あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

島根旅行(80) カフェ・カリアーリ

2015-03-22 | 国内・島根

 

 

ここも 古民家を改修し 町並みに溶け込んだカフェ店がある。

エンブレムの看板には「カフェ・カリアーリ」とあり

 初めて聞く名前だが そのいわれも掲示してある。


カフェ・カリアーリ 社とは 1909年にイタリア・モデナで創業され

 世界の著名人からも愛飲されて歴史あるコーヒーとある。

この店が 日本で唯一認められた総輸入元になっているとも。

このコーヒーは 大量生産主義を否定するコーヒーへのこだわりがあって

焙煎から包装にいたる全工程を通じて

微生物検査をふくめた厳しい品質管理を徹底しており

世界中の優良農園から選ばれた生豆は大量生産に向かない

「分離焙煎」で丁寧に焙煎され

100年以上も門外不出の「秘伝のレシピ」に従って

ブレンドされているという。


伝統的な日本家屋の雰囲気を残す店内で

イタリアの本格コーヒーが飲めると 人気があるようだ


島根旅行(79) 竜宮門

2015-03-21 | 国内・島根

 

 

 大森の町並みに入って 左手 石段の上に

"竜宮"の門のような 門構えの お寺を見る。

この寺は「宝泉寺」 1596年(慶長元)年の

創建の曹洞宗の寺院で 禅の修行道場であった。

1800(寛政12)年の大火後 1807(文化4)年に 再建されたという。

また 薩摩芋を広めた 第19代代官・井戸平左衛門 とゆかりがあり

「お芋発祥の寺」とも いわれている。


この門には いわれがあって 

日光や長崎の徳川家の山門に似ているところから
 
徳川天領の代官から 取り壊しの命が下ったが 

門にむしろを掛け 板囲いして 通行止めしてしまった。

こうして 日の目を見ずに 何年か経つうち

 幕府が崩壊し 明治になって
 
山門は取り壊しの難を免れたという。

 

 

 

 


島根旅行(78) 大森の町並み

2015-03-20 | 国内・島根

 

  

銀山街道を下り 大森の町並みへ 

この通りに差し掛かり 昔の宿場の面影を残す

木曽路・妻籠宿を思い起こしたが

ここ大森の町並みも 歴史的な建造物や文化財など

当時の面影を残し
どこか 懐かしい雰囲気が漂う。

世界遺産になって 環境に配慮した石見銀山 その景観を壊さないよう

自動販売機 消火栓 エアコンなど近代的な機材も 木材で囲いされている。

 一方で 古民家の趣を残しつつ 新しさも取り入れた 店やカフェなどもあるが

 落ち着いた街並みに溶け込んでいる。

 




島根旅行(77) ごまどうふ

2015-03-19 | 国内・島根

 

銀山街道を更に下ると 

「鮮魚 ごまどうふ」の看板を掲げる商店をみる。

この中田商店は 川魚を扱う鮮魚店だが “手作りとうふ”を作っている。

良質のゴマとクズを使い 時間をかけてよく練り上げてあり

 プルンとした食感と滑らかな口当たりとゴマの香りが人気で

そのまま ワサビじょうゆで食べるのが美味しいらしい。

中田商店は 脱サラした店主が 昭和51年に開店し

 他店にない手作りの商品をと ごまどうふの試作を重ねて

人気の商品化ができたという。

NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」の撮影(2006年)が 

この店であったとの標柱が店前にあった。

 


島根旅行(76) 下河原吹屋跡

2015-03-18 | 国内・島根

 

銀山街道を下って来ると 西本寺の前 広い敷地に櫓が建っている。

ここは 「下河原吹屋跡」で 発掘調査によって初めて発見された

江戸時代初めの銀精錬遺跡。


鉛を利用した「灰吹」法と呼ばれる精錬法で銀を取り出していたそう... 

この技法は 朝鮮半島から伝えられた銀の製錬方法で

 国内では石見銀山に最初に導入され 

その後全国の鉱山に飛躍的に普及し 

現在でもその原理が使われている。


このことから 石見銀山が日本の「鉱業技術発祥の地」と呼ばれている。


遺跡には、銀鉱石を砕いた要石や選別のために水をためていた跡などがあり

また この櫓に上ると 銀山エリアを眺めることができるとのことだが

時間がないので割愛しました。

 

 


島根旅行(75) 豊栄神社

2015-03-17 | 国内・島根

 

 

銀山街道を下っていくと 

左手に 「豊栄神社」の石塔が建っている。

 

豊栄の名にしては少々寂しさが漂うが 

 

ご祭神は 戦国時代石見銀山を14年間領有した安芸国郡山城主元就。

 

 今NHKの「花燃ゆ」が放映されているが

 この大森も 幕末の嵐が吹き荒れ

1865(慶応元)年5月 幕府は再度の長州攻めを開始し

 翌6月には 長州軍が浜田を手中にし


さらに銀山領へと迫った。


これに驚いた当時の代官は7月に 

地役人を引き連れで倉敷へ逃亡してしまった。


これにより 約2世紀半 57代の奉行・代官による

銀山の幕府支配は終わり


その4日後には長州軍が大森に進軍してきている。

 その長州軍の隊士が浄財を募り境内地を整備したともいう。

1867(慶応3)年 徳川幕府は崩壊した。

翌年廃藩置県により「大森県」が誕生し 代官所跡に県庁が置かれた。

その後大森県は、1870(明治3)年に浜田県となった後

 島根県に編入されている。



 


島根旅行(74) 佐毘売山神社

2015-03-16 | 国内・島根

 

  100段ほどの石段の先に社殿がある。



龍源寺間歩を出たところが 栃畑谷である。

そこから「銀の小径」を下ったところに 

「佐毘売山(さひめやま)神社」がある   


この神社 鉱山の守り神「金山彦命」を祀っており

 石見銀山では 最大の神社


また 山神社では国内最大級の社殿がある。

 
資料によれば さひめ山とは 三瓶山の古名で

当初は、金山姫命・埴山姫命・木花咲耶姫命の

三柱の姫神を祀った
姫山神社であったが 

1430(永享6)年頃 周防の大内氏が石見国美濃郡益田村から


金山彦命を勧請合せて大山祇命をも祀って

 五社大権現と称していた。

   
鉱山を領有した大内氏 尼子氏および毛利氏により

崇敬保護されたという。

 

 


島根旅行(73) サザエ灯

2015-03-15 | 国内・島根

 

 こちらは 間歩(坑道)で用に使われていた

「螺灯」(らとう)というレプイカだが

サザエの殻になたね油を入れて火を灯す明かりのこと。

坑口を出たところに飾ってあった。 

因みに この螺灯と鉱夫をモチーフにして 

太田市のスコットキャラクター「らとちゃん」にもなっている。 

「恥ずかしがり屋さんだけど いったん「火」がつくと

ソコヌケに明るい性格なのだとか…。


頭に揺れる小さな炎で 人々の心や地域の

未来に明かりを灯します。」 とあった。

 


島根旅行(72) 鉱脈と植物

2015-03-14 | 国内・島根

 

 

間歩の入り口周辺には「シダ」が多く茂っている。

このシダは鉱山鉱脈を探し当てる一つの手掛かりになっているそうだ。

古くから山師連中から 金山草(かなやまそう)と呼ばれていたが

和名は蛇の寝御座(ヘビノネゴザ)で 夏緑性のシダ植物。

このシダは 有毒な金属を無毒化し周辺への拡散を防ぎながら

自然を回復する力をもっているそうだ。

また シダの中に細い茎の先に可憐な白い花は

「白山旗竿」(ハクサンハタザオ)で 
同じシダの仲間だが 

どちらも金・銀・銅山などの露頭や鉱床に咲くというので 


これも鉱脈探しの一つとか。

 因みに 「ヘビノネゴザ」はカドミウム 亜鉛 銅および鉛に

「ハクサンハタザオ」は カドミウム等の土壌汚染に効果がある。

 「梅」も 一役かっている。

坑内作業では粉じんによる鉱毒を防ぐため 

マスクに梅肉を挟んで銀を掘り 


 重労働の鉱夫の疲労回復や健康維持の活用から 梅多く栽培された。


今もこの周辺では 梅の木が多くみられる。


また一方で「竹」も当時 坑内の水抜きなどに多く利用されていた。

しかし廃坑以降 その竹藪が放置されてしまった結果 


竹の根が 岩の裂け目等にはびこり坑道を破壊し


まさに廃坑になっていることから


今ボランテアの手を借りて 竹藪の伐採を行っているそうだ。

 

 


島根旅行(71) 労災制度

2015-03-13 | 国内・島根

 

                                       龍源寺間歩の出口に飾られている鉱石

  

この石見銀山は 流刑人を強制的に働かせた佐渡金山などとは違って  

近隣から集まった人々を雇いあげて働かせていたという。


当時のイメージでは考えられないほどの扱いであり

山師などは専門職として準武士扱いで 苗字帯刀も許されていた。

天領地であったので 鉱夫は柵内と呼ばれる杭のあった外へは

出ることは許されなかったようだが


しかし いくつかの職住一体型の集落を設け

最盛期には20万人にもなり結構裕福に生活していたようだ。

また 驚くことに 極悪な環境での作業で 働けなくなると 

60日間 米五合や味噌などが支給されたりしていたという。

このことは 日本での最初の労災制度ともみられている。




島根旅行(70) 長寿の祝

2015-03-12 | 国内・島根

 

 一般の間歩の出入り口は一つであるが

現在の「龍源寺間歩」には 


平成元年に157mのところから新しく観光用に

 ややのぼりの116mの坑道(栃畑谷新坑)が設けられた。


右壁には 島根県指定文化財(古文書)「石見銀山絵巻二巻」のうち

上巻から坑道内作業の様子を15枚が 電照板として展示されている。

 

その人夫たちは 幕府から十分な食料を与えられて

裕福な生活をしていたが


それと引き換えに 過酷な労働を強いられ

また落盤事故や鉱山病などで 

30歳まで生きられる者はほとんどいなく 

30歳を迎えたときは 豪華に長寿?のお祝いをしたそうだ。

 

 


島根旅行(69) 龍源寺間歩 2

2015-03-11 | 国内・島根

 

「龍源寺間歩」の 坑木などを組み合わせて作られている坑口から入ると

今まで歩いてきた汗がスーっとひいて 一気にクールダウンしていく。


間歩のなかは 年中15℃前後になっているそうだ。


坑道は 大久保間歩に次いで長く約600mあるが 

一般に公開されているのは そのうち273m(新坑道含む)で

 世界遺産の坑道としては あっさりしたもので

 ここまで歩いてきたのに 少々期待外れであった。


 今までに見てきた新潟県の「佐渡銀山」や

大分県の「鯛生金山」のほうが

坑道も長くそして変化があって 見応えがあったと思うが。


坑道の壁面 には当時のノミの跡がそのまま残っており

 排水のため垂直に100mも掘られた竪坑も見ることができ

当時の作業の様子がわかる。


また 新道坑には石見銀山絵巻等を展示している。

 

 


島根旅行(68) 龍源寺間歩 1

2015-03-10 | 国内・島根

 

 

やっとのことで「龍源寺間歩」にたどり着く。


 この間歩は 御直山(おじきやま)五ヶ山(龍源寺、永久、大久保、新切、

新横相の間歩)のひとつ 江戸時代の中頃に開発された

代官所直営の坑道で 

現在 唯一 一般公開されている間歩である。


石見銀山の間歩群では 龍源寺をはじめ

釜屋、新切、大久保、福神山、本、新横相の7つの間歩が

国の史跡として登録されているがこのほかにも

石見銀山には 600を越える間歩があり、

龍源寺間歩よりも規模の大きい間歩や

 露頭掘り跡がたくさん残されているそうだ。

 

 


島根旅行(67) 福神山間歩

2015-03-09 | 国内・島根

 

 

 龍源寺間歩の手前 銀山街道の右側に

 「福神山間歩」の坑道口が見える。

「間歩」とは 鉱山の掘り口のことをいう。

説明文によれば


この間歩は 採掘にあたった山師個人が経営した「自分山」であったが


一時期 代官所直営の「御直山」(おじきやま)に

なったことがある間歩だそうだ。


「御直山」は23か所あり 

「自分山」は1730(享保14)年には55か所あったが


1844(天保15)年には9か所になってしまう。

坑口が3ヶ所あって 上段の坑は空気抜き坑 下段の2坑は中でつながり

銀山街道の下から 銀山川の下をくぐって 

後にそびえる銀山の最高地「仙の山」の方向に

掘り進んだと伝えられ 

一般の坑口は「仙の山」方向に開いているが

 この坑道は逆方向に向かって開いている 珍しい坑道だそうです。

 

 

 


島根旅行(66) 高橋家

2015-03-08 | 国内・島根

 

 さらに歩を進めると

ボランテアガイドが 熱の入った説明をしている「高橋家」がある。

この高橋家は 唯一残っている山組頭(やまぐみがしら)の遺宅だそうで

説明文によれば 山組頭は

 代官所と鉱山経営者である銀山師たちとの

取次ぎなどを勤める役職で 銀山師の中から選ばれた。


また 町年寄は 周囲に拡がっていた銀山経営に

携わる人たちが住む町の運営に係る役職とのこと。


建物は通りに面して主屋があり 北側に茶室

 南側に離れ座敷を設けている。


付随する建物では酒造なども行っていたそうだ。