あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

東欧旅行(215) 国会議事堂

2013-07-06 | 東欧5カ国紀行

 

  
   ツアーバスから 国会議事堂を見る。

  議事堂というよりは 聖堂のように見えたが。

  1906年 建設が始まり 第一次大戦のために
  1936年になってようやく完成し

  古典主義と ルネッサンス を組み合わせた様式となっている。

  建設当初は セルビア王国議会のためであったが
  完成時には クロアチアやスロヴェニアをあわせた
  “ユーゴスラヴィア王国”の議会となった。


  玄関には セルビアの彫刻家ロサンディッチの傑作
  「黒馬が戯れていた」があり

  人間と自然の力比べを 象徴しているといわれている。


東欧旅行(214) テラジイェ通り

2013-07-05 | 東欧5カ国紀行

 

 

  車窓から「Canon」の看板が見えた。

  日本の企業の看板がセルビアで見られるとは。

  ここは 「テラジイェ通り」という。

 ベオグラードの番地は 札幌市と同じように
  街路に沿って番地が割り振られ
 「テラジイェ」に近い側が 若い数字となっているのだそうだ。

  また かつては ここ周辺は 大きな広場で
 サラエボでも紹介したが 
 「水の塔」(トルコ語で“テラジイェの泉”)もあったが
 その後の共産主義体制のもとで 縮小改造され
  広場は 分断しまったそうだ。

 


東欧旅行(213) チトー大統領

2013-07-04 | 東欧5カ国紀行

                                      

                     車道の真中で堂々のキス

 
 「ユーゴと言えば チトー  チトーと言えばユーゴ」といわれ

 チトー大統領は 第二次世界大戦から1980年 87歳その死まで
 最もユーゴスラビアに影響を与えた政治家であり
 また 大統領 ユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者であり
 国民の英雄として 統合の象徴として愛された。

 本名は ヨシップ・ブロズ 
 
「チトー(Tito)」という名前は 「お前(Ti)があれ(to)をしろ」

 という文章から取られたもので 冗談のネタにもなっている。 

 そのチトー大統領の墓が 
 ベオグラード市南部、旧市街を見下ろす高台にあり

 「花の家」と呼ばれ 生前彼が愛した温室の中にある。

 チトーが目指した ユーゴスラビアの
 “民族の融和”“自主管理社会主義”などの理想は

 今は過去のもとなり 死後、彼に対する評価は下がり
 人によっては

 旧ユーゴを分立させる原因を作ったのも彼だといわれ
 国内外において その評価は異なっている。

 時代は過ぎ 写真のような風景も見られるように
 
 一般市民からも その存在は 消えつつあるようだ!。

 ツアー一行は 「花の家」のゲートまで行くが とっくに陽がくれ
 時間外で見学はできず 
逆に 衛兵か警察官かに
 ここを去れといわれてしまった。

 


東欧旅行(212) 国連特別代表

2013-07-03 | 東欧5カ国紀行

               
                          前回の写真は不鮮明であったので 資料から

   

   ここで この空爆 5年前の話ではあるが 
  1994年 ユーゴスラビア紛争の収拾のために
  尽くした日本人を思い起こす。

  その人は 明石康 国連の旧ユーゴ問題担当・事務総長特別代表だ。

  国際連合保護軍の最高指揮権を附与されたが
  ボスニアにおいて攻勢を強めるセルビア人勢力への対応について
  国連やNATO軍が反セルビア色が強くなる中で
  中立的な立場で対応したため 十分な活躍を発揮し得なかったようだ。
 

  ガイドの説明では 
  「今のセルビア人は日本に対する親日度はとても良い」とのこと。

  この明石さんの活躍のこともあるのかもしれない。

  しかし 「セルビアには中国人が2万人も居るが
  日本人はまだ100人ほどで

  中国人によく間違われことが多い」とも。 

 


東欧旅行(211) 空爆

2013-07-02 | 東欧5カ国紀行

         

                    写真の写りが悪く申し訳ありません。


  前回の「クネズ・ミロシュ通り」の話題にした 空爆のビルがあった。

  1999年3月24日から6月11日までの78日間に 
  戦闘機約1000機 爆撃回数延べ3万5千回にわたり 
  ここ首都ベオグラードはNATO軍の空爆を受けている。

  その 4月29日には 主に官庁街が標的として
  過去最大規模の空爆があり

  当時 このビルにコソヴォ内の軍や治安部隊を指揮する
  連邦府軍の本部があったことから
 ミサイル攻撃を受けて炎上した。 

  そして 今も 戦争への戒めか 「セリビアの文化遺産」(2005年)として
  街の真ん中に堂々と無残な姿をさらして建っている。

 


東欧旅行(210) クネズ・ミロシュ通り

2013-07-01 | 東欧5カ国紀行

 

          

   今日 7月1日 クロアチアが 旧ユーゴでスロベニアに次ぎ
   欧州連合(EU)に加盟し 28カ国目の加盟国となった。
   これで バルカン半島の安定に向けての一歩前進となるか。

 

  さて ツアーバスは  陽が落ちた 「クネズ・ミロシュ通り」を行く。

  この通りの名は 前回「クズネ・ミハイロバ通り」を話題にしたが
  その父親の名からとっている。


  ここでガイドから 空爆で破壊されたビルが
  今もモニュメントとして瓦礫のまま残しているとの説明がある。

  1999年4月のNATOの空爆時は
  ユーゴ国防省・軍参謀本部等の建物が攻撃されたが

  その周囲の建物はほとんど無傷とういう
  主要な建物を爆撃するピンポイント攻撃で

  その無惨な姿をさらけだしたことから
  「空爆通り」などとも呼ばれている。



東欧旅行(209) ベオグラード大学

2013-06-30 | 東欧5カ国紀行

 

  旧市内の一角に ライトアップされた「ベオグラード大学」があった。

  えっ! これが大学? 飾りつけがないので 商業施設ではなく

  何か 役所的な建物に見えたが・・・

  1808年に創立されたセルビア共和国で最も歴史のある大学で

  30の学部および8つの研究所を擁し 教員数約3千人

  学生数約10万人の規模とのこと。

  また 1976年からは日本語講座も開設され

  大学の植物園には日本庭園もあるそうだ。

 


東欧旅行(208) 共和国広場

2013-06-29 | 東欧5カ国紀行

        
                     (資料から)

 
      
   さて 前回「共和国広場」が話題になりましたので 追加で話題に 

   ヨーロッパには「共和国広場」と名の付く広場が多くあるが
 

   ここベオグラードにもある。
 
   この広場は1945年11月29日の共和国制公布を記念して命名されている。 

  コソボ紛争時にはNATO軍の空爆にて ここ周辺は大きな被害を受けた。 

  しかし 現在は 広場に面して国立博物館や国立劇場などの建物が並び

  町の中心的な広場であるので 多くの人々が待ち合わせるなど

  場所としても有名になっている。




東欧旅行(207) ミハイロ公像

2013-06-28 | 東欧5カ国紀行

 

 前回 ミハイロ公の名が出たので
 その「ミハイロ・ オブレノヴィッチ公爵」の像が
 ミハイロ通りの先の共和国広場に建っている。

 セルビアは長きにわたってトルコの支配下にあったが
 父のミロシュ・オブレノヴィッチは 
武装蜂起し 戦争の結果
 トルコから公の称号を得て セルビア公国を成立させた。

 しかし ミロシュは 専横的な政治を実施したために
 国民の人評価はそれほど高くなかった。

 その跡を継いだ「ミハイロ」は ヨーロッパ風の
 近代的な都市づくりを推進し また軍の近代化と行政改革を実施し
 セルビアのトルコからの完全独立をめざしたが
 1868年 政敵によって暗殺されてしまう。

 だが 1878年のベルリン会議によって セルビアは
 トルコから完全に独立が認められて 
ミハイロの思いは成就された。 

 それにより 1882年 フィレンツェの彫刻家
 パッツィによって製作された 
騎馬像が
 共和国広場に建てられている。

 


東欧旅行(206) クネズミハイロバ通り

2013-06-27 | 東欧5カ国紀行

 

 

  ツアー一行は カレメグダン公園を後にし
  旧市街地の 「クネズミハイロバ通り」へ


  この通りは ユーゴの流行や情報の発信地にもなっており
 ベオグラードにおける“シャンゼリゼ”とも言われる。
 街並には 高級ブティック カフェ 本屋 画廊などが店を開き 

 歩行者天国として 夜になっても人通りは混雑している。

 通りは 1867年 カレメグダン公園(城塞)と
 旧市街を結ぶことを目的に建設されている。

 命名の由来は 1870年 セルビアをトルコから解放し
 独立へ導いた英雄として

 今も市民の人気を得ている「ミハイロ公」の名前が付けられた。

 因みに クネズとは、「公」という意味。

 

 


東欧旅行(205) 高額紙幣

2013-06-26 | 東欧5カ国紀行

            

              土産になるので 何枚か買い求めたが
            今では”5000億ディナール”も 宝くじのハズレ券と同様1枚の紙切れに!  

  
    カレメグダン公園から旧市街地に通ずる道端では
   土産物売りがパラソル型テントを並べている。

  その中で 現地ガイドが案内してくれたのが 地元のおばあさんの店。

  売っている物の中に 旧紙幣があったが。
  その紙幣の金額の桁数を見て ビックリする。

  0の数を数えて見たら11個もある。
  一体こんな金額も見たこともないが 何と 「5000億ディナール」とか。
  1ディナールが2円として 1億円になる。

   旧ユーゴでデノミは7回行われ うち5回は1990年~94年に行なわれ
  1993年の通貨切り下げでは 
   5000、1万、5万、50万、500万、5000万、5億、50億、500億
   5000億ディナール紙幣が次々発行された。
   1万ディナール紙幣を除いて 
   5の数字ばかりという不思議な組合せであった。
  
   
その当時 ミルク一杯が4億ディナール
   ソーセージ4本が14億ディナールと 気の遠くなるような物価だった。

  わが国は アベノミクスで ”デフレ脱却”がなるか!

 


東欧旅行(204) モニュメント

2013-06-25 | 東欧5カ国紀行

 

 

  カルメグダン公園の見学を終え
  旧市街地側のゲートを出たところに大きなモニメントがある。

  これは 第1次世界大戦の際に同盟国として
  セルビアを支援してくれた「フランスに感謝する銅像」だそうだ。
  女神が舞い 
台座には銃を構えるフランス兵士?が刻まれている。 

  また あとで分かったことだが
  公園の一角には “鹿おどしを模った噴水”があり

  その脇に「日本国民に感謝する泉」のプレートが置かれていて
  これは2010年 ベオグラード市が日本からのこれまでの支援に
  感謝するモニュメントとして設置されている。


   フランスへの感謝像と並ぶ公園内の記念碑となっているそうだ。

 


東欧旅行(203) 首都ベオグラード

2013-06-24 | 東欧5カ国紀行

             
               ベオグラードの市旗

  ドナウ河とサバ川が合流し 緩やかな丘陵地に広がる
  
セルビアの首都「ベオグラード」は 国の総全人口のうち
  24%の約180万人が暮らし
 年間平均気温は11.7℃で
  穏やかな大陸性気候だが
  
主に秋と冬には“コシャバ”と呼ばれる乾燥した風が吹く。

  ベオグラードは ヨーロッパ最古の町の一つで 
  アテネ ローマに次いで古い首都。

  
  古くから西欧と東欧の道が交わる重要な交差点であり
  約2千年に渡る歴史から見て その恵まれた地理的な環境から
  ケルト人 ローマ人 ビザンチン人 スラブ人 ハンガリア人
  トルコ人などにより占領され そのたびに砦を造ってきているため 
  いろいろな様式が取り入れられている。

  そして 文明の十字路としても 町並みや建築だけでなく
  食文化 音楽などにおいても 中央ヨーロッパとオリエントの
  様々な影響を受けてきている。


  ベオグラードの町の由来は、「白い要塞」という意味。
  かつて この都を攻め落とそうとしたオスマン帝国軍の将兵は
  ドナウ河とサバ川の合流を見下ろす
   “白く光っている石積みの要塞” を見て付けた名前で
  
 “ベオ”は 「白い」 
    “グラード”は 「要塞・城砦」(または
「町・都市」)  という意味だそうだ。


東欧旅行(202) 合流

2013-06-23 | 東欧5カ国紀行

         カレメグダン公園ら見る。 左側サバ川がドナウ河へと合流する地点

 

  ドイツを源流とし 中央ヨーロッパ大陸を潤し延々と流れてきたドナウ河と 
  一方 アルプスの麓から流れ出て バルカン半島の中央を流れるサバ川とが
  ここで合流し 東へと流れを変え 黒海に向かって流れ下っていく。

   このドナウ河とサバ川は 昔から国際的にも重要な水路であり
  また 自然的な国境線となっていた。


  ベオグラードの歴史は この合流地点という地理的位置とともに発展してきた。
  そのため 「バルカンへの入り口」「中央ヨーロッパの玄関」とも呼ばれていた。

   ここから眺める夕日は最高らしいが 生憎の曇り空とその時間では無かった。

 


東欧旅行(201) ダリ・アマ・パシャ

2013-06-22 | 東欧5カ国紀行

 

 

   城内の真ん中どころに デンとどっしり構えた建物があり
   何かと後で調べる。

   これは 「ダリ・アマ・パシャ」 
   トルコ支配期の総督の棺が安置されている祠だった。

   「パシャ」は オスマン帝国の高官 高級軍人の称号をいう。

   まだまだ 城内には オスマン帝国 トルコの名残が あちこちにあるようだ