や。吉田茂さんの建物はちょっと前に焼けてしまい現存してないんだけどね。
ブログカテゴリーに『レトロ建築』を立ててるだけに、建物を見るのは好きです。ンでも古い建物はどこかの誰かが頑張って【保存】してくれないと、未来に残せないんだよ。まあな。【食べログ】なんかで紹介されてるお店が閉店する方が早かったりするし、【期間限定】【特別公開】だったりすると、あっちゅー間に消えてしまうので、それに比べたら【レトロ建築】巡りは恵まれてると思うけど、比べるもんじゃないよな~。
さて。旧東海道&国道1号線&箱根駅伝コースの二宮町の『押切坂上』バス停から約20分で『城山公園前』に到着です。時刻は午前11時45分。
県立大磯城山(じょうやま)公園は、里山が2つ。真ん中を国道1号線が東西に走ってます。北側が旧三井別邸地区。南側が旧吉田茂邸地区です。
明治の頃、三井財閥が別荘を構えました。以後、庭園として整備されました。敷地内には古寺社の古材を用いて作られた「城山荘」や、織田信長の実弟で、茶人として高名な織田有楽斎が建てた国宝の茶室「如庵」がありました。
第二次世界大戦後、財閥解体が行われ三井家の手を離れます。三井家所縁のあれこれは全て解体され現存してません。今は紅葉の綺麗な公園。展望台から富士山が見える公園として有名かも?
って事で、今回は旧三井別邸地区には行きません。なぜならば、展望台の標高が42メートルだから!!(昨今の情勢を鑑み、公園内の各所には「海抜表示」があります。)ここってね。海のすぐ側なんですよ~。今、坂道の上り下りは出来んのですよっ!!脆弱な身体能力なのよ~~満開の菜の花を楽しんだ吾妻山の階段の上り下りの結果、私の体力の残存は既にあまりないのだ。
ま。今思い返すに、旧三井別邸地区をパスしたのはナイス判断でした!だって、仮によってたら25000歩超え確実でした!
という訳で、旧吉田茂邸へ向います。
つーか、予想通り、同じバスに乗り合わせたグループ客も目的地が同じみたいです。
つーか、同じようなグループが、旧吉田茂邸のバラ園でガイドさんつきで説明されてるんだけど~?・
つーか、門の向こうにも同じようなグループが、複数ガイドさんつきで庭園を右往左往してるんだけど~??
あ。ガイドさんの声が聞こえてきた。「かつてバラ園はもっと広かったです。駐車場を作った時に縮小しました。」
説明板発見:内門(兜門)
サンフランシスコ講和条約を記念し建てられた門で、別名「講和条約門」とも言われています。
また、軒先に曲線状の切り欠きがあり、兜の形に似てる事から「兜門(かぶともん)」とも呼ばれます。
屋根には「桧皮葺き」という薄いヒノキの皮を重ねた伝統的技法が用いられています。
昭和29年に完成しましたが、老朽化が著しかったため、公園整備にあわせ屋根の葺き替えのあどの修復工事をしました。
内門裏側です。屋根に半円に桧皮葺きが欠けてますね。
画像からわかる通り、旧吉田茂邸には梅が多く植栽されています。
いくつ目かのガイドさんが、「このしだれ梅が吉田茂が愛した梅の木です」後ろにあるのは温室ね。これは焼失を免れたのね。
ところで歴史の教科書に必ず出てくる『サンフランシスコ講和条約』ですが、覚えてます?WIKIによりますと…「1951(昭和26)年9月8日にサンフランシスコにおいて締結された第二次世界大戦における連合国と日本の間の平和条約です。同日、日米安全保障条約も署名されました。この条約により日本と多くの連合国の間の「戦争状態」が終結しました。」だそうで。
え~とね。
WIKIのサンフランシスコ講和条約の記事を詳しく読みますと、竹島のことにも触れてました。
竹島問題って、サンフランシスコ講和条約の記事の『領土』の項を読むとすんごく興味深い事書いてました!私っては知りませんでしたっ!これ読むと、韓国が竹島を自分の国の領土と主張してるけど、国際的には否定されてるのな。まあWIKIは誰でも記事立て出来るそうだから、正確かどうかの考証の甘い記事もあるけどな。なぜに言い訳がましく書いてるか?というと、主張が正義の国だから、どんなイチャモンが来るか怖いからです。
ちなみに、韓国はサンフランシスコ講和条約に批准してません。条約に参加する権利も資格もないとみなされたようです。
それでも主張するのが韓国クオリティ。しかもアメリカにたしなめられても主張するのが韓国が韓国たるところだよね。
さて。燃えてしまった旧吉田邸ですが、なんと!!再建するみたいですっ!
ええ~~~ッ!!
誰が~~!?
もしかして、太郎ちゃんが??
麻生太郎ちゃん(太郎ちゃんのお祖父さんが吉田茂氏です)がお金出すんじゃないみたい。大磯町が「再建資金の寄付受け付けてます~」みたいです。
解説板発見:旧吉田茂邸の再建
旧吉田茂邸は、吉田茂の養父、吉田健三が明治17年に別荘として建築したことが始まりです。
その後、増改築を重ね、吉田茂がその生涯を閉じる昭和42年、89才までを過ごした邸宅でした。
平成21年3月、旧吉田茂邸は焼失してしまいましただ、大磯町が「町有施設」として再建することになり、平成24~25年度に設計を、平成26年以降に建物の再建工事を行う予定です。
へえ~へえ~へえ~~。
つーか、増改築を重ねたんだよね?どの段階の建物を再現するんだろうか?
ガイドさん「ありし日の吉田邸の内部の写真が残ってます。世界各国から贈られた品がありました」
そうだよな~。サンフランシスコ講和条約は、吉田茂が全権で出たんだよ。今の政治家とは器が違う。
燃えちゃってほとんど在りし日の建造物は残存してないんだけどね。唯一のこってるのがコレ!
七賢堂です。
説明板発見:七賢堂
七賢堂は、明治36年、伊藤博文の自邸、大磯の「滄浪閣(そうろうかく)」にあったものです。
はじめ、明治維新の元勲のうち、岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允の4人が祀られた「四賢堂」でした。
その後、伊藤博文が祀られ、昭和35年には吉田茂がこの地に移設し、西園寺公望を合祀し、吉田本人も死後に合祀され、現在の「七賢堂」となりました。
この地の歴史を感じさせる貴重な建物のため、公園の一部として残すこととしました」だそうで。
こういうのって生きてる人が作るんだよね。思惑が乱れてるわ~。
や~、歴史だよね~。歴史、生きてるわ!(何言ってんだ、私。花粉症のお薬のせいかも?)
吉田茂像の前でも別のグループのガイドさんが熱弁してました。
これもね。吉田茂本人が建てた訳じゃないみたい。
ガイドさん「像はサンフランシスコの方角を見ています」
さて。時刻はもう12時を過ぎてしまいました。目の前には太平洋!これを眺めて本日のお昼ごはんです。
かつては吉田邸の庭園からちょくで太平洋が見えていたのでしょうが、現在は西湘バイパスが通ってます。車の走行音を差し引いても、眺めはいいな。例え、お昼のメニューがあんパンと熱いお茶だとしても目の前の景色がごちそうさ。
心字池に(池には亀の形をした蓬莱島まで造ってあります)戻ると、さっきは一杯いたグループがいなくなってた!
吉田さんちのフェニックスは大きいなあ~。いつ植えたんだろうか?この大きさのは植物園にもないよっ!
ここで休憩棟のトイレに寄りました。だって、今から大磯明治の街歩きですから!
旧吉田邸のイラストもありました。さて。時刻は12時半が近い。出発です。
ブログカテゴリーに『レトロ建築』を立ててるだけに、建物を見るのは好きです。ンでも古い建物はどこかの誰かが頑張って【保存】してくれないと、未来に残せないんだよ。まあな。【食べログ】なんかで紹介されてるお店が閉店する方が早かったりするし、【期間限定】【特別公開】だったりすると、あっちゅー間に消えてしまうので、それに比べたら【レトロ建築】巡りは恵まれてると思うけど、比べるもんじゃないよな~。
さて。旧東海道&国道1号線&箱根駅伝コースの二宮町の『押切坂上』バス停から約20分で『城山公園前』に到着です。時刻は午前11時45分。
県立大磯城山(じょうやま)公園は、里山が2つ。真ん中を国道1号線が東西に走ってます。北側が旧三井別邸地区。南側が旧吉田茂邸地区です。
明治の頃、三井財閥が別荘を構えました。以後、庭園として整備されました。敷地内には古寺社の古材を用いて作られた「城山荘」や、織田信長の実弟で、茶人として高名な織田有楽斎が建てた国宝の茶室「如庵」がありました。
第二次世界大戦後、財閥解体が行われ三井家の手を離れます。三井家所縁のあれこれは全て解体され現存してません。今は紅葉の綺麗な公園。展望台から富士山が見える公園として有名かも?
って事で、今回は旧三井別邸地区には行きません。なぜならば、展望台の標高が42メートルだから!!(昨今の情勢を鑑み、公園内の各所には「海抜表示」があります。)ここってね。海のすぐ側なんですよ~。今、坂道の上り下りは出来んのですよっ!!脆弱な身体能力なのよ~~満開の菜の花を楽しんだ吾妻山の階段の上り下りの結果、私の体力の残存は既にあまりないのだ。
ま。今思い返すに、旧三井別邸地区をパスしたのはナイス判断でした!だって、仮によってたら25000歩超え確実でした!
という訳で、旧吉田茂邸へ向います。
つーか、予想通り、同じバスに乗り合わせたグループ客も目的地が同じみたいです。
つーか、同じようなグループが、旧吉田茂邸のバラ園でガイドさんつきで説明されてるんだけど~?・
つーか、門の向こうにも同じようなグループが、複数ガイドさんつきで庭園を右往左往してるんだけど~??
あ。ガイドさんの声が聞こえてきた。「かつてバラ園はもっと広かったです。駐車場を作った時に縮小しました。」
説明板発見:内門(兜門)
サンフランシスコ講和条約を記念し建てられた門で、別名「講和条約門」とも言われています。
また、軒先に曲線状の切り欠きがあり、兜の形に似てる事から「兜門(かぶともん)」とも呼ばれます。
屋根には「桧皮葺き」という薄いヒノキの皮を重ねた伝統的技法が用いられています。
昭和29年に完成しましたが、老朽化が著しかったため、公園整備にあわせ屋根の葺き替えのあどの修復工事をしました。
内門裏側です。屋根に半円に桧皮葺きが欠けてますね。
画像からわかる通り、旧吉田茂邸には梅が多く植栽されています。
いくつ目かのガイドさんが、「このしだれ梅が吉田茂が愛した梅の木です」後ろにあるのは温室ね。これは焼失を免れたのね。
ところで歴史の教科書に必ず出てくる『サンフランシスコ講和条約』ですが、覚えてます?WIKIによりますと…「1951(昭和26)年9月8日にサンフランシスコにおいて締結された第二次世界大戦における連合国と日本の間の平和条約です。同日、日米安全保障条約も署名されました。この条約により日本と多くの連合国の間の「戦争状態」が終結しました。」だそうで。
え~とね。
WIKIのサンフランシスコ講和条約の記事を詳しく読みますと、竹島のことにも触れてました。
竹島問題って、サンフランシスコ講和条約の記事の『領土』の項を読むとすんごく興味深い事書いてました!私っては知りませんでしたっ!これ読むと、韓国が竹島を自分の国の領土と主張してるけど、国際的には否定されてるのな。まあWIKIは誰でも記事立て出来るそうだから、正確かどうかの考証の甘い記事もあるけどな。なぜに言い訳がましく書いてるか?というと、主張が正義の国だから、どんなイチャモンが来るか怖いからです。
ちなみに、韓国はサンフランシスコ講和条約に批准してません。条約に参加する権利も資格もないとみなされたようです。
それでも主張するのが韓国クオリティ。しかもアメリカにたしなめられても主張するのが韓国が韓国たるところだよね。
さて。燃えてしまった旧吉田邸ですが、なんと!!再建するみたいですっ!
ええ~~~ッ!!
誰が~~!?
もしかして、太郎ちゃんが??
麻生太郎ちゃん(太郎ちゃんのお祖父さんが吉田茂氏です)がお金出すんじゃないみたい。大磯町が「再建資金の寄付受け付けてます~」みたいです。
解説板発見:旧吉田茂邸の再建
旧吉田茂邸は、吉田茂の養父、吉田健三が明治17年に別荘として建築したことが始まりです。
その後、増改築を重ね、吉田茂がその生涯を閉じる昭和42年、89才までを過ごした邸宅でした。
平成21年3月、旧吉田茂邸は焼失してしまいましただ、大磯町が「町有施設」として再建することになり、平成24~25年度に設計を、平成26年以降に建物の再建工事を行う予定です。
へえ~へえ~へえ~~。
つーか、増改築を重ねたんだよね?どの段階の建物を再現するんだろうか?
ガイドさん「ありし日の吉田邸の内部の写真が残ってます。世界各国から贈られた品がありました」
そうだよな~。サンフランシスコ講和条約は、吉田茂が全権で出たんだよ。今の政治家とは器が違う。
燃えちゃってほとんど在りし日の建造物は残存してないんだけどね。唯一のこってるのがコレ!
七賢堂です。
説明板発見:七賢堂
七賢堂は、明治36年、伊藤博文の自邸、大磯の「滄浪閣(そうろうかく)」にあったものです。
はじめ、明治維新の元勲のうち、岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允の4人が祀られた「四賢堂」でした。
その後、伊藤博文が祀られ、昭和35年には吉田茂がこの地に移設し、西園寺公望を合祀し、吉田本人も死後に合祀され、現在の「七賢堂」となりました。
この地の歴史を感じさせる貴重な建物のため、公園の一部として残すこととしました」だそうで。
こういうのって生きてる人が作るんだよね。思惑が乱れてるわ~。
や~、歴史だよね~。歴史、生きてるわ!(何言ってんだ、私。花粉症のお薬のせいかも?)
吉田茂像の前でも別のグループのガイドさんが熱弁してました。
これもね。吉田茂本人が建てた訳じゃないみたい。
ガイドさん「像はサンフランシスコの方角を見ています」
さて。時刻はもう12時を過ぎてしまいました。目の前には太平洋!これを眺めて本日のお昼ごはんです。
かつては吉田邸の庭園からちょくで太平洋が見えていたのでしょうが、現在は西湘バイパスが通ってます。車の走行音を差し引いても、眺めはいいな。例え、お昼のメニューがあんパンと熱いお茶だとしても目の前の景色がごちそうさ。
心字池に(池には亀の形をした蓬莱島まで造ってあります)戻ると、さっきは一杯いたグループがいなくなってた!
吉田さんちのフェニックスは大きいなあ~。いつ植えたんだろうか?この大きさのは植物園にもないよっ!
ここで休憩棟のトイレに寄りました。だって、今から大磯明治の街歩きですから!
旧吉田邸のイラストもありました。さて。時刻は12時半が近い。出発です。