そして日曜日。
学生服姿で学生帽を被って黒革靴を履き、更に膝丈の袖無し外套を纏った圭佑、信乃、優吾が松本でも名のある料亭である翡翠(かわせみ)亭に到着すると、心得たように仲居が現れて三人を離れに案内してくれた。とにかく女性には愛想良くが習い性になっている信乃が笑顔で礼を言うと頬を赤らめ、それでも失礼にならないような動作でその場を去って行き、やがて料理が運ばれてくる。昼日中、しかも成人前の学生に出す膳として流石に酒は無いが、料理は川魚や季節の山菜だけでなく卵や山鯨(猪)などを使った豪勢なものだった。
「お前の兄貴、今日は随分と張り込んでくれたようだな」
感嘆とも呆れとも付かない呟きを漏らす信乃と無言のまま料理を見詰める優吾に、圭佑が凄いだろうと嬉しそうに自慢していた頃。
圭佑の兄、秀一は翡翠亭の中庭を見合い相手を伴って散歩していた。
* * *
型通りの挨拶が終わり、あとは若いもの同士でと言うお定まりの言葉と共に大人連中が退散したあと、秀一は自分の眼前で控えめに俯いている着飾った娘を中庭に誘う。その柔らかな笑顔と穏やかな物腰に緊張がほぐれたのか、娘のほうもぎこちなく微笑みながらそれに従った。
敷地自体はそれ程広くないのだが、巧みに配されて上手い具合に視界を覆う植木と、岩や石塔を傍らに置き石橋を渡した池の存在で実際より遙かに広く感じられる庭園を進みながら、秀一は娘に向かって話し掛ける。
「優香さん……でしたか、貴方もわたしのような年の離れた相手とお見合いとは災難でしたね」
当然だがこの時代、自由恋愛などと言うものは存在しないに等しい。子供の結婚は親同士が決め、極端な場合は式当日までお互いの顔を知らなかったりもした。ましてや秀一のように大店の跡取りともなれば、本来なら相手は引く手あまたで年齢的には既に家庭を構えていてもおかしくはない年齢と言える。
「そんなことありませんわ!確かにお目に掛かるまではどんな方かと不安でしたけれど、想像していたよりずっと素敵な方でしたもの」
なかなか積極的な褒め言葉に秀一が笑顔で応じると、優香は再び控えめな、しかし探るような口調で言い添える。
「でも、確かにこんな素敵な方が今までお一人だったのはとても不思議ですわ」
「昔、鬼隠しに遭ったのですよ」
一瞬だけロイド眼鏡に隠された眼に強い光を宿しながら呟いた言葉を聞き取り損ねたのか、戸惑いの表情を浮かべる優香に、秀一は再び柔らかく微笑んでから囁いた。
「ところで素敵な櫛ですね、拝見しても宜しいですか?」
生まれて始めて父親以外の男に、もしも接吻を求められたら逃れることの出来ないほどの間近に顔を寄せられ、優香は上気した表情で頷いてみせる。細やかな手付きで優香の髪から櫛を抜き取った秀一は、しばらくの間黙って櫛を眺めていたが、やがて優香に向き直ると櫛を手にしたまま尋ねる。
「夢二がお好きでなのすか」
はい、と答える優香。大正浪漫のシンボルと称される当時の流行画家の作品は、美人画の他にも挿絵、商標、それに日用品のデザインなど幅広く、優香の櫛も明らかに『夢二のいちご』と呼ばれる絵柄を元に細工が施されているのが判った。秀一は手にした櫛を矯めつ眇(すが)めつ眺めやってから笑顔のまま続ける。
「実はうちの店には様々な職人の出入りがありましてね、特に修行中の若い職人は良くわたしに自分の作品を見せてくれるのですよ」
彼の言わんとすることが判らないのか曖昧に微笑む優香に、更に言葉を重ねる秀一。
「その中に面白い男がいましてね、依頼を受けると細工物に一見では判らぬような印を入れるのが得意なのですよ」
例えば依頼主が櫛を贈る相手の名前をローマ字で図柄に入れ込むとかね。そんな言葉に一瞬だけだが優香の表情が歪む。
「ところで、『MUTUMI』と言うのはお友達の名前ですか?」
既に蒼白と言うべき顔色となった優香に、心底から残念そうに秀一が言葉を掛ける。
「個人的には、その外面の良さも底意地の悪さも含めて貴方のことはなかなか気に入ったのですがね。商家の人間として他人のものに手を付ける相手を伴侶に選ぶ愚は犯せないのですよ」
迷いの無い動作で櫛を己の懐に仕舞い込み、とても残念ですと言い置いてから歩き出す秀一に、優香は追いすがることも出来ぬままに一人小刻みに震えながらその場に立ち尽くしていた。