あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

東京の国宝は2つ。一つはこれ

2019年07月16日 05時39分27秒 | 神社・仏閣
今日はら2019.6.16の東村山市の巨木と歴史散歩を紹介します。すでに一月も過ぎてて、大分記憶が怪しくなってしまいました。
1月頃、巨木の資料を集めて東村山市の巨木散歩を作りました。けどついでならば、北山公園の花しょうぶが綺麗な時期に行きたいなあと待ってました。
9時半頃、西武線東村山駅到着。駅前で散策パンフレットを配布していたのでゲット!北山公園の花しょうぶ祭り開催中だったので、あれこれイベントもやってる模様です。
北山公園の前に、駅から近い金剛山正福寺さんを目指す。実はここには2009年に迎賓館赤坂離宮(旧東宮御所)が国宝指定されるまでは東京都唯一の国宝指定の物件があるのです。
説明板発見:正福寺山門 東村山市指定有形文化財(建造物)
指定:平成17年4月20日
金剛山正福寺は臨済宗の寺院で、鎌倉の建長寺の末寺です。その仏殿である地蔵堂は、応永14年(1407)建立の典型的な禅宗様建築であり、東京唯一の国宝建造物である(昭和3年・1928指定)
鎌倉幕府執権であった北条時宗か、またはその父である時頼によって開基され、勧請開山は中国南宋の石渓心月仏海であると言い伝えられていますが、確たる史料は現存していません。
正福寺山門は、昭和48年(1973)に行われた解体修理の際発見された、親柱ほぞの墨書銘「元禄十四辛巳年無神月吉祥日建◽︎(者)也、此時住寺號月山(以下略)」から、元禄14年(1701)、月山の代の建立であることが判明しました。
山門の建築形式は、四脚門で切妻、昭和48年の修理の際に、茅葺から茅葺形銅板葺に改修されました。建築様式は禅宗様で、その規模は、桁行十尺(3、03メートル)、梁行十尺で、高さも柱底部から桁下端までで十尺となっています。屋根は、かつては、化粧裏板の上に登り、梁を架けて茅葺としていたものと考えられます。また、彩色は柱、桁、冠木、束等に朱の痕跡が見られ、もともとは全体が朱で塗装されていたものとみられます。江戸時代の伽藍の遺構を示す、貴重な禅宗様建築物です。」
あれ?
増上寺の石灯籠がないっ!!
実は再訪です。2013年に、所沢の西武球場前にある西武ゆり園・狭山不動尊北山公園の花しょうぶ・正福寺の千体地蔵堂を散策しました。
その時に、お堂の前に3対6個の石灯籠があったのだ。石灯籠は、第二次世界大戦で焼失した芝増上寺の徳川将軍家に奉献されたものでした。記事を閲覧くださるとわかるのですが、6代徳川家宣(文昭院)のものだけ灯籠の胴部分に刻んである文字を読んだのですが、残り5個を放置しちゃまして、再訪したら調べようと思ってたのになぜないんだぁ〜〜???
あ!「ガイドします」の旗がある。
画像には写ってないのですが、正福寺の右手に神社があります。画像の右にU字の区切りが写ってますね。これがお寺と神社の境で、明治の神仏分離令以降敷地を分けたんだって。神社の方の境内にテントと人影があった。ガイドさんならば石灯籠がなくなった理由を知ってるハズ。突撃だっ。
「すみませ〜ん。歴史ガイドはもう始まってますか?お願いしたんですが」
年かさの男性とおばさんが、ガイドとしてテントで待機してた。訪問したのが北山公園の花しょうぶ祭りの会期中の日曜だったからイベント関連ですかね?ラッキーです。
「あの、以前境内に石灯籠がいつくかあったと思うのですが、何故になくなってるのですか?」と尋ねたら、思いもよらない回答を得た。
「石灯籠はそもそも正福寺と関係ないものですので撤去しました」
ええっ!?
「どこに撤去したんですか?」
「たぶん寺の裏手にはいくつかあると思うけどね」と誠にそっけない。
歴史ガイドなんだから、あれの由来を知ってるよね?そのうち1個は、芝増上寺にあった6代将軍徳川家宣の命日に合わせ、中納言か大納言クラスの人が奉献した石灯籠だったんだけど〜??歴史好きならスルーできないと思うんだけどなあ。
でもさ、ここは東村山。というか西武沿線です。そもそも芝増上寺は、徳川宗家の菩提寺です。徳川15代のうち6名の将軍が葬られてます。残ってれば間違いなく世界遺産です。けど昭和20年2度の空襲でほとんど焼失。跡地を西武が購入してホテルを建てました。焼け残った建築のいくつかを西武球場前の狭山不動尊(かつてのユネスコ村)へ移し、2万基はあった石灯籠は、戦後しばらく放置。やがて西武により欲しい寺に配られたと聞きますので、正福寺さんにあった6個の石灯籠もその時に得られたと思うんだ。それも歴史じゃん?と思うのは観光客の身勝手なのかなあ?
ともあれ、地元民にとっては、正福寺さんの地蔵堂は最近まで長らく東京都内唯一の国宝でした。そこに全く関係ない増上寺の石灯籠が並んであるのは許せなかったのかも?見方が違えば価値観も違うこともあるか。あ〜あ。せめて残り5個の石灯籠が誰が誰に奉献したものだったのか?知りたかったなあ。
気をとりなおし、ガイドさんのお話を聞く。けど思い出そうとしてもほとんど出て来ない。
やっちまったね。石灯籠が処分されたショックでせっかくのガイドさんの話を聞いてなかったみたい。
けど地蔵堂でない部分の説明は覚えてます。
真新しい小さな建物。中には貞和の板碑がおさまっている。ガイドさんのお話は後で紹介します。説明板を撮影してるのでそちらを優先させて。だって一月も経ってるので記憶が〜。
貞和の板碑:東村山市指定有形民族文化財
指定:昭和44年(1969)3月1日
種子は釈迦如来で、月輪、連座を配し、光明真言を刻し、銘は「貞和五丑己卯月八日、帰源逆修雨」とあり、西暦1349年のものです。卯月(4月)8日は釈迦の誕生日であり、法名が帰源という人物によって、逆修供養として生前に自分の死後の冥福を祈願し造立されたものです。
高さ300センチ(うち基部の高さ55センチ)、幅51〜58、5センチであり、完全な形をとどめるものとしては都内最大級の緑泥片岩製の板碑です。
この板碑は、昭和2年にここ正福寺境内に移建されたもので、かつて前川の橋として使われ、経文橋または念仏橋ともよばれていました。それ以前には経文橋から約100メートル南にあった自教院(野口町1丁目)の境内にあったと言われています。」
覗いてみた。
 
なるほど石に刻んだ模様が蓮で、そのうえに釈迦如来の種子(しゅじ)=梵字・真言になってるのですね。(*分かりやすさ優先で東村山市ふるさと歴史館に展示してる正福寺さんの板碑の説明画像を追加で貼り付けます 2019.7.16追加)
ガイドさん曰く「新しい覆い屋が出来たところなんです」と嬉しそう。でも裏側がどうなってるのかも知りたかったなあ。
私的には板碑また出た!です。ものが石だけに、歴史散策をするとあちこちの資料館や博物館に収まってるんだよね。wikiによりますと「板碑は、主に中世仏教の供養塔として使われる石碑の一種である。板石卒塔婆・板石塔婆とよばれ、典型的なものとしてイメージされる武蔵型板碑は、秩父産の緑泥片岩を加工して造られるため、青石塔婆ともよばれる」
「以前海老名の資料館で板碑は秩父の長瀞の青い石で出来てるって聞いたことあります。覆い屋があるので色ははっきりしないけど、この板碑もそうですか?」と聞けば「そうです」と。しかも私が板碑に興味を示したからか「板碑に興味があれば、ふるさと歴史館・徳蔵寺さんの板碑保存館もオススメです」とニュー情報ゲット!それは行かねばならんね。
「私この後北山公園の花しょうぶ見物の後、梅岩寺さんの巨木と野火止用水の万年橋のけやき見物に行くんです」と言ったら、ガイドさんが「梅岩寺さんに行ったら4つの紋を見てください」とチェックポイントを教えてもらった。「万年橋のけやきは大枝が落ちたことがあって、その枝を使って稲荷神社の賽銭箱を作ったんですよ」と。小ネタもゲット!それは必ず寄らないと!情報補完的にはぜひともに。と、思いがけずに素敵な情報を教えてもらい大満足。
「私が小さい頃は、野火止用水に水がなくて、中を歩いてましたよ」と。郷土の歴史も教えてもらった。ガイドさんが「説明します」といる場所では、こういう本やwebに出てない情報を得られることがあるので、歴史好きな人は利用するのが吉ですよ。
ということで、いよいよ国宝の千体地蔵堂へ。
なんといっても鶴が腕を広げるようにスッと空に向かう屋根が特徴的。
「私、北鎌倉の円覚寺さんの舎利殿が11月3日だったかな?限定で公開されるに合わせ見に行ったんですよね。天井をどういうふうに組んでるのか知りたくて。でも手前に柵があってお堂に入れなくてがっかりしたんですよ。模型なら横浜の県立歴史博物館にあるからって聞いて見に行ったけど、天井は見えなかったんだよね」とぼやいたら、「残念ながら私の資料にも天井の写真はないなあ」と慰めてくれた。けど、ガイドさんが「正福寺さんの地蔵堂も普段は非公開ですが、年一度の地蔵祭りには公開してます」と教えてくださった。
「え!?入れるの?それっていつですか?」と尋ねたら「11月3日です。その時は境内から外の道路まで店が並んで賑やかですよ」と嬉しい情報をゲットです。ちなみに記事を書くにあたり調べたら、地蔵まつりの11月3日が一番賑やかですが、千体地蔵堂の公開日は8月8日・9月24日・11月3日の年3回あるみたいです。
ガイドさんが手持ちの資料を開き、全国に現存する禅宗様仏殿の地図と画像を見せてくれた。似たような形の建物ですが、「正福寺さんのお堂の屋根が一番反ってますねえ」と言えば「美しいでしょう」とガイドさん。
「屋根は何度も葺き替えられていて、かつては茅葺や藁葺だったこともありましたが、現在はさわら葺きです」
へえ〜。さわら葺きか。珍しいねえ。桧皮葺の建物がままあるけどさ。まあ同じこけら葺きだけどさ。
「千体地蔵堂は、小さなお地蔵さんを願いを込めて1体お借りする。願いが叶うと2つにして戻すところから。かつては地蔵堂の梁にたくさんの地蔵が並んでました。今は下に降ろしてあります。地蔵祭りの時に中に入るとみえますよ?」と。うわ〜〜、見てえ〜!!「11月3日に来ます」とガイドさんに宣言した。ガイドのお礼を言ってお別れ。
あ!説明板に地蔵堂の天井の画像がある。けど、これ。平成6年度設置の説明板は古ぼけて、画像もボケボケ。あ〜〜!!どうなってるんだぁ〜〜!!
ついでなので知識補完で説明板も紹介します。
正福寺千体地蔵堂と堂内:この正福寺千体地蔵堂は、都内唯一の国宝建築物です。地蔵堂本尊及び小地蔵尊像は、市指定文化財となっています。
千体地蔵堂は、鎌倉円覚寺舎利殿とともに唐様建築を代表する建物です。波形欄間、花頭窓、屋根の反りなどに特徴があります。昭和8年〜9年に屋根の茅葺きをこけら葺きに改修した際に発見された墨書銘により、室町時代の応永14年(1407)の建立とわかりました。寺の縁起では鎌倉幕府の執権北条時宗が鷹狩りの際病気になり、夢の中で地蔵菩薩からもらった丸薬で病が治ったことから地蔵堂を建立したといわれています。
地蔵堂本尊は、昭和48年の修理のとき文化8年(1811)m江戸神田須田町万屋市兵衛弟子善兵衛と書かれた墨書銘が発見されました。
また小地蔵尊像については、江戸時代の地蔵信仰が盛んなとき、多くの小さな地蔵尊の木造が奉納され、堂内の天井に近い長押(なげし)に置かれ、千体地蔵堂の名もここに由来します。祈願する人は、小地蔵尊像を1体借りて、家に持ち帰り、願いが成就すれば別に1体添えて奉納するというもので、像の裏側には祈願者の名前や年号が入っており、大きさは10センチから30センチほどのもので正徳4年(1714)から享保14年(1729)のものが多く、奉納者は、地元はもちろん、所沢・国分寺・小金井などに及んでいます」とある。
花頭窓。右下とその隣の窓の上部が優雅なデザインでしょ?これが花頭窓です。
波形欄間。扁額と入り口に挟まれた部分が波形になってますね。ここです。
あれ?扁額に「国宝千体地蔵堂 巨福山建長寺」とあるね。正福寺さんが臨済宗建長寺派だからでしょうか?
斜めから撮影。地蔵堂がほぼ正方形なのが分かりますか?
こちらは現在の小地蔵尊像。形の違うのもあるね。お願いが叶って2体に増やして奉納したものかも?もっと近くで見たかったのだけど、奥でカップルがあじさいの横で撮影会やってたので遠慮した。
さてと?参拝して次へ行こうとしてたら、暇してたのだろうか?もう一人のガイドさんのおばさんが近づいてきた。「ガイドしましょうか?」と。「先ほど年配の方にガイドしてもらいました」「あらそう?」と。そこへ女性2人の観光客もやってきて、ならばと案内されたのは千体地蔵堂の横の木です。
「今満開なんですが、何の木かわかりますか?」とガイドさん。これはもしや「リンデンバウムですか?」と私。「そうですが、一般的には菩提樹ですね」あ!なんかハーブ繋がりでドイツの方を思い出しちゃった。森鴎外の作品に出てきたのもドイツのリンデンバウムですね。
でも「お釈迦様が悟りを開いたのはインド菩提樹なのでまた別の種類ですが」とガイドさん。日本では臨済宗の開祖栄西が中国から持ち帰ったので、仏教寺院によく植えてあるんだって。「満開の花をよく観察してください」とガイドさんに勧められ観察。
ん?あれ??変だ!
ピンボケしてはならん画像をピンボケ撮影しちゃったのですが、花房がどこから出てるかみえますか?葉っぱの裏の葉脈から伸びてるんですよ。こんなの日本にはないよ!びっくり〜。咲いてるときだけ観察光景です。私らラッキーかも?
これはタラヨウです。あきる野市の広徳寺さんの巨木、タラヨウ(多羅葉)を5月21日の記事で紹介しましたが、あれは4月13日に訪問したもの。実はまだついてませんでした。熟するとどんな色になるのかな?
本堂は真新しい。とりあえず参拝しておしまい。ガイドのおばさんに北山公園への近道を教えてもらう。お礼を言ってお別れ。まさかの時刻は既に10時14分です。ここで40分近く過ごしちゃったよ。時間が過ぎるのはなんて早いんだろか?
 
足元のマンホールを撮影。東村山市のマンホールは、多摩湖がデザインなのか?
10時26分、北山公園に到着。今年は花しょうぶが花畑にならないと事前のweb開花情報で仕入れ済みだったので、がっかりはない。絨毯になってないなら写し方を工夫して撮影してみよう!
せっかくなので、北鎌倉の円覚寺さんの国宝、舎利殿の記事を貼り付けました。正福寺さんの千体地蔵堂の建物と見比べてください。似てます。

せっかくなので、東京都のもう一つの国宝赤坂迎賓館の記事もリンク貼りました。ちなみに、貼り付けたのは赤坂迎賓館参観まんがの一部です。全文を読みたい!と思われた方は、ブログの左にあるカテゴリー【漫画 赤坂迎賓館界隈楽々散歩】を閲覧ください。
千体地蔵堂の内部が見たかった私は、11月3日に再訪しました。記事をリンクしますので、興味がありましたら閲覧下さい。(2020.2.20追加)
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黒門が開いてる!?

2019年07月15日 05時26分37秒 | レトロ建築
2019年5月18日は国際博物館の日でトーハクの一般展(総合文化展)が無料で観覧できました。朝から見学したけどあまりの量に全部見切れず、本館2階と法隆寺宝物館などの見学を見送りました。ちっ!9月の敬老の日も無料観覧できるので、その時こそ総合文化展をコンプリートするのだ!と謎の誓いを立てトーハクを後に。既に15時過ぎてるので、このまま帰宅してもいいんだけど、もうちょっとだけと移動。
と?あれ??黒門が開いてます!
ここを土日に通ったことがなかったので私が気付いてなかったのね。

戻って中から門を見学したい!けどもう疲れて戻る気力がない。
ちなみにトーハクwebによりますと「「黒門(重要文化財):旧因州池田屋敷表門。旧丸の内大名小路(現在の丸の内3丁目)にあった鳥取藩池田家江戸上屋敷の正門です。明治時代、当時の東宮御所正門として移されたのち、高松宮邸に引き継がれ、さらに昭和29年(1954)トーハクに移築されました。創建の時期は明らかでありませんが、形式・手法から見て江戸末期と考えられます。屋根は入母屋造左右に向唐破風屋根の番所を備え、大名屋敷表門では東京大学の赤門と並び称されるものです。
土・日・祝日および1月2日・3日の10:00~16:00に開放しています」
さて、疲れてるのにやってきたのは旧東京音楽学校奏楽堂です。
耐震工事だったのかな?しばらく休館してました。実は私は訪問済みなのですが、ダンナが入ったことないというので行ってみた。
何か演奏会やってればラッキーだな〜。日曜コンサートってまだ続いてるんだろうか?

あれ??
針紙が?
あれ〜??
実は国際博物館の日で、ここも無料で入館出来る!と思い込んでたんだけども違ったようです。
公開日:日・火・水曜日*木・金・土曜日はホールの使用がなければ公開。
公開時間:9:30~16:30
入館料:300円
おかしいなあ?なんか無料入館出来るってどこかで見た気がするんだよね?
ブログを書くにあたり調べたら、国際博物館の日&上野ミュージアムウィークで2019年5月14日に入場無料だったようです。ま、紛らわしい〜。
ちなみに、旧東京音楽学校奏楽堂は、東京芸大音楽部の前身、東京音楽学校の校舎として、明治23年(1890)に建設された。2階の音楽ホールは、かつて滝廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本初のオペラ公演でデビューを飾った由緒ある舞台です」奏楽堂のwebより抜粋。
去年の11月に工事を終えリニューアルオープンしてました。

あれ?このへんに白い自由の女神いなかったっけ?展示物は期間限定だったのかな?トーハクで動物作品を見てたので、目に付いた作品も動物作品でした。これも芸大生の作品かな?
さて、と。実は駅に戻る途中の広場で、新潟県の観光イベントをやってたのだ。せっかくだから佐渡の観光パンフレットと上杉謙信ゆかりの栃尾の油あげが見たいんだよね〜。懲りてない私。
新潟県のとりどりの観光パンフをゲットして、ホクホクで帰宅しちゃいました。

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博物館の動物

2019年07月14日 06時00分53秒 | 展覧会&観光施設&能楽
博物館の動物は生きてない〜。中には生き生きしてるものもあるけど、それは作品の中のこと。東洋館で動物が描かれたり形どってある作品を撮影してみた。
トップ画像を目を凝らす。
最上段右端で餅つきをしてるのはうさぎか?
猟犬に追われてるのは、鹿だと思う。(ピンボケしたので、別の似た画像に差し替えました)
え〜と?これはイノシシ?饕餮?分から〜ん。
山羊のツノがデザイン科され表面に描かれてます。比べると鹿は写実。気になるのは器自体の形だよ。何かのツノ?何をかたどってるのかなあ?
鬼瓦。wikiによりますと、鬼瓦は和式建築物の棟の端などに設置される板状の瓦の総称。略して「鬼」とも呼ばれる。厄除けと装飾を目的とした役瓦の一つ。とある。
東洋館に収まってたので、日本のものじゃないと思うので、wikiで鬼瓦について調べたら「ルーツはパルミラで入り口の上のメドゥーサを厄除けとして設置していたが、シルクロード経由で中国に伝来。日本では奈良時代に唐文化を積極的に取り入れだしたおろ、急速に全国へ普及した」とありました。ちなみに、最近建てられる建築物にはあんまり鬼瓦をつけることないんだって。面白いのに。
亀というよりは瑞獣の霊亀っぽい。玄武の方がメジャーかも?壺の表面に描かれてるので、裏側には別の瑞獣がいるかも?
魚。何の魚かなあ?お腹ぷっくりですね。メスなのは間違いないと思うけど。旨そう〜。
分かりづらいけども器の内側に魚が彫ってある。見切れてますが、右手の器の表面にも魚。器の色からたぶんベトナム辺りのかな?説明板を撮影してないから分からん〜。なぜに撮影しなかったのか、あの時の自分を説教してやりたい。
中にいるのは龍かな?足があるタイプ?
亀!ってかガメラ!これに牙があれば「かつてガメラを崇めていた幻の民がいた」などと、ガメラ映画の中で使われそうな作品。何気にお気に入り作品。
ど〜みても象がモチーフ。なのに鼻を作品に生かしきれてないのがなあ〜。減点!
皿に描かれた魚。
皿に描かれた鹿。再生したら鹿の顔部分に照明が辺り白トビしててがが〜ん!!
皿に描かれた魚。右手にも皿に描かれた動物がいるんだけど、これ、何の生き物かわからん。体つきは牛なんだけど、尻尾が牛というよりは馬!
狛犬?違うな。ライオンだわ。頭の周りにあるのは鬣だろうし。
wikiによりますと「狛犬とは?獅子や犬に似た日本の獣で、想像上の生物とされる。」とある。「飛鳥時代に日本の伝わった当初は獅子で、左右の姿に差異はなかったが、平安時代になってそれぞれ異なる外見を持つ獅子と狛犬の象が対で置かれるようになり、狭義には後者にもを「狛犬」と称すが、現在ではどっちも狛犬と呼ぶのが一般的。
起源は古代インド。日本には、中国・唐代の獅子が、仏教とともに伝わった。(諸説あり)」だそうです。
最後は象。ヒンドゥの神さま、ガネーシャ像。富の神さまなので現地インドでも大人気。日本でも密教系のお寺でたまに見かけます。
時刻は14時40分を回ったところ。もうヘロヘロ。ちょっとだけ1階入り口にあるお土産屋を覗く。けど心に響く品物がなかったので、本館の土産屋へ移動する。
てっきり地下にあると思ったわ。前はそうだった!けど、いつの間にやら土産コーナーは1階に移動し、コンパクトになってた。オシャレなラインナップ!けど高い〜。ひと昔前の土産コーナーが好きだったんだけどなあ。響くものがなかったので何も買わなかったよ〜。あ!一瞬購入しようかどうか迷ったのが、日本刀をプリントしてるマスキングテープ。かっこいいけど誰に出せば喜んでもらえるんだろうか?と考えて自重した。
さて、疲れたので予定してた書道博物館鑑賞を見送る。でもこのまままっすぐ帰るのはもったいないなあ。この日は5月18日、国際博物館の日で、あちこち無料入館デーなんです。どうすっかなあ?

*トップ画像を貼り付け間違いしてたので、訂正しました(2019.7.14)

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動物がモチーフの作品

2019年07月13日 05時57分00秒 | 展覧会&観光施設&能楽
午後です。朝から上野の東京国立博物館の収蔵物を見学し続けもうヘロヘロ。特に脳みそが疲れた〜。もう1個1個をじっくり眺めて考える気力がないので、東洋館に並ぶ作品から動物がモチーフのものをピックアップして紹介。
エジプトの神像。たぶん猫の女神バステト・初期は雌ライオンの頭部をかたどった姿で崇拝されていた。
説明板は設置してあるけど、撮影し忘れたので、雰囲気を楽しんでください。

たぶん饕餮(とうてつ)。中国神話の怪物。体は牛か羊で、曲がったツノ、虎の牙、人の爪、人の顔などを持つ。なんでも食べる猛獣から転じ、悪を喰らうという考え方から魔除けの意味を持つようになる。
同じく饕餮。こっちは文様化が進んでる感じ。殷から周代にかけて饕餮文は青銅器や玉器に修飾的に用いられた。上の画像だと下部がわかりやすい。
玉器。中にあるのは亀とナマズのフィギュア。何に使ってたんでしょうねえ?占いだと思うけど、もしかして地震予想だったりして?や。それはないか。
牛。牛車は平安時代の貴族の乗り物でしたが、東洋では一般的だったのかな?ずいぶん太った牛だなあ。
で、唐三彩の人形。唐代の鉛釉を施した陶器。主に副葬品で製作。
80年代、中国がまだ人民服を着てた時代、中国旅行をしまして、洛陽を訪問。唐三彩の工房へ行きました。焼く前には灰色の人形が、仕上がるとクリーム・緑・赤褐色の三彩になってました。
私が購入したのは2頭の馬が遊んでる場面でしたが、色あいは展示物と変わらん。今はかつての作品の焼き直しでなく、新たな三彩のものが生まれてるかも?
ちなみに、三彩は唐、中国だけでなく東洋のあちこちで製作されてます。もちろん日本でも奈良時代には作られてた。

分かりづらっ。ツボの表面に動物が彫ってあるんだけど、分かる?
これさ〜。おたまじゃくしとカエルだよね?
何だろか?猫?謎のブツブツが胴体にデザインされてるからグリフォンかもしれん。
貼り付け画像は同じサイズに揃えてありますが、実物は大きさに差が大きい。ガラパゴス携帯で撮影してるので、ピンボケ画像を量産しちゃいました。綺麗に写せたもののみ紹介しようと思ったんだけどね。
これ!分かります?田の形に鳳凰が並んでます。上に2羽。左下に鳳凰と鳥。隣に説明板があって、左下は鳳凰が歩いてるところとありますが、私にはクジャクに見えた。特に尾っぽが。右下だけなぜか上下逆さまの陰刻の鳳凰です。もしかしてこれ彫りかけなんじゃあ?
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東洋館で世界の仏像見物

2019年07月12日 05時45分30秒 | 展覧会&観光施設&能楽
トーハクの庭園見学後、出口に一番近いのが東洋館です。
wikiによりますと「東洋とは、西洋の対立願念であり、指し示す範囲は使われる国や地域によって異なる」とある。
ならばwikiで「日本における東洋とは?、世界を東洋・西洋と呼ぶ方法は、19世紀後半におこり、中等教育での歴史教育で促進された。1894年には文部省から「東洋史」として新設教科の教授要領が発表され、翌年にはそれに沿った教科書が発表されている。実際には東洋史として講義されたのは東アジア史であることが多かった。
ふまえて、東洋館に展示&撮影可能&ピンボケしてない画像という縛りのもと、仏像画像を貼り付けていきますね。








上の画像中央部を拡大撮影。
象の彫刻。



地域性?それとも民族性?時代による違いもあるなあ。
ちなみにwikiによりますと「仏像とは:仏教の信仰対象である仏の姿を表現した像のこと。
初期仏教において「仏」とは仏教の開祖ゴータマ・シッダールタ(釈迦如来)を指したが、大乗仏教の発達とともに、弥勒仏。阿弥陀如来などの様々な「仏」の像が作られるようになった。」と書いてある。
紹介した仏像は時代も国も様々。
おまけ:なんかキャラが立ってる漫画ちっくな絵皿だなあと思い撮影しましたが、これもお釈迦様と6弟子っぽいなあ?ついでに紹介しておくかな?
東洋館には仏像だけでない。平成館の親と子のギャラリーで「ツノのある動物」展を見たので、動物がテーマな作品を撮影してみた。トーハクの展示品は多い。朝からずっとすごいものばかり見てるので、疲れが酷い。もうこの辺りでチョイスするよ〜。
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トーハクの庭園紹介

2019年07月11日 05時34分53秒 | 展覧会&観光施設&能楽
トーハクこと上野にある東京国立博物館の裏に、庭園がありまして、普段は一般立入禁止です。でも春と秋に期間を限り公開してまして、訪問の2019年5月18日は春の庭園公開期間でした。昨日に続き、庭園内にあるあれこれを紹介。
転合庵:配ってたチラシによりますと
小堀遠州(1579-1647)にが桂宮から茶入「於大名」を賜った折、その披露のために京都伏見の六地蔵に建てた茶室です。その後大原の寂光院に移築され、昭和38年(1963)当館に茶入とともに寄贈されて現在の位置に移されました。
木造平屋建て、切妻屋根、瓦葺、二畳台目向切院、遠州好み、四畳半座敷、水屋などがあります。
*転合庵の脇の四角い土壇は、重要文化財の旧十輪院宝蔵(校倉)が建てられていた跡です。現在は法隆寺宝物館の脇に移され、一般公開されています。
あれ?
それ見てない〜〜!!
実はこの日、5月18日は国際博物館の日でトーハクの総合文化展(一般展示)が無料公開の日でして、久々にトーハクを見学してまして、あまりの量にぶっちゃけ疲れきっちゃったんです。で!法隆寺宝物館までたどり着けなかったんだぁ〜〜!!
やっちまったぜ。

竹の皮の扉。凄いようです。見方が分からない〜。
十輪院校倉跡
転合庵の解説の最後に出てきた「跡」石の基壇のみ残ってる。上モノは法隆寺宝物館の脇に展示してます。
あれ?配布してるチラシをガン見してたのに、有馬家の墓石が撮影出来てない?
なぜだ!?
有馬家の墓石はトーハクの裏の庭園がかつて寛永寺の本坊の庭だった頃の数少ない名残なんです。でないと、トーハクの庭に墓石があること自体がおかしいでしょ?
ってなことで見える場所を探した。
探してわかったことは、有馬家の墓石に続く道がない!「緑地内に入らないでください」とチラシに書いてあるので、散策路から撮影した画像を切り出して貼り付けました。チラシによりますと、
有馬家の墓石:
寛永寺の面影を今に伝える越前藩主有馬家の墓石。記録には明治15年(1882)から19年(1886)にかけて、公園として整備するために博物館敷地内の墓所が整理されたとあります。なぜならこれらの墓だけがここに残されたのかわかってません。」とある。
何故残したんでしょうねえ?墓石の小ささから、藩主筋の人物の墓石じゃなさそうだけどなあ?せめて石に刻んである文字が読めたら手がかりになりそうだけど、近づけないから謎のまま。
移動。ってか、ダンナとはぐれた〜。有馬家の墓石探しに夢中になってしまい、ダンナの現在地を見失ってしまいました。やっちまったものは仕方ない。見つけてくれるのを待とう。
町田久成の碑:平成館の前の銅像の初代館長が町田久成です。いただいたチラシによりますと「初代博物局長(館長)町田久成(1838-1897)の顕彰碑です。町田久成は天保9年 (1838)薩摩(現在の鹿児島県)に生まれました。19歳で江戸に出て学び、慶応元年(1865)に渡英。大英博物館などを訪れ日本での博物館創設を志、帰国後初代博物局長として日本の博物館の基礎を築きました。文化財調査や保護を提唱し、自らの財産を投げ打って古美術品を買い求め文化財の散逸を防ぐことにも尽力しました。明治15年(1882)に退職、仏門に入り、明治30年(1897)9月15日上野で没しました。寛永寺津梁院に墓があります。
春草盧:チラシによりますと
「江戸時代、河村瑞賢(1618-1699)が淀川改修工事の歳に建てた休憩所で、その後大阪へ、さらに横浜の三渓園へ移築され、昭和12年(1937)に埼玉所沢にある松永安左エ門(耳庵1875-1971)の柳瀬荘内に移築されました。昭和23年(1948)に柳瀬荘が当館に寄贈されて、昭和34年(1959)春草盧は現在の位置に移されました。入母屋の妻に掲げられた「春草盧」の扁額は、能書家として知らされる曼殊院良尚法親王(1622-1693)の筆で、原三渓(1863-1939)が耳庵に贈ったものです。
木造平屋建て、入母屋造、茅葺き、座敷は5畳と3畳からなります。」
!!つまりかつてはこの建物は横浜の三渓園にあった!んですね。ご存知のように三渓園は日本全国から原三溪が集めてきた建物のテーマパーク状態。けど関東大震災で被災して、往時に比べ建物が随分減ってしまったとか。原三渓は1939年に死去、その2年前に電力王と呼ばれた松永安左エ門にこの建物を贈った流れが興味ふかいなあ。わざわざ扁額を作った上で耳庵に贈った建物だから、思入れもあったと思うんだ。
第二回内国勧業博覧会の碑:チラシによりますと
「明治政府は勧業政策の一環として博覧会を開催、その後第1回から第3回の会場が上野公園でした。明治10年(1877)の第1回博覧会では、本館北側のバルコニーあたりに、日本で初めて美術館という名のレンガ造の建物が建てられました。この美術館の前面にジョサイア・コンドル(イギリス1852-1920)設計の博物館旧本館が建てられ、明治14年の第二回内国勧業博覧会でで使用されました。第1回は会期102日、入場者数は45万人を超え、第二回は会期122日、入場者数は82万人に上りました。博覧館は産業の振興におおいに役立っただけでなく、美術作品の出品も多く美術の振興にも寄与しました。ちなみに、博覧会への出品物は特別に購入予算が計上されて博物館に買い上げられており、現在も明治期の工芸コレクションの重要な一部になっています。当館に碑が残っているのは、この第二回のみです。」だとか。
石碑ってさ大事。あちこちに残ってる。読めば歴史が分かるものも多いんですが、石碑を読んだこと実はない!大事なんだけども。(大切なことなので2回書く)なんとか、石碑の隣に説明板を設置してほしい。後世のために。
五重塔:チラシによりますと
「高さ5、7メートルの銅製の塔。最上部の相輪には龍が絡みつき、垂木・斗拱の組み物の細部まで入念に作られています。基壇に第5代将軍徳川綱吉(1646-1709)が法隆寺に奉納した旨の銘文「大和国法隆寺元禄元年十二月日常憲院徳川綱吉」が線刻されています。綱吉の存命中に、院号と俗名を併記することは一般的にないため、没後奉納時の年号と施主の銘文が書き加えられたのでしょう」だとか。
五重塔の歴史もなかなかですが、設置してあるのが、数少ない旧寛永寺の本坊の庭の名残の築山です。お庭を見物してた時はその事実に気づきませんでした。
さて?ダンナな?歩いてたらダンナから電話があって、この先の鉄燈籠で待ち合わせなのですよ。
いた!ってか、まさかのこれが鉄燈籠だったとは!だって燈籠じゃないじゃん〜?
鉄燈籠:チラシによりますと
「石の台に据えられた鉄製の燈籠。火袋は松皮菱を透かし、竿には雲龍文を鋳出しています。しかし、鉄製のためサビが著しくつき、昭和57年(1982)1月の台風で、竿から上が倒壊し、現在各部は別に保管しています。今は基壇だけが、そのままの状態でおかれています。
銘文はありませんが、作者は茶の湯釜師として有名な江戸名越家の6代目、名越建福(1819没)と伝えています」だとか。
む〜ん?材料の鉄に混ざり物が多すぎたのかな?インドで見たオーパーツの鉄柱は見事に残ってたけどな〜。
ちなみに、この周辺には石の燈籠もありましたが、チラシにも由来が書かれてなくわかりません。
ダンナと無事合流。しばらく池を眺めて移動。時刻は早くも13時11分です。予想外に時間が足りない!とりあえず東洋館を見てからどうするか考えよう。
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東京国立博物館の庭は、元は寛永寺の庭です

2019年07月10日 07時20分03秒 | レトロ建築
トーハクの庭は普段立入禁止。春と秋、期間を決めて公開されます。庭園散策マップによりますと「東京国立博物館の敷地は、元は寛永寺の境内でした。現在本館が立ってるところが寛永寺の本坊にあたり、本館北側に広がる庭園は、寛永寺の庭であったと考えられます。ただし、庭は何度も改修を重ねており、5棟の茶室なども移築されたもので、当時の面影を残しているのは、本館東側の築山と中央の池のごく一部、そして庭に一角の古い墓石のみです。
また、当館には創設当初「天産部」があったためか、多種多様な植物があることも、この庭園の特徴です。」と書いてある。
では早速入ってみよう!
まずはトップ画像。「大燈籠:京都で現在も代々続く陶家・清水六兵衛家の4代(1848-1920)の作です。4代が61歳のときに作り、昭和13年(1938)に五代によって当館に寄贈されました。陶製の燈籠という、器にとどまらない4代の作風の幅の広さを伝えるものとして、大変貴重な作例です。
総高は、2メートル30センチ強。宝珠・傘・火袋・中台・竿・基礎部の大きく6つの部分から成り、総重量は1トンを超える、大変堂々とした作品です」
応挙館:尾張国(現在の愛知県)の天台宗寺院、明眼院の書院として寛保2年(1742)に建てられ、後に東京品川の益田孝(鈍翁・1848−1938)邸内に移築。昭和8年(1933)当館に寄贈され、現在の位置に移されました。室内に描かれている墨画は、天明4年(1784)、円山応挙(1733−1395)が明眼院に眼病で滞留していた際に揮毫したものであると伝えられています。松竹梅を描いた床張付と襖絵が残されています。墨画は保存上の理由から収蔵庫で保管されていますが、2007年、最新のデジタル画像処理技術と印刷技術を駆使した複製の障壁画が設置され、応挙揮毫当時の絵画空間が応挙館に再現されました。木造平屋建て、入母屋造、瓦葺、間口15メートル、奥行き9メートル、2室、廻り廊下を巡らせています。
訪問時、応挙館ではお茶会が催されていて、内部を見れませんでした。
九条館:もと東京赤坂の九条邸にあった建築で、当主の居室として使われていました。昭和9年(1934)九条家から寄贈され、現在の位置に移築されました。床張付などには狩野派の筆と伝えられている楼閣山水図が描かれており、欄間にはカリンの一枚板に藤花菱が透かし彫りにされています。木造平屋建て、瓦葺、寄棟造、間口15メートル、奥行き10メートル、2室、廻り廊下を巡らせています。

2棟の廻りには、大きな木があります。

トーハク創設当時、「天産部」が多種多様な植物を植えたらしいので、この大きなイチョウも当時からここに立ってたのかも?けど、創設前は寛永寺の庭だった場所。ならば、江戸時代から生き延びてる木もあるやもしれん。そう思えば妄想が捗るなあ。どうだろ?
石燈籠
六窓庵:いただいたチラシによりますと、
慶安年間(1648-52)奈良の興福寺慈眼院に建てらてたもので、現在奈良国立博物館にある八窓庵などとともにヤマトの三茶室といわれました。明治8年(1875)に博物館が購入。明治10年(1877)当館に移築されました。その後、第二次大戦中に解体されましたが、昭和22年(1947)9月数寄屋の名工木村清兵衛により現在の位置に再建されました。入母屋造・茅葺きで席は三畳台目出炉、金森宗和 (1584-1656)好み。水屋・寄付・腰掛などは明治14年(1881)に古筆了仲によって設計、増築されたものです。
にじり口にある手水鉢は四方仏水盤といわれる形式のもので、延長3年(925)関白藤原忠平が建立した法性寺(山城の国)の石塔のひとつでした。その後、銀閣寺を蹴て所有者が幾人か代わり、明治18年(1885)に当館の所有になりました」
歴史を経る中で増設・移築を繰り返した物件ながら、よく令和の時代まで残ってたなあ。驚き〜。
ちなみに、増設してるので撮影画像を見返して、どの建物が六窓庵なのか?大分頭をひねりました。



どれも違う建物に見えますが、撮影場所が違うだけで同じ建物を撮影してます。
近くにあった水鉢。このあたりには、曰くありげな石灯籠がいくつかあります。

そういえば、トーハク本館内から撮影したのはこの向かいだったかな?
反対側から見るとこんな感じです。創設時に「天産部」が庭に植物を植えまくったと記述がありましたが、この辺りには様々な木があります。季節が変わると趣の違うと思う。秋の庭園公開で見比べたいなあ。長くなったんでここで一旦区切り、明日も庭園紹介。
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馬は渡来動物だよね?それっていつ??

2019年07月09日 05時28分23秒 | 展覧会&観光施設&能楽
何年か前、多摩モノレール主催の10キロウォーキング大会に参加。ゴールが、多摩センター駅近くの東京都埋蔵文化財センターでした。ゴールの後、館内を見学。そこで馬具を展示してあったんです。
あれ?
馬??
東京都埋蔵文化財センターは、多摩ニュータウン(多摩丘陵)を造成したら、1000個近い遺跡が発見され、それを展示するために作られたもの。遺跡は旧石器時代から縄文時代を中心に、弥生・古墳・奈良・平安・中世・近世まで3万年に至ります。
で、そこに馬具が展示されてて驚いたんですよ。で、職員さんに「どうしてここに馬具を展示してるのか?」と質問したら、多摩丘陵にはかつて一大馬牧場だった時代があったのだと教えてもらった。で、育てた馬を税金代わりに中央へ送ってたんだって!
そこでひと驚き。
遠い学生時代の記憶では、「日本にはそもそも馬はいなかった。外国から渡来した生き物です」とあったんだ。
で、今更ながら馬が渡来生き物は理解してた。でもそれっていつ?なんで多摩丘陵に一大馬牧場があるの?と。
大学時代、東洋史学を専攻していたものとしては、歴史における騎馬民族の機動力は別格なんです。
騎馬民族とは?WIKIによりますと、騎馬民族とは、馬を移動手段とし、非定住生活を送る遊牧民である。と書かれてます。具体的には匈奴・突厥・フン族・モンゴル・鮮卑・契丹などなど。聞き覚えがある民族名がありますか?騎馬の軍事能力が高く、馬術に優れていたため、歴史に名が残ってますね。
で、確か「鐙(あぶみ)」やら「轡(くつわ)」など馬具が騎馬民族の機動力のキモだったんだよな。確か。
それらを踏まえて。
目の前にある埴輪の馬を見つめて考える。ええ、既にトーハクで作品見物始めて2時間を経過し、まともな思考力が残ってない状態で考えてもロクに思考がまとまらない。

トップ画像の馬の埴輪は、古墳時代・6世紀 群馬県の出土品です。
鐙(あぶみ)も馬銜(はみ)も轡(くつわ)もはっきり分かる出来。他にも馬具がいっぱい。
群馬県から馬の埴輪が発掘されたということは、そこに馬がいたということです。
こっちの馬には鞍もある。む〜ン??
wikiによりますと、日本の馬具は古墳時代の4世紀後半から5世紀にかけて家畜化された馬が伝来し、馬具も日本列島へもたらされた。となってます。やってきた最初の馬を繁殖させて増やして群馬まで広がったということだよなあ。

埴輪だけでなく、馬具も展示してあった。古墳時代のコーナーなので、その頃既に馬具を作る技術もあったんだ。そういや、東京都埋蔵文化財センターの職員さんが、多摩丘陵には、馬具職人も集まってて、後に鎌倉時代になると甲冑とかも作ってたとかなんとか言ってたような〜?
ばふっ!
疲れてる時に頭を使っちゃダメだぁ〜。
でもさ。wikiによりますと、日本書紀にはアマテラスが岩戸に隠れたのはスサノオが斑駒の皮を剥いでアマテラスの機織り小屋に投げ込み、機織り女が驚いて死んだためである。古事記では、スサノオの息子であるオオクニヌシが出雲の国からでかける際に鞍と鐙を装着した馬に乗っていたとある。
ンン?スサノオっていつ頃の人なんだろう?その頃に普通に馬がいたってことだし??
などと。またグルグルし始めたのでもう考えるのを止めた。(オイ)あ。空耳が聞こえた〜。
見回せば、埴輪人形がいっぱい。
顔に残る赤い線は、刺青か?それとも化粧かな?
これはたぶん服の模様。でも顔に赤い線がある。赤い染料しかなかったからか?それとも本当に赤い色だったのか?
あ!楽器持ってる〜。
三角帽子。耳から垂れてるのは髪か?飾りか?

剣を持ってますね。そういや、あれは渋谷の国学院大学の博物館で刀剣展を見た時に、この時代のを展示してあったなあ。
ロングスカートはいてる?なら女性戦士?
赤いズボン。何気に埴輪で古墳時代の衣服も分かるんだねえ。

靴はいてるかどうかはわからないなあ。ちなみに、訪問時はこの埴輪が一番背が高かったよ。
この後、平成館1階へ。ほとんどの人は特別展を観覧すべくエスカレーターを上がっていきますが、私の目的は1階奥の広場。ここで持参したパンとお茶でお昼ご飯〜。
トーハクでは飲食できるのは平成館1階と本館地下と東洋館1階ピロティーです。平成館はクーラー効いてるし、ソファがふかふかなのでオススメ。最奥に飲み物自販機もあるよ。
外に出た。初代館長の町田久成の胸像があった。彼は明治時代の官僚。旧薩摩藩士。イギリス留学後、トーハク初代館長に。後に出家して僧侶となる。
これまた思考が必要かも?だってトーハクはかつての寛永寺の敷地に建ってるし、裏庭はそのまま寛永寺の庭だったし。ここで旧幕府軍呼称する上野彰義隊VS薩摩藩指揮の官軍の戦いがあった訳で。その地に博物館があってそこの初代館長か〜。しかも、彼は療養先の寛永寺明王院で亡くなってた。ツッコミどころ満載だよな〜。
多摩丘陵の縄文遺跡と馬についての記事です。専門家に聞けば妄想でなく知識になるのが嬉しいところ。おすすめ記事です。
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企画展示・ツノのある動物

2019年07月08日 06時07分20秒 | 展覧会&観光施設&能楽
トーハクこと東京国立博物館では家族で楽しめるように、「親と子のギャラリー」という特集を組んでます。訪問時はツノのある動物がテーマでした。
トップ画像は能面・野干 江戸時代・17世紀の作品。お能ではこの面を「殺生石」で狐の役になります。
お能からもう一つ。能面 一角仙人江戸時代・17世紀の作品。
お能の一角仙人はどんな話かというと、鹿の胎内より生まれ、一本の角を持つ仙人は、一角仙人と呼ばれた。勢力争いの末、龍神を岩屋へ閉じ込める。それにより雨が降らなくなり、困った帝は仙人の神通力を奪おうと、美女を仙人の元へやり、美女はまんまと仙人に酒を飲ませて酔い潰し神通力を奪う。と?封じられた龍神が飛び出した。目を覚ました一角仙人は龍神を制しようとしたが叶わず倒れる。」
お能によくある理不尽なお話だよなあ。
銅臥牛香炉 江戸時代・17世紀の作品。銅製鋳造品。
集古十種 肖像人物服章9 江戸時代・19世紀 描かれた鹿島神宮の神様
山羊頭形リュトン イラン・ギーラーン地方 土製 アケメネス朝時代・前6〜前5世紀
ツノをテーマの展示物は37点ありました。
平成館は観覧料の高い特別展の展示だけでなく、テーマを変えて親と子のギャラリーの他、考古展示室もありました。既に時刻は11時半となり、大概疲れてます。特に情報を詰め込んでる頭が疲れちゃったよ。もう記憶も適当になってしまい、撮影画像は琴線に触れたものしかない。
あの時、私が何に萌えたのか?分かるラインナップです。
古代になるのかな?各地に国分寺が置かれた頃の瓦です。
おそらく数ヶ月前に海老名の国分寺前にあった考古館で、職員さんに詳しく説明してもらったからだろうなあ。確か、国分寺の瓦が、逗子の釜で作られたのが、発掘された軒丸瓦から最近判明したとかなんとか。
同じく、海老名の考古館で説明を受けた板碑。それが頭にあったから〜。
骨壷 香川県観音寺市 琴弾神社境内出土 南北朝時代・応安2年
ゴールデンウィークに行きました!ここ。一応地元なので説明しますと、「琴弾神社」は明治の神仏分離令で神社になる前は、四国八十八ケ所札所の神恵院でした。だから骨壷が境内から出ても不思議じゃないけどさ。なんでこれがトーハクで展示してあるのかはわからんなあ?

重要文化財 突線鈕5式銅鐸
三角縁神獣鏡 古墳時代・3〜4世紀
あれだ。「鹿男あおによし」というテレビドラマがあってね。三角縁神獣鏡が物語のキモで、登場人物達が連呼してたので、脳みそに焼き付いてた模様です。
古墳時代の甲冑ですね。これもなんで撮影したかなんとなく分かる。アニメ「キングダム」は古代中国、前3世紀の秦が舞台です。キャラが甲冑つけてたんだよね。で、似たような甲冑が日本の古墳時代(3世紀中〜7世紀頃)にもあったんだなあ〜。と思っただけ。重そうだよなあ。
何これ?ついになぜに撮影したかわからんものが出はじめたよ〜。
何これ〜〜!?
あ!説明板も撮影してあった!何だこれ?
江田船山古墳ー九州地方豪族の先進性ー
江田船山古墳は有明海に注ぐ熊本県菊池川流域に所在する。5世紀後半から6世紀初頭の前方後円墳(全長約77メートル)です。教科書でも必ず取り上げられている銀象嵌銘のある太刀をはじめ、金・銀・金銅製の装身具、大陸から輸入された舶載鏡を中心とした銅鏡、馬具や武器など多数の出土品は、わが国を代表する古墳出土物として、昭和40年5月に一括して国宝に指定されました。
そうだ!上の画像だけでなく、壁面に展示してある出土品全てが国宝指定されてたのに驚いて撮影したんだった。
あ〜、更に思い出しちゃった!この辺りで私の記憶容量を超えた気がしたので、1個1個じっくり見るのを止めたんだ。確か。ということは、この先は一般的に重要な作品を撮影してないんだろうなあ。画像を再生するのが怖いなあ。ということで明日に続く。
海老名の巨木散歩の最後に国分寺跡まえにある郷土資料館を訪問しました。記事リンク貼り付けておきます。
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密教彫刻の世界

2019年07月07日 05時15分28秒 | 展覧会&観光施設&能楽
トーハクでは高い観覧料が必要な特別展と、620円で観覧できる一般展(総合文化展)がある。もっとも私が訪問した5月18日は、620円の観覧料が無料になる国際博物館の日でしたが。一般展(総合文化展)の中に特集展示が展示期間を限り企画されていて、訪問した時は平成館で開催されていた特別展『国宝 東寺ー空海と仏像曼荼羅』と連動する密教彫刻を紹介してました。
今時は、お寺を参拝しても仏像を見れない場所も多くなり、庶民は益々神社仏閣へ足を運ぶ人が減ってる。これも仏像が信仰の対象でなく、美術品に変化してるということ?若い人は仏像拝むより、御朱印集めや恋愛成就守りパワースポットに興味がある模様。そんな中、間近に仏像を鑑賞できたのは嬉しかった。
撮影可能な仏像をいくつか紹介。
「如意輪観音菩薩坐像 鎌倉時代・13世紀
あらゆる願いを叶える如意宝珠の功徳を表した仏で、物思いに耽る王者がモデルになった。6本腕で表すのは、曼荼羅に描かれる姿と同じ。」
重要美術品 不動明王立像 平安時代・12世紀 東京・大田区蔵
左目を細め、閉じた口の両端から互い違いに牙を出す容貌は不動明王の一定型、「不動十九観様」と呼ばれ、平安後期(12世紀)以降、各地に普及した。上品に怒った顔や、浅い衣の襞など12世紀の特色を示す。日本画家川端龍子氏の収蔵品で、没後は大田区に寄贈された。」
重要文化財 愛染明王坐像 鎌倉時代・13世紀
愛染明王は、愛欲などの煩悩を昇華して悟りに至らせる仏だが、様々な願いにも応えるという。弓矢などの持ち物はこれにふさわしい。儀礼が秘されることも多いためか、華麗な彩色をはじめ、光背・台座・装飾具まで制作東寺のまま残る。かつて奈良にあった内山永久寺に伝来した。」
重要文化財 大日如来坐像 平安時代・11~12世紀
密教において、森羅万象の根源であり、あらゆる仏は大日如来の化身であるという。仏の王とされるため、如来としては珍しく王族の姿で表される。胸前で両手を組むのは、『金剛頂経』という経典に説かれる姿。細身の体つきや、なだらかな衣文に平安時代後期の特色を示す」
千手観音菩薩坐像 南北朝時代・14世紀
11の頭上面をいただき、42本の脇手を表す千手観音。本来は千本を備えるとされるが、実際には省略した形で造像されることが多かった。角ばった顔などは中国・明時代ごろの特徴を取り入れたもので、院派仏師の作。台座・光背に至るまで制作当初のものが残る」
他には小さな仏像の展示。派手にピンボケした。
隣の収蔵室へ。
これもピンボケしてるんですか、伊能忠敬の日本地図です。ンで?どこの地図だと思いますか?180度回転すればわかりやすいかと?これさ、鹿児島なんだよね〜。ちなみに、地図の下に説明版があるので、この形で展示してます。そういえば、伊能忠敬の地図は、お隣の科学博物館にも展示してあったなあ。
このあたりが本館1階の裏手です。次の部屋に移動しようとしたら、バルコニーがあったので出てみた。バルコニーの向こう側に休憩してる人が。そういえば、春の庭園公開中だったなあ。後で行ってみよう。
バルコニーから館内に戻る。小さなフロアに凝った照明。そういえば、本館はレトロ建築物だった。
調べた。現在の本館は関東大震災後に建てられたもので、昭和12年(1937)11月に竣工。
さて、観覧再開。次の収蔵室は?
アイヌ文化のあれこれだった。
明治時代の北海道が舞台のアニメ『ゴールデンカムイ』の放映を毎週楽しく見てた私。興味ふかく見ちゃいました。え〜と?11時20分?あれ?時計壊れてない??時間が足りない〜。5月18日は国際博物館の日ということで、あちこちで無料観覧できる。予定では近くの書道博物館へ行くつもりだったんだけど?ムリじゃね??
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トーハク無料観覧日

2019年07月06日 05時48分15秒 | 展覧会&観光施設&能楽
5月18日は国際博物館の日です。日本は2002年から参加していて、博物館・美術館・科学館・動植物園・水族館などが5月18日に無料開館になります。ってなことで、上野の国立博物館へ行きました。ちなみに、トーハクで無料で観覧できるのは、一般展(総合文化展)のみです。
久々にトーハクを訪問してみれば、あれこれが変化してた。始めて来た博物館みたいでウキウキワクワクです。まずは本館1階から。
はじめに入る部屋は、大きな仏像などが並んでます。ここで注意。展示物には説明のプレートがあり、そこに撮影不可マークがあれば、撮影出来ません。逆に考えると、撮影不可マークがなければ、撮影できるのだ。嬉しいではありませんか。
次の部屋は、漆塗り製品。貼り付けたのは角盥(ツノダライ)です。角盥とは漆塗りの洗面道具で、宮中などの女性が用いていた道具です。源氏物語なんかに出てくる固有名詞ですが、実際大きさとか形とか見たことなかったんで、トーハクに並んでて嬉しくなり撮影。
隣の部屋は鍛冶職人の作品が並んでます。これは自在置物。自在置物は日本の金属工芸品で、鉄や銅・銀。赤銅などの金属を素材として、動物の模型を写実的に作ったフィギュアです。戦乱が終わり仕事の減った甲冑師が作ったそうで。
さ、触りたい〜。実寸大の作品もあります。
で、同じ部屋に日本が世界に誇る日本刀が並んでます。
え〜と?説明板を確認。「国宝 太刀 福岡一文字吉房 銘:吉房 鎌倉時代・13世紀
備前国福岡庄に住した一文字派のなかで、吉房は最も華やかな丁子刃の作風を示すと刀工として知られている。吉房の太刀における、身幅が広豪壮な太刀姿や、華やかな丁子刃を焼いた刃文は、備前刀のもっとも成熟した表現として定評があり、本作品はまさにその典型作といえる」
うげっ!国宝なんだねっ。しかも鎌倉時代ということは、13世紀の作品だから、今から700年以上まえに作られた刀。にしてこの輝き。なんで錆びないんだろうか?お手入れの賜物ですね。
もう一つ。
国宝  刀 相州貞宗(名物 亀甲貞宗) 鎌倉〜南北朝時代
相州鍛冶、彦四郎貞宗は五郎入道正宗の実子とも養子とも伝えられる。鎌倉様式の太刀を磨上(すりあげ)を施したもので、その名は茎(なかご)の指裏(さしうら)に亀甲紋が彫られていることによる。よくつんだ地鉄(じがね)に、小のたれを基調とした乱れ刃の波紋を焼き、師の正宗と見紛うほどの作風を示している。」
ん??????
説明板を読んだけども、これ日本語??知らない名詞が並ぶ。全く意味が分からん〜??
あ。説明板があるう〜〜。
ムズい。「なかご」がないから、それは中身の刃のどの部分かの名詞なんだね。
刃文の種類まで解説してありましたが、それを見ても日本刃のよさがさっぱり〜。
私に日本刃の美しさを感じ取る能力はない模様。今年の2月に渋谷の国学院大学の博物館で刀剣展を見た。あの時萌えれたのは、その刀剣、薄緑が誰が(源義経)が持って、どんな戦いに使われたか?そこに私の萌えがあったけど、これはな〜??国宝だけど、誰の刀剣なんだろうね?
鍔も展示してあった。これは蝶々、アゲハですかね?
ちなみに、刀剣の展示室には刀剣女子もいた。彼女達が萌えてたのはどんな刀剣だったのかな?
次行ってみよう。
尾形乾山の十体和歌短冊皿 尾形乾山81歳の作品。
え〜、すごい作品だらけ。どれを撮影しようか?迷う。
んで、撮影したのは私でも聞いたことある作者です。
尾形乾山は江戸時代の陶工・絵師。尾形光琳の弟。
同じ理由で、青木木米作色絵草花浮文煎茶碗&急須。 青木木米は江戸時代明和4年(1767)-天保4年(1833)の京焼の陶工。
なんか、『開運!なんでも鑑定団』で中島先生が鑑定してる骨董で出てきた名前だったから有名な人なんだろうなあと思って撮影した。
仁阿弥道八作品。これも中島先生が誉め倒してた骨董品の作者だったので撮影した。
やっぱり私には美術品の審美眼はないね。道八は江戸後期の京焼の名工。
説明板には「19世紀の作品。道八の代表作の一つ。鉢の内外に白泥と赤佐彩で満開の桜樹を表し、巧みに配された透かしとで、桜の空間を作り出す。そこ裏にサビ絵で「道八」の銘を記し、道八の共箱がついている」とある。綺麗だよね。でもこれ、何に使ってたんだろうなあ?
あ!ツボのてっぺんにニワトリが!!この作品の表面には鳥も描かれてますね。お察しのように、撮影チョイスはニワトリですが。時刻は早くも10時43分。ええ!?入館したのが9時55分だったから、既に小一時間経ってるなんて!嘘でしょ??博物館は時間が経つの早すぎるう〜〜!!
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巨木探訪・東京国立博物館のユリの木

2019年07月05日 05時25分18秒 | 巨木・古木・ご神木・盆栽
2019/5/18訪問。上野の国立博物館の巨木。あるのは知ってたけど、博物館に入館する時に見よう!と思ってた木です。
5月18日は、国際博物館の日です。wikiによりますと、国際博物館の日とは、博物館が社会に果たす役割を広く普及啓発するため、ICOM(国際博物館会議)が1977年に制定した記念日で、毎年5月18日と決まってます。ここでいう博物館とは、博物館のほか美術館・科学館・動植物園・水族館なども含みます。日本は2002年から参加。毎年同日には、無料開館や講演会、記念品贈呈などの記念事業が行われています。ってなことで、今年の5月18日は休日に当たったので、上野の国立博物館ことトーハクを訪問。忘れないように最初にユリの木を鑑賞しました。
説明板発見:ユリノキ:モクレン科。 半纏木(はんてんぼく)Tulip Tree 
北米原産の蜜源樹 春、チューリップによく似た花が咲く。
樹齢:140年 幹周り:約5、9メートル 樹高:約24メートル
訪問時、花が咲いてました。
ユリノキの由来:明治8、9年頃渡来した30粒の種子から育った1本の苗木が明治14年に現在地に植えられたといわれ、以来博物館の歴史を見守り続けている。東京国立博物館は、時に「ユリノキの博物館」「ゆりの館」などといわれる。
へえ〜。
周囲を囲ってるので、いつものハイライトになるダンナな撮影ができません。
木の大きさがわかるかな〜?
帰りに木の下のベンチにたくさん人が休憩してたので、木の大きさが分かるていで撮影した。
さて、本館内へ。国際博物館の日は、一般展が無料見学出来ます。久々に訪問したら、あれこれ変更されてて興味深々。まずは1階からだ!楽しみ〜。
おまけ:ユリの木の紅葉画像
2017年11月7日撮影。 ユリの木は紅葉しても赤くならない。
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麻溝公園のあじさい順路2019/6/14午前

2019年07月04日 05時03分34秒 | 相模原公園と麻溝公園
麻溝公園のフィールドアスレチック場の外周にあじさい順路があります。いっつも公園の中のアスレチック場の外周の順路からあじさいを楽しむか?公園の外のフェンス越しにあじさいを楽しむか迷います。なぜって、あじさいはあじさい順路の両側に植えてあるけど、片側は公園の外に向けて咲いてるのですよ。考えてちょっとだけ外周から中を鑑賞することに。
外からの方は柏葉あじさいが綺麗に見えるんだよね〜。
あれ?何か奥にいるゾ!フェンスの間からガラパゴス携帯を突っ込んでみた。幸い奴は逃げなかった!
隙間の大きさが変わらんので、構図とか全く考えられん〜。けど、前述の「あじさいは狩場です」の記事を投稿しようと思い立ち、画像を再生するとさ。自分で構図を考えるより素敵ってどゆこと??何か納得いか〜ん〜。
ここでフィールドアスレチック場外周のあじさい順路へ戻る。
今だけ公開されてるあじさい小径へ。トーマスホックの群落が見ごろを迎えてました。
ここは木陰で、あじさいが痛んでません。綺麗です。種類も多いし、あじさい小径はオススメです。晴れた日がオススメ。曇りだと光量が少なすぎ。

あじさい順路はこんな感じです。西洋がくあじさいが多いので、遅めに見ごろになる。しかも訪問した6月14日は、がくあじさいの中央も綺麗に咲いてて見ごろでした。
渥美絞り:装飾花は青の幅広円弁、一重ガク咲き。葉は厚く光沢があり、緑に大きなノコギリ歯があり波打つような独特の形。渥美半島で発見。 ガクアジサイ。


ガラパゴス携帯で撮影してるので、本当は中央の花をアップで撮影したいけどこれが限界。かわいい花だよね。
真上からがくあじさいを撮影してみた。なんか画像再生してみたら、不思議な感じでいいじゃん?これ。
背景の林の緑がいい感じなので、緑を多めに構図に入れてみた。
ここだけ、あじさいが切れてて、外周に向けて咲いてるあじさいがよく見える。
こんな感じ。画像左手に公園と外を隔てるフェンスが写ってますね。画像右にアスレチック場があります。そっちに向かっての斜面となってます。
はい。公園の外のフェンス越しに撮影しました。
角度を変えてもう一枚。
ねっ。綺麗でしょ?これ、アスレチック外周のあじさい順路からだと一切見えないんだよね。そっち側には花がついてないんだよ。いや、裏側から見たい〜という変わった撮影したい人はいいんだけどね。
フェンス越し。手前のあじさい・あじさい散策路・奥のあじさいという感じになっている。
ここは身長が高い人にオススメな場所。



公園と外を隔てるフェンスはこんな感じです。角を曲がると、下り坂。
フェンス越しの道は、実は道路の縁なので公園の中に比べれば高低差がない。よって公園のあじさいを見上げて撮影。
外から中のあじさいを見下ろしたり見上げたりしつつ、フェンスに絡まるクレマチスを避けながら、トップ画像のトカゲがいた柏葉あじさいを撮影した場所に戻ってきた。すでにトカゲは消えていたけども。
駐車場のあじさい。
グランド沿いのあじさいを逆からみて移動。
公園を1周して樹林広場へ戻ってきた。

樹林広場も斜面があり、西に向けて撮影。画像左奥に少し写ってるのはカフェの売店。周囲に椅子とテーブルがあるので、ここで休憩がオススメです。日陰になるし。
駐輪場へ戻る。移動。
実はここって林の奥にメガソーラーがあるところ。
去年はあんまり咲いてなかった。今年はそこそこ綺麗だった。
モナの丘へ。知る人ゾ知る美味しいカレーレストラン。けど私の目当てはお野菜。ついでにお庭見物。
これ、何だ?ティツリーなんだって。モナの丘のWEBには、県内最大のティーツリーって書いてあった。
WIKIによりますと、ティーツリーは精油のティーツリー油は、この植物の葉から抽出したもの。精油は消毒、皮膚の問題に用いられ、スキンケア用品に配合されることもある。」と書いてあった。面白かったのは、クック船長は自家製ビールにマヌカハニーの葉を煮ることでお茶ができるから、Tea Plantと呼んで配合していた。後に総称してこの木もティーツリーと呼ばれるようになった。とありました。オーストラリアの木なので、珍しいんだよね〜。
お庭のラベンダーの香りを堪能しようと思ったら、まだ芳香がなかった。屋内で、大根とレタスを購入して帰宅。大根立派すぎ。重すぎて、駐輪場から担いで部屋に戻ったよ〜。

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麻溝公園樹林広場の山あじさい2019/6/14午前

2019年07月03日 05時33分25秒 | 相模原公園と麻溝公園
相模原公園の花しょうぶ、今年複数回訪問しましたが、この日は今シーズン一番の開花状況でした。園児たちの楽しそうな声も賑やかに、麻溝公園の山あじさいが多く植栽されてる樹林広場へ戻ってきた。早めのお昼ご飯を食べたら、あじさい鑑賞です。

来年以降のために、品種プレートも撮影しておこう。
天城甘茶:装飾花は白一重のがく咲きで両性花も白。葉は遅長く独特の形、伊豆天城山の天城峠一帯にのみ自生する。 ヤマアジサイ
白花甘茶:装飾花は白一重のガク咲き。円弁の先端が急に尖る四角っぽい。両性花は青色。 ヤマアジサイ
クレナイ:装飾花は一重ガク咲き。咲き始め白く、日光に当たることで赤みを増し、真紅になりアジサイの中では一番赤いとされる。長野県飯田で発見。 ヤマアジサイ。
アルボレスケンス・グランディフローラ:アメリカあじさい。
この日は、ミツバチが忙しそうに蜜を集めてました。ガラパゴス携帯で撮影するとミツバチの羽が高速羽ばたき過ぎて写ってない!ガ〜ン!!
紅ヤマ:装飾花は白から紅さらに真紅に変わる。花弁はひし形で小型。両性花は青で似たアジサイのベニガクは白である。 ヤマアジサイ。
ウズあじさい:
まだ見ごろ前。樹林広場から東屋へ移動。
いい感じに咲いてるのは、西洋ガクあじさいかな?数種類まとめてあるのでいい感じの構図で撮影できる。
モデル机。ここに座ると撮影モデルになるという場所です。後日行ったらここでお絵描きグループが楽しそうにスケッチしてた。あれもいいなあ〜。今度私も色えんぴつとスケッチブック持ってこようかな?

姫あじさい:本来はブルーだと思う。けど微妙に違う花色。面白い。
グランド沿いの姫あじさいを追いかけて駐車場まで。
なんかいた!謎の〜〜?蛾?それともハチ?分からん〜。
ここのウズあじさいは開花までもう少し。
実はグランドを90度曲がったところにもあじさいは植栽されている。上の画像では分からんが、グランド側につつじがあるので、あじさいを見るにはつつじの間を突っ込んでかないとならん。
で、駐車場のあじさいを確認。
ここは日当たりが良すぎて、どのあじさいにも痛みがあるのが残念だね。また来年、美しい状態で会いましょう。
ということで、次はアスレチック場周辺のあじさい順路です。

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相模原公園の花しょうぶ 2019/6/14午前

2019年07月02日 08時44分07秒 | 相模原公園と麻溝公園
麻溝公園を横断する水道みちのあじさいを見物して、水道みちをそのまま進み相模原公園の花しょうぶを見物にきた。いや、正直に言おう。今年はまだカルガモの親子に会ってない!なんで〜??毎年くるんじゃないの〜??カルガモ狙いじゃなければ、株を植え替えてショボい花しょうぶなんかパスするとこなんじゃ!
ぶちぶち愚痴りつつ菖蒲池に到着。
と?おそらく複数回訪問してる相模原公園の花菖蒲は、今年一番の咲き具合。やっぱ今年は去年比1週間から10日ぐらい開花が遅れたなあ。とはいえ、美しい花菖蒲が目の前にあるのだ。撮影開始。

お気づきですね。遠足かな?幼稚園かな?2クラスの園児と遭遇。
あ!ヤバいっ。
幼稚園の先生が、品種名を読み上げながら歩き始めた。
だ、大丈夫かな〜?
大丈夫じゃなかった!
花菖蒲の品種名は、雅なものが多いんである。具体的には源氏物語に登場しそうな、和歌に詠まれそうな名前ばっかじゃ。幼稚園の先生は、読み始めて沈黙。が、頑張れ〜。園児が期待してるゾ?
こちらは去年はショボかった場所ですが、今年はそこそこ咲きました。おそらく来年は更に咲くだろう。


ということで、全景。一番のボリュームゾーンを今年は半分植え替えたようで、ショボい。
美しくないんで撮影はパスしたかったけど、これも記録なので、来年以降の参考にしよう。
こっちはおそらく来年植え替えるだろう場所。相模原公園の花しょうぶ池の半分は綺麗だったので、スカスカ部分をカットして撮影してみた。
十分綺麗。おそらく今シーズン一番綺麗なんじゃなかろうか?けど、カルガモがいない〜。待ってるのに〜。後日、別の場所にいるんじゃないか?と、温室周辺の水場やメタセコイア並木の噴水あたりを探したんだけど、カルガモはいたけど、親子じゃなかった。今年は卵がかえらんかったんかも?来年お待ちします〜。
あ。人間のヒナたちが移動する模様です。こっちもカルガモだなあ。かわいいモデルありがとう。
お隣の混載花しょうぶ池も確認。こっちは少し遅かったね。最盛期を超えてます。
数が多すぎて、アップが美しくない。見ごろ過ぎの花が多すぎ〜。
記録程度に数枚撮影して、麻溝公園に戻ります。
途中、水道みちのハルジオンだっけ?雑草が花畑になってた。これはこれで綺麗かも>
10時50分、樹林広場で早めのお昼ごはん。
さて、どんな山あじさいが見ごろかな?楽しみ〜。

投稿時刻の設定をミスってました。午前と午後がぁ〜〜!!
毎朝チェックされてる方、ごめんなさい。

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