あかない日記

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ポーランド・ビルケナウ収容所 132  「アンネの日記」

2018-08-31 | ポーランド紀行

 

 

前にアンネ・フランク(1929-1945年)に
触れた「アンネの日記」について

日記は 1942/6/12に始まり
1944/8/1に終わっているが  

自分と周りの人々とのかかわりを織り交ぜて
アンネの葛藤や成長が生き生きと描かれている。

また 未来に希望を持ち続け

平和を希求する生き方が文面に表れている。

その中で1944年5月3日の日記には

「いったい全体、戦争がなになるだろう。
なぜ人間はおたがいに仲よく暮らせないのだろう。
なんのためにこれだけの破壊が続けられるのだろう。」

また「いったいどうして人間は、
こんなに愚かなのでしょう?
わたしは思うのですが、戦争の責任は、
偉い人たちや政治家、資本家にだけあのではありません。
そうなんです、責任は名もない一般の人たちにもあるのです。
そうでなかったら、世界じゅうの人びとはとうに立ちあがって、
革命を起こしていたでしょうから。」

とある。

戦争は人間の破壊本能・殺りく本能が
そうさせていることまで述べている。

14歳の少女が 隠れ家で外の情報がない中
 綴った文とは思えない・・・。

 

 


ポーランド・ビルケナウ収容所 131 生活とアンネ・フランク 2

2018-08-30 | ポーランド紀行

 

当時の三段ベッド

ベッドには腐った葉が敷き詰められ
1段につき約8人が寝ていたそうだ。


 

 

 

連続して開いた丸い穴は
“カ
マド”かと思ったが「トイレ」だった。

トイレの使用は 午前・午後2回に制限されており
仕切りになるものもなく 一斉に使用を強制されていた。
痩せすぎて穴の中に落ちてしまう被収容者もいたそうだ。

上水道も下水道も整備されておらず
掘った溝に流していたようで

チフスや赤痢などの伝染病が蔓延し 
これにより死亡した者も多かった。



前回 アンネについて触れたが その後について

1944年11月 ソ連軍の接近に伴いアンネと姉マルゴーは
 母エーディトと切り離されて
ベルゲン・ベルゼン強制収容所(ドイツ・プロイセン州)へ
送られることとなり 
母エーディトとはここで最期の別れとなった。

到着したベルゲン・ベルゼン強制収容所も
 ここビルケナウ収容所以上に不潔で病が大流行していた。

また食料もほとんど与えられず
餓死者と病死者が続出する収容所だった。


こんな中 アンネはチフスに罹患して 
1945年2~3月?に命を落としたという。

 

 


ポーランド・ビルケナウ収容所 130 生活とアンネ・フランク

2018-08-29 | ポーランド紀行

 

死の門の北に広がるBⅡの被収容者棟

 

 

 

木造のバラック内は 
人が生活する状況には見えない
「絶滅」のための施設だ。

一部は馬小屋を改造したともいうが
 まさに被収容者は
家畜同然 
いやそれ以下の扱いを受けていたのだろう。

こんな状況の中 
被収容者は精神的にも体力的にも限界に達し

 極限状態で 生と死の境目を負わされていたのだ。

 

 

何と! このビルケナウ収容所に
「アンネの日記」の
アンネ・フランクが収容されていたという。


1944年9月6日
 アンネのオランダの隠れ家 8人全員は
ビルケナウ収容所に到着し
 全員労働可能と認定され ガス室送りを免れた。

そして 髪は丸刈りにされ 
左腕には収容者番号を入れられて 

死の門の南側 BⅠ地区の女子収容施設
29号棟へ入れられたという。

 

 


ポーランド・ビルケナウ収容所 129 収容所内

2018-08-28 | ポーランド紀行

 

   (Web資料から)

ビルケナウ収容所は 1941年に開所され 
最盛期には300棟に10万人近くが詰め込まれた。

現在 45棟のレンガ造りの建物と
22棟の木造バラックが残されているだけ。

 

       ①死の門
        (今はインフォメーションセンターになっている。)
       ②ガス室と焼却炉の跡 4か所
       ③国際犠牲者記念碑
       ④焼却炉からの灰が捨てられた池
       ⑨トイレ・洗面所
       ⑩死の門をくぐって入ってきた列車はこの付近で停車     
         降ろされた被収容者は 
         直ちにSS医師による「選別」を受け

         大部分の人が労働不能とみなされ
         その日のうちにガス室で殺害されたそうだ。

 

所内には 生産性のものは一切なく
 すべてが「死」への施設が並び

ガス室 飢餓 病気 過酷労働 口封じ 
見せしめ 絞首刑 そして自殺の死など 
ありとあらゆる「死」が 
ここで繰り広げられていた。

 

 


ポーランド・ビルケナウ収容所 128 死の門 

2018-08-26 | ポーランド紀行

 

 側ゲート


 所内へと引き込み線がのびている。

第二強制収容所ビルケナウの正門
 別名「死の門」と呼ばれた
SS中央衛兵所を望む写真は
収容所の象徴的な一枚にもなっている。

 


被収容者たちは家畜専用の運搬車両に
押し込められてこの地にやってきた。

 


到着するなり男女に分けられ
さらに働ける者と働けない者に選別され


すぐにガス室に送られるか
また劣悪な条件のもと 死の恐怖と隣り合わせの中

過酷な重労働に就かされるかの どちらかだったのだ。

そして 多くの人々にとって
ここが 家族や友人の姿を見た 最後の場所となった。

 


ポーランド・ビルケナウ収容所 127 ビルケナウ収容所

2018-08-25 | ポーランド紀行

 

 

 アウシュヴィッツ収容所(赤色)の見学終え

 ビルケナウ収容所(橙色)へ向かう。

 

アウシュヴィッツ収容所が出来て
1年後には一杯になり 
3km離れたところに
第2収容所・ビルケナウ収容所が
開所(1941年10月)されている。

 

 

 

総面積は 1.75km2(東京ドーム約37個分)で
300以上の施設から成る。


収容所内まで鉄道が引き込まれ 
死が待ち受ける終着駅になっている。


建設には主にソ連兵捕虜が従事したとされる。
ピーク時の1944年には 9万人が収容され 
殺害された人数もアウシュヴィッツより数倍にもなる。

 

野外での銃殺や焼却も日常的に行われた。
ドイツ軍は撤退のときには
これらの大部分を破壊し 証拠の隠滅を図っている。



ポーランド・アウシュヴィッツ収容所 126 ガス室

2018-08-24 | ポーランド紀行

 

 


  ガス室/焼却場の見取図

1942年当時(左)        現在(右)

  

 


顔色などを見て 働けないと判断されると
シャワーを浴びるようにと指示され、洋服を脱ぎ

シャワー室に見せかけたガス室(図C)
にギュウギュウ詰にされたあと

天井の穴から噴射されたチクロンBで 
15分~20分で殺害された。

部屋はカムフラージュのためのシャワーの蛇口まであった。


SS隊員はチクロンの投入後は手を下すことはなく 
死体の運搬・焼却は被収容者の中から
選ばれた者にやらせていた。
しかし 彼らも口封じのため順次処分されていた。


また 遺体から金歯や指輪など換金されるものが抜き取られた。


ガス室はガスが抜けるのに時間がかかり効率が悪いと言うので
色々な殺し方を考え実行していたようだ。



 

焼却炉2基 


隣には焼却炉(図d)があり
24時間フル稼働  1日100人もが焼かれた。


終戦間際 ソ連軍の進行が迫ってきたとき破壊されたが

3基のうち2基が 復元されている。

 

 

 


ポーランド・アウシュヴィッツ収容所 125 ヘスの絞首刑

2018-08-23 | ポーランド紀行

 

 

ルドルフ・ヘスの絞首台

ガス室のすぐ横にあるこの絞首台で収容所の所長だった
ルドルフ・フェルディナント・ヘスが1947年処刑された。


通常はルドルフ・ヘスと表記されるので、
ナチ副総統(総統代理)の
ルドルフ・ヘスと同名で混同するが。


収容所の初代所長 ルドルフ・ヘスは

戦後すぐは一般人に紛れてドイツ内で隠れ住んでいたが
1946年に発見され逮捕され

裁判の後 1947年4月16日 
ここで絞首刑が執行された。

この絞首台近く ヘスが住んでいた住居がある。


ポーランド・アウシュヴィッツ収容所 124 集団点呼・絞首刑

2018-08-22 | ポーランド紀行

 

 横棒は鉄道レールのようだ。

 

絞首刑の様子を被収容者の目に焼きつけ恐怖心を煽るため
ナチスはここで公開絞首刑も行った。

 

3人の囚人の逃亡を助け
また外部と連絡を取っていたと
疑われた12人のポーランド人が、

この場で1943年7月19日
 一緒に絞首刑に処された。


 

  点呼責任者用の番小屋

 

  元被収容者が1973年に描いた
「1941年の点呼の様子」

 


 朝夕出入りした正門ゲート 
SS隊員が人数を確認する様子が見える。

収容所は夏:朝4時半・冬:朝5時半から重労働が始まり
日没前に死亡・殺害された仲間の
遺体を担いで収容所に戻ったという。

労働の出入りの際 
音楽隊の演奏する行進曲に合わせて行進させ

人数の確認を容易にしていたようだ。

 

 


ポーランド・アウシュヴィッツ収容所 123 コペル神父

2018-08-21 | ポーランド紀行

 

                          第11号棟 “死のブロック”

 
前回 地下牢で触れたが
餓死刑に選ばれた男性の
身代わりとなって死んだ神父がいた。


ポーランドのカトリック司祭 
マクシミリアン・マリア・コベル神父
(1894 -1941年)は
コンベンツァル聖フランシスコ修道会に
属して布教活動に従事していた。


ナチスに不利益をもたらすとされた
ポーランド「政治犯」も多数収容されていた中

1936年 ナチスドイツに捕らえられる。

収容中の1941年7月末 収容所から脱走者が出たことで
無作為に選ばれた10人が 餓死刑を命じられた。

コペル神父は その一人 ポーランド人男性の
身代わりとなって 9人の仲間とともに
「16670」の認識番号を
刺青され 18号牢に入れられた。

2週間後の 8月14日まだ息があった神父は
フェノール注射によって殺害された。

その遺体は翌日 他の何万という遺体と同様
火葬場に運ばれ焼却された。


コルベ神父が救ったのは、
身代りの命だけではなかった。

神父の指導により牢内は祈りと聖歌に満ち、
聖堂のような清らかさであったという証言が残っており
 今は「アウシュヴィッツの聖者」と呼ばれている。


コルベ神父は収容される前
 日本・長崎に居たという。

そのまま長崎に居れば被ばくしたかもしれなかったが
 1933年日本から帰国後 収容されてしまったのだ。

こんな運命的な出来事は 
遠藤周作著「女の一生(第二部)」

神父がアウシュヴィッツに送られて身代わりとなって
亡くなるまでの様子を小説にしている。

    

    コペル神父
           (ウィキペディアから)

 

 

 

 


ポーランド・アウシュヴィッツ収容所 122 地下牢

2018-08-20 | ポーランド紀行

 

 
  “死のブロック”11号棟の地下の平面図
   (* 地下牢は撮影禁止)

1~28号牢は処罰牢

特に 17~20号が餓死牢で
18号牢(赤い線)が

 コルベ神父 他9名が 餓死刑に処せられた牢。


また 小さい牢が縦に4つ並ぶ
22号牢(緑の線)が “立ち牢” で

90cm四方の窓の無い空間に
下部の小さなドアから一度に4人が押し込められた。

現在 壁の一部を崩し 
その内部が分かるようにしている。

以上3種類の牢からなっており
親衛隊(SS)が「地下の掃除」と
呼ばれる囚人の選別を行っていた。 

さらに この地下で1941年9月に
毒薬チクロンBを使って
集団虐殺の実験が行われたという。


その実験では約600名のソ連軍捕虜と
収容所内の病院に入院中の
250人の患者が犠牲となった。




ポーランド・アウシュヴィッツ収容所 121 11号棟「死のブロック」

2018-08-19 | ポーランド紀行

  
             地下牢        1階          2階

 
    11号棟 「死のブロック」の平面図

 


   
 親衛隊員の執務部屋(図A)

 

      ドイツ簡易裁判所の出張執務室(図B)

 

 


死の壁に向かう前に被収容者が脱衣した部屋(図D)

 ここで処刑が行われることもあった。 

 



被収容者の寝床(図C)

冷たい床に直に敷かれたわら布団

こんな寝床で 零下何十度にもなる
極寒のこの地で耐えられたのだろうか?

 

 

   
収容所 開所のころは床に藁を敷いて寝ていたが
 

徐々に三段のベッドに代わっていったそうだ。

当然一つに一人とはいかず 
複数の人が寝ていたのだろう。

 

 

 


ポーランド・アウシュヴィッツ収容所 120 死の壁

2018-08-18 | ポーランド紀行

 

 

10号棟と11号棟の間に
「死の壁」がある。

ここで 約数千人が銃殺された。

 今でも 花束が手向けられている。

 

 

この死の壁に向き合う10号棟の窓には
板が打ち付けられ塞がれているが

これは銃殺の場面を見られないようにするためだが
 人道的なことからではなく
「銃殺しているのかが誰か」が

 分からないようにすためだったという。

 また 懲罰として後ろ手に縛り体をつるされた杭もある。

 

さらに10号棟は「死の天使」と恐れられた
医師ヨーゼフ・メンゲレが

人体実験を繰り返し行った病院だった。

 

*ヨーゼフ・メンゲレは
ドイツの医師 ナチス親衛隊 将校 親衛隊大尉。

アウシュヴィッツで勤務し
収容所の囚人を用いて人体実験を繰り返し行った。

                (ウィキペディア

 


ポーランド・アウシュヴィッツ収容所 119 顔写真

2018-08-17 | ポーランド紀行

 

 

廊下の壁 一面に飾られている被収容者の顔写真


ガス室送りを免れた被収容者は、
男女問わず坊主刈り、消毒、写真撮影、

番号を割り当てられ、「政治犯」「ユダヤ人」
ソ連の捕虜」「同性愛者」など

と分けられ ワッペンが付けられた。

そして縦じまの服を着せられ 
人種別・性別などに分けられた収容棟に送られた。

 

当初は写真を撮って管理していたが
より効率的に管理するために数字の入れ墨になった。

その管理番号の総数は約40万件とも。

 

 

 

女性の被収容者の写真も展示されており
多くの女性は髪を刈られている。

髪の長い女性は特権を与えられていたとも。

顔写真の下には 入所日 死亡日が書かれている。

 

 


双子などは例外として収容され

「優秀な民族を増やすため」という名目の
医学実験の材料にされた。

 

 




ポーランド・アウシュヴィッツ収容所 118 特権階級カポ

2018-08-16 | ポーランド紀行

 

この部屋は

「カポ」という特権を与えられた被収容者が入っていた。

「カポ」とは 被収容者の中から

暴力的で犯罪的性向のある者を選び 特権を与え

被収容者を監視し 痛めつけ 団結力を弱めていた。

そして ガス室へ送り 死体を始末していた。

 

このような仕組みで 

強制収容所を有効に機能させて

ナチスは自分たちの手を汚さずに 大虐殺していたのだ。