鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

水戸黄門神社

2014-04-01 | 神社

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 9 時 3 7 分

水 戸 市 三 の 丸



水戸城跡通りから国道51号に入った私は、このまま水戸駅方向へ歩きました。

すると、左車線側になにかを発見。



道路を横切って確認してみると、「水戸黄門神社」とありました。



水戸黄門神社は通称で、正式名称は義公祠堂というそうです。
義公とは、水戸黄門こと徳川光圀おくりな(死後に与えられる尊称)で、このあたりで光圀が生誕したといいます。



しかしこの筋骨隆々の光圀公ののぼりはなんなんだろう(^_^;)


徳川光圀は、徳川家康の孫、水戸徳川家初代頼房の三男で水戸藩の2代藩主となりました。

家臣の三木仁兵衛の屋敷で産まれました。頼房は流産させるように命じていたようですが、三木はその命に反し光圀の母をかくまったといいます。
若いころは吉原通い辻斬り(!!)をするなど札付きのワルでしたが、『史記』の「伯夷伝」を読んで素行をあらためたといいます。
光圀の名は、3代将軍家光から「光」の字を拝領したものであり、家光の高い評価を受けて頼房の次の藩主に指名されたといいます。
光圀は兄を差し置いて藩主になることをかなり気にしたようで、後に自分の子を兄に養子に出し、自らは兄の子(綱條(つなえだ))を養子として藩主の座を継がせました。

長じて学問を好み、『大日本史』の編纂事業を開始したのはあまりにも有名です。

水戸藩主は参勤交代の例外として、常に江戸に滞在するのが通例でした。
光圀は歴代藩主の中で最も水戸に入った回数が多いそうです。
また隠居したあとは、西山荘(常陸太田市)で『大日本史』の事業に勤しんでいました。

諸国を漫遊したのはもちろんフィクションで、実際には鎌倉や日光などに数回、最西端は熱海、最北端は勿来(福島県いわき市)までは足を運んだそうです。





それでは参拝。
「このまま天気がもちますように」
10円玉をお賽銭として奉納し、水戸黄門神社を後にしました。あっさりしたもんですな。




黄門様御一行の後ろ姿が見えて、水戸駅に到着。
このままもういちど水戸城三の丸へと歩き出します。

次は弘道館【国指定特別史跡】に入ります。


水戸城跡通りから水戸黄門神社、弘道館への足取りです。




いい天気なんだけど、少し暑いですな(^_^;)




学校の中へ!水戸城本丸

2014-04-01 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 9 時 2 9 分

水 戸 市 立 第 二 中 学 校 前



水戸城の跡地に設置されている三の丸小学校、茨城大学付属小学校、第二中学校、水戸第三高等学校
小学校はともかく、中学と高校では部活動を絶賛開催中
水戸城跡通りに沿って敷設されているテニスコートでは、女子が独特の掛け声をあげながらソフトテニスをしています。

・・・・・・これは立ち止まったら変質者扱いされるぞ。

そういったある種の緊張感を前に、私は本丸をつなぐ本城橋までたどり着きました。



橋の下は、もともとはひとつの台地であったものを、本丸・二の丸を分けるために掘った切通しです。



現在はJR水郡線が通っています。



それにしても深くて大きい空堀です。


そして橋を渡った先は、



思いっきり水戸一高(茨城県立水戸第一高等学校)の敷地内です!!
橋の前の看板に「水戸一高関係者と史跡見学者以外の通行はご遠慮ください」とありました。
しかしながら、この水戸一高の敷地全体が水戸城の本丸にあたるのです。

意を決して校門を通過し、水戸一高の敷地内に突入!



校門から少し進んだところに建っている橋詰門(薬医門)【茨城県指定文化財】です。



もともとは本城橋のたもと、現在の一高の校門付近に建っていました。
一時水戸市内の寺院に移築されていましたが、再び水戸城本丸の現在地に移されたそうです。


水戸城の築城は古く、馬場資幹すけもとにより1190年代に築かれたといいます。
以後、馬場氏の居城となり、佐竹氏が入城するまでは「馬場城」とも呼ばれていました。

応永23年(1416年)から続いた室町時代の上杉禅秀の乱で、足利幕府方の江戸通房みちふさが馬場城を奪い、以降江戸氏が7代、約170年間城主となりました。

天正18年(1590年)豊臣秀吉小田原攻めで、城主の江戸重通は北条氏側に加担し、太田城(常陸太田市)の佐竹義重・義宣父子は秀吉軍に参陣しました。
これにより佐竹氏は秀吉より常陸一国54万石を与えられ、義重・義宣は江戸氏の籠城する馬場城を攻め、文禄3年(1594年)に重通を追放しました。

義宣はそれまでの居城であった太田城から拠点を移し、城を大改修し、城名もそれまでの馬場城から水戸城に改めました。
ところが義宣は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで、東西どちらにつくか態度をあいまいにしたため、慶長7年(1602年)には徳川家康によって水戸から出羽国秋田に転居させられました。

家康は、水戸を奥州の抑えの地として五男の武田信吉を、翌年信吉が死ぬと十男の徳川頼宣を入城させました。
慶長14年(1609年)頼宣を駿府に移し、末子で十一男の徳川頼房が入城して以降は、廃城まで水戸徳川家の居城となりました。

幕末には水戸藩の藩論が分かれ、改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起きます。
この対立は明治維新まで続き、明治元年(1868年)には水戸城下で戦闘が行われ、弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃するなど(弘道館戦争)、血で血を洗う内部抗争に終始してしまいました。
この際に城内の多くの建物が焼失しています。



そして現存する唯一の遺構が薬医門です。
この門をもっとじっくり見ていたかったのですが・・・・・・薬医門の近くにはまたもテニスコート&部活動絶賛開催中ではないか!!

・・・・・・テニス部の視線がこっちに来る前に帰ろう。


水戸城跡通りをこのまま進んで、国道51号に合流。



水戸二中からのルートはこんなもんです。




水戸城の登城はひとまずここまで。