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あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

葛飾八幡宮・樹齢1200年千本公孫樹

2018年03月25日 05時41分54秒 | 巨木・古木・ご神木・盆栽
今日から2018年2月24日の都営まるごときっぷで行く巨樹・巨木と観梅散歩を紹介します。
1月に巨樹・巨木の本を図書館から3冊借り調べましたらば、とても見に行きたくなったものの、巨樹・巨木だけを見に行くのはもったいない。ならば!と季節柄観梅をセットで。更にはお得に。ってな事で、まずは都営地下鉄&都営バス乗り放題の都営まるごときっぷで行ける巨木を地図片手に調べましたらば、なんと!!葛飾八幡宮は都営新宿線の終点の「本八幡」駅から徒歩5分の位置にあったんですよ。ってな事で、葛飾八幡宮には午前9時41分に到着しました。
葛飾八幡宮の大きさに一驚きしつつもまずは参拝。
説明板発見:葛飾八幡宮
寛平年間(889-898)宇多天皇の勅願によって勧請された社で古来より、武神として崇敬されてきました。(旧社格は県社)。
治承4年(1180)源頼朝は安房国から下総国府へ入ると、自ら参詣して源氏の武運を祈願し、建久年間(1190-1199)には千葉常胤に命じて社殿を修復させたと言われています。
また、文明11年(1479)太田道灌は白井城の千葉孝胤を攻めるため、国府台に築城の際、関東の安泰を願って参拝し、社殿の修理を行いました。
さらに天正19年(1591)には、徳川家康が社領として朱印52石を寄進しています。
明治維新の神仏分離令の時までは、当宮境内には上野東叡山寛永寺の末寺が、別当寺として存在していました。現存する鐘楼は往時を物語る貴重な遺物です。また山門は仁王像が行徳の徳願寺の山門に移されて、その後に左右両大臣が置かれ隋神門と呼ばれるようになりました。この隋神門は市指定有形文化財です。
本殿の東側にそびえる「千本公孫樹」は、天然記念物として国の指定を受け、また、寛政5年(1793)に発掘された元亨元年(1321)在銘の梵鐘は県指定有形文化財であり、梵鐘の銘文からも当宮創建の古さがうかがえます。(後略)」
ってな事で、早速訪問の目的の巨木のもとへ。先日も記述しましたが、巨木は大きいから探すの楽でいいなあ〜。

これが千本公孫樹です。本で見た写真も冬の写真で、この木の密集する枝が凄かったんだよね。いい感じの構図を探す。

どうです?巨樹の迫力を感じれますか?

木の周辺に囲いがあって、木の大きさを対比出来る画像が撮りづらい。
あ!離れればいいのか?

うう。まるでミニチュアの建物を置いてあるみたいです。ダンナにあそこに立ってもらえばよかったわ〜。
説明板発見:国指定天然記念物 千本公孫樹 昭和6年2月20日指定
多数の樹幹が寄り集まって、まるで根元から1本の大樹がのびているように見えるところから、千本公孫樹の名で呼ばれてきました。推定樹齢は1200年を超えると言われています。
樹高23メートル、根回り10、2メートル、目通り(人間の目の高さ)10、8メートルで、根回りより目通りの方が太くなっているのも特徴の一つです。かつて落雷にあい上部が折れて、その後枝幹が支え合うように伸び、今のような樹形になったと言い伝えられています。
『江戸名所図会』には「この樹のうつろの中に小蛇栖めり、毎年8月15日祭礼の時、音楽を奏す。その時数万の小蛇枝上に顕れ出づ。衆人これを見て奇なりとす」とあり、このほかにも古くは「下総国旧事考」「下総名勝図絵」「葛飾記下巻」「葛飾誌略」「金ケさく紀行」などにも記載され、近代では高浜虚子や伊藤左千夫がこの地を訪れ、千本公孫樹を描写しています。
古来千本公孫樹には白蛇が棲むと言われ、その姿を見たものは幸福を授かり、長寿になるとの言い伝えがあります。また、乳の出ない婦人が公孫樹の「気根」と呼ばれる乳房の形に似た瘤を削り、煎じて飲むと、乳の出が良くなるという言い伝えから、育児守護の進行があります。(現在は国指定天然記念物につき、樹の保護の為削り事はできません)
ぽか〜んと見上げしばらく。思い出したように動き出す私たち。これはぜひとも葉っぱを茂らせている時に再訪したい。都営ワンデーパス購入した時の次いでに立ち寄れるしな。
さて、気をとりなおし境内チェックです。まずはいつもの絵馬はこちら。

絵馬にも千本公孫樹。

そして狛犬。古い八幡さまなので、狛犬は複数ありました。中で気に入ったのが上のやつ。ポーズが珍しいでしょ?おすわりしてないんだよね。

境内の歴史物。まずは画面左下の石は何? 答え:源頼朝公駒止めの石
説明板発見:源頼朝公は、治承4年(1180)以仁王より平氏追討の令旨を受けて挙兵したが、一敗地にまみれ、安房国に逃れた。
再起を図った頼朝公は千葉氏等の援軍を得て、下総国府(現在の国府台)に参会したおり、当宮を参拝し戦勝と武運長久を祈願した。そのおり、頼朝公の馬がこの石に前足を掛け、蹄の跡を残したことから「駒どめの石」といわれる」
上の画像の右奥の鐘楼の梵鐘は何? 答え:県指定有形文化財 梵鐘(元亨元年在銘) 昭和34年4月24日指定
この梵鐘は寛政5年(1793)正月19日、境内のケヤキの大樹が暴風で倒された際、その株根から出土したものと伝えられています。
総高117.2cm、口径66.7cm、鐘の下部にあたる池の間の上下に型次の跡があり、鐘身が三段に鋳上げられ、それに笠型の部分と竜頭が組み合わされて鋳造されたものです。(中略)
元亨元年(1321)12月17日、右衛門尉丸子真吉によって寄進されたもので、この銘文は当時八幡宮の別当職にあった、法印智円が書いたものと思われます。元亨元年は後醍醐天皇の治世で、特に正中の変 (1324)元弘の乱 (1331)と時代の激変する時にあたります。(後略)

説明板発見:神楽殿大絵馬
正面に架けられている絵馬は、幕末に奉納されたもので、当神社の御祭神である神功皇后(むかって右から二人目)の「新羅出兵」を描いたものです。
なお、中央には皇后の臣下である竹内宿禰が描かれ、また皇后の胎内には当神社の主祭神である応神天皇(八幡さま)が宿られていると神話(古事記・日本書紀)は伝えています」

随神門。市指定有形文化財(昭和35年10月7日指定)随神門は木造で、正面柱間3間、奥行き柱間2間の八脚門と呼ばれる構造形式をもち、丹塗りで桁行10.36メートル、梁行4.45メートルあります。(後略)
実は訪問時に八幡宮の脇の参道から境内に入りました。だから正面参道から出たかったんです。この八幡様の境内はとても広い。

八幡宮を出たら間の前に踏み切りがった。これは京成電鉄の線路です。どうせならば、手前に車両、奥に八幡様という構図で撮影できるかも?としばらく待機。ところがですね、時間がかかりすぎて携帯電話の画面がブラックアウト!しまった〜〜!!慌てて再度撮影画面まで戻ってると、電車がやってきちゃいました!最後の最後、行き過ぎる寸前で撮影できたけども。やり直ししたい!再訪する時に挑戦したいです。
さて、次の目的地は日本一の面積を誇る影向の松がある善養寺さんへ。
ここさ〜、都営まるごときっぷを利用して移動するならば、都営地下鉄新宿線船堀駅へ。都バス錦27-2で小岩駅入口バス停で下車が一番安いのだけども、JR総武線本八幡駅を利用すれば2駅で小岩駅なんですよ。JRならば数分なんです。あと、どうにも不安なのが都バスの運行数の少なさです。なぜにこないに都バスの本数が少ないのか??ってなわけで、JR総武線の1択です。だって、この日の散策予定はこのあと、善養寺の影向の松→亀戸天神で観梅とスカイスリーのコラボ画像ゲット→香取神社で観梅→向島百花園で観梅→隅田公園で観梅とスカイスリーのコラボ画像ゲットと盛りだくさんなんですよね。時は金なりなんじゃ!
コメント
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