2018.10.27訪問。明治記念大磯庭園明治150年記念公開ガイドツアーの3つめは旧伊藤博文邸です。伊藤博文は天保12年(1841)周防国(現山口県)出身。農民の長男として生まれた。家は貧しいかった。14歳の時、父が萩藩の下級武士伊藤家の養子となったことから、伊藤姓を名乗るようになった。
安政4年(1857)相模(神奈川県)での江戸湾警備の仕事を任された時、長州藩士米原良蔵と出会い、吉田松陰の松下村塾で学ぶ。安政6年(1850)には桂小五郎(木戸孝允)に従い、長州藩の江戸屋敷に住む。同年安政の大獄で吉田松陰が処刑されると、尊王攘夷運動に加わる。
文久3年(1863)井上馨らとともに藩主の命令を受けイギリスへ。長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカ連合艦隊の下関戦争の知らせをうけ帰国。和平交渉にあたる。
維新を迎え明治新政府において英語力をかわれ外事局判事などにつく。
明治4年(1871)岩倉使節団など留学を経験し、貨幣の制定や鉄道事業に力を注ぎ、内閣制度の創設や大日本帝國憲法の制定の中心人物となる。
明治18年(1885)、44歳で初代内閣総理大臣に就任。以後第5代、第7代、第10代と4度内閣総理大臣を務める。
日清・日露戦争を経て、明治38年(1905)初代韓国総監となり、朝鮮半島の政治体制を整えようとしていたが、明治42年(1909)ハルピン駅で朝鮮のテロリストの襲撃をうけ暗殺された。享年69歳。『大磯建物語』より(総合案内所で配布の冊子です)
ところで伊藤博文の滄浪閣(そうろうかく)って他にもあったのをご存知ですか?横浜の金沢八景駅から徒歩、八景島シーパラダイスの向かいにひとつ。小田原の海岸にひとつ。以前訪問済みです。
旧伊藤博文別荘(2013年1月4日)の記事 野島公園内にある明治31年(1898)に建てられた茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築の紹介です。茅葺屋根の建物は、大磯の滄浪閣が関東大震災で被災しなければ、こんな感じだっただろうと思える風情です。伊藤博文は農民出身なので、こういう建物の方が馴染みでくつろげたのだろうと想像できるのでオススメです。
伊藤博文別荘跡(2011年11月7日)の記事 御幸浜近くに伊藤博文の滄浪閣はありました。現存するのは入り口の石組みと胸像のみですが。伊藤博文は小田原の滄浪閣で明治29年(1896)まで過ごしました。
明治23年(1890)、大磯を気に入った伊藤は大磯に別荘を建築することにし、完成すると小田原を引き払い大磯の別邸に滄浪閣と名付け本宅とする。東隣に佐賀藩主鍋島直大の別邸、西隣に西園寺公望の別邸が建てられた。和館と洋館があったが、大正12年(1923)に発生した関東大震災で倒壊した。
つまりですね。現存の建物は伊藤時代のものではないのですよ。ならば?
大正10年(1921)に伊藤家が東京に転居。滄浪閣は李王家の李ぎんに譲渡され、李王家別邸として使用されるようになりました。震災後、昭和元年(1926)に使えるものを使い再建。現在ある建物はこの時再建したもののうち一部が現存。トップ画像です。
第二次世界大戦後、旧李王家別邸はGHQに接収され、軍事施設として使用された。のち、政治家楢橋渡へ浄土され、昭和26年(1951)西武鉄道の所有となり、昭和39年(1964)からレストランと結婚式場として活用された。
ガイドさん曰く「内部は手を入れないと公開できませんが、ステンドグラスがどが残っています。
う〜む。なんとか中が見えないか?と窓に張り付いてみたら、中華料理店によくある丸いターンテーブルと椅子が見えたよ。洋館の前は斜面です。
おそらく石畳は変わってないかも?と足元を撮影。と??小さな雑木の1本1本に番号がつけられていた。
「これ、何のためにつけてるの?」と尋ねたら、「西武との売買交渉のためです。雑木の1本1本も資産のうちですから」ですってよ?つまりお金も問題なんだね。西武時代のいらん建物がまだ今は残ってるので、買収交渉が終わっても正式公開にこぎつけるまで、まだまだ先は長そうです。
そういえば、大隈重信邸・陸奥宗光邸・伊藤博文邸の3つにパネルがありましたが、みんな奥さんとの記念撮影写真展示されてました。
これにて90分のガイドツアーはおしまいなのですが、最後に気になってたことを質問してみた。
「明治記念大磯邸園の見取り図には旧西園寺公望邸跡(旧池田成彬邸)って公開しないんですか?」
「この伊藤博文邸より痛んでて公開できないとか?」
するとガイドさんは
「池田成彬邸の内部はとても素晴らしいです」と。
「ならお金の問題ですか?」と突っ込んだらば。
「所有はある銀行が持ってます。なにかがあった時のために、持っておきたいという人がいてですね」
わかりました!そういうことか〜。塩漬け物件なのね。残念です。
ガイドツアーの最後にアンケート用紙に書き込んでたら、ツアー参加特典で伊藤博文と大隈重信が大磯で撮影した写真の絵葉書をいただきました。
え〜と?元になったものはこの写真です。
アンケートを投函したら、売店を発見。
ここでブラタモリで紹介されていた明治の海水浴の絵が絵葉書になってました。迷ったけども、2個250円のアオバトをモチーフにしたクッキーを購入しました。
ここで購入したアオバトクッキーは、11月11日の大山紅葉散歩で大山阿夫利神社下社のベンチでおやつにいただきました。
やわらかクッキーで美味いです。オススメです。(2018.11.14にクッキーの画像を追加しました)
さて、時刻は既に12時を回りました。
せっかくなのでお昼ご飯は城山公園で食べたい!
吉田茂邸前にあるバラ園のベンチでお昼ご飯〜。残念ながらバラの花が少ないのね。
さて、次は七賢堂の公開です。
安政4年(1857)相模(神奈川県)での江戸湾警備の仕事を任された時、長州藩士米原良蔵と出会い、吉田松陰の松下村塾で学ぶ。安政6年(1850)には桂小五郎(木戸孝允)に従い、長州藩の江戸屋敷に住む。同年安政の大獄で吉田松陰が処刑されると、尊王攘夷運動に加わる。
文久3年(1863)井上馨らとともに藩主の命令を受けイギリスへ。長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカ連合艦隊の下関戦争の知らせをうけ帰国。和平交渉にあたる。
維新を迎え明治新政府において英語力をかわれ外事局判事などにつく。
明治4年(1871)岩倉使節団など留学を経験し、貨幣の制定や鉄道事業に力を注ぎ、内閣制度の創設や大日本帝國憲法の制定の中心人物となる。
明治18年(1885)、44歳で初代内閣総理大臣に就任。以後第5代、第7代、第10代と4度内閣総理大臣を務める。
日清・日露戦争を経て、明治38年(1905)初代韓国総監となり、朝鮮半島の政治体制を整えようとしていたが、明治42年(1909)ハルピン駅で朝鮮のテロリストの襲撃をうけ暗殺された。享年69歳。『大磯建物語』より(総合案内所で配布の冊子です)
ところで伊藤博文の滄浪閣(そうろうかく)って他にもあったのをご存知ですか?横浜の金沢八景駅から徒歩、八景島シーパラダイスの向かいにひとつ。小田原の海岸にひとつ。以前訪問済みです。
旧伊藤博文別荘(2013年1月4日)の記事 野島公園内にある明治31年(1898)に建てられた茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築の紹介です。茅葺屋根の建物は、大磯の滄浪閣が関東大震災で被災しなければ、こんな感じだっただろうと思える風情です。伊藤博文は農民出身なので、こういう建物の方が馴染みでくつろげたのだろうと想像できるのでオススメです。
伊藤博文別荘跡(2011年11月7日)の記事 御幸浜近くに伊藤博文の滄浪閣はありました。現存するのは入り口の石組みと胸像のみですが。伊藤博文は小田原の滄浪閣で明治29年(1896)まで過ごしました。
明治23年(1890)、大磯を気に入った伊藤は大磯に別荘を建築することにし、完成すると小田原を引き払い大磯の別邸に滄浪閣と名付け本宅とする。東隣に佐賀藩主鍋島直大の別邸、西隣に西園寺公望の別邸が建てられた。和館と洋館があったが、大正12年(1923)に発生した関東大震災で倒壊した。
つまりですね。現存の建物は伊藤時代のものではないのですよ。ならば?
大正10年(1921)に伊藤家が東京に転居。滄浪閣は李王家の李ぎんに譲渡され、李王家別邸として使用されるようになりました。震災後、昭和元年(1926)に使えるものを使い再建。現在ある建物はこの時再建したもののうち一部が現存。トップ画像です。
第二次世界大戦後、旧李王家別邸はGHQに接収され、軍事施設として使用された。のち、政治家楢橋渡へ浄土され、昭和26年(1951)西武鉄道の所有となり、昭和39年(1964)からレストランと結婚式場として活用された。
ガイドさん曰く「内部は手を入れないと公開できませんが、ステンドグラスがどが残っています。
う〜む。なんとか中が見えないか?と窓に張り付いてみたら、中華料理店によくある丸いターンテーブルと椅子が見えたよ。洋館の前は斜面です。
おそらく石畳は変わってないかも?と足元を撮影。と??小さな雑木の1本1本に番号がつけられていた。
「これ、何のためにつけてるの?」と尋ねたら、「西武との売買交渉のためです。雑木の1本1本も資産のうちですから」ですってよ?つまりお金も問題なんだね。西武時代のいらん建物がまだ今は残ってるので、買収交渉が終わっても正式公開にこぎつけるまで、まだまだ先は長そうです。
そういえば、大隈重信邸・陸奥宗光邸・伊藤博文邸の3つにパネルがありましたが、みんな奥さんとの記念撮影写真展示されてました。
これにて90分のガイドツアーはおしまいなのですが、最後に気になってたことを質問してみた。
「明治記念大磯邸園の見取り図には旧西園寺公望邸跡(旧池田成彬邸)って公開しないんですか?」
「この伊藤博文邸より痛んでて公開できないとか?」
するとガイドさんは
「池田成彬邸の内部はとても素晴らしいです」と。
「ならお金の問題ですか?」と突っ込んだらば。
「所有はある銀行が持ってます。なにかがあった時のために、持っておきたいという人がいてですね」
わかりました!そういうことか〜。塩漬け物件なのね。残念です。
ガイドツアーの最後にアンケート用紙に書き込んでたら、ツアー参加特典で伊藤博文と大隈重信が大磯で撮影した写真の絵葉書をいただきました。
え〜と?元になったものはこの写真です。
アンケートを投函したら、売店を発見。
ここでブラタモリで紹介されていた明治の海水浴の絵が絵葉書になってました。迷ったけども、2個250円のアオバトをモチーフにしたクッキーを購入しました。
ここで購入したアオバトクッキーは、11月11日の大山紅葉散歩で大山阿夫利神社下社のベンチでおやつにいただきました。
やわらかクッキーで美味いです。オススメです。(2018.11.14にクッキーの画像を追加しました)
さて、時刻は既に12時を回りました。
せっかくなのでお昼ご飯は城山公園で食べたい!
吉田茂邸前にあるバラ園のベンチでお昼ご飯〜。残念ながらバラの花が少ないのね。
さて、次は七賢堂の公開です。