あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

旧伊藤博文邸外観見学

2018年11月13日 06時13分12秒 | 歴史散歩
2018.10.27訪問。明治記念大磯庭園明治150年記念公開ガイドツアーの3つめは旧伊藤博文邸です。伊藤博文は天保12年(1841)周防国(現山口県)出身。農民の長男として生まれた。家は貧しいかった。14歳の時、父が萩藩の下級武士伊藤家の養子となったことから、伊藤姓を名乗るようになった。
安政4年(1857)相模(神奈川県)での江戸湾警備の仕事を任された時、長州藩士米原良蔵と出会い、吉田松陰の松下村塾で学ぶ。安政6年(1850)には桂小五郎(木戸孝允)に従い、長州藩の江戸屋敷に住む。同年安政の大獄で吉田松陰が処刑されると、尊王攘夷運動に加わる。
文久3年(1863)井上馨らとともに藩主の命令を受けイギリスへ。長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカ連合艦隊の下関戦争の知らせをうけ帰国。和平交渉にあたる。
維新を迎え明治新政府において英語力をかわれ外事局判事などにつく。
明治4年(1871)岩倉使節団など留学を経験し、貨幣の制定や鉄道事業に力を注ぎ、内閣制度の創設や大日本帝國憲法の制定の中心人物となる。
明治18年(1885)、44歳で初代内閣総理大臣に就任。以後第5代、第7代、第10代と4度内閣総理大臣を務める。
日清・日露戦争を経て、明治38年(1905)初代韓国総監となり、朝鮮半島の政治体制を整えようとしていたが、明治42年(1909)ハルピン駅で朝鮮のテロリストの襲撃をうけ暗殺された。享年69歳。『大磯建物語』より(総合案内所で配布の冊子です)
ところで伊藤博文の滄浪閣(そうろうかく)って他にもあったのをご存知ですか?横浜の金沢八景駅から徒歩、八景島シーパラダイスの向かいにひとつ。小田原の海岸にひとつ。以前訪問済みです。
旧伊藤博文別荘(2013年1月4日)の記事 野島公園内にある明治31年(1898)に建てられた茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築の紹介です。茅葺屋根の建物は、大磯の滄浪閣が関東大震災で被災しなければ、こんな感じだっただろうと思える風情です。伊藤博文は農民出身なので、こういう建物の方が馴染みでくつろげたのだろうと想像できるのでオススメです。
伊藤博文別荘跡(2011年11月7日)の記事 御幸浜近くに伊藤博文の滄浪閣はありました。現存するのは入り口の石組みと胸像のみですが。伊藤博文は小田原の滄浪閣で明治29年(1896)まで過ごしました。
明治23年(1890)、大磯を気に入った伊藤は大磯に別荘を建築することにし、完成すると小田原を引き払い大磯の別邸に滄浪閣と名付け本宅とする。東隣に佐賀藩主鍋島直大の別邸、西隣に西園寺公望の別邸が建てられた。和館と洋館があったが、大正12年(1923)に発生した関東大震災で倒壊した。
つまりですね。現存の建物は伊藤時代のものではないのですよ。ならば?
大正10年(1921)に伊藤家が東京に転居。滄浪閣は李王家の李ぎんに譲渡され、李王家別邸として使用されるようになりました。震災後、昭和元年(1926)に使えるものを使い再建。現在ある建物はこの時再建したもののうち一部が現存。トップ画像です。
第二次世界大戦後、旧李王家別邸はGHQに接収され、軍事施設として使用された。のち、政治家楢橋渡へ浄土され、昭和26年(1951)西武鉄道の所有となり、昭和39年(1964)からレストランと結婚式場として活用された。
ガイドさん曰く「内部は手を入れないと公開できませんが、ステンドグラスがどが残っています。

う〜む。なんとか中が見えないか?と窓に張り付いてみたら、中華料理店によくある丸いターンテーブルと椅子が見えたよ。洋館の前は斜面です。

おそらく石畳は変わってないかも?と足元を撮影。と??小さな雑木の1本1本に番号がつけられていた。
「これ、何のためにつけてるの?」と尋ねたら、「西武との売買交渉のためです。雑木の1本1本も資産のうちですから」ですってよ?つまりお金も問題なんだね。西武時代のいらん建物がまだ今は残ってるので、買収交渉が終わっても正式公開にこぎつけるまで、まだまだ先は長そうです。

そういえば、大隈重信邸・陸奥宗光邸・伊藤博文邸の3つにパネルがありましたが、みんな奥さんとの記念撮影写真展示されてました。
これにて90分のガイドツアーはおしまいなのですが、最後に気になってたことを質問してみた。
「明治記念大磯邸園の見取り図には旧西園寺公望邸跡(旧池田成彬邸)って公開しないんですか?」

「この伊藤博文邸より痛んでて公開できないとか?」
するとガイドさんは
「池田成彬邸の内部はとても素晴らしいです」と。

「ならお金の問題ですか?」と突っ込んだらば。
「所有はある銀行が持ってます。なにかがあった時のために、持っておきたいという人がいてですね」
わかりました!そういうことか〜。塩漬け物件なのね。残念です。
ガイドツアーの最後にアンケート用紙に書き込んでたら、ツアー参加特典で伊藤博文と大隈重信が大磯で撮影した写真の絵葉書をいただきました。
え〜と?元になったものはこの写真です。

アンケートを投函したら、売店を発見。

ここでブラタモリで紹介されていた明治の海水浴の絵が絵葉書になってました。迷ったけども、2個250円のアオバトをモチーフにしたクッキーを購入しました。

ここで購入したアオバトクッキーは、11月11日の大山紅葉散歩で大山阿夫利神社下社のベンチでおやつにいただきました。

やわらかクッキーで美味いです。オススメです。(2018.11.14にクッキーの画像を追加しました)
さて、時刻は既に12時を回りました。
せっかくなのでお昼ご飯は城山公園で食べたい!

吉田茂邸前にあるバラ園のベンチでお昼ご飯〜。残念ながらバラの花が少ないのね。

さて、次は七賢堂の公開です。
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旧陸奥宗光邸見学

2018年11月12日 08時07分03秒 | 歴史散歩
2018.10.27に見学。明治記念大磯邸園ガイドツアーは、10時半スタートで、同じ敷地にある旧大隈重信邸からスタート。次はお隣の和館陸奥宗光邸です。
維新後、大磯は幕府の御典医だった松本順が提唱した健康回復目的の海水浴をここでと明治18年(1885)に日本で初めての療養を目的とした海水浴場が開設され人気に。ついで明治20年(1887)に東海道線大磯駅が開業し、別荘地として急速に発展します。明治の政財界の要人が集う場所となりましたが、大正12年(1923)に相模湾を震源に発生した関東大震災で多大な被害をうけ、以後往年の繁栄を取り戻すことなありませんでした。
前置きはこれくらいにして、旧大隈重信邸と旧陸奥宗光邸は同じ敷地に隣接しています。大隈重信が大磯の別邸を使用したのは1897年(明治30)からの4年間のみ。別邸は古河市兵衛に譲渡されます。
さて、陸奥宗光って誰?という方のためにかるく紹介しますね。

陸奥宗光は天保15年(1844)生まれの紀伊の国(和歌山県)出身。
文久3年(1863)に勝海舟の神戸海軍操練所に入り、慶応3年(1867)坂本龍馬の「海援隊」に参加。維新後は兵庫・神奈川県知事、大蔵省租税かしら、元老院議官を歴任。
明治11年(1878)土佐立志社事件への関与が発覚し禁固5年の刑を受ける。出獄後、伊藤博文の勧めでヨーロッパへ留学。明治19年(1886)帰国後、外務省に入省。
陸奥宗光の最大の仕事は、幕末期に外国と結んだ不平等条約の改正です。外国に有利に日本に不利だった条約を明治27年(1894)日英通商条約に調印しました。しかし、明治30年(1897)に肺結核のためここ大磯で死去します。
そういえば、NHKで制作された「坂の上の雲」で陸奥宗光役の役者さんがゴホゴホやって意見してたのを「陸奥は療養しろ」とか中尾彬さん役の人に止められてたのをふと思い出したよ。
で、陸奥宗光が大磯に別荘を構えたのは明治27年(1894)です。明治29年(1896)には病気を理由に外務大臣を辞任して大磯で療養生活を送ります。が、翌年に他界する。で、なぜに別荘が現在古河電工の所有になったか?というと、陸奥の次男・潤吉が古河市兵衛(古河財閥創始者)の養子になっていたので古河家に譲渡されました。しかし建物は大正14(1923)に発生した関東大震災で大きく損傷。古河財閥3代目当主虎之助は母のため大正14年(1925)に建て替えます。なので現存の建物は旧陸奥宗光邸といっても、陸奥時代と同じものではありません。ただ、残された資料によると玄関と主な居住部分は復元されているようだとか。前置きが長くなってしまいましたが、建物に入ります。

玄関に掲げられた「あの扁額は何て書いてありますか?」とガイドさん。ンなこと言われても〜??
「一つ目は「游」で2つ目は「漁」ですか?」と私。「惜しい。正解は「聴漁荘」です」と返すガイドさん。もうね。ついつい口から余計なことがポロポロ出てしまう私です。

反省しつつも陸奥時代の面影を復元したという玄関から靴を脱いで上がります。

大きな窓のある和室です。

訪問したのは10月27日なのでわかりにくいのですが、庭木はつつじが多い。5月にぜひこの和室から眺めてみたいものだわ〜。

この和館も大隈邸と同じく広い広縁の廊下があります。畳敷きの外側に廊下がしつらえてあるのは、大隈邸と同じく海水浴で汚れた体をお風呂で洗うために、直接庭から広縁に上がり廊下部分を回って風呂場に向かえるようにしたからとか。これもガイドさん情報です。

ちなみにこれが外からみた上がりの石。玄関周りより手取り早いよね。

和室の床の間には横山大観の滝の図が。ちなみにこの絵は横山大観が滞在し、お礼代わりに庭の滝を描いてったんだって。後で庭園散歩した時の画像で、横山大観が腰かけて描いた石などを紹介します。
さて、海水浴場が近いので、広い浴室は必須だった模様で、脱衣場も浴室ともに広いです。脱衣場はツアー参加者が邪魔(失礼)で撮影断念したけど、浴室はちょっと撮影しました。

現代を生きる私たちからしたら、浴室の壁が木製なのは違和感ありますね。

でもこのレトロなお風呂も古河家時代のもの。天井全体に換気をする工夫があり、

あれ?これ、シャワーじゃないの??

海水浴のあと、体についた砂を洗うには湯船につかるよりシャワーの方が便利かも?まあ、のちに庭を散策しててもひとつ体を洗う理由を見つけちゃいましたが。だって、土俵があったんだもの〜。ご当主の趣味だったみたい。

こちらは浴室・脱衣場に隣接する洗面所。洗面所なのに素敵だったのでパパッと撮影。パパッと撮影したので、ピンボケ画像になっちゃったよ〜。雰囲気が伝わるのを載せますね。
洗面所・脱衣場から廊下を挟んで家族用の和室があります。そこに陸奥宗光の功績紹介資料展示が。ふと、片隅にあった大きな鏡台に目が止まる。ガイドさんに開けていいか?聞いたわ許可が出たので開く。

綺麗な鏡だった。いつの時代のものか?しみじみと見てたからかガイドさんが「皇后が行幸された時に使われた鏡台と伝わってます」と。今回はガイドツアー90分の時間制限付きだからあまり突っ込んで尋ねられないのが残念です。⚫️見さんに聞いたらあれこれ一杯教えてくれそうなのになあ〜。残念ですわ。ということでみ陸奥宗光邸の見学は一旦終了。

玄関前にあった説明板。陸奥宗光の奥さん亮子はとても美人ですね。息子も美男だなあ。
さて、ガイドツアーでは最初に入園券の配布がありまして、お庭は当日限りに自由見学できます。ツアーが終わってから戻ってくるぜ!!ってなことで、次に移動です。伊藤博文の滄浪閣です。
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大磯 旧大隈重信邸見学

2018年11月10日 06時50分17秒 | レトロ建築
なぜに大磯に残る数少ない明治の古建築がいま公開されたのか?といえば、今年が明治維新元年から起算して150年にあたるからです。今年は全国あちこちで維新に関連するイベントが開催中ですね。
「大磯には明治期の立憲政治の確立に重要な役割を果たした伊藤博文・大隈重信の邸宅などの歴史的遺産が集中して残されていることから、去年(平成29年11月21日閣議決定)、国土交通省が神奈川県や大磯町と連携し、旧伊藤博文邸(そう浪閣)を中心とする歴史的な建築群や緑地を一体的に保存・活用するため整備を進めてます」(パンフレットより)とのこと。
構想はわかった!何にせよいままで望んでも見学できなかった建物が見えるのは嬉しい。とはいえ、今回の公開範囲は限定的かつ現状公開です。おそらくそう浪閣は西武グループが結婚式場として使用していたので、内観を公開するにはまずかつての姿に復元作業があります。まあ、ぶっちゃけ金の問題です。まず西武から買い取りです。

まずはテストから!ということで、今回はなんと!!ガイド付きでも無料公開です!国土交通省太っ腹!これは乗るしかないでしょう!!明治記念大磯邸園として整備したのちは、有料になる模様です。ツアー最後にあったアンケートに「見学料はいくらが適当ですか?」という問いがありましたので。
さて、前置きはここまでにして、まずはガイドツアー一つ目の旧大隈重信邸を紹介します。

入り口を抜けるとまずは庭が出迎えてくれる。奥に2つの和館がある。上の画像右手(西側)に旧大隈重信邸が、左手(東側)に旧陸奥宗光邸がある。まずは右の大隈重信邸へ向かいます。

まず気づくのが大隈重信邸は玄関が西側の壁に近い場所についてることです。窮屈そうでとっても不自然なんだよね。だって玄関といえば家の顔だよ?敷地が狭いならともかく広いんだ。なぜにすぐそこに壁があるのか??誰もが思う疑問はガイドさんがあかしてくれた。
「大隈重信の出身地は、薩長土肥の肥前国、現在の佐賀県です。1838年(天保9)に佐賀藩砲術長の父の長男として生まれました。
伊藤博文が大磯にそう浪閣を建てた翌年の1897年(明治30)に大隈重信は大磯に別邸を建設します。大隈がこの別邸を使用したのは古河市兵衛に譲渡するまでのわずか4年でした。
関東大震災にも耐え、古河家から古河電工に所有が変わった後も維持管理されていたため、居住部分はほぼ往時のままの姿で保存されています。
建設当時、西隣には最後の佐賀藩主・鍋島直大の別邸(現在はマンション)があり、家相上悪いとされる西側にわざわざ玄関を配置し、主君への忠義を示しています
ガイドさん、最初っから飛ばしすぎ。さすが内田康夫さんの小説の主人公と同じ名字を持つだけあるねっ。調べるの大好きなんだろうなあ。情報が満載されてて、ガイドツアー参加者は大満足ですっ!ともあれ、大隈重信がかつての殿にお尻を向けるのはダメだと、わざわざ西側に玄関をつけたのがわかりました。
では靴を脱いで和館へ入ります。

画像では写ってませんが、玄関の前は車寄せで大きな庇がついてます。ブラタモリ「湘南」の回でも紹介されてましたが、大隈重信は宴会好きで、毎晩のように宴会してたのだとか。東京から車を連ねて大磯に移動し、宴会というのがお決まりのコースだった模様で、執事さんの記録では1年で2万人を超える人が宴会に参加したとかなんとか。1年は365日しかないのに。連日宴会したとして、20000人➗365日=54、7人。つまり、毎日50人以上が集っていたという〜〜〜!!どんだけ〜。
玄関を入るとまず目の飛び込んできたのは正面に据えたでっかい鏡です。

鏡に見えます。でもこれ銅鏡って呼ばれてるんだって。確かこれをつけたのは大隈重信ではなく、後に古河家が別邸として使用していた時につけたとか。古河家と陸奥宗光のつながりは、陸奥の次男が古河家の養子になっていたことから。で、古河家といえば、足尾銅山です。だから!の銅鏡なワケですねっ。足尾銅山が大公害(鉱害)を起こした時、時代は富国強兵。そして政財界につながりががっちりあったので、問題にはなったけども抑え込めたんだって。なんかネタがポロポロ出てくるなあ。

銅鏡の右手にこじんまりとした応接間があった。それを横目に進むと、16畳と10畳の続きの26畳の大広間があります。

現在は、明治の資料を設置してあり、大きさは感じられませんが、ぶっちゃけここは宴会するための場所ですね。

ちなみに有名なのは床の間の床柱です。

この木はサルスベリでして、「大隈さんちのサルスベリ」といえば有名だったとか。なんか、床柱に使えるほど太く真っすぐなサルスベリは珍しかったんだっって。

ちなみに大広間があるのは「富士の間」と呼ばれていて、外観はこんな感じ。

大広間の縁を回すようにあった広縁部分から庭を撮影しました。ブラタモリの番組内では「かつてはここから正面にど〜ん!と海が広がっていた」と言ってましたね。現在は松などが伸びてしまい海は見えません。更には西湘バイパスが海側に走っているので、もし今松を低く整えても、かつての景色には戻りません。
さて、大広間に設置してあった資料を少し紹介。
 
これは伊藤博文に明治天皇が下賜した杉板戸絵です。裏表共に描かれており、パンフレットには静御前の舞と野見宿禰の相撲の場面が紹介されてたので別の絵を載せてみた。

こちらは大隈重信が明治14年に上奏した〜〜密奏した憲法の意見書です。
幕末維新を彩った立志伝の立役者も、明治も半ばになると数が減り(例えば西郷隆盛は明治10年<1877>に49歳で死去。大久保利通は明治11年5月に暗殺)残る大物は伊藤博文と大隈重信で、大隈が明治天皇に出した上の意見書が対立の元になりました。
で、こちらは大日本帝國憲法

そうそうたるメンバーの署名が並んでいますねっ。参考までに伊藤博文が初代総理になったのが明治18年2月、大ん本帝國憲法発布が1889年(明治22)2月11日でした。つまり大隈重信案はボツになったという。にしても武士の世が終わった幕末維新元年が1868年で、それからわずか20年ちょっとで憲法作ったのですよ。あの時代誰も彼も憲法作りに熱中したって何かのドラマで見たなあ。
他にも資料は並んでましたが、ガイドツアーは13人も参加してるので、短い時間ではなかなか撮影出来ず、他の資料はかるく見るだけにとどめちゃいました。
大広間の富士の間から神代の間を撮影。次はこちらを見学します。

なんといっても見所はこの窓です。

明治の頃、板ガラスは今と製法が違い鉛ガラスと呼ばれてました。この製法で作られたガラスは、外の景色がゆがんで見えたりガラスに気泡が混じったりしましたが、透明度はなんと今の時代のガラスよりは上!!味わいがあります。しかしガイドさんの一番の心配は、この鉛ガラスが割れたら今再現出来ないこと。なのでガイドツアー参加者は、不注意な事故が起こらないようにリュックは前に抱え、窓に近づきすぎないように見学を求められました。
さて、神代の間ですが、由来は千年以上も地中や湖底に埋もれていた杉を使ってることから。大隈はここを書斎として使用。

で、何か気づきました?床柱が竹?そうです。そして奥の戸板が神代杉。しかし注目は低い襖です。
実は大隈重信は外務大臣時代の明治22年10月に爆弾襲撃を受け、右足を切断する大怪我をおい辞職しました。(大磯の邸宅は明治30年に建設)なので、襲撃をうけても刀を振り回せないように低く作ってあると説明。

ちなみに神代の間の外観はこちら。

ぜいたくな石の使い方してるよね〜。
内観を終え、庭に出た。目に飛び込んできたのはこれ。

大隈時代の古い家屋台帳によると、この場には浴室があった。大隈重信は風呂好きで、邸宅の南20メートルほど海側に丘を降ったあたりに四畳半くらいの浴室と離れがあったとか。この五右衛門風呂はその跡地近くから掘り出されたものだって。明治22年の襲撃で右足を切断した大隈は、義足くらし。底が熱くなる裸足で五右衛門風呂には入れない。身長180センチの長身の大隈は片足に下駄を履いて小さくなって五右衛門風呂をたのしんだとか。ちなみに、坂を下ればそのまま海岸に直接繋がっていたので、海水浴の後、お風呂に入ってという松本順先生提案の治療の一環だったかも?とガイドさん。
次は隣接の陸奥宗光邸です。

ちなみに、現在は明治維新150年のイベントに合わせ公開されてますが、普段はこんな感じです。
元勲通りと呼ばれています(2015年3月1日)の記事 こちらの記事は以前に大磯歴史散歩をした時のもの。入り口が閉まってる時の旧陸奥宗光邸と旧大隈重信邸と、敷地を囲む石塀の画像を載せてます。石垣スキーには必見の素晴らしい石垣を巡らせてます。
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明治記念大磯庭園明治150年記念公開

2018年11月09日 20時24分43秒 | 歴史散歩
10月のある日、いつものように神奈川新聞のWEBをチェック。するとこんな記事を見つけた。「政界の奥座敷」を公開 大磯邸園、10月23日から
ん?大磯邸園って何だろか?興味を持って記事を読むと「明治改元150年を記念し、かつて「政界の奥座敷」と呼ばれた大磯町に残る伊藤博文や大隈重信らの旧邸宅の一般公開が10月23日に始まる。」とありました。
な、何だってぇ〜〜〜!!更には「事前予約制のガイドツアーで1日最大160人の受け入れ、滄浪閣の外観のほか、大隈邸と陸奥邸の内部を案内する。明治天皇が伊藤に下賜した杉板戸絵も公開される」とある。これは〜〜〜!!申し込むしかないよねっ!と。すぐさまポチっとして、無事に10月27日(土曜日)の10時半開始の見学ガイドツアー参加予約できました。
当日をわくわくと待ってたら、なんと!タモリさんのブラタモリ「湘南」の回で、大隈邸を訪問してるではありませんかっ!事前に大隈邸の内部をチェックポイントが知れて嬉しかったのと、放送前に見学予約を済ませてた私を自画自賛しちゃいました。
では今日から10月27日に参加したガイドツアーを紹介します。
まずはトップ画像。JR大磯駅からガイドツアーの集合場所である旧伊藤博文の邸宅跡、滄浪閣を目指し東海道を西へ。と?ブラタモリ「湘南」で見た建物を見つけた。タモリさんが大きな門に驚いてたお家ですね。

で、かつての東海道を彷彿とさせる松並木に到着。前回は画像に見える歩道橋を渡り旧島崎藤村宅の見学に行ったんだった!
で。あの時も驚いた東海道の松並木の中に、現在もかつての松が現存してるのを感慨をもって見上げる。
 
素晴らしいハニカム構造。惜しむらくは、倒伏しないように松の上の方がパッツンと切られていることです。あ〜、残念だけども。倒れるよりマシなのか?海が近いので台風とか強風が吹くと東海道こと国道1号線に倒れるとヤバいですものね。

あ!ここかな?とプリントアウトしてきたガイドツアー参加の参加証お知らせページを取り出す。あ。私はガイドツアーをwebで申し込みましたが、往復葉書やFAX申し込みも可能です。
しかし、実はここは古河財閥管理物件で、ガイドツアーでいく旧大隈重信邸&旧陸奥宗光邸の入り口でした。お姉さんに尋ねて総合案内所へ向かいます。こちらがガイドツアーの受付場所なのです。

すんごく解りやすい目印があります。

所在地はこちらです。
ガイドツアーは10時に受付開始。早めに受付を済ませたら、隣接のパネルをチェック。

すんごくためになりました。これ、今からガイドツアーに参加する方は、ぜひともツアー参加の前に目を通すのがオススメです。

パネルは多い。ピックアップしたのはガイドツアーで訪問するこのパネルです。
あ!ついでにここでA5版の20Pある「大磯建物語 明治記念大磯邸園 旧伊藤博文邸・旧大隈重信邸・旧陸奥宗光邸」を必ず手に入れてください。ガイドツアーで訪れる情報がぎゅぎゅっと詰まってます。
ちなみに、一般公開は12月24日まで(水曜休園)。午前9時から午後4時半。邸宅内を見学するにはガイドツアー参加が必須ですが、庭園の見学は予約不要です。
ツアーは1日4回の約90分。(個人2回・団体2回の見学です)私はE班で、E班は13名の参加者がいました。
では出発。最初は大隈重信邸から。

おおっ!ブラタモリで見た和館の玄関だ〜〜!!ワクワクです。(続く)
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新磯のざる菊2018/11/7現在

2018年11月08日 03時22分19秒 | 相模原・座間・大和市
昨日、天気予報が外れて気づけば青空が広がっていた。ならば!と自転車を飛ばして新磯のざる菊を見てきました。

到着したのはすでに午後2時半近く。午後の日差しで太陽が雲の合間から出たり隠れたりのコンディションです。この場所の撮影は、やはり午前がベストです。なぜなら、丹沢山系を背景に会場の全景を撮影しようとすると逆光になっちゃうのですよ。

こんな感じで。
にしても?今年のざる菊はやたら白色が多いんだね。なぜにこんなデザインにしたのだろうか?綺麗だけども。
と?どこかのデイサービスのスタッフのお姉さんが「今年は何のデザインですか?」と聞いてる声が聞こえた。それに「10と描いてある」と。
んん?
あ!わかった!ざる菊が今年で10周年だってどこかで見たわ。

ってな事で、「10」が解りやすい構図で撮影してみた。ちょうどデイサービスか老人ホームの人々が鑑賞に来てるみたいです。やたらと車椅子とお世話係の人が多い。タイミングですかね?

綺麗なものを見ると心が華やぎますよね。笑顔があふれてました。
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新磯ざる菊開花情報2018.11.1現在

2018年11月01日 18時27分17秒 | 花見散歩
昨日までgooブログではアクセス解析のサービスがありました。アクセス数の多い記事に、相模原市新磯のざる菊の開花情報がありました。そういえば、今年もそんな季節になってるのね。と、今日の午前中に開花状況を観てきました。

現在は黄色がすでに見頃。赤もぼちぼち見頃。白はまだまだ。ピンクもまだまだという咲き具合です。

今年のざる菊は株が小さめな印象です。
ちなみに、採れたて野菜や菊も販売していて、売れ行き好調のようでした。私は珍しく白色の小菊の束を購入。だって一束100円ポッキリだったんんだもの〜。
ちなみに、11月3日にはざる菊会場と近所の勝坂遺跡で縄文まつりが開催されます。徒歩距離で移動可能です。
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