水戸城跡通りから国道51号に入った私は、このまま水戸駅方向へ歩きました。
すると、左車線側になにかを発見。
道路を横切って確認してみると、「水戸黄門神社」とありました。
水戸黄門神社は通称で、正式名称は義公祠堂というそうです。
義公とは、水戸黄門こと徳川光圀の
しかしこの筋骨隆々の光圀公ののぼりはなんなんだろう(^_^;)
徳川光圀は、徳川家康の孫、水戸徳川家初代頼房の三男で水戸藩の2代藩主となりました。
家臣の三木仁兵衛の屋敷で産まれました。頼房は流産させるように命じていたようですが、三木はその命に反し光圀の母をかくまったといいます。
若いころは吉原通い、辻斬り(!!)をするなど札付きのワルでしたが、『史記』の「伯夷伝」を読んで素行をあらためたといいます。
光圀の名は、3代将軍家光から「光」の字を拝領したものであり、家光の高い評価を受けて頼房の次の藩主に指名されたといいます。
光圀は兄を差し置いて藩主になることをかなり気にしたようで、後に自分の子を兄に養子に出し、自らは兄の子(
長じて学問を好み、『大日本史』の編纂事業を開始したのはあまりにも有名です。
水戸藩主は参勤交代の例外として、常に江戸に滞在するのが通例でした。
光圀は歴代藩主の中で最も水戸に入った回数が多いそうです。
また隠居したあとは、西山荘(常陸太田市)で『大日本史』の事業に勤しんでいました。
諸国を漫遊したのはもちろんフィクションで、実際には鎌倉や日光などに数回、最西端は熱海、最北端は勿来(福島県いわき市)までは足を運んだそうです。
それでは参拝。
「このまま天気がもちますように」
10円玉をお賽銭として奉納し、水戸黄門神社を後にしました。あっさりしたもんですな。
黄門様御一行の後ろ姿が見えて、水戸駅に到着。
このままもういちど水戸城三の丸へと歩き出します。
次は弘道館【国指定特別史跡】に入ります。
水戸城跡通りから水戸黄門神社、弘道館への足取りです。
いい天気なんだけど、少し暑いですな(^_^;)