった父の指示により
英は国益と家の名誉のために

翌年の明治6年(16歳)伝習工女として
応募し一等工女となる。


1年3カ月後 郷里に帰り まもなく開設された
地元の西条村製糸場のちの「六工社」や

県営長野県製糸場の教婦などとして
工女に対する技術指導に活躍した。

1880(明13)年 退職して 
陸軍軍人和田盛治と結婚したが

1907(明40)年ごろ
回想記「富岡日記」をのこし 

近代日本の息吹を示す貴重な記録であり
開業間もない富岡製糸場の様子がいきいきと描かれているという。

一方 弟の秀雄は大審院長に その子正俊は最高裁長官になり
二代続いて裁判官の最高の地位を務めている。


信州紀行 松代町 12 旧横田家

2016-07-29 | 国内・長野

 

 

町中心地 紺屋町交差点から一歩裏手に

武家屋敷「旧横田家住宅」が公開されている。

1800年代前半から中頃にかけて

建築されたとみられる中級武士の武家屋敷で

中級武家住宅の典型的な間取り構成となっている。

この旧松代藩士横田家は 

禄高150石の中級武士で

郡奉行などを努めた家であり


最後の甚五左衛門は表御用人であった。

1986(昭61)年に国の重要文化財に指定され

1992(平4)年から一般公開されている。

長屋門・一部2階建ての主屋・隠居屋・土蔵、遠山を

借景とする庭園・菜園 庭に流れる泉水などを見ることができ

江戸時代の中級武士の暮らしが伺える。






信州紀行 松代町 11 松代地震

2016-07-28 | 国内・長野

                                                      (資料から)

 

熊本地震で大きな被害が出て 3カ月が経つが

未だに 余震が続き 避難生活されている方も多く

終息宣言もだされていない状況にある。


ここ松代も かつて 群発地震により被害を受けている。

資料によれば

1965(昭40)年8月3日から 
1970(昭45)年6月5日まで

約5年半もの間続いた 群発地震(松代地震)で 

その活動は 図にあるように5期に分けられる。

 震源地は皆神山付近 総地震数は何と 71万1341回であった。

そのうち 有感地震は 6万2826回
(震度5: 9回 震度4: 48回 震度3: 413回
 震度2: 4596回 震度1: 5万6253回)


震源の深さは ごく浅かった 地震が殆どで

群発地震全てのエネルギーは M6.4に相当する。

また 付近には「松代地震断層」も 発見されている。

幸い 死者はなく 負傷者15人であった。

 しかし 今は そんな地震のことなどなく

真田丸で 町はにぎわっている。

 

 


信州紀行 松代町 10 松代地下壕

2016-07-27 | 国内・長野

    大本営とは思えない入口。

 

 山寺常山邸から
さらに南にある「松代大本営地下壕」へ

 説明文によれば

この地下壕は第二次世界大戦の末期
軍部が本土決戦の最後の拠点として

極秘のうちに 大本営 政府各省等を
この地に移すという計画のもとに

昭和19年11月11日から翌20年8月15日の終戦の日まで
およそ9箇月の間に建設されたもので

突貫工事をもって 全工程の約80%が完成した。

この建設には 当時の金額で2億円ともいわれる巨費が投じられ
また 労働者として多くの朝鮮や日本の人々が

強制的に動員されたと言われているが

 当時の関係資料が残されていないこともあり

必ずしも全てが強制的ではなかったなど
様々な見解があるという。

入口脇には そのいきさつなどが3か国語で
記載された碑と ”不戦の誓い” の記念碑が建っている。
戦争の傷跡は大きく深い。


何故この地が選ばれたかは

ここは地質学的にも堅い岩盤地帯であるばかりでなく
海岸線からも遠い等の理由からか。
また 川中島合戦の古戦場としての要害の地であることも?。

 松代象山地下壕は、平和な世界を後世に
語り継ぐ上での貴重な戦争遺跡として

1989(平成元)年から一部が公開された。

 

 地下壕の総延長は5853m 
その一部519mが見学できる。

 

奥へ奥へと進が 自分以外には一人もおらず
こうもりも飛び交う中 外の気温との違いは
少々鳥肌が立つほどであった。

    
①削岩機ロッド掘削跡                  ②落書き       

    

 ③測点跡                    ④トロッコ枕木跡

 

 

 


信州紀行 松代町 9 山寺常山邸

2016-07-26 | 国内・長野

 

象山神社から南に3分ほどの所に「山寺常山邸」がある。

山寺常山は 寺社奉行 郡奉行を務めていたが 

鎌原桐山(儒学者)・佐久間象山とともに


“松代三山”と呼ばれている。

邸宅の詳細は 説明文を参照していただくが

 

 

 

  
象山を借景とした庭園には川の水を引き入れた池と
 
門前に流れる水路は 城下町としての風情が漂い

 津和野の町を思い起こした。

 

 


信州紀行 松代町 8 象山記念館

2016-07-25 | 国内・長野

                

                                                                   記念館パンフレットから抜粋


象山神社から東南へ行ったところに 

「象山記念館」がある。


象山記念館は 1964(昭39)年 地元有志によって

「象山先生100年祭奉賛会」が設立され

翌年9月に展示施設として完成した。


その後 1967(昭42)年 

長野市に記念館が譲渡され開館している

主な展示品は

佐久間象山が製作した電気治療機を

はじめとする科学に関する資料や


政治に関して述べた記録類や

自筆の書画・印章類など また2本立てのビデオで

佐久間象山にも触れ学ぶことができる。

 

 

41歳 江戸木挽町に塾を開き

勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰・橋本左内など

維新の英才を輩出。

 


信州紀行 松代町 7 象山神社

2016-07-24 | 国内・長野

左手は 佐久間象山の騎馬像

 

松文武学校から南にある

松代が生んだ 幕末の思想家

佐久間象山 を祭った「象山神社」へ。


大正2年 象山殉職50年祭を契機に

元大審院長 横田秀雄 博士の主唱で

神社建立の計画が進められ

地元をはじめ全市町村及び

信濃教育会・全学校等の関係者の協力によって

昭和6年 創立許可され

昭和13年11月 県社として創建されている。

 

象山が生まれてから 29年間を過ごした佐久間象山宅跡

吉田松陰の密航事件に連座の後

蟄居の身となった象山が

客間・書斎として使用していた

高義亭(こうぎてい)も境内に建つ。

 

 高義亭

 

 

 


信州紀行 松代町 6 六文銭

2016-07-23 | 国内・長野

 

 

真田にかかわる施設等を見てきて 必ず目に着く

真田家の家紋「六文銭」について。

六連銭(むつれんせん)は
 

海野(うんの)および真田氏の独特の家紋で

六文銭(ろくもんせん)とも呼び

真田家の家紋として有名になっている。


資料によれば 紋の意義は

仏教説話の「六道銭」によると


六道とは

地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道をいい


六道の世界をめぐり衆生を救済するため

六地蔵に捧げる報賽(ほうさい)銭が六道銭である。


これを家紋としたのは 

柩(ひつぎ)に 六道銭を収める風習にのっとり


戦にのぞむ 武士の決死の覚悟を

表したものであるという。


銭は 無文とし 3箇ずつ上下二列に

連なるのが 正式になっている

 

 

 


信州紀行 松代町 5 文武学校

2016-07-22 | 国内・長野

 

 真田邸の西隣 共通券3つ目の「文武学校」へ

 

  

真田氏が上田より松代に移藩してから
廃藩までの10代250年間

殖産
を興し文武を進めていたが
特に8代幸貫が藩主を継ぐと

より一層 文武を奨励し 佐久間象山らの意見を入れ

蘭学・西洋砲術などを 積極的に取り入れ
水戸の弘道館にならった 文武学校の建設をすすめた。


その後 9代・幸教が 幸貫の志を引継ぎ

藩士の子弟が学問と武道を学ぶ場として
1855(安政2)年に 開校している。

 
教室にあたる文学所 武術を学ぶ剣術所 柔術所
弓術所 槍術所などが配置されている。


当時の時間割には 東洋・西洋の医学 小笠原流礼法
西洋の軍学なども 組み込まれており
先進的な教育が行われていた。


250の藩校の多くが 幕府の学問所にならって
敷地内に孔子廟を設け 儒教を重んじる風習があったが

文武学校には設けていないことからも
近代的な学校の先駆けでもあった。


明治に入って兵制士官学校を併設し 
1871(明4)年の廃藩にて

閉鎖となるまで多くの人材を輩出し
近代日本の発展に大きく寄与している。

建物は 創建時の姿を現在に伝わる貴重な遺構で、
1953(昭28)年に国の史跡に指定されている。

入館当日は 真夏のような陽気で暑かったが
天井が高く 涼しさを感じた。

このような施設から映画や時代劇の
ロケにもしばしば利用されている。

文学所

 

槍術所


信州紀行 松代町 4 真田邸

2016-07-21 | 国内・長野

 

 

 玄関の土間と床の段差が大きい場合に設けられる「式台」がある。


真田宝物館から 西隣にある「真田邸」(新御殿)へ

9代藩主・幸教が 義母・貞松院(幸良の夫人)の住まいとして

1864(元治元)年に 建築した 松代城の城外御殿で


当時は「新御殿」と呼ばれていた。


江戸時代 大名の妻子は

生涯江戸住まいを義務づけられていたが


1862(文久2)年 14代将軍・徳川家茂の時代に

行われた文久の改革による

参勤交代制度の緩和にともない

妻子の帰国が 許可されたことから

松代にも屋敷が必要になった。


後に 隠居後の幸教もここを住まいとし

明治以降は 伯爵となった 真田氏の私宅となり


1966(昭和41)年 12代当主・幸治氏により

代々の家宝とともに 当時の松代町に譲渡された。

 
主屋(御殿) 表門 土蔵7棟 庭園が

江戸末期の御殿建築の様式をよく伝え

建築史の視点からも貴重な建物であり

松代城と一体のものとして 国の史跡に指定されている。

 

ここでも NHK大河ドラマ「真田丸」の

出演者の色紙や台本などが

展示されているコーナーもあった。

 

 

座観式の庭園  
 

小堀遠州の流れをくむと伝えられる

池山回遊式の日本庭園で

四季折々の彩りと風情を 楽しませてくれるようだ。

 

 


信州紀行 松代町 3 真田宝物館

2016-07-20 | 国内・長野

 

松代城址から「真田宝物館」へ

この「真田宝物館」は

真田家伝来の武具 古文書 大名道具など5万点を収蔵しており

その真田家の歴史を今に伝えるとして公開している。

特に 今年は 大河ドラマ「真田丸」に合わせ 

真田家の始まりから 信之が松代藩主成るまでと

真田家の親子兄弟 家臣との人間模様も特別展示されている。

館内は 団体客で混雑でした。

(館内は撮影禁止)

 

 

真田家十二代当主・幸治氏の像

1966(昭41)年 氏から武具 文書などの

大名道具を譲られたことを記念して建立された。

 

 


信州紀行 松代町 2 松代城址

2016-07-19 | 国内・長野

 

 

最初の訪問は 旧松代駅の北西側 

歩いても5分ほどの所にある

歴史の町・松代を代表する観光名所「松代城」へ。

武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を競った川中島合戦で

1560(永禄3)年 武田側の拠点として

信玄が軍師山本勘助に命じて築かせたといわれ


当時は「海津城」と呼ばれた。


1622(元和8)年 真田信之が

13万石で入城して藩主となると


松代城を中心に真田10万石の城下町が発展した。


 

 太鼓門

松代城は 明治維新後 廃城となり 

わずかな石垣等を残して 取り壊されたが


現在の建築物は 2004(H16)年に


櫓門・木橋・石垣・土塁・堀などが 復元されている。

 

  

1981(昭56)年 新御殿(真田邸)とともに

国の史跡に指定された。

また 日本100名城の一つにも 選ばれている。

 

  
二の丸跡


三方を山に囲まれ

西は 南北に流れる千曲川の流れを外堀として

自然の地形を巧みに利用した 堅固な平城である。

 

 

 


信州紀行 松代町 1 旧松代駅

2016-07-18 | 国内・長野

 
  旧松代駅

今 NHK大河ドラマ「真田丸」で 話題になっている

長野県長野市松代町へ訪れてみた。

 先ず あしがかりとし 旧長野電鉄屋代線の松代駅へ

当駅は 1922(T11)年 河東鉄道開通時に開業し

屋代~須坂間 24.4km 13駅のうち 

松代駅は 
屋代よりに「象山口」

須坂よりに「金井山」の駅間にあった。


 
しかし 2012(H24)年 路線は

廃止され 今は 駅舎のみ残り

鉄路は 広大な駐車場に変っている。

  
現在の駅舎内には 臨時の観光案内所になっていて

かつての プラットホームには 

観光用の レンタルサイクルが並んでいる。

1日300円で 3段変速付きの自転車が

借りられるというので

1台を借りて 町内を巡ることにする。