人間年を取ると、神社・仏閣に興味を持つようになるんだって!
そんでもって行く就く先はお墓なんだって!!
これはタモリさんがNHKの「ブラタモリ』の中で言ってたのですが、なんだか私最近まんまとタモリさんの意見に乗っかってるような~…。
墓所巡りも複数回繰り返し、このあたりで墓所の特定に挑んでみることにした!
おいおいおい
練習に選んだのはトップ画像のお墓です。
麟祥院こと春日局のお墓の左隣にあるお墓です。
手がかりとなりそうなのは…。
家紋・院号・亡くなった日。
家紋は…。五三の桐。
院号はコレ。
亡くなった日は、わからなかったの~。
伝通院で見かけた墓石に刻まれていた院号から探すのは失敗したんだよね。
ならば、院号と埋葬した寺の名前のダブル検索ではどうだろう?
「麟祥院・正厳院殿」
これがズバリ!!
ヒットしたのは寛文14年(1674)5月20日に亡くなった正厳院伝さん。
彼女は、毛利秀元の息女で、稲葉正則の正室でした。
名前が万菊さん。寛永2年(1625)5月生まれ。
彼女の父親・毛利秀元とは毛利輝元の一時期養嗣子となった人で、長府藩主です。ちなみに、毛利秀元は、品川の泉岳寺に葬られてます(他2カ所)。
母親は毛利秀元の側室、織田氏。
正厳院伝さんの旦那さんの稲葉正則って人は、春日局の嫡孫で、稲葉宗家三代、小田原藩主です。稲葉正則は小田原の紹太寺にお墓があります。
1)麟祥院の墓所には稲葉家のお墓が複数ある。
2)墓が春日局の墓と隣接してることから、両者の墓の出来た年代は近い。万菊さんの死亡が寛文14年(1674)ならば、春日局の死亡が寛永20年(1643)だから、わざわざ隣接して建てたのはあり得る。
3)五三の桐の家紋は~?…もしかして母方の織田氏の流れかもしれん。格式はあるからな。毛利家の家紋は有名な一に三ツ星なので絶対違う。でも五三の桐の謎は現時点で特定できない。
3)が確定させないですが、1)2)を考えると、おそらくこのお墓の主は、万菊さんではなかろうか?
と結論づけてみる。墓石には没年を刻んであることが多々あるのですが、この時自分で確認してなかったんです。(痛恨!)
やってみて墓の主人の特定には、法名・没年・家紋・埋葬寺院名が必要と思いました。墓石に生前の名前が刻まれてたらもっと確実です。
春日局は大人気で、墓参に次から次へとやってくる。その隣でくるくる墓所を回って調べる度胸が私にはなかったんですよ。でもwebで大概の疑問を解決出来る時代って素晴らしい~。必要なのはWEBで検索するキーワードを知ってるかどうか?のみだもん。
あっこさんもお墓に深入りするな!って言うし、私も調べてみて結構大変だったので、お墓巡りってそこそこで充分だなと1回やってみてこりちゃったよ。
や。一辺挑戦してみてだいたい分かったし、これからは深入りしないようにしよう~。
だって~…。お墓についてこの所立て続けに記事にしてるからか、トラックバックにやってきたのは、墓石のサイトだったのよ~。へ、凹む。んで、その前が盆栽のサイトでした。
あまりに私と遠いアイテムだから、トラックバック記事を公開してませんが…。
や。盆栽は見るのは好きなんですが、育てたい人じゃないんで。だって、盆栽って作り始めても自分が生きてる間に完成しないっていう…。究極に時間がかかるアイテムは、気が短い私には不向きだもん。
麟祥院さんの墓所をもう少し見学。
これって、鎌倉でよく見かけた古いタイプの墓石です。よ~く見ると、墓石に風とか空とか刻んであるんですよ。
この日はピーカンでして、まるで真夏の様な日差しとなり、風情が台無しだったんですけど、時代を帯びた墓石に白椿の木。地面には朽ちるを待つ白椿の花びら。なかなかに良い構図です。
そんなこんなで麟祥院を堪能した後、お茶の水方面へ南下。
到着したのは、霊雲寺さんです。
山号:宝林山
宗派:真言宗霊雲寺派
寺格:総本山
本尊:2体の大日如来。
創建年:元禄4年(1691)
霊雲寺は、徳川幕府の永代祈願所として設けられた。江戸城から見て北東の方角は鬼門であり。鬼門を鎮めるため、国家鎮護のため柳沢吉保を通じ、徳川綱吉が建立を許可。
しかし、安政4年(1857)、大正12年(1923)、昭和20年(1945)に火災・関東大震災・戦災で殆ど焼失した。
ちなみに、霊雲寺の軒丸瓦はサンスクリット!!
これ、珍しいよね。
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そんでもって行く就く先はお墓なんだって!!
これはタモリさんがNHKの「ブラタモリ』の中で言ってたのですが、なんだか私最近まんまとタモリさんの意見に乗っかってるような~…。
墓所巡りも複数回繰り返し、このあたりで墓所の特定に挑んでみることにした!
おいおいおい
練習に選んだのはトップ画像のお墓です。
麟祥院こと春日局のお墓の左隣にあるお墓です。
手がかりとなりそうなのは…。
家紋・院号・亡くなった日。
家紋は…。五三の桐。
院号はコレ。
亡くなった日は、わからなかったの~。
伝通院で見かけた墓石に刻まれていた院号から探すのは失敗したんだよね。
ならば、院号と埋葬した寺の名前のダブル検索ではどうだろう?
「麟祥院・正厳院殿」
これがズバリ!!
ヒットしたのは寛文14年(1674)5月20日に亡くなった正厳院伝さん。
彼女は、毛利秀元の息女で、稲葉正則の正室でした。
名前が万菊さん。寛永2年(1625)5月生まれ。
彼女の父親・毛利秀元とは毛利輝元の一時期養嗣子となった人で、長府藩主です。ちなみに、毛利秀元は、品川の泉岳寺に葬られてます(他2カ所)。
母親は毛利秀元の側室、織田氏。
正厳院伝さんの旦那さんの稲葉正則って人は、春日局の嫡孫で、稲葉宗家三代、小田原藩主です。稲葉正則は小田原の紹太寺にお墓があります。
1)麟祥院の墓所には稲葉家のお墓が複数ある。
2)墓が春日局の墓と隣接してることから、両者の墓の出来た年代は近い。万菊さんの死亡が寛文14年(1674)ならば、春日局の死亡が寛永20年(1643)だから、わざわざ隣接して建てたのはあり得る。
3)五三の桐の家紋は~?…もしかして母方の織田氏の流れかもしれん。格式はあるからな。毛利家の家紋は有名な一に三ツ星なので絶対違う。でも五三の桐の謎は現時点で特定できない。
3)が確定させないですが、1)2)を考えると、おそらくこのお墓の主は、万菊さんではなかろうか?
と結論づけてみる。墓石には没年を刻んであることが多々あるのですが、この時自分で確認してなかったんです。(痛恨!)
やってみて墓の主人の特定には、法名・没年・家紋・埋葬寺院名が必要と思いました。墓石に生前の名前が刻まれてたらもっと確実です。
春日局は大人気で、墓参に次から次へとやってくる。その隣でくるくる墓所を回って調べる度胸が私にはなかったんですよ。でもwebで大概の疑問を解決出来る時代って素晴らしい~。必要なのはWEBで検索するキーワードを知ってるかどうか?のみだもん。
あっこさんもお墓に深入りするな!って言うし、私も調べてみて結構大変だったので、お墓巡りってそこそこで充分だなと1回やってみてこりちゃったよ。
や。一辺挑戦してみてだいたい分かったし、これからは深入りしないようにしよう~。
だって~…。お墓についてこの所立て続けに記事にしてるからか、トラックバックにやってきたのは、墓石のサイトだったのよ~。へ、凹む。んで、その前が盆栽のサイトでした。
あまりに私と遠いアイテムだから、トラックバック記事を公開してませんが…。
や。盆栽は見るのは好きなんですが、育てたい人じゃないんで。だって、盆栽って作り始めても自分が生きてる間に完成しないっていう…。究極に時間がかかるアイテムは、気が短い私には不向きだもん。
麟祥院さんの墓所をもう少し見学。
これって、鎌倉でよく見かけた古いタイプの墓石です。よ~く見ると、墓石に風とか空とか刻んであるんですよ。
この日はピーカンでして、まるで真夏の様な日差しとなり、風情が台無しだったんですけど、時代を帯びた墓石に白椿の木。地面には朽ちるを待つ白椿の花びら。なかなかに良い構図です。
そんなこんなで麟祥院を堪能した後、お茶の水方面へ南下。
到着したのは、霊雲寺さんです。
山号:宝林山
宗派:真言宗霊雲寺派
寺格:総本山
本尊:2体の大日如来。
創建年:元禄4年(1691)
霊雲寺は、徳川幕府の永代祈願所として設けられた。江戸城から見て北東の方角は鬼門であり。鬼門を鎮めるため、国家鎮護のため柳沢吉保を通じ、徳川綱吉が建立を許可。
しかし、安政4年(1857)、大正12年(1923)、昭和20年(1945)に火災・関東大震災・戦災で殆ど焼失した。
ちなみに、霊雲寺の軒丸瓦はサンスクリット!!
これ、珍しいよね。
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ってことで、つい「どこそこのお寺に誰それの墓がある」っての見つけたら、探そうとしちゃったのだ。そんで見つけたらやはり感慨があるんですね。
でも…。実際に墓地へ行くと、目的地にたどり着くのが難しいんだよ。
いくら古くていわくありそうなお墓を見つけても、誰と特定出来ないと目的は達成出来ない訳で。
誰それの墓はこちらと書いてあるのはマシな方で、一切の説明がない広大な墓地ってのがつい「やってやる。探してやる」って闘志湧いてたんだね。
お墓探すのは疲れるね。たまにならいいけど、しょっちゅうやるといけないね。自重しよう。