たとえば、花を育てるのが好きな人がいて(仮にAさんとしよう)、ささやかな庭でいろんな花を咲かせてそのそれぞれを慈しみ、幸せを感じているとする。
←独学のまま楽しみを育てていくのも難しいと思う
またBさんという人がいて、同じく自分の庭でいろんな花を育てているのだけど、Bさんは立派に咲いた花や、庭の様子を写真に収め、投稿してイイネをたくさんもらったりするのが好きで、とうとうガーデニングの雑誌に投稿して賞を取ったりしてとても幸せを感じているとしよう。
さてこの場合、
- Aさんの幸せよりBさんの幸せのほうが大きいのか?
- AさんよりBさんのほうが意識が高くレベルが高いのか?
といったら、
それはもう比べる意味がないというか、お好みでどちらの路線でもどうぞというか、
まぁいってみれば余計なお世話。
Aさんが幸せであることについて何の問題もないわけで、もしも、レイアウトのセンスが悪いだとか、花壇のしつらえがみすぼらしいだとか、そんなケチをつける人がいたら(いちいちそんなことをする人もいないだろうが)、まったくやぼというものだろう。
あと、これまた余計なお世話だとは思うが、なんとなくだけど、BさんよりむしろAさんのほうが持続可能な幸せというか、安定した幸せを感じやすいような気がしてしまう。それは、Bさんのほうが自分の幸せを外部の評価に依っているため、それが移ろったら即、幸せが損なわれてしまいそうだからだ。
このたとえ話をピアノに引きうつして、ピアノだって弾いてて自分が楽しければよくて、弾き方がおかしかろうが下手だろうが傍がとやかくいう必要はないじゃないかということをいいたい、というわけではない。
それは、このたとえ話には、ピアノと合う部分と、合わない部分の両方があると思うからだ。
合わない部分というのは、ピアノを弾く(演奏する)ということが、ほかの人に何かを伝える、表現するということを本質的に含んでいるということだ。もちろん「自分」というのも一人目の聞き手ではあるので、誰もいないところでしか弾く意味はないわけではないんだけれど、それも含めて「誰か」が演奏を聞く、何かを感じるということがやはりピアノを弾くことの意味だと思う。
そうすると、弾き方が客観的(?)にみて「いい感じ」なのかどうか、ということはピアノを弾く幸せの度合いとどうしても関係があるだろう。
もちろん、現在弾ける範囲の出来で(それが客観的にみてしょぼくても)本人がいっぱいの幸せを感じる分にはまったく問題なく、他人にとやかく言われる筋合いはないのでその点についていえばお花のたとえと同じなんだけれど、
それはそれとして、他人からの評価というものにもアンテナを張りつつ、よりよい弾き方を模索してみることで、気が付いたら幸せの度合いがアップするということは大いにありそうなことだ。
ただ、このときに、幸せの源を他人の評価というものに直に置いてしまうよりは、
他人の評価という手助けを借りて弾き方を工夫してみたら、結果的に自分が自分のために弾くときの楽しみと幸せが成長したという、そちら側に本質があったらいい…
この場合、「いい」というのは幸せが安定し、さらに深まっていきやすいという意味。
そう考えると、そんな路線に適した評価というのは、やはり(信頼できる先生の)レッスンが一番かなと思う。コンクールだと刺激が強すぎて、幸せの軸足をそっちに置かないようにするのも難しいことだし、コンクールなどの評価であれ、練習会などでの他参加者のコメントであれ、その基準や方向は流動的で適切な受け取り方はわかりにくいので。
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またBさんという人がいて、同じく自分の庭でいろんな花を育てているのだけど、Bさんは立派に咲いた花や、庭の様子を写真に収め、投稿してイイネをたくさんもらったりするのが好きで、とうとうガーデニングの雑誌に投稿して賞を取ったりしてとても幸せを感じているとしよう。
さてこの場合、
- Aさんの幸せよりBさんの幸せのほうが大きいのか?
- AさんよりBさんのほうが意識が高くレベルが高いのか?
といったら、
それはもう比べる意味がないというか、お好みでどちらの路線でもどうぞというか、
まぁいってみれば余計なお世話。
Aさんが幸せであることについて何の問題もないわけで、もしも、レイアウトのセンスが悪いだとか、花壇のしつらえがみすぼらしいだとか、そんなケチをつける人がいたら(いちいちそんなことをする人もいないだろうが)、まったくやぼというものだろう。
あと、これまた余計なお世話だとは思うが、なんとなくだけど、BさんよりむしろAさんのほうが持続可能な幸せというか、安定した幸せを感じやすいような気がしてしまう。それは、Bさんのほうが自分の幸せを外部の評価に依っているため、それが移ろったら即、幸せが損なわれてしまいそうだからだ。
このたとえ話をピアノに引きうつして、ピアノだって弾いてて自分が楽しければよくて、弾き方がおかしかろうが下手だろうが傍がとやかくいう必要はないじゃないかということをいいたい、というわけではない。
それは、このたとえ話には、ピアノと合う部分と、合わない部分の両方があると思うからだ。
合わない部分というのは、ピアノを弾く(演奏する)ということが、ほかの人に何かを伝える、表現するということを本質的に含んでいるということだ。もちろん「自分」というのも一人目の聞き手ではあるので、誰もいないところでしか弾く意味はないわけではないんだけれど、それも含めて「誰か」が演奏を聞く、何かを感じるということがやはりピアノを弾くことの意味だと思う。
そうすると、弾き方が客観的(?)にみて「いい感じ」なのかどうか、ということはピアノを弾く幸せの度合いとどうしても関係があるだろう。
もちろん、現在弾ける範囲の出来で(それが客観的にみてしょぼくても)本人がいっぱいの幸せを感じる分にはまったく問題なく、他人にとやかく言われる筋合いはないのでその点についていえばお花のたとえと同じなんだけれど、
それはそれとして、他人からの評価というものにもアンテナを張りつつ、よりよい弾き方を模索してみることで、気が付いたら幸せの度合いがアップするということは大いにありそうなことだ。
ただ、このときに、幸せの源を他人の評価というものに直に置いてしまうよりは、
他人の評価という手助けを借りて弾き方を工夫してみたら、結果的に自分が自分のために弾くときの楽しみと幸せが成長したという、そちら側に本質があったらいい…
この場合、「いい」というのは幸せが安定し、さらに深まっていきやすいという意味。
そう考えると、そんな路線に適した評価というのは、やはり(信頼できる先生の)レッスンが一番かなと思う。コンクールだと刺激が強すぎて、幸せの軸足をそっちに置かないようにするのも難しいことだし、コンクールなどの評価であれ、練習会などでの他参加者のコメントであれ、その基準や方向は流動的で適切な受け取り方はわかりにくいので。
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