あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

岡倉天心記念館とハギ寺 谷中散歩その7

2017年11月07日 05時43分29秒 | 上野・根津・湯島・神田
観音寺の築地塀鑑賞後、最短コースで谷中銀座へ行く道を浪漫ちっくマップを眺めて決めた。
西に向かうと突き当たりを右折れして一度足が止まる。坂道です。まさかの急な下り。うそ〜ん。しばし考えたものの、谷中墓地は台地の上にあるから、谷中銀座へ行くならどっちみち坂を下るので、このまま最短コースで!変更なしで!!
手元の浪漫ちっくマップには、進行方向に道沿いに岡倉天心記念公園がある。
岡倉天心といえば、明治期の日本文化を守った人です。歴史のテストではアメリカ人のフェロノサとセットで覚えた人だ。

すでに時刻は午後3時半近く。帰りの電車に乗るのがあんまり遅いと帰宅ラッシュに巻き込まれてしまう。急ぎたいけどちょっとだけ。と、ついつい寄り道する。
説明板発見:東京都指定旧跡岡倉天心宅跡・旧前期日本美術院跡
日本美術院は明治31年(1898)岡倉天心が中心になって「本邦美術の特性に基づきその精神開発を図る」ことを目的として創設された民間団体で、当初院長は天心、主幹は橋本雅邦、評議員には横山大観、下村観山がいた。
活動は絵画が主で、従来の日本画の流派に反対し、洋画の手法を取り入れ、近代日本画に清斬の気を与えた。
この場所に建てられた美術院は明治31年9月に竣工した木造2階建で、南館(絵画研究室)と北館(事務室・工芸研究室・書斎・集会室)からなり、付属建物も2.3あったと言われている。明治39年(1906)12月に美術院が茨城県五湖に移るまで、ここが活動の拠点となっていた。
昭和41年(1966)岡倉天心記念六角堂が建てられ、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されている。
実は以前岡倉天心の生誕地を訪問したことがある。
ランチをとらねば(2010.11/8)の記事 こちらの記事に岡倉天心の生誕地の石碑の画像があります。実はここ、誰でも知ってる横浜三塔の一つでもある旧開港記念横浜会館なんですよ。岡倉天心は彼の父が生糸の輸出の仕事をしていた関係から、幼い頃より英語に慣れていて、東京大学の講師をしていたフェロノサの助手になった。フェロノサは海外に向けて日本美術を収集紹介し、日本人に国宝という考えを教えたのも彼。そして二人は東京美術学校を作るのです。


こちら岡倉天心記念公園の公衆トイレです。街歩き途中のトイレ休憩にも使えるので覚えておくと便利だよ?
公園前の道を北へ。と?何か緑のものが?
あ、これハギだ。谷中散歩は2017年9月14日に訪問しました。だからハギの見頃にはまだ早かったのですが。

つぼみがほとんどないっ。え?見頃にまだ早かったの??
白萩は少し咲いてた。でもピンク色のは??あるのか?今年のハギは8月の長雨で名所もあんまり花をつけないまま終わったという嘆きを、どなたかのブログで見たんですが。もし来年以降ハギの季節に谷中散歩をする機会があれば確かめたいなあ〜。
ちなみに谷中のハギ寺は宗林寺さんといいます。
小道をさらに北へ。もうすぐ谷中銀座に着くハズ何だけども?

突然の行列です!何の行列?ラーメン??にしては女性が多すぎだわ。列をたどって先頭へ。ひみつ堂さんだって。自然の寒さで育った天然氷を昔ながらの手動式で削ったかき氷屋さんでした。訪問日は9月14日ですから、半袖の人もいますね。うわ〜、唐突に行列が現れたからびっくりしたわ〜。(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笠森稲荷と築地塀 谷中散歩その6

2017年11月06日 06時00分25秒 | 上野・根津・湯島・神田
谷中霊園を出て谷中散歩に戻りました。根津権現かいわい浪漫ちっくマップによりますと、近所に笠森稲荷と築地塀がある。行ってみよう!
笠森稲荷といえば、江戸三大美人の一人笠森お仙です。期待して行ってみたところ、何コレッ!
トップ画像の屋敷稲荷ほどの小さいのが現在の笠森稲荷です。

説明板発見:でも期待に反して説明板が簡単だったので、帰宅後WIKIで調べた。
笠森稲荷は感応寺(1833年天王寺と改称)の塔頭・福泉院境内にあった稲荷社。
明治に入って福泉院は廃寺となり、稲荷社は養寿院へ遷座した。跡には明治26年(1893)に功徳林寺が建立され、境内に改めて笠森稲荷が祀られている。」(wikiより)
私が訪問したのがこちらのトップ画像です。
ちなみに、江戸三大美人とは、明和三美人で、谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」の笠森お仙・浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」のお藤・二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」のおよしのこと。
笠森お仙を題材に、狂言や歌舞伎が作られるほど江戸を一世風靡し、笠森稲荷の参拝客も増え、手ぬぐいや絵草紙などのグッズも販売されてたそうで、江戸のアイドルだったとか。
人気が出るとグッズを作り、気軽に会えるアイドルというコンセプト。ン??どっかで聞いたね。平成も江戸も日本人は同じことしてるんですね。
さて、谷中霊園を出た細道に戻ってきた。次の目的地は〜??
地図を眺めてたら、目に見覚えのある観音像が飛び込んできた。

観音様の石像の画像を撮影しそびったんだけど、上の画像の左の門柱の奥に置いてあります。この観音様を見たことあるんだけど?
説明板発見:狩野芳崖のお墓 台東区史跡 長安寺境内
明治初期の日本画家で、文政11年(1828)長府藩御用絵師狩野晴くうの長男として、長門国長府(現山口県下関市)に生まれる。19歳の時江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎と歌われた。
明治維新後、西洋画の流入により日本画の人気は凋落し、芳崖は窮乏に陥ったが、岡倉天心やアメリカ人フェロノサなどの日本画家復興運動に加わり、明治17年第2回内国絵画共進会で作品が褒状を受け、次第に当時の美術界を代表する画家として認められた。
芳崖は狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟・雪村の水墨画にも傾倒。さらには西洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立した。その代表作「悲母観音図・不動明王図(ともに東京芸大所蔵)は、いずれも重要文化財である。
明治21年、天心・雅邦等とともに東京芸術大学の創設に尽力したが、開校まじかの同年11月61歳で没した。
墓所は長安寺墓地の中ほどにあり、明治20年没の妻ヨシとともに眠る。また、本堂前面には芳崖の略歴・功績を刻んだ「狩野芳崖翁碑」(大正6年造立)がたつ。」
見覚えあったのは芳崖さんの悲母観音でしたか。あれを石像にしたのね。時間がなかったから、墓参は次回に。
長安寺さんの右手の細道へ。次の目的地の築地塀が見えてきた。

レトロな情緒たっぷりです。これ、唐突に登場したんだよね?かつては何だったんだろか?上の画像手前に見える青色の四角の中には登録有形文化財 文化庁と書いてある。
WIKIによりますと、築地塀とは、泥土をつき固めて作った塀のこと。と出てました。
この築地塀の正体は、観音寺の塀です。境内の南面を面する延長37、6メートルの練り塀で、瓦と粘土を交互に積み重ねて造り、潜り戸を1箇所備える。江戸文政期の1830-1867に作られた。

絵になる塀です。画像では大きさがわかりにくいので。モデルを待つ。

江戸の時代より現代の人は身長が伸びたので、築地塀は低く感じられますね。

ちなみに、築地塀の前の細道を挟んである塀も素敵でした。築地塀が泥土をつき固めて作った塀のことならば、これだって時代の違う築地塀です。
足元の細道もここだけ洗い出しの玉砂利を固めて作ったような趣です。ここで着物を着て写真を撮ると素敵なんじゃないかな?

築地塀の奥に竹の塀が見えたので見に行く。いわゆる竹垣です。竹垣もいろんな形のがあるんだ。
さてと?またまた取り出す浪漫ちっくマップ。え〜と?築地塀から夕焼けだんだんの谷中銀座への近道は?このまま突き当たりを右か?行ってみよう(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸田露伴の五重塔跡 谷中散歩その5

2017年11月05日 05時06分33秒 | 墓所巡り
谷中霊園の徳川15代将軍徳川慶喜のお墓を見る。周りにも著名人のお墓が点在して、歴史好きには何時間でもいられるポイントです。しかし谷中散歩に費やせる時間はあまり残ってない。ならばもう一つだけ。谷中墓地でぜひ確認したい場所がある。それは天王寺五重塔跡
今年の7月にNHKBSプレミアムで「幸田家の人びと 江戸〜平成 4代の物語」(2003)と言う番組を視聴して、露伴がこの近所に住んでて谷中墓地にある五重塔が小説のモデルになった。というのを見た。
実は番組を視聴した動機は今年の4月に池上本門寺を参拝した時に、幸田露伴のお墓も拝見してたこと。
池上本門寺墓所巡り(2017.9/7)の記事 こちらの記事に幸田露伴のお墓の画像があります。
ならさ、ついでに五重塔の跡も見たいと思いまして。

これがそうです。今は基盤しか残ってません。
説明板発見:東京都指定史跡天王寺五重塔跡
谷中の天王寺は、元日蓮宗・長燿山(ちょうようざん)感応寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長耀(ながてる)に由来する古刹である。元禄12年(1699)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺と改称したのは、天保4年(1833)のことである。最初の五重塔は、寛永21年(正保元年・1644)に建立されたが、130年ほど後の明和9年(安永元年・1772)目黒行人坂の大火で消失した。
罹災から19年後の寛政3年(1791)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。
総欅造りで高さ11丈2尺8寸(34.18メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治41年(1908)6月東京市に寄贈され、震災・戦火にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和32年7月6日放火により消失した。現存する方3尺の中心礎石と4本柱礎石、方2尺7寸の外陣四隅柱礎石及び回縁の束石20個、地覆石12個総数49個は全て花崗岩である。大島盈珠(えいしゅ)による明治3年の実測図が残っており復原も可能である。中心礎石から
金銅硝子荘舎利塔や金銅製経筒が、4本柱礎石と外陣四隅柱からは金銅製経筒などが発見されている。」
資金があれば復原可能なんだって!へえ〜。資料を残すって大切なのね。ちなみに、周りにはかつての五重塔の写真パネルがあります。

立派ですねえ。放火した人はどんな動機でこんな立派な塔を、しかも周りはお墓しかないのに燃やしたんだろうか?

さてと?どう行けば夕焼けだんだんが近いかな?
 
長谷川一夫のお墓。この細道を直進すればいいんだね。ってか、長谷川一夫って知ってる?戦前戦後にかけての時代劇二枚目スターです。晩年は宝塚歌劇『ベルサイユのばら』の演出をしたとか。
ずいぶん寂しいお墓です。手入れも墓参り客もいない感じ。むむ?違うお墓かもしれん。でも敷地の外にある石柱には確かに長谷川一夫のお墓って書いてあるんだよね。

説明板発見:都指定旧跡中村正直(まさなお)のお墓 了かん寺墓地内
明治時代の教育者、啓蒙学者。天保3年(1832)幕臣中村武兵衛の子として江戸に生まれ、幼名を釧太郎、名を正直、号を敬宇と言う。昌平坂学問所に入り、佐藤一斎について儒学を学ぶ。慶応2年(1866)幕府の
英国留学生派遣に取締として同行、英国市民社会の実情に触れた。
明治5年(1872)新政府に出仕し、大蔵省翻訳御用を務めるかたわら、翌年、家塾同人社を開いた。女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)校長就任。訓旨院の開設など女子教育、障害者教育にも力を注ぎ、東京帝国大学教授・元老院議官・貴族院議員も歴任した。
明治24年6月7日、60歳で病没。そいう気は神葬え行われた。
正直は、西周(あまね)・神田孝平らと明六社を起こし、啓蒙思想の普及に努め、日本近代化に貢献した。」
う〜む。私は歴史好きですが、深く日本史を勉強したことはありません。歴史ドラマには出てこないけど、生き様のすごい人が谷中墓地にはいっぱい眠ってるのですね。あれだ。小説書きや漫画かきでネタに困った人は墓地に来てあちこちに立ってる説明板読めばいいと思う。明治期を生きた人はあちこちに偉人がいっぱいです。

あ。地域猫発見!あ〜〜、逃げないデェ〜〜。

墓地を抜けたらお寺さんの境内に綺麗な彼岸花。訪問したのは9月14日です。早くも!彼岸花がっ!!って思いました。
手元の根津権現かいわい浪漫ちっくマップによりますと、彼岸花が咲いてるのは了かん(かんの字は人べんに完)寺さんでした。ということは、現在地から築地塀と笠森稲荷が近い。行ってみよう!(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷中霊園墓所巡り 谷中散歩その4

2017年11月04日 05時50分45秒 | 墓所巡り
谷中霊園訪問の目的は徳川15代将軍徳川慶喜のお墓でした。谷中霊園は広く6000基ものお墓があります。明治期の著名人のお墓も多いとか?今回街歩きに持参したのは数年前根津神社のつつじ祭りでいただいた根津権現かいわい浪漫ちっくマップです。これに載ってた谷中霊園にある著名人のお墓は横山大観・鳩山一郎・長谷川一夫・阿部正弘・渋沢栄一・佐々木信綱・上田敏・高橋お伝です。何しろ墓域が広いものだから、すべて探しまわるのは無理!ともかく横山大観と鳩山一郎だけは所在地の番地をWEB検索してからの墓参です。
の前に、徳川慶喜のお墓を探してた時に思いがけず見つけてしまった歴史上の著名人のお墓を紹介します。
まずはトップ画像のお墓から。
1)東京都指定旧跡大原重徳のお墓
幕末・明治維新期の公卿で、大原重尹(しげのぶ)の五男として享和元年(1801)10月16日京都に生まれた。天保9年(1838)兄重成の死去により大原家6代の当主となった。嘉永6年(1853)ペリー来航以来攘夷論を主張し、安政5年 (1858)日米修好通商条約の勅許に反対して、水戸藩前藩主徳川斉昭の許に赴こうと密かに出京したが失敗した。文久2年(1862)勅使として江戸に下り、辰口伝奏屋敷から江戸城に臨み、将軍家茂に幕政を改革し攘夷の方策を整うべしとの勅諭を伝達した。これによって一橋慶喜の将軍後見職、松平慶永(春岳)の政治総裁職就任が実現した。王政復古派の公卿の一人として活躍し、慶応3年(1867)12月9日の夜小御所で開かれた御前会議(小御所会議)では山内豊信(容堂)、松平慶永ら公議政体派と論争し、この会議で徳川慶喜の辞官(内大臣の辞退)、納地(所領の返上)が決定した。(後略)
明治12年(1879)4月1日、79歳で死去した。」
なかなかの歴史上の人物ですね。
2)楠本正隆のお墓 乙7号1側 1838-1902

政治家。天保9年、肥前大村藩上士として生まれ、号西州。維新の際は尊王攘夷に奔走し、藩論を統一して薩長二藩の統合を策し、島原半に赴き、尊王派を応援した。大村藩中老として藩主を助ける。維新後の廃藩置県の際、藩政を整理して藩債を残さなかった。(後略)
明治29年男爵。35年2月7日没。67歳。
正隆の子正敏(男爵1938.2没)も同所に眠る」これらは説明板がお墓のそばにありました。
さてと?横山大観のお墓はどこかな?調べでは乙8 4側に所在してるハズ何だけど?

乙8は細いアスファルト道、通称ひょうたん横丁に面した場所です。タクシーの運転手の休憩所でもあります。
少し迷ったけども。見つかりました。
3)横山大観のお墓

大観のお墓には墓碑もある。どう書いてあるのかじっくり読みたいけども時間が惜しい。時刻はすでに午後3時になろうとしてるのです。上野の科学博物館を出たのが午後2時だったから、濃い1時間です。

横山大観は日本画の大家です。ちなみに、住居跡が横山大観記念館として、不忍の池を挟んだ向かいに残ってます。大観が制作してた2階の部屋は大観の絵を見たことある方には必見の場所かも?
根津界隈散策(2009.11/15)の記事 こちらが横山大観記念館の見取り図などの記事です。
続きまして、同じくひょうたん横丁に面してある鳩山一郎のお墓を探します。
4)鳩山一郎のお墓

すぐ見つかりました〜。江戸時代の墓石だと表に戒名しか書いてない場合があるから、分かりやすい名前が墓石にあると探すのがとても楽です。

よく見ると、鳩山会館でも見た3羽の鳩が羽を向かい合わせに輪に成ってる模様が彫ってありますね。これは鳩山家の家紋かしら?
ちなみに、鳩山会館訪問の記事はこちら。
鳩山会館外観(2012.8/21)の記事。 こちらの記事に鳩山会館の画像があります。お庭のバラが有名ですが、さつきが咲くとさらにゴージャスです。
鳩山会館内観(2012.8/20)の記事 こちらの記事は建物の中の画像です。
満足したので、お土産に夕焼けだんだんにあるやなかしっぽやさんで猫のしっぽドーナツを買って帰ろう!と夕焼けだんだんへ向かいます。でもせっかくだから、幸田露伴の小説に登場する五重塔跡地がみたいなあ。桜の季節に池上本門寺さんで幸田露伴のお墓詣りしたのがね。ゆかりの地がそこにあるんだから見たいじゃない。
ってなことで、跡地のある谷中五重塔跡桜通りを進みます。

春には桜の名所ですね。
ん?なんか不思議なフォルムなんだけど?これは何??

5)川上音二郎のお墓
説明板発見:川上音二郎 1864-1911
新派俳優。壮士劇の卒先者。福岡県の人。福岡藩主黒田氏の御用商人川上専蔵の子。玄洋社に入り、自由党壮士の群に投じ、自由童子と称し各地を浪遊し政談演説をする。過激な民権論を試み。政府を攻撃し法に触れ獄にとうぜられること数々あり。(中略) 外国演劇視察のため渡仏。帰国後、書生芝居を組織。浅草にて新作を演じオッペケペ節を歌い大いに喝采を得る。日清戰争劇でも満都の好評を博す。衆議院議員の選挙運動に失敗。一座で渡航米国にて興行大好評を得る。英・仏を巡回し名声を上げる。独・伊・露巡演好評。(中略)
妻定奴は近代日本最初の女優です。銅像は戦時中金属の拠出で取り外され、台座のみ残る。」
つまり、もともとは円柱の上に川上音二郎の銅像があったんですね。それがなくなったから不思議なフォルムに見えたんです。
あ。五重塔跡の碑を見つけた!ここにあったのか〜。(続きは明日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

15代将軍 徳川慶喜のお墓 谷中散歩その3

2017年11月03日 05時18分40秒 | 墓所巡り
谷中霊園に徳川慶喜のお墓があるのは以前から知っていたけれど、谷中霊園は6000基からのお墓があるのです。詳しい場所がわからないと、到底辿り着けません。そこで大きめの霊園にはお墓の番地が振り分けてありまして、墓参りはこれを頼りに探すのです。ところが、番地は整然と並んでるとはいかない。どうにか詳しい場所はわからないものか?と、WEBの海を泳いだ結果、谷中霊園の管理事務所スタートにすれば、慶喜のお墓までの道案内がある。という有力情報を見つけました。実際に管理事務所から谷中霊園に伸びる道を見ると、トップ画像の行き先案内矢印を見つけました。
助かる〜~っ!!

曲がり角には次の行き先表示矢印がある。

たどっていくとさらに道を左折しろと。で、突き当る。

霊園の中に唐突な壁。実は壁の向こうが目的地の慶喜のお墓です。
んで?このさきどうすればいいのか?
これを探してください。案内板をよく観察すると、ブルーの枠は矢印になってます。つまり、この立看板は赤丸が現在地で壁に沿って反対側に回れの道案内板だったのだ。赤い三角部分がゴールです。
指示通りに回ります。

到着。こっち側は壁でなく鉄柵なので、中に何があるか見やすいです。上の画像の左へ移動。

鉄格子に葵の御紋が!奥にあるのがお墓です。
せっかくなので鉄格子が画面に写らないように、鉄柵の間に携帯を通して撮影しました。特徴的なお墓です。向かって左が慶喜。右が奥さんの美賀子さん。以前にこのお墓の形は宮中の人のお墓の形だと見たことがあるような?
説明板発見:東京都指定史跡徳川慶喜墓
徳川慶喜(1837-1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第7子で、初めは一橋徳川家を継いで、後見職として徳川家茂を補佐しました。慶応2年(1866)、第15代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し慶応4年(1868)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。
駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31年(1898)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇の謁見しています。明治35年(1902)には公爵を授爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2年(1913)11月22日に77歳で没しました。
お墓は、間口3、6メートル。奥行き4、9メートルの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1、7メートル、高さ0、72メートルの玉石畳の基壇を築き、その上には葺石円墳状を成しています。」東京都教育委員会
詳しい説明ありがとうございます。ちなみに77歳で没した慶喜は、徳川代々の将軍で一番長生きだったとか。
徳川将軍のお墓は初代家康は日光。2代秀忠は芝増上寺。3代家光は日光。以降は芝増上寺と上野寛永寺に順繰りにあります。芝増上寺の将軍家の墓所はたまに公開されてて訪問済みですが。
お江と秀忠のお墓(2012.3/1)の記事 こちらの記事に芝増上寺にある2代将軍の徳川秀忠と正室お江の方の画像があります。 第二次世界大戦で焼失した秀忠の墓所。焼失前の画像もあります。
徳川将軍家のお墓(2012.2.29)の記事 こちらの記事に、芝増上寺に眠る代々の将軍と奥さんのお墓の画像があります。オリジナルの豪華な墓廟はすべて戦災で焼失し、現在はかつて豪華な墓廟の中に納めされていた墓基のみになっています。
上野寛永寺の将軍家墓所は基本日公開。お祭りとかに関連して当選すれば見れるんだけれども、今年も落選しました。何度目だっけ?ぼちぼち四捨五入で10回になるか?数年前より寛永寺さんは5人以上のグループ申し込みでなら拝観OKとなりましたが、私5人も寛永寺の将軍家の墓所を見に付き合ってくれる友達いないんだよね〜。ぼっちな散歩がほとんどなのですよ。そのうち個人受付で拝観できないものか?と願ってます。叶うかどうかはわからないなあ〜。でも暴れん坊将軍の吉宗様のお墓を墓参りしたいんだ。
さてと?いい感じに1本の記事になりそうなので、明日は谷中墓地を歩いてて見つけた他の著名人のお墓を紹介します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷中散歩その2

2017年11月02日 05時38分38秒 | レトロ建築
上野の科学博物館で深海展を見た後谷中へ。上野桜木交差点から谷中墓地へ歩いてると、細道に観光客が入っていく。不思議に思い私達も細道へ。と?昭和情緒たっぷりの建物が見えた。
あれ?こんな所にこんな建物あったっけ?
昔上野桜木交差点からさんさき坂を降りて東京メトロ千駄木駅へと歩いたことがある。その時には見過ごしたか?それとも今のようにウエルカムじゃなかったんだろう。今この古民家は小さなビアホールとして営業してる。古民家は昭和13年に建てられた。袋小路の一角にあって、昭和情緒あふれる街を求めてくる観光客がつい足を止めてしまう風格がある。



古民家は3棟。それぞれに違う使い方をしている。
こちらは谷中ビアホールさん。6種のビールと5つの土鍋を使い分けて作るおつまみや料理を提供している。

こちらはパン屋さん。
そしてレンタルできる広間を持つ家。
昭和のドラマ撮影がお手軽にできそうな佇まいです。

訪問した2017年9月14日は庭の芙蓉が綺麗でした。

上の方にも手押しポンプの画像を載せましたが、下の画像のポンプを見ると、水の出る口に布の覆いをかぶせてあった。これさ、組み上げた地下水にまじるゴミを取り除くためにするんだよね。ということは、この手押しポンプは今も使ってるということ。うわ〜、まさか!ですよね。さすが谷中!!(まああ実際の住所は上野桜木ですが)



さて、先を急ぎましょう。谷中墓地を目指し歩いてると?道向こうでチラシを配ってるおじさんがいた。
何してるんだろか?
骨董喫茶・茶席 瑜枷庵(ゆかあん)さん。。
大正2年創業の大久保美術は「ギャラリー大久保」の母店にあたります。建て替えに伴い2階に畳敷きのお茶席と正座することなく椅子に座って(立礼式)お作法無用で抹茶と和菓子が楽しめ丸。2階の半分はコーヒー&ティールーム・骨董喫茶になってます。
古き良き日本が見たい人向けです。外国人にもおススメですね。

レトロ地図発見:谷中寺町と谷中霊園
「寺院の屋根の下に谷中の町がある」という表現がおおげさでないほど寺が多く、その数は70数軒にもなる。
寛永年間 (1624-43)、上野寛永寺の子院がこの高台に多く建立されたのが谷中寺町の始まりである。それ以前は鎌倉時代創建の感応寺(現天王寺)他数える程しか寺院はなかった。
そして、慶安年間(1648-51)、江戸府内再開発という幕府の施策で、神田あたりの相当数の寺院が谷中に移転してきた。また、明暦の大火(1657)の後も、江戸府内の焼失寺院がかなり移ってきた。寺の門前に町屋が形成され、また参詣に来る人で賑わい、庶民の行楽地となったのもこの頃である。
幕末の慶応4年(1868)、上野戦争の兵火は谷中を襲い多くの寺院が焼失したが、その後再建され、震災、戦災にも会わず、昔ながらの情緒を持った寺町を今日に残している。
谷中霊園は、明治5年(1872)、旧天王寺境内の一角を官有とし、それに天王寺墓地、徳川墓地の一部を合わせた谷中墓地が始まりである。現在の墓地の使用者は6000あまり。幕末、維新以降の著名人の墓碑が数多くある。
む!?谷中散歩で一番行きたいのは徳川15代将軍徳川慶喜のお墓なのですが、無事に見つけられるかな?東京の墓地って墓石が多すぎて、番地がわかってても見つけられないことも多いんだよね〜。
もちろん事前に所在地は調べて来てるんだけども?

さてと?道幅の広い場所に着いた。上野桜木交差点から進んできた道は道なりに左へカーブしつつ坂を下って続きますが、このまま狭い方の直進すると谷中五重塔桜通りです。目的の谷中墓地はこっち。さらにWEBで調べてきた徳川慶喜のお墓への分かりやすい行き方は管理事務所スタートとのことなので、谷中五重塔桜通りではなく上の画像の細い道へ向かいます。

この辺りは墓参参りの客相手の家かな?多磨霊園に行った時も霊園前はこういう感じの家がいっぱいあったなあ〜。

管理事務所に到着です。(続きは明日、谷中散歩その3にて)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷中散歩その1

2017年11月01日 05時32分56秒 | 上野・根津・湯島・神田
2017.9.14訪問。上野の科学博物館で開催された深海展を楽しんだ後、上野桜木へ。目的は谷中墓地の15代将軍徳川慶喜のお墓です。早速トーハクから芸大方面へ移動です。トップ画像はトーハクこと国立博物館の旧因州池田屋敷表門です。江戸の趣のある門の向こうは博物館なんだよね。この門は常に閉まってます。開いてるところ見たことないよ。

2017.11.7画像追加しました。
11月7日にANDO建築スタンプラリーをやりまして、国際子ども図書館もスランプラリーにラインナップされてます。旧因州池田屋敷表門(黒門)の前を通ったら、門が開く日があるのを知りまして、画像追加します。
土日に門が開くから見たことなかったのか〜。

説明板発見:旧因州池田屋敷表門(黒門) 重要文化財
この門は、元因州池田家江戸屋敷の表門で丸の内大名小路(現丸の内3丁目)に建てられていたが、明治25年、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建された。のちに東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれる。表門は昭和29年3月、さらにここに移建して修理を加えたものである。
創建年代は明らかでないが、形式と手法から見て、江戸時代末期のものである。屋根は入母屋造、門の左右に向唐破風造の番所を備えており、大名屋敷表門として最も格式が高い。
昭和26年9月、重要文化財に指定。

トーハクの西側の道の角に古い建造物。これ、なに〜だ?答え:かつてあった旧博物館動物園駅の出口です。現在は使われてません。道を挟んで西側には、国際子ども博物館と、黒田記念館があります。黒田清輝の作品が収納されてます。
黒田記念館(2010.12/23)の記事 こちらの記事の黒田記念館の外観と黒田清輝の代表作の画像があります。
旧帝国図書館(2010.12/22)の記事 こちらの記事に国際子ども博物館の外観の画像があります。この建物は帝国博物館として明治39年に建てられました。

さらに西へ。道の左右に東京芸術大学があります。芸大の博物館があるのもここ。ちなみに、上の画像は芸大の音楽学部の門です。風格あるよね。東京芸術大学赤レンガ1号館(2013.9/22)の記事 こちらの記事に上の画像にある正門奥にあるレトロ建築の画像があります。
道が突き当たる。右に見える細道を進むと?上野桜木の交差点に出る。細道は個性的な民家があって、玄関先の鉢を撮影。

これさ、中にホテイアオイを浮かべてましたが、壺の絵はニモ!関係ないんだけど、馴染んでるんだよね。ついつい撮影してしまったわ〜。

上野桜木の信号の道向こうに旧吉田屋酒店こと下町風俗資料館付設展示場です。
旧吉田酒店(2010年12月24日)の記事 こちらの記事に旧吉田酒店の屋内の画像があります。
もうこの辺りはちょっと進むと見所が!!という、レトロ好きには見所が多すぎて先に進めない。道の左手が有名な谷中です。ちなみに右手は上野桜木ね。
説明板発見:旧谷中町
天正から元禄(1589〜1703)にかけて、町屋の区域が武蔵国豊島郡谷中村より独立して、谷中町として起立した。
谷中という地名は江戸時代からあり、その由来は上野台(代山)と本郷台の谷間に立地していることにちなみ、下谷に対して付けられたと言われています。
本町の江戸時代の町屋は、言問通り(八軒町)と天王寺へ行く通りの面(総持院門前町まで)に形成されていた。明治初年、大雄寺を始めとする寺池が合併されて町域が定まった。
大雄寺には、勝海舟、山岡鉄舟とともに「維新の三舟」と言われた高橋泥舟が大クスの木の下に眠っている。この大クスの木は、東京都の保存樹木に指定されている。
大雄寺さんの入り口です。
説明板発見:高橋泥舟は幕末期の幕臣。槍術家。名は政晃。通称謙三郎。のち晴一。泥舟と号した。山岡鉄舟の義兄にあたる。
天保6年(1835)2月17日、山岡正業の次男として生まれ、高橋包承の養子となる。剣術の名人として世に賞賛され、21歳で幕府講武所教授、25歳の時同師範役となり、従五位下伊勢守に叙任された。(後略)

あ!個展やってる〜。せっかくだから見ていこう!
ここはK's Green Galleryさん。お邪魔した時は梨園染手ぬぐいの作家さんで磯崎真澄氏の仕事展 「グッと よぉござん寿」(2017.9/8~9/30)の個展をやってました。作品の手ぬぐいは買うこともできました。作家さんが会場にいて、説明してくださいました。
布物は私、大好きで、10年前なら即買いしてた!今も大分欲しかったのですが、布って集めてもしまい込みがちなもの。でもぼちぼち私の人生も四捨五入したら後半に入ってるのですよ。布を集めてしまいこんでてどうするの?と思いまして。できる限り自重してます。最近はしまうより使え!と思いまして、旅先で購入したハンカチやら布をふだん使いし始めました。布で座布団カバーや枕カバーを自作して楽しんでます。会社員時代あんまり忙しく休日は寝て過ごすのみ。買い物したい!欲は通販で解消してました。んで!使いもしないハンカチを毎月購入してた時代があったんですよ。フェリシモって今もあるんだろうか?最近男性でも使えそうなハンカチをダンナの普段使いに数枚。お散歩先で気に入って買ったいせ辰さんのハンカチってか小風呂敷?もダンナの普段使いに使ってます。
ってなことで、この時はみ〜る〜だ〜け〜~っ!で、我慢しました。この作家さんの和手ぬぐいは大分好みだったので、次に出会ったら我慢できないかも?

ギャラリーの前、道を挟んだ向こうにおせんべい屋さんがある!うわ〜〜!!
懐かしい店構えっ!うちの田舎ではこういう感じの店はほとんどなくなってしまいました。
あ〜ん??八十八ヶ所寺の近くには残ってたっけな?でも実家の近所の本山寺のそばのせんべい屋はもうない!と思う!いや、店の前の道が狭すぎて帰省した折も10年以上迂回路を通るようになったんで確認できんの。
話を戻して。谷中には昔ながらの〜とか昭和のかをり〜といった佇まいの建物やお店があちこちにあるんだね。そりゃあ、お手軽な街歩き観光にもピッタリ〜な訳です。

あ。またあった。あそこは和菓子屋さんです。豆大福が名物らしい。
愛玉子と書いてオーギョーチ。昔からここにあるそうです。
ショーケースに入ってるのがオーギョーチです。まるで黒糖寒天みたいだね。一回食べてみたいんだけども。今回は連れがいるのでパス。時間も科学博物館出発時ですでに午後2時だったから、寄り道はあんまりできんのですよ!
日展新会館さんの前に、谷中街歩きの地図が置いてあります。ゲットです!実は私が谷中の街歩き用に持ってきた地図は、何年か前に根津神社さんのつつじ祭りで配ってた根津権現かいわい浪漫ちっくマップでして、もしかしたら情報が古いやもしれんのです。だって谷中が「谷根千」として有名になる前にゲットした絵地図でして、歴史&寺の位置は変化ないと思うけども〜。ってなことで、最新の街歩き地図に持ち替えて〜??ん??観光客が日展新会館の脇の細道に吸い込まれていく。何かあるのか?
 
なんだ。猫か。そういえば、谷中って地域猫が多い町でもあったんだった!
む!猫の撮影してるのお姉さん一人だけ。他の観光客はどこへ行った??

何かあった〜〜!目的地の谷中墓地はまだ先なのに、みたい場所が次々現れてなかなか進みません。(谷中散歩その2へ続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする