あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

小栗坂と甲賀坂

2021-06-02 | 散策


   小栗坂(おぐりざか)

 

前回 小栗上野介邸跡に触れたが

千代田区内に「小栗坂」がある。
三崎町1丁目と猿楽町2丁目の間を
神田川に向かって上る坂

 

区の説明では

「 この坂を小栗坂といいます。
「江戸惣鹿子名所大全」には
「小栗坂、鷹匠町にあり、
 水道橋へ上る坂なり、ゆえしらず」とあり、

「新撰東京名所図会」には
「三崎町1丁目と猿楽町3丁目の間より
水道橋の方へ出づる小坂を称す。

もと此ところに小栗某の邸ありしに因る」
とかかれています。
明暦3年(1657)頃のものと
いわれる江戸大絵図には、

坂下から路地を入ったところに
小栗又兵衛という武家屋敷があります。

この小栗家は「寛政重修諸家譜」から、
七百三十石取りの知行取りの旗本で、
小栗信友という人物から
始まる家と考えられます。」

とあり

幕末に活躍した小栗上野介の
屋敷とは関係がなかった。

 


  甲賀坂(こうがざか)

なお 小栗邸跡の前の坂は

「お茶の水仲通り」にある
NTT駿河台の前から
「明大通り」の
明大前交差点を通って
山の上ホテル前にいたる坂。


区の説明では

「この坂を甲賀坂といいます。
「東京名所図会」には
「南北甲賀町の間に坂あり、
甲賀坂という。

甲賀の名称の起源とするところは往昔、
甲賀組の者多く居住せし故とも、
又光感寺の旧地をも
記されるが云々」と
かかれています。

どちらにしても
このあたり甲賀町と
呼ばれていたことから
名がつけられました。

甲賀町の名は、
昭和8年(1933)から
駿河台1,3丁目となりました。」


とある。


 またこの坂道は
「甲賀通り」と呼ぶ。


百本杭

2020-12-24 | 散策


小林清親 「千ほんくい両国橋」 (Web資料から)

 

先日(11月28日) 
浮世絵師 小林清親に触れたが

その作品の一つに
「千ほんくい両国橋」がある。

千ほんくいとは 
百本くいともいわれ

江戸から明治時代末期まで 
隅田川左岸 両国橋上流に
護岸のために打たれた杭をいう。

その光景は墨田川の風物詩になり
広重などの浮世絵にもなり
小林清親も絵にしている。

 
広重・江戸百景「両国花火の図」
(隅田川テラス)


 (隅田川テラス)


 説明文には

「 両国橋と百本杭
両国橋の風景を
特徴づけるもののひとつに、
百本杭があります。
昭和5年(1930)に荒川不水路が
完成するまで、隅田川には荒川、
中川、綾瀬川が合流していました。
そのため隅田川は水量が多く、
湾曲部ではその勢いが増して
川岸が浸食されました。
 両国橋付近はとりわけ
湾曲がきつく流れが急であったため、
上流からの流れが強く
当たる両国橋北側には、
数多くの杭が打たれました。
水中に打ち込んだ杭の抵抗で
流れを和らげ、
川岸を保護するためです。
夥しい数の杭はいつしか
百本杭と呼ばれるようになり、
その光景は隅田川の風物詩として
人々に親しまれるようになりました。
江戸時代の歌舞伎では、
多くの作品の重要な場面に
「両国百本杭の場」が登場します。
「十六夜清心」でも、
冒頭に「稲瀬川百本杭の場」が
おかれています。
稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、
歌舞伎の中では隅田川に
見立てられることがあります。
観客は「百本杭」という言葉から、
この場面が実は隅田川を
舞台としていることに気づくのです。
百本杭はそれほど人々に
知られた場所だったのです。
 また、明治17年(1884)に
陸軍参謀本部が作成した地図には、
両国橋北側の川沿いに
細かく点が打たれ、
それが百本杭を示しています。
 明治35年(1902)に
幸田露伴は『水の東京』を発表し、
「百本杭は渡船場の下にて、
本所側の岸の川中に
張り出たるところの懐をいふ。
岸を護る杭のいと多ければ
百本杭とはいふなり。
このあたり川の東の方水深くして、
百本杭の辺はまた特に深し。
こゝにて鯉を釣る人の多きは
人の知るところなり」と
富士見の渡の南側から
見られた様子を綴っています。
このほか、本所向島に親しんだ
多くの文人が、百本杭と往時の
記憶について書き留めています。
 しかい、明治時代末期から
始められた護岸工事で
殆どの杭は抜かれ、百本杭と
隅田川がおりなす風情は
今では見られなくなりました。
 平成23年(2011)3月
   墨田区教育委員会 」

また絵だけでなく
歌舞伎「色街模様煎色縫」の
 「稲瀬川百本杭の場」 
落語「百本杭」
にもある。

 

 

 


千住製絨所跡

2020-12-17 | 散策

 

前回 井上省三で
千住製絨所に触れたが
その工場跡の赤煉瓦塀が残っている。

説明文には

「 荒川区登録有形文化財(歴史資料)

旧千住製絨所(せいじゅうしょ)煉瓦塀

この煉瓦塀は、明治12年(1879)に
創業を開始した官営工場、
千住製絨所の敷地を取り囲んでいた
東側の塀です。
塀の長さは北側 9.9m、南側 8.4mで、
正門の袖柱の一部と、
塀を保護するために設けられた
車止めの一部が残っています。
建設年代は、明治44年(1911)
から大正3年(1914)頃と
推定されます。

千住製絨所は、ラシャ工場とも呼ばれ、
殖産興業、富国強兵政策の一貫として
軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化
のために設けられた施設です。
軍服用絨を製造するだけでなく、
民間工場に技術を伝授する役割も
果たしていました。

初代所長はドイツで毛織物の
技術を学んだ井上省三です。

荒川総合スポーツセンターの
西側に井上省三の胸像が
保存されています。

当初の工場は、荒川(現隅田川)沿いに
建設されましたが、次第に周辺の
田園地帯を取り込んで拡張を重ね、
大正時代には、敷地面積は
3万2406坪になりました。

千住間道を南限とし、
現在の荒川総合スポーツセンター、
南千住野球場、南千住警察署、
都営住宅、都立荒川工業高校、
東京都水道局東部第二支所などが
旧敷地に該当します。

千住製絨所の登場は、
南千住地域に大きな影響を与えました。
明治時代、汐入の二つの
紡績工場(南千住8丁目)、
石浜神社付近のガス会社
(南千住3丁目)など大規模な
工場が進出し、
また隅田川貨物駅なども設置され、
南千住は工業と商業の町へと
変貌していきました。

内務省、農商務省、陸軍省
と所管が代わり、
戦後、昭和24年(1949)には、
大和毛織株式会社に
払い下げられましたが、
同36年(1961)に工場が閉鎖され、
80年余りの羊毛工場の歴史に
幕を閉じました。

構内にあった工場の建物等は
現存していないため、
この煉瓦塀が千住製絨所に
関する数少ない建造物であり、
歴史的価値の高い文化財です。

(枠文は略)

平成22年10月 
   荒川区教育委員会 」

 

当時の風景が説明文にある。


 「千住製絨所正門」
昭和初期ころの千住製絨所正門を撮影。
画面左側が現存する煉瓦塀と考えられる。


「大日本千住製絨裏面之図」
 明治時代 江崎礼二/撮影

創建当初の千住製絨所の北東から撮影。

荷物運搬用として荒川(現隅田川)から
引いた堀があった。


東京真画名所図解「千住ラシャ製造場」
 明治17年から明治22年
 井上安治/画

創建当初の千住製絨所を
南東から描いた。

松原大門の松並木と水辺の
植物ハンノキの奥にある、

水田に囲まれた千住製絨所の様子。

 

 


東京散策 セラピー犬チロリ

2019-05-10 | 散策

 

     

 

 

「坂上どうぶつ王国SP」
 (フジテレビ5月10日放送)で

セラピー犬チロリの生涯が紹介されていたが

その記念碑が 東京・中央区
    築地川銀座公園にある。

 

碑文には


「 名誉セラピードッグ認定1号犬
  名犬チロリ記念碑

捨て犬チロリは、子犬たちと共に
殺生処分寸前を助けられ、
後にセラビードッグ(動物介在療法)の
代表犬として全国で活躍し多くの
高齢者や障害者に大きく貢献しました。

その無償の愛情を捧げる姿は
人々に生きる勇気と

病気回復への希望を与えました。

この1頭の捨て犬の社会福祉への功績は
犬史に残ると共に日本の動物愛護法に
多大な影響をもたらせました。

 ありがとうチロリ・・・・2006.3.16永眠 」

 

人間に裏切られた犬が

人間の為にセラピー犬として活躍し

訪れた施設700か所 

癒した人8万人に勇気と希望を与えたという。

 

死後の翌年2007年3月に

チロリの散歩道だったこの場所に

銅像として建立された。

 


東京散策 駅伝誕生

2019-05-05 | 散策

 

 

 

NHK大河ドラマ「いだてん」(5月5日)で
駅伝の誕生の過程が描かれていた。

その「駅伝の碑・駅伝の歴史ここに始まる」が
東京・上野公園 不忍の池のほとりにある。

(これと同じ碑が出発地・京都三条大橋にもある)

 

世界最初の駅伝は 
1917(T6)年4月27日 京都から上野まで
514kmを走る東海道駅伝だった。

関東組と関西組とに分かれ
3日間昼夜を通して 
41時間44分で走破した関東組が勝った。

その関東組の最終ランナーは 金栗四三 だった。

これが 後の箱根駅伝へとつながっていく。

因みに 碑文の「鄭都50周年記念」とは
“奠都”は 新たに都を定めることで
1868(M元)年 明治天皇が京都を出発して
江戸城に入城したこと。

このルートを再現するとの発想で
生まれたのが 東海道駅伝だったという。

 

 

 


東京散策 軍艦操練所跡

2019-02-06 | 散策

 

 

  晴海通り 勝鬨橋方面に向う 築地6丁目交差点の先に
  「軍艦総連所跡」の説明板がある。


    説明文の概略は


  ペリーによる黒船艦隊の来航後、
  西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は
  1857(安政4)年 旗本や御家人、諸藩の藩士等から
  希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や
  オランダから輸入した軍艦の運転練習をさせる目的で
  軍艦教授所(後の軍艦操練所)を 
  この地にあった築地講武所内に創設した。


  この時の中心人物が勝海舟であった。
      
      * 勝海舟については 当ブログ(2017/01/19)で 取り上げている。

  万延元年(1860)に講武所が神田小川町(現千代田区)に
  移転後、跡地一帯が軍艦操練所の専用地となる。

  元治元年(1868)築地西本願寺西隣の火事で
  類焼し焼失して 南隣の広島藩(藩主浅野安芸守長訓)
  下屋敷のあった場所(下の絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転する。

  1865(慶応元)年 新たに海軍奉行を置く。
  1866(慶応2)年 海軍所と改称し 同年11月に類焼し、
   現在の浜離宮庭園の地に移る。

  跡地は 1868(慶応4)年 日本最初の洋式ホテルである
  「築地ホテル館」が建てられた。

  その後 1871(明治4)年 ホテルは海軍省に移ったが
  1872(明治5)年 火災で焼失し 
わずか4年で廃業している。

  この経緯からも この場所は ”海軍発祥の地”ともいえる。


   

     説明板の地図 赤枠が軍艦操練所

   

                 築地周辺(昭和34年)

               ☆印操練所説明板 □赤枠が「水神社」

 

 

 

 


東京散策 海軍発祥の地

2019-02-05 | 散策

 

        築地 水神社境内にある「旗山記念碑」

 
  海軍省が発足したさい  
  浴恩園の築山のうえに海軍卿の旗を掲げ

  旗山と呼ぶようになったのを記念して建立した。

  碑は かつて旧中央卸売市場内の跡地に建っていたが
  市場の整理で現地に移された。

 

   碑脇の 説明概略は

   「この地は 徳川時代 松平定信の別邸「浴恩園」の築山

   ・1869 (明治2)年 海軍関連施設がこの地に置かれる
   ・1872 (明治5)年 海軍省設立後
       海軍卿旗をこの丘にたてて
「旗山」と呼んだ
   ・この地はまさに海軍経営の大元であり 
      その発祥の地といってよい

    1937(昭和12)年 海軍大臣 永野修身 」

  とあり “海軍発祥の地”が裏付けられる。

  なお 築地周辺には 
  海軍大学校 海軍軍医学校 海軍造兵廠
  海軍経理学校などの施設が
あり
  まさに ”海軍の町” であった。

 

 

 

      築地・水神社


  魚河岸水神社は 1600年頃から祀られている神社で
  関東大震災で焼失した日本橋魚河岸が
  築地に移り 同時に遷座された神社。

  しかし 築地卸売市場移転に伴い 
  水神社は 再び移転することになるが?

  

 

 


東京散策 海軍兵学寮・海軍軍医学校

2019-02-04 | 散策

           国立がん研究センター構内

     

         海軍兵学寮跡の記念碑

 

  浴恩園跡の説明にあった海軍関連の施設として
  海軍士官を養成する兵学校の前身の
  兵学寮がつくられ 軍医学校も併設された。


  広島の江田島に移るまでの
  20年間 この築地の地にあった。

 それを裏付けるものが 
 築地の国立がん研究センター(築地5丁目)の敷地内に
 「海軍兵学寮跡」と「海軍軍医学校跡」の碑として並んである。

   裏面には

  「海軍兵学寮沿革
   ・1871 (明治4)年7月29日に海軍兵学寮をこの地に新築
   ・1876(明治9)年8月31日に海軍兵学校と改称
   ・1888(明治21)年8月1日に江田島に移転
           1934(昭和9)年5月建立          」
  
         因みに この碑銘の揮ごう者は
      時の首相 斎藤實 この学校の卒業生だった。



         
       海軍軍医学校跡の記念碑


  一方の軍医学校は
  1945(昭和20)年 終戦時まで続いた。


  築地の中央卸売市場は
   1935(昭和10)年に開場したが 
    2018年の閉場になった。

 

 


東京散策 浴恩園

2019-02-02 | 散策

 

     説明板「浴恩園跡」 (中央区・築地卸売市場)

 

  海軍関係の説明にしばしば出てくる
  「浴恩会」とは 
  
海軍経理学校の同窓会の名称である。

  その名称の由来は「浴恩園跡」の説明にあるように
  築地における海軍経理学校の最初の校舎敷地が
  松平定信邸の浴恩園の跡にあったことから会の名称にした。
  
  終戦とともに消滅したが
  戦後再発足した経理学校同窓会が

  「浴恩会」を正式名称として継承した。

  しかし 約一世紀の経過を経て
  2005(平成17)年に会は解散している。

  この記念すべき地は 築地卸売市場が豊洲に移転した現在
  今後どうなるのだろう?

 


東京散策 海軍経理学校

2019-02-01 | 散策

 

 

  東郷神社・海軍経理学校正門敷石の説明文に
  「隅田川河畔に移築された・・・」とあるが

  現在の勝鬨橋の西詰に 
  その海軍経理学校の記念碑がある。

  この学校は旧海軍主計課要員を育成する学校で
  その卒業生は一万人を超えている。

  碑は 1976(昭和51)年 戦後30年を経て
  学校の同窓会によって建立されている。 

   碑文には
  「明治七年、海軍會計舎が芝山内天神谷に設けられたが後、
  幾変遷を経て明治四十年にそれが海軍経理學校となった。
  その間明治二十一年校舎は築地に移されたが、
  その敷地は松平定信邸の浴恩園の跡に当たった。

  明治時代の付近には海軍の施設が多く、
  その一帯は海軍発祥の地とも称せられている。

   校舎はさらに幾度か移改築を経て昭和七年、
  この西側築地の一角に移築されたが、

  太平洋戦争中就學人員急増のため、
  品川ほか地方三ヶ所に校舎を増設した。

  戦後の海軍解体に伴い昭和二十年九月、
  同校は約七十年の歴史を閉じた。

  その間の出身者は万余をかぞえ輝かしい功績を残したが、
  戦後もわが国復興の中核となって活躍した。
  戦後三十年を機にここにその栄誉と
  同校の跡を記念してこの碑をたてる。」

 

  碑文の裏には 海軍経理学校 校歌が刻まれている。

 

           碑のある西詰側から勝鬨橋を望む

 

 


東京散策 東郷神社 海軍経理学校敷石

2019-01-31 | 散策

 

 

  東郷神社境内に
  「海軍経理学校正門敷石」の碑があり

  その前に敷石が縦に敷き詰められている。

 

  
  海軍経理学校の沿革が説明されている。


   「明治7年10月、芝山内天神谷に設けられた
  海軍會計學舎は幾度か
その名稱を変え
  明治40年海軍経理學校となった。

   この間校舎も数度位置を変えて、
  明治21年に築地の松平樂翁公邸の浴恩園跡に移り、

  更に昭和7年同じ築地の墨田川河畔
 (現在の勝鬨橋右岸)に移築された。

   昭和20年9月、71年間の歴史を閉じるまでの
  同校出身者は
一萬名を超え海軍主計科の基幹要員として
  海軍戦力の一翼を担い
輝かしい功績を挙げた。
  その間諸戦没事変に際會して國に殉じた者も多く、
  
又軍務を離れても各界各方面で活躍し
  我が國の興隆発展に多大の貢献をしている。

   昭和55年5月 浴  恩  會
         (海軍経理學校同窓会) 」

 

  同じ文面が 靖国神社境内にもあった。

 

 


東京散策 東郷神社 水交神社鳥居

2019-01-30 | 散策

 

 

  東郷神社境内に少々小さめの鳥居がある。

 

 

  
  説明文に この鳥居「水交神社鳥居の由来」があった。

  「水交社」とは 旧日本海軍将校の
  親睦・研究団体で1876年に創設されている。

  会員は 海軍士官・高等文官・士官候補生などで構成されている。
  第2次大戦後 解体したが 
  現在は「(財)水交会」として復活し,

  旧海軍軍人の親睦機関となって 
  現海上自衛隊に引き継がれている。 

  なお 名称「水交」の由来は

  中国の「荘子」(山木篇)中の
   「君子之交淡若水」「小人之交甘若醴」に由来している。

  
   「志の高い者の交友は水の様に淡白で飽きず長続きする。

   志の低い者の交友は甘酒の様に飽きやすく長続きしない。
   したがって君子の交わりは普段は淡々としているが
   一旦緊急の際には相離れることのない緊密なものである。」

   一方 同じように陸軍も「偕行社」が組織されている。 

 

 


東京散策 東郷神社 潜水艦殉職碑

2019-01-29 | 散策

 

  

  境内に 重厚な碑がある。
  東郷神社であるので日露戦争の英霊を
  祀ってあるのかと思ったが

  太平洋戦争中の潜水艦とともに
  戦没した英霊の鎮魂碑であった。

   毎年10月下旬
  潜水艦殉国碑慰霊祭が行われている。

 

   

  左手は 潜水艦横断面を模った碑

  中央に延びる柱は 伊号33の実潜望鏡を、
  背面には殉国者全員の霊名が封入されている。

  

 

         碑文「潜水艦勇士に捧ぐ」


         
              搭載用 魚雷模型


  旧海軍館(平成四年解体)の庭にあったもので

  実物に似せてあるが寸法は実魚雷より小さい。
    
       ―実魚雷の寸法―

  巡洋艦・駆逐艦用 径61㎝ 長さ8.5m
  潜 水 艦  用 径53㎝ 長さ7.2m
  航 空 機  用 径45㎝ 長さ5.7m」

 

 

 

 

 


東京散策 東郷神社

2019-01-28 | 散策

 

                「東郷神社」(東京・渋谷)

  「軍神」とまで呼ばれた東郷平八郎
  1934年亡くなると全国から東郷を
  顕彰する神社の創建の要望と献金があり

  明治神宮に近いこの地 1940(昭和5)年の
  海軍記念日(5月27日)に
  御鎮座祭が執り行われ府社に列格した。

  1945(昭和20)年 東京大空襲によって社殿が焼失したが
  1964(昭和39)年に再建された。

  東郷平八郎の武運から
  勝利の神様として信仰が厚い神社になっている。

 

            神門

       

          東郷家の家紋 
   
    下に蔦の葉 上の菊は皇族を表す紋。

 

               本殿

 

         境内にある「海の宮」

  海軍や海事、水産関係物、崇敬者を合祀奉斎している。

 

 

 

  隣接して 池の先に「東郷記念館」がある。

  しかし これは神社ではなく
  全くの別法人である㈱東日が経営しており
  
主に結婚式場として営業している。

 

 


東京散策 東郷記念公園

2019-01-26 | 散策

 

 

  東郷平八郎の邸宅跡(東京・千代田区四番町)は
   今は記念公園になっている。

 


  東郷元帥は 1881(明治14)年からこの地に住み
  没後 上六公園に隣接していたことから

  東郷元帥記念会から敷地の寄付を受け公園に併合されて
  昭和13年に「東郷元帥記念公園」として開園した。


   碑文には
    「永く区民から親しまれ、地域の文化向上にも
     寄与し人々の尊敬のうちに昭和9年88歳の
     生涯を閉じる」とある。

  また 園内には東郷邸にあった
  ライオン像や力石も残されている。

 

     東郷邸玄関脇にあったライオン像

    

             力石

 

 

          公園脇の坂道にも「東郷坂」と名がつく。

 

    追:  公園は 改修整備工事の過程で
    土壌含有量基準を超える「鉛」が検出されたため
     昨年の7月から当分の間 閉鎖されている。