あられの日記

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大磯 旧大隈重信邸見学

2018年11月10日 06時50分17秒 | レトロ建築
なぜに大磯に残る数少ない明治の古建築がいま公開されたのか?といえば、今年が明治維新元年から起算して150年にあたるからです。今年は全国あちこちで維新に関連するイベントが開催中ですね。
「大磯には明治期の立憲政治の確立に重要な役割を果たした伊藤博文・大隈重信の邸宅などの歴史的遺産が集中して残されていることから、去年(平成29年11月21日閣議決定)、国土交通省が神奈川県や大磯町と連携し、旧伊藤博文邸(そう浪閣)を中心とする歴史的な建築群や緑地を一体的に保存・活用するため整備を進めてます」(パンフレットより)とのこと。
構想はわかった!何にせよいままで望んでも見学できなかった建物が見えるのは嬉しい。とはいえ、今回の公開範囲は限定的かつ現状公開です。おそらくそう浪閣は西武グループが結婚式場として使用していたので、内観を公開するにはまずかつての姿に復元作業があります。まあ、ぶっちゃけ金の問題です。まず西武から買い取りです。

まずはテストから!ということで、今回はなんと!!ガイド付きでも無料公開です!国土交通省太っ腹!これは乗るしかないでしょう!!明治記念大磯邸園として整備したのちは、有料になる模様です。ツアー最後にあったアンケートに「見学料はいくらが適当ですか?」という問いがありましたので。
さて、前置きはここまでにして、まずはガイドツアー一つ目の旧大隈重信邸を紹介します。

入り口を抜けるとまずは庭が出迎えてくれる。奥に2つの和館がある。上の画像右手(西側)に旧大隈重信邸が、左手(東側)に旧陸奥宗光邸がある。まずは右の大隈重信邸へ向かいます。

まず気づくのが大隈重信邸は玄関が西側の壁に近い場所についてることです。窮屈そうでとっても不自然なんだよね。だって玄関といえば家の顔だよ?敷地が狭いならともかく広いんだ。なぜにすぐそこに壁があるのか??誰もが思う疑問はガイドさんがあかしてくれた。
「大隈重信の出身地は、薩長土肥の肥前国、現在の佐賀県です。1838年(天保9)に佐賀藩砲術長の父の長男として生まれました。
伊藤博文が大磯にそう浪閣を建てた翌年の1897年(明治30)に大隈重信は大磯に別邸を建設します。大隈がこの別邸を使用したのは古河市兵衛に譲渡するまでのわずか4年でした。
関東大震災にも耐え、古河家から古河電工に所有が変わった後も維持管理されていたため、居住部分はほぼ往時のままの姿で保存されています。
建設当時、西隣には最後の佐賀藩主・鍋島直大の別邸(現在はマンション)があり、家相上悪いとされる西側にわざわざ玄関を配置し、主君への忠義を示しています
ガイドさん、最初っから飛ばしすぎ。さすが内田康夫さんの小説の主人公と同じ名字を持つだけあるねっ。調べるの大好きなんだろうなあ。情報が満載されてて、ガイドツアー参加者は大満足ですっ!ともあれ、大隈重信がかつての殿にお尻を向けるのはダメだと、わざわざ西側に玄関をつけたのがわかりました。
では靴を脱いで和館へ入ります。

画像では写ってませんが、玄関の前は車寄せで大きな庇がついてます。ブラタモリ「湘南」の回でも紹介されてましたが、大隈重信は宴会好きで、毎晩のように宴会してたのだとか。東京から車を連ねて大磯に移動し、宴会というのがお決まりのコースだった模様で、執事さんの記録では1年で2万人を超える人が宴会に参加したとかなんとか。1年は365日しかないのに。連日宴会したとして、20000人➗365日=54、7人。つまり、毎日50人以上が集っていたという〜〜〜!!どんだけ〜。
玄関を入るとまず目の飛び込んできたのは正面に据えたでっかい鏡です。

鏡に見えます。でもこれ銅鏡って呼ばれてるんだって。確かこれをつけたのは大隈重信ではなく、後に古河家が別邸として使用していた時につけたとか。古河家と陸奥宗光のつながりは、陸奥の次男が古河家の養子になっていたことから。で、古河家といえば、足尾銅山です。だから!の銅鏡なワケですねっ。足尾銅山が大公害(鉱害)を起こした時、時代は富国強兵。そして政財界につながりががっちりあったので、問題にはなったけども抑え込めたんだって。なんかネタがポロポロ出てくるなあ。

銅鏡の右手にこじんまりとした応接間があった。それを横目に進むと、16畳と10畳の続きの26畳の大広間があります。

現在は、明治の資料を設置してあり、大きさは感じられませんが、ぶっちゃけここは宴会するための場所ですね。

ちなみに有名なのは床の間の床柱です。

この木はサルスベリでして、「大隈さんちのサルスベリ」といえば有名だったとか。なんか、床柱に使えるほど太く真っすぐなサルスベリは珍しかったんだっって。

ちなみに大広間があるのは「富士の間」と呼ばれていて、外観はこんな感じ。

大広間の縁を回すようにあった広縁部分から庭を撮影しました。ブラタモリの番組内では「かつてはここから正面にど〜ん!と海が広がっていた」と言ってましたね。現在は松などが伸びてしまい海は見えません。更には西湘バイパスが海側に走っているので、もし今松を低く整えても、かつての景色には戻りません。
さて、大広間に設置してあった資料を少し紹介。
 
これは伊藤博文に明治天皇が下賜した杉板戸絵です。裏表共に描かれており、パンフレットには静御前の舞と野見宿禰の相撲の場面が紹介されてたので別の絵を載せてみた。

こちらは大隈重信が明治14年に上奏した〜〜密奏した憲法の意見書です。
幕末維新を彩った立志伝の立役者も、明治も半ばになると数が減り(例えば西郷隆盛は明治10年<1877>に49歳で死去。大久保利通は明治11年5月に暗殺)残る大物は伊藤博文と大隈重信で、大隈が明治天皇に出した上の意見書が対立の元になりました。
で、こちらは大日本帝國憲法

そうそうたるメンバーの署名が並んでいますねっ。参考までに伊藤博文が初代総理になったのが明治18年2月、大ん本帝國憲法発布が1889年(明治22)2月11日でした。つまり大隈重信案はボツになったという。にしても武士の世が終わった幕末維新元年が1868年で、それからわずか20年ちょっとで憲法作ったのですよ。あの時代誰も彼も憲法作りに熱中したって何かのドラマで見たなあ。
他にも資料は並んでましたが、ガイドツアーは13人も参加してるので、短い時間ではなかなか撮影出来ず、他の資料はかるく見るだけにとどめちゃいました。
大広間の富士の間から神代の間を撮影。次はこちらを見学します。

なんといっても見所はこの窓です。

明治の頃、板ガラスは今と製法が違い鉛ガラスと呼ばれてました。この製法で作られたガラスは、外の景色がゆがんで見えたりガラスに気泡が混じったりしましたが、透明度はなんと今の時代のガラスよりは上!!味わいがあります。しかしガイドさんの一番の心配は、この鉛ガラスが割れたら今再現出来ないこと。なのでガイドツアー参加者は、不注意な事故が起こらないようにリュックは前に抱え、窓に近づきすぎないように見学を求められました。
さて、神代の間ですが、由来は千年以上も地中や湖底に埋もれていた杉を使ってることから。大隈はここを書斎として使用。

で、何か気づきました?床柱が竹?そうです。そして奥の戸板が神代杉。しかし注目は低い襖です。
実は大隈重信は外務大臣時代の明治22年10月に爆弾襲撃を受け、右足を切断する大怪我をおい辞職しました。(大磯の邸宅は明治30年に建設)なので、襲撃をうけても刀を振り回せないように低く作ってあると説明。

ちなみに神代の間の外観はこちら。

ぜいたくな石の使い方してるよね〜。
内観を終え、庭に出た。目に飛び込んできたのはこれ。

大隈時代の古い家屋台帳によると、この場には浴室があった。大隈重信は風呂好きで、邸宅の南20メートルほど海側に丘を降ったあたりに四畳半くらいの浴室と離れがあったとか。この五右衛門風呂はその跡地近くから掘り出されたものだって。明治22年の襲撃で右足を切断した大隈は、義足くらし。底が熱くなる裸足で五右衛門風呂には入れない。身長180センチの長身の大隈は片足に下駄を履いて小さくなって五右衛門風呂をたのしんだとか。ちなみに、坂を下ればそのまま海岸に直接繋がっていたので、海水浴の後、お風呂に入ってという松本順先生提案の治療の一環だったかも?とガイドさん。
次は隣接の陸奥宗光邸です。

ちなみに、現在は明治維新150年のイベントに合わせ公開されてますが、普段はこんな感じです。
元勲通りと呼ばれています(2015年3月1日)の記事 こちらの記事は以前に大磯歴史散歩をした時のもの。入り口が閉まってる時の旧陸奥宗光邸と旧大隈重信邸と、敷地を囲む石塀の画像を載せてます。石垣スキーには必見の素晴らしい石垣を巡らせてます。
コメント (1)
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