あかない日記

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ごみゼロの日

2020-05-30 | 出来事・行事

5月30日は 語呂合わせから
“ごみゼロの日” (1982年実施)

日本で美化活動ともに
ごみの減量化と再資源化を促す

啓発活動を実施するために設けられた。

東京は 1964(昭和39)年
東京オリンピックの開催を機に

政府による国土美化運動が叫ばれ
町中の塵芥処理 花壇の設立
バラック住宅の囲い込みなどが行われ

東京の都市生活にも変化が生じた。

塵芥対策として東京都は
ゴミ収集車250台を導入し

街頭ゴミ箱に代わって
各家庭にはポリバケツが普及した。

その一端が 資料
「東京─その復興の歴史─」
から見える。


大八車によるゴミ回収 1960(昭和35)年

ゴミ収集作業は
1961(昭和36)年には
自動車による回収となった。


千代田区内のゴミ収集作業 1961(昭和36)年

当時 街のあちらこちらに
木箱のゴミ箱が設置されていた。

 


鎌倉町々会による美化運動 1964(昭和39)年

オリンピックに向けて
推進された美化運動では

町会組織が率先して
町内の美化運動を行った。

写真は 
鎌倉町々会衛生部による「護美の会」

 (写真と説明は資料から)

   *

因みに ごみ用ポリバケツは

1960年頃の東京は街の景観を
損なう1日約7000トンという
ゴミの処理に頭を抱えていた。

急速な都市化で家庭ゴミは増大し
人力による月に2~3度の
不定期回収では対応しきれず
ゴミ処理は社会問題となっていた。


東京都は 持ち運び可能な容器を
各戸に備えて定時収集する
ニューヨーク方式のゴミ回収を
検討していたが 
積水化学が 米国のゴミ容器を
ヒントにしたポリエチレン製の
蓋付き “ポリペール”を
都に提案し採用された。

このポリペールは 
東京のゴミ処理問題解決に
大きな役割を果たし
“清掃革命”を
引き起こしたともいわれた。
           
                                   (参考:積水化学)

 


人生訓4

2020-05-28 | ことば

 犬吠埼灯台 千葉市銚子市 

レンガ造り  地上高 31m
点灯 1874(明治7)年11月 
日本に5つしかない第1等灯台
(経ケ岬、出雲日御碕、角島、室戸岬)

    
    *


コロナ感染対応の

緊急事態宣言が

解除されましたが

自粛生活が長引き

少々イライラすることが

多かったのでは?


そこで こんな

“あいうえお格言”を

 

ア 相手の立場を考えよ

イ 嫌なことを進んでやれ

ウ 上を見たらきりがない

エ 笑顔は自分でつくれ

オ お礼の言葉を忘れるな

 

あ あせるな

い いばるな

う うろたえず

え 笑顔で

お おこるな

 

次いで “かきくけこ”

カ 感謝


キ 気配り・希望


ク 工夫・クヨクヨしない


ケ 健康・謙虚


コ 行動・向上心

 


朱舜水と小石川後楽園

2020-05-26 | 人物忌

 

 小石川後楽園(東京・文京区後楽1丁目)

 

前回 朱舜水・徳川光圀について
触れたが 
その関係は 
ここ小石川後楽園にもあった。

 

説明文には

「 特別史跡
  特別名勝 小石川後楽園

 江戸時代初期、寛永6年(1629年)に
水戸徳川家の祖である頼房が、
江戸の屋敷の後園として造ったもので、
二代目藩主の光圀の代に完成した庭園です。

光圀は造園に際し、明の儒者である
朱舜水の意見を取り入れ、中国の教え
「(士はまさに)天下の憂に先立って憂い、
天下の楽しみに後れて楽しむ」から
後楽園と名づけました。

庭園は池を中心にした
「回遊式泉水庭園」になっており、
随所に中国の名所の名前をつけた
景観を配し、中国趣味豊かなものに
なっています。

そして、これらによって湖、山、
川、田園などの景観が
巧みに表現されています。

この地は元々小石川台地の先端にあり、
神田上水の分流を引き入れ
造園されました。

また光圀の儒学思想の下に
造園されおり、明るく開放的な
六義園と好対照をなしています。

なお、後楽連は昭和27年3月、
国の文化財保護法により

特別史跡及び特別名勝に
指定されています。

特別史跡と特別名勝の二重指定を
受けているのは、都立公園では
浜離宮とここの二つだけです。

全国でも京都の鹿苑寺(金閣寺)、
慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院の
五か所だけです。

        東京都   」


後楽園は 徳川頼房が幕府から
76,689坪(253,500㎡)の土地を拝領し、

そこに屋敷を設けて上屋敷
(明暦の大火以前は中屋敷)とした

小石川邸の附属庭園である。

光圀は 小石川後楽園の設計では、
朱舜水の意見を取り入れて、円月橋、
西湖など中国趣味豊かな
庭園として完成させ 
園名も選ばせて「後楽園」と命名した。

この後楽園の名は 
中国の范仲淹(はんちゅうえん)
「岳陽楼記」
から引用している。

ウィキペディアによれば

范仲淹(はんちゅうえん)の「岳陽樓記」は、
1044(慶暦4)年に中央から岳州太守へ
左遷された滕宗諒が、岳陽楼を修復した際、
同年の進士だった范仲淹に
作らせた文章である。

「古文真宝」に収められ、
名文として広く知られる。

特に、末尾の一節から
「先憂後楽」という語が
生まれたことで著名

…居廟堂之高,則憂其民;處江湖之遠,
則憂其君。是進亦憂,退亦憂;
然則何時而樂耶?其必曰:
「先天下之憂而憂,後天下之樂而樂」
乎!噫!微斯人,吾誰與歸!

…朝廷の高い位にあるときは、
おのれの民を憂い、
人里離れた所に
隠れ住むときは、
わが主君のために憂う。

進んで仕えていても憂い、
退いて民間にいても憂うるのだ。


とすればいつになれば楽しむのか。


その人は必ず

 「天下の人の憂いに先立って憂い、
  天下の人の楽しみに後れて楽しむ」
というであろう。

ああ、そうした人がいなければ、
私はいったい誰に帰依すればよいのか。

 

この精神は 後年
代藩主斉昭によって開園した水戸の
偕楽園の造園趣旨にも表れている。

斉昭自ら「偕楽園」と名づけたが
「偕楽」とは 中国古典である「孟子」の

 「古の人は民と偕に楽しむ、
    故に能く楽しむなり」
という一節から援用している。


*「岳陽楼」は 
中国湖南省岳陽市にある楼閣。
洞庭湖の東北岸に建つ、

高さ20.35mの三層の木造建築であり、
眼下に広大な洞庭湖、北長江を
臨む雄大な景観で知られる。

 

 


朱 舜 水

2020-05-24 | 人物忌

 

 5月24日は

江戸前期に日本に帰化した
明の儒者
 朱 舜水
(しゅ しゅんすい・1600-1682)が
亡くなった日

「朱舜水先生終焉の地」として 
東京大学農学部の敷地内に
記念碑が置かれている。

説明文には

「東京都指定旧跡 朱舜水記念碑

日本に亡命した中国明末の遺臣。

明の万暦28年(1600)10月12日
浙江省餘姚に生まれた。

名は之瑜(しゆ)、字は魯璵(ろよ)、
号は舜水(しゅんすい)、

朱水祐、張肯堂、呉鐘巒について
学び特に詩書に通じていた。

舜水は祖国明朝の復興運動に
挺身したが果たさず、

万治2年(1659)
七度目の長崎訪来にあたり、

安東省庵の懇請により日本に留まり、
寛文5年(1665)
小宅生順(おやけせいじゅん)の
推挙で水戸藩に招かれて東上した。

同8年 光圀の別荘
(現在の東京大学農学部)に入り、
以後の生涯をこの地に過ごした。

彼の学風は、陽明学と朱子学との
中間に位置する実学(実行の学)で、

空論を避け、道理を重んじ、
水戸光圀や安積澹泊(あさかたんぱく)、

林鳳岡(ほうこう)、木下順庵らに
大きな影響を与えた。

天和2年4月17日83歳で没し、
常陸太田の瑞竜山に葬られた。

死後「朱舜水先生文集」28巻が
徳川光圀輯・徳川綱条(つなえだ)
校として刊行された。

この記念碑は日本渡来 250年祭に
あたり朱舜水記念会が
建てたものである。


平成2年12月27日 再建
    東京都教育委員会」

とある。

光圀の招きで水戸藩を訪れ、
水戸学思想に多大な影響を与え
水戸学=朱舜水と言ってもよい。

朱舜水から教えを乞うた安積澹泊は
「大日本史」の編纂で有名だが
水戸黄門に登場する格さん
(渥美格之進)のモデルとされている。


 

こちらは
茨城県常陸太田市の瑞竜山の
水戸徳川家の墓地であるが
舜水の死後 
光圀によってここに葬られた。

なお  常陸太田市は
朱舜水の生誕地の縁で

中国浙江省餘姚市と
友好都市交流を結んでいる。

 

 

 


番町皿屋敷

2020-05-22 | 出来事・行事

帯坂  (左手のビルは日本棋院会館)


前回 前々回と
番町について触れましたが

番町と言えば
「番町皿屋敷」が話題になります。

五番町に旗本 青山主膳(播磨)の
屋敷があり、主膳の妾である
腰元のお菊が
主膳の心を試そうと
青山家の家宝である
高麗絵皿を割ってしまう。

主膳は 自分を疑った
お菊を手打ちにするといって
屋敷に監禁してしまう。

お菊は縄付きのまま部屋を
抜け出して裏の井戸に身を投げた。

まもなく夜ごとに井戸の底から
「いちま~い 
  にま~い ・・・・」と
皿を数える女の声が
聞こえてきたという。

この話には様々なストーリーがあって
皿を割ったのは故意ではないとか

主膳に斬り殺され井戸の中に
放り込まれたとの話もある。

江戸時代に最初に上演されたには
播州姫路を舞台にした
歌舞伎狂言や浄瑠璃だった、
のちに江戸の番町を舞台として
皿屋敷が登場する。

そのお菊が髪をふり乱し、
帯をひきずりながら
ここを通ったという坂道
「帯坂」が 現在の
九段南4丁目と五番町の境にある。

 

坂の説明文には

「この坂を帯坂といいます。
名称は歌舞伎で有名な
番町皿屋敷の旗本、
青山播磨の腰元お菊が、
髪をふり乱し帯を引きずって
にげたという伝説によります。

また一名切通し坂ともいわれたのは、
寛永年間(1624~1643)
外堀普請の後に市ヶ谷御門へ
抜ける道として切り通されたので
その名がつけられたといいます。

 昭和50年(1975)3月 
         千代田区 」

  (資料:「江戸散歩・東京散歩」)


番町の文化人

2020-05-20 | 出来事・行事

(資料:四番町図書館)

 

前回の番町に次ぎ話題に

この番町の地域は

明治に入ると 土地が細分化し
長屋門を構えた武家屋敷が
減ってきたが 
江戸時代の
街区の割り方や旗本屋敷の
雰囲気は残されて

中央官庁や皇居に
近接していたこと

また広い敷地面積を
有していた武家屋敷の跡地が
多く残っていたことにより

総理大臣の
山県有朋や若槻礼次郎

軍人の東郷平八郎など政府役人の
官舎や華族の屋敷が並び
 
1872(明治5)年 英国大使館が
置かれた事を皮切りに
各国の大使館も移り
国際色も豊かになり
1900(明治33)年には 
津田梅子が英語学校・女子英学塾
(津田塾大学の前身)を創立し
その後も
有名私立学校が開校している。


また この地は多くの
文化人にも好まれて
文化村的な土地にもなった。

しかし 第二次世界大戦の
東京大空襲の標的となって

高級屋敷街の大半が焼失したが 

戦後 疎開で難を逃れた住民達は

またこの地に舞い戻り
復興作業のもと
再び高級住宅街
としての形を取り戻した。

現在 その文化人が
暮らした居住跡が示され
「番町文人通り」のプレートもある。

小説家では
武者小路実篤、泉鏡花、島崎藤村、
永井荷風、国木田独歩、菊池寛、

直木三十五、与謝野鉄幹・晶子、
串田孫一、吉行淳之介など。

音楽関係では
作曲家・山田耕筰、滝廉太郎 

詩人・歌人・画家の
北原白秋、石川啄木や藤田嗣二

歌舞伎の初代中村吉右衛門や
初代市川猿翁、三代目市川猿之助

らなど。

 


「チョウ」と呼ぶ町名

2020-05-18 | 出来事・行事

 

 赤枠は町名  (資料:「江戸散歩・東京散歩」)



前回「マチ」と呼ぶ町名に
触れましたが

今回は「チョウ」の話

東京・千代田区には「番町」
(ばんちょう)という地名があり

「チョウ」と呼ぶ町名の代表格

各番町には「町名由来」と
「江戸と現在の地図」が
並列しての説明板が建てられている。


その説明では
この地域は 家康が
江戸入りした直後に 

親衛隊である番方(武官)の
旗本集住地区を

城の西側に割り付けた。

番方は 1~6番の組に
分け計画的に配置した。

これを 番丁 呼んだことが
地名の起こりで 
町名も
一番町から六番町までと
なっている。


しかし 当時その分かりにくさは有名で
“番町に居て番町知らず”  など
数多くの川柳が生まれている。


町名は 在も使われているが 
江戸時代の大番組の組番号と
現在の町目の境は 必ずしも
一致していないという。


 二番町


 五番町

 

 

 


「マチ」と呼ぶ町名

2020-05-16 | 出来事・行事

千代田区内には「マチ」と呼ぶ4町名ある

 

先に「街区表示」
について触れたが

都内においても
「マチ」と「チョウ」と
呼ぶ
町名が混在している。

この違いはどこにあるのか?

「江戸・東京の地理と地名」
(鈴木里生)によれば

江戸時代から入交り
“都市問題” になっていた。

江戸初期の町人居住地である町地は、
京や大阪と同じくマチと呼ばれた。

幕藩体制になって
江戸の町地は 必ず「チョウ」と
呼ぶ方針になっている。

同時に町をマチと呼ぶ場合は
下級幕臣の組屋敷などを
その組名をつけて呼ぶなどに限られた。
(現存名では 納戸町・払方町など)

1872(明治5)年 廃藩置県と
戸籍法実施の準備のため、
それまで町名がなかった
旧武家地にも町名がつけられ、
多数のマチ、チョウが誕生した。

その後 関東大震災後の
土地区画整理により
混合は さらに強まった。

そして 1962(昭和37)年の
「住居表示に関する法律」により
東京の町名から
町の文字が大幅に減少した。

法律の施行が進む中で
旧町名に戻す運動もあるが

現在 都内23区で
「マチ」と呼ぶ町名を調べてみた。

「マチ」のある区は12区ある。

一番多い区は 新宿区で
町名 154ある中  27町名ある。

次いで
5町名:練馬区, 足立区, 江戸川区

4町名:千代田区, 大田区, 北区

3町名:世田谷区 , 葛飾区

1町名:中央区, 品川区 , 板橋区

全くゼロは 11区であった。

なお 地方自治法には
「従来の名称」とあり

従来からその土地で
呼んでいる名称を尊重して

暗黙のルールとしているようだ。

 

「神田・・・」とある中で
「マチ」と呼ぶ 2町名 他は「チョウ」

新宿区内「マチ」と呼ぶ27町名の中の
二つ「なんどまち」と「はらいかたまち」

練馬区内 5町名の中の一つ

 


*余談:
「町」と「街」の違いは
商店やビルが立ち並ぶ
にぎやかな道筋を「街」と呼び
それ以外は「町」という。

*参考:
「マチ」と「チョウ」の日本の町
 → 勢力地図

 

 


一石橋 3

2020-05-14 | 出来事・行事

 現在の一石橋 

一石橋のその後

1963(昭和38)年12月に
首都高速都心環状線が
橋の頭上半分を覆うようになった。

また 都電17系統
(池袋駅前~数寄屋橋)が
走っていたが 
1969(昭和44)年10月に
廃線となっている。

その後 1973(昭和48)年に
スチール製の桁橋に架け替えられた。

1999(平成11)年には 
下流側架け替え工事に伴い
当時の姿と印象を残し
継承する意味で

新たに作り替えられて
今日に至っている。

因みに 橋の長さ50m 幅16・5m

 

 

  一石橋から常盤橋を望む


一石橋の親柱

2020-05-12 | 出来事・行事

 



先回 一石橋の
名の由来につて触れたが

再度 触れてみる。

現在 一石橋の南詰に
かつての親柱が置かれている。

説明文には

「 中央区民文化財

一石橋の親柱
所在地 八重洲1町目11番先

 (前段略)

木橋としては最後となった
明治6年(1873)の一石橋は

長さ14間、幅3間の橋でした。

大正11年(1922)に
東京市道路局によって

鉄骨コンクリート花崗岩張りの
モダンな橋となり、

堂々とした親柱四基をすえた
白亜の橋となったのです。


関東大震災にも落橋せず、

その後も交通上の重要な
橋として使われてきました。


平成9年には
大正11年の橋本体は
全て撤去されましたが、

威風堂々とした
花崗岩の親柱一基は残され、

当時の姿を忍ばせています。

平成14年に
中央区民文化財に登録されました。

 
平成15年3月
   中央区教育委員会 」


 説明文にある写真


街区表示板の日

2020-05-10 | 出来事・行事

 

      



5月10日は
「街区表示板の日」だそうだ。


1962(昭和37)年のこの日
「住居表示に関する法律」
が施行された。

街区表示板とは
住居表示が実施されている地域に
設置されている

街区(所在地の住居)を
表示した細長いプレート板をいう。


従来は 住所に 町名と
土地の番号である「地番」を
用いていたが

住所の表わし方としては
わかり易いものではなく
多くの不便・支障をきたしていた。

この制度により
近代的な住居表示がなされ
町全体が分かりやすくなり
郵便物などの配達が容易に
なされるようになる。

その地方自治体(市区町村)に
おいて設置が義務づけられており
主に電信柱や建物の
壁面などに付けられている。


街区表示板のサイズや色は
地方自治体によって異なるが

多くは縦に細長いプレートで
市区町村で色を統一している。


また ローマ字が
併記されているものが多く

地図が記載されているものもある。


因みに「街区」とは

市区町村内の区画のひとつである。

日常的には
街路に囲まれた一区画をいう。

街区は 日本の行政上
「市町村内の町又は字の名称並びに
当該町又は字の区域を道路、
 
鉄道若しくは軌道の線路その他の
恒久的な施設又は河川、水路等
によつて区画した場合における
その区画された地域」
(法律第2条)と定義されている。

一般的に 街区符号は
街区の角から右回りに
振っていく。

周回にならない場合は
右回りの後に連続蛇行とするそうだ。

 

   

   住居表示制度以前の表示板

      (参考:ウキペディア)


一石橋

2020-05-08 | 出来事・行事

 (参考資料「江戸散歩・東京散歩」)

 

前回 「こどもの日」で
 “一石橋”について触れたが
その一石橋の名の由来について

説明文には

「 皇居外堀と日本橋川が
分岐する地点に架橋された
一石橋の歴史は古く、

江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」に
すでに木橋として見えています。


当時は西河岸町と北鞘町とを
結ぶ橋で、橋名の由来としては、

北橋詰近くの本両替町に
幕府金座御用の後藤庄三郎、

南橋詰近くの呉服町には、
幕府御用呉服所の
後藤縫殿助の屋敷があり、

後藤をもじって五斗、
五斗+五斗で一石と
名付けたと「江戸砂子」に見え、

日本橋地区と神田地区を
結ぶ橋として重要でした。

(以下略)  」

とある。
 

上に掲げる地図には
一石橋の北(上)に見える
金座(現 日本銀行)の
後藤庄三郎(五斗)と

南(下)側 呉服町に 後藤縫殿助
(ぬいのすけ・五斗)の
屋敷があり 
その間にある橋を
両家合わせて

“一石” とシャレ的に
名付けられたという。


一方 当時 一石橋は
道筋だけでなく

川や濠の十字路的合流地点で

その橋上から この橋を含めて
八つの橋が 見渡せたことから

別名「八つ見橋」や
「八橋」とも呼ばれた。

その橋は 

〇北西から東側へ流れる日本橋川

・一石橋・常盤橋・日本橋・江戸橋

〇西側の道三堀

 ・銭瓶(ぜにかめ)橋・道三橋

〇南側の外濠

・呉服橋・鍛冶橋

このことから 
歌川広重が名所江戸百景において
「八ツ見はし」として描いている。

また 永楽銭の使用が
禁じられた際に

永楽銭1貫文と玄米1石を
交換する交換場所が

この橋脇に設けられた
ことからともいわれる。

 


こどもの日

2020-05-05 | 出来事・行事

 

5月5日は こどもの日

子供にまつわる話

江戸時代の迷子の扱いを

知る史蹟が 東京

中央区八重洲1丁目にある。

「一石橋迷子しらせ石標」

江戸の人口が100万人を超える大都市 

現在ような情報網や機器がない時代のこと

迷子になったら大変で 

当時の知恵があったようだ。

 

説明文には

「東京都指定有形文化財(歴史資料)

一石橋迷子しらせ石標
指定:昭和 17 年 9 月 旧跡
昭和 58 年 5 月 6 日種別変更

江戸時代も後半に入る頃、
この辺から日本橋にかけては
盛り場で迷子も多かったらしい。

迷子がでた場合、
町内が責任をもって保護する
ことになっていたので、
付近の有力者が世話人となり、

安政4年 (1857)に
これを建立したものである。

柱の正面には
「満(ま)よい子の志(し)るべ」、
右側には
「志(し)らする方」、
左側には「たづぬる方」と彫り、
上部に窪みがある。

使用法は 左側の窪みに
迷子や尋ね人の特徴を
書いた紙を貼り、
それを見る通行人 の中で
知っている場合は、
その人の特徴を書いた紙を
窪みに貼って迷子や
尋ね人を知らせたという。

いわば 庶民の告知板として珍しい。

このほか 浅草寺境内と、
湯島天神境内にもあったが、
浅草寺のものは 戦災で破壊された。

 平成 8 年 3 月 8 日 建設  
  東京都教育委員会 」

 

 

 

 


憲法記念日

2020-05-03 | 出来事・行事

 

 

5月3日は 憲法記念の日

その草案の審議が行われた地

東京・港区六本木1丁目に

記念碑が置かれている。

 

説明文には

「 日本国憲法草案審議の地

この地は、
昭和21年(1946 年)2月、

聯合国軍総司令部と、
日本国政府との間で、

日本国憲法草案について
審議された跡地である。

(この地には
(財)原田積善会の本部があり、

戦後に外務大臣官邸として
使用されていた。)

当事者に総司令部側代表としては、
民生局長ホイットニー准将、
民生局次長ケーティス大佐の両名で、
日本側は 当時の外務大臣吉田 茂と
法務大臣 松本蒸治であった。
             八木通商株式会社 」

 

*財)原田積善会は、
 1920(大正9)年 
多年にわたり財界で活躍してきた
原田二郎が
「天下の富は
一家の私すべきものではない」
との信念から社会福祉に
貢献すべく自己の全財産を
投入して創設した財団。


現在は 助成事業活動は
社会と学芸事業分野の
二つを柱に継続して
幅広く行っており
2011(平成23)年からは
公益財団法人になっている。

*八木通商(株)
 八木通商は大阪に本社を置く 
主に衣料品の輸入をおこなう商社。

また この地は 
現在 八木通商(株)が所有し

この碑を維持管理している。