正門側から
ヤスナ・グラ修道院は 標高293mの高台に建っている。
創建は1382年 ピアスト家のオポルチク公の命で
聖パウロ修道会のために建造
その後 1632年から1684年にかけて改修されている。
修道院には 外観はバジリカ様式
内装は バロック様式の聖堂と
黒いマリアを祀る教会と 2つの建物で構成されている。
聖堂には 高さ105mの塔が聳えるが
緑色の屋根とクリーム色の外観と調和して美しい。
現在も100人ほどの修道士が起居している。
正門側から
ヤスナ・グラ修道院は 標高293mの高台に建っている。
創建は1382年 ピアスト家のオポルチク公の命で
聖パウロ修道会のために建造
その後 1632年から1684年にかけて改修されている。
修道院には 外観はバジリカ様式
内装は バロック様式の聖堂と
黒いマリアを祀る教会と 2つの建物で構成されている。
聖堂には 高さ105mの塔が聳えるが
緑色の屋根とクリーム色の外観と調和して美しい。
現在も100人ほどの修道士が起居している。
チェンストホーヴァの町からヤスナ・グラ修道院を望む
ポーランド最大の巡礼地「チェンストホーヴァ」へ。
クラクフから北北西ワルシャワに向かって途中
シロンスク県のチェンストホーヴァへは バスで3時間。
ポーランドを代表するカトリックの巡礼地として
ヤスナ・グラ修道院詣で 毎年1千万人もの巡礼者が
ポーランドだけでなく世界各地から集まる。
特に8月15日の聖母被昇天の日には、
ポーランド各地からヤスナ・グラを目指して
歩いてやってくる信者でにぎわう。
ポーランドは、国民の95%以上がキリスト教徒で
そのほとんどがカトリック
聖母マリアへの信仰が厚いことが特徴だ。
ヤスナ・グラという言葉は
「明るく澄んだ山」「光の丘」という意味で
この修道院が標高293メートルの高台にあって
他に高い建物がないことから街のどこからも望める。
こちらは修道院から街を望む
前列左が シュピルマン (NHK・BSから)
前回 NHK・BS番組で 映画『戦場のピアニスト』の
モデルとなったユダヤ系ポーランド人の
ピアニストのシュピルマンと近衛秀麿と関係があったこと
また そのシュピルマンが来日していたことも知る。
近衛秀麿との関係は
秀麿が日本への亡命を手助けした
著名なピアニスト レオナード・クロイツァーが
ベルリン音楽大学教授であったとき
教えたのがシュピルマンだった。
レオナード・クロイツァー(1884-1953年)は
1933年 再来日し 近衛秀麿の求めに応じて帰独せず
1937年から亡くなるまで
東京音楽学校(現:東京芸術大学)教授をつとめた。
そして1964年「ワルシャワ・ピアノ五重奏団」として
シュピルマンを招き 公演会を開演していた。
ウワディスワフ・シュピルマン(1911-2000年)は
1933年 ワルシャワでポーランド放送の
ピアニストとして音楽家活動を始める。
1939年 ヒトラーのポーランド侵攻により
第二次世界大戦が勃発する。
ドイツ占領下のポーランドでナチス・ドイツによる
ユダヤ人への大量虐殺(ホロコースト)を
目の当たりにする。
家族全員が絶滅収容所送りとなり、
ワルシャワ蜂起後の廃墟を逃亡する中を、
ドイツ軍の将校
ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉によって
命を救われた。
戦後はポーランド放送へ復職した。
1946年 戦時中の体験をまとめた
「ある都市の死」を出版し
2002年にはこれを原作とした
映画「戦場のピアニスト」が公開された。
(ウキペディアから)
(NHK・BSから)
(2018/08/14 朝日新聞)
ポーランドと日本との文化交流での話題がここにもあった。
(NHK・BSから)
ナチスの迫害からユダヤ人を救った話として
「杉原千畝」「シンドラーのリスト」等
前に何度か触れた。
NHK・BS「戦火のマエストロ・近衛秀麿
~ユダヤ人の命を救った音楽家~」で
近衛秀麿も同じように迫害を受けた
ユダヤ人音楽家を逃亡させる
人道的な活動をしていたことを知る。
近衛秀麿(1898-1973)は
名門華族・近衛家の二男で
兄は首相となった近衛文麿。
独学で音楽を学び 1924年25歳で
日本人として初のベルリン・フィルハモニーの
指揮者としてデビューし
以後 指揮者として世界中で活躍し
マエストロ(大音楽家)と認められて
ドイツ中心にオーケストラを
指揮し活躍していた。
第二次世界大戦が勃発した後も
ドイツに留まって 近衛文麿の弟として
日独親善の先頭に立って
戦乱に傷つく欧州各地で
指揮棒を振り続けるとともに
自らの特殊な立場を活かし
身に危険がぶことも顧みず
迫害を受けたユダヤ人音楽家の
国外逃亡を陰で手助けしていた。
その人数は約50人にも及ぶとも。
また ナチスに占領され戦火の中であった
ポーランドでも演奏会を行っていたという。
その時の演奏がワルシャワのポーランド劇場で
ポーランド人の演奏家60名で編成された
オーケストラにより「未完成交響曲」を
再現する場面もあった。
(NHK・BSから)
工場に向かう予定が手違いでアウシュビッツ収容所に着いた
女性と子供を乗せた列車の場面
この場面 実際に同地で撮影が行なわれた。
しかし 敷地内での撮影許可は取れず
収容所の中から汽車を走らせ到着したように見せるため
門の外側にセットが組まれたという。
史実に基づいて制作されたというが
エキストラやセットは
当時の写真と違いが分からないほど写実的だ。
映画「シンドラーのリスト」(1993年公開)は
ユダヤ系アメリカ人である
スティーヴン・スピルバーグ監督により制作された。
第66回アカデミー賞で 作品賞 監督賞 脚色賞
撮影賞 編集賞 美術賞 作曲賞の7部門を受賞している。
第二次世界大戦時にドイツによるユダヤ人の
組織的大量虐殺(ホロコースト)が
東欧のドイツ占領地で進む中、
ドイツ人実業家オスカー・シンドラーが
1100人以上ものポーランド系ユダヤ人を自身が
経営する軍需工場に必要な生産力だという名目で
絶滅収容所送りを阻止し、
その命を救った実話をもとにしている。
ラストシーンのシンドラーの墓 (DVDから)
彼の墓は彼自身の希望により
エルサレムのローマ・カトリックの教会墓地にある。
オスカー・シンドラー(1908-1974年)は
メーレン(当時オーストリア領、現チェコ領)生まれの
ズデーテン・ドイツ人の実業家。
DVD
前にアンネ・フランク(1929-1945年)に
触れた「アンネの日記」について
日記は 1942/6/12に始まり
1944/8/1に終わっているが
自分と周りの人々とのかかわりを織り交ぜて
アンネの葛藤や成長が生き生きと描かれている。
また 未来に希望を持ち続け
平和を希求する生き方が文面に表れている。
その中で1944年5月3日の日記には
「いったい全体、戦争がなになるだろう。
なぜ人間はおたがいに仲よく暮らせないのだろう。
なんのためにこれだけの破壊が続けられるのだろう。」
また「いったいどうして人間は、
こんなに愚かなのでしょう?
わたしは思うのですが、戦争の責任は、
偉い人たちや政治家、資本家にだけあのではありません。
そうなんです、責任は名もない一般の人たちにもあるのです。
そうでなかったら、世界じゅうの人びとはとうに立ちあがって、
革命を起こしていたでしょうから。」
とある。
戦争は人間の破壊本能・殺りく本能が
そうさせていることまで述べている。
14歳の少女が 隠れ家で外の情報がない中
綴った文とは思えない・・・。
当時の三段ベッド
ベッドには腐った葉が敷き詰められ
1段につき約8人が寝ていたそうだ。
連続して開いた丸い穴は
“カマド”かと思ったが「トイレ」だった。
トイレの使用は 午前・午後2回に制限されており
仕切りになるものもなく 一斉に使用を強制されていた。
痩せすぎて穴の中に落ちてしまう被収容者もいたそうだ。
上水道も下水道も整備されておらず
掘った溝に流していたようで
チフスや赤痢などの伝染病が蔓延し
これにより死亡した者も多かった。
前回 アンネについて触れたが その後について
1944年11月 ソ連軍の接近に伴いアンネと姉マルゴーは
母エーディトと切り離されて
ベルゲン・ベルゼン強制収容所(ドイツ・プロイセン州)へ
送られることとなり
母エーディトとはここで最期の別れとなった。
到着したベルゲン・ベルゼン強制収容所も
ここビルケナウ収容所以上に不潔で病が大流行していた。
また食料もほとんど与えられず
餓死者と病死者が続出する収容所だった。
こんな中 アンネはチフスに罹患して
1945年2~3月?に命を落としたという。
死の門の北に広がるBⅡの被収容者棟
木造のバラック内は
人が生活する状況には見えない
「絶滅」のための施設だ。
一部は馬小屋を改造したともいうが
まさに被収容者は家畜同然
いやそれ以下の扱いを受けていたのだろう。
こんな状況の中
被収容者は精神的にも体力的にも限界に達し
極限状態で 生と死の境目を負わされていたのだ。
何と! このビルケナウ収容所に
「アンネの日記」の
アンネ・フランクが収容されていたという。
1944年9月6日
アンネのオランダの隠れ家 8人全員は
ビルケナウ収容所に到着し
全員労働可能と認定され ガス室送りを免れた。
そして 髪は丸刈りにされ
左腕には収容者番号を入れられて
死の門の南側 BⅠ地区の女子収容施設
29号棟へ入れられたという。
(Web資料から)
ビルケナウ収容所は 1941年に開所され
最盛期には300棟に10万人近くが詰め込まれた。
現在 45棟のレンガ造りの建物と
22棟の木造バラックが残されているだけ。
①死の門
(今はインフォメーションセンターになっている。)
②ガス室と焼却炉の跡 4か所
③国際犠牲者記念碑
④焼却炉からの灰が捨てられた池
⑨トイレ・洗面所
⑩死の門をくぐって入ってきた列車はこの付近で停車
降ろされた被収容者は
直ちにSS医師による「選別」を受け
大部分の人が労働不能とみなされ
その日のうちにガス室で殺害されたそうだ。
所内には 生産性のものは一切なく
すべてが「死」への施設が並び
ガス室 飢餓 病気 過酷労働 口封じ
見せしめ 絞首刑 そして自殺の死など
ありとあらゆる「死」が
ここで繰り広げられていた。
東側ゲート
所内へと引き込み線がのびている。
第二強制収容所ビルケナウの正門
別名「死の門」と呼ばれた
SS中央衛兵所を望む写真は
収容所の象徴的な一枚にもなっている。
被収容者たちは家畜専用の運搬車両に
押し込められてこの地にやってきた。
到着するなり男女に分けられ
さらに働ける者と働けない者に選別され
すぐにガス室に送られるか
また劣悪な条件のもと 死の恐怖と隣り合わせの中
過酷な重労働に就かされるかの どちらかだったのだ。
そして 多くの人々にとって
ここが 家族や友人の姿を見た 最後の場所となった。
アウシュヴィッツ収容所(赤色)の見学終え
ビルケナウ収容所(橙色)へ向かう。
アウシュヴィッツ収容所が出来て
1年後には一杯になり 3km離れたところに
第2収容所・ビルケナウ収容所が
開所(1941年10月)されている。
総面積は 1.75km2(東京ドーム約37個分)で
300以上の施設から成る。
収容所内まで鉄道が引き込まれ
死が待ち受ける終着駅になっている。
建設には主にソ連兵捕虜が従事したとされる。
ピーク時の1944年には 9万人が収容され
殺害された人数もアウシュヴィッツより数倍にもなる。
野外での銃殺や焼却も日常的に行われた。
ドイツ軍は撤退のときには
これらの大部分を破壊し 証拠の隠滅を図っている。
ガス室/焼却場の見取図
1942年当時(左) 現在(右)
顔色などを見て 働けないと判断されると
シャワーを浴びるようにと指示され、洋服を脱ぎ
シャワー室に見せかけたガス室(図C)
にギュウギュウ詰にされたあと
天井の穴から噴射されたチクロンBで
15分~20分で殺害された。
部屋はカムフラージュのためのシャワーの蛇口まであった。
SS隊員はチクロンの投入後は手を下すことはなく
死体の運搬・焼却は被収容者の中から
選ばれた者にやらせていた。
しかし 彼らも口封じのため順次処分されていた。
また 遺体から金歯や指輪など換金されるものが抜き取られた。
ガス室はガスが抜けるのに時間がかかり効率が悪いと言うので
色々な殺し方を考え実行していたようだ。
焼却炉2基
隣には焼却炉(図d)があり
24時間フル稼働 1日100人もが焼かれた。
終戦間際 ソ連軍の進行が迫ってきたとき破壊されたが
3基のうち2基が 復元されている。
ルドルフ・ヘスの絞首台
ガス室のすぐ横にあるこの絞首台で収容所の所長だった
ルドルフ・フェルディナント・ヘスが1947年処刑された。
通常はルドルフ・ヘスと表記されるので、
ナチ副総統(総統代理)の
ルドルフ・ヘスと同名で混同するが。
収容所の初代所長 ルドルフ・ヘスは
戦後すぐは一般人に紛れてドイツ内で隠れ住んでいたが
1946年に発見され逮捕され
裁判の後 1947年4月16日
ここで絞首刑が執行された。
この絞首台近く ヘスが住んでいた住居がある。
横棒は鉄道レールのようだ。
絞首刑の様子を被収容者の目に焼きつけ恐怖心を煽るため
ナチスはここで公開絞首刑も行った。
3人の囚人の逃亡を助け
また外部と連絡を取っていたと
疑われた12人のポーランド人が、
この場で1943年7月19日
一緒に絞首刑に処された。
点呼責任者用の番小屋
元被収容者が1973年に描いた
「1941年の点呼の様子」
朝夕出入りした正門ゲート
SS隊員が人数を確認する様子が見える。
収容所は夏:朝4時半・冬:朝5時半から重労働が始まり
日没前に死亡・殺害された仲間の
遺体を担いで収容所に戻ったという。
労働の出入りの際
音楽隊の演奏する行進曲に合わせて行進させ
人数の確認を容易にしていたようだ。
第11号棟 “死のブロック”
前回 地下牢で触れたが
餓死刑に選ばれた男性の
身代わりとなって死んだ神父がいた。
ポーランドのカトリック司祭
マクシミリアン・マリア・コベル神父
(1894 -1941年)は
コンベンツァル聖フランシスコ修道会に
属して布教活動に従事していた。
ナチスに不利益をもたらすとされた
ポーランド「政治犯」も多数収容されていた中
1936年 ナチスドイツに捕らえられる。
収容中の1941年7月末 収容所から脱走者が出たことで
無作為に選ばれた10人が 餓死刑を命じられた。
コペル神父は その一人 ポーランド人男性の
身代わりとなって 9人の仲間とともに
「16670」の認識番号を
刺青され 18号牢に入れられた。
2週間後の 8月14日まだ息があった神父は
フェノール注射によって殺害された。
その遺体は翌日 他の何万という遺体と同様
火葬場に運ばれ焼却された。
コルベ神父が救ったのは、
身代りの命だけではなかった。
神父の指導により牢内は祈りと聖歌に満ち、
聖堂のような清らかさであったという証言が残っており
今は「アウシュヴィッツの聖者」と呼ばれている。
コルベ神父は収容される前
日本・長崎に居たという。
そのまま長崎に居れば被ばくしたかもしれなかったが
1933年日本から帰国後 収容されてしまったのだ。
こんな運命的な出来事は
遠藤周作著「女の一生(第二部)」
神父がアウシュヴィッツに送られて身代わりとなって
亡くなるまでの様子を小説にしている。
コペル神父
(ウィキペディアから)