鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

偕楽園・好文亭の章

2014-04-23 | 公園・庭園

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 後 1 時 5 9 分

水 戸 偕 楽 園

好 文 亭 中 門





日陰に覆われた好文亭中門



中門をくぐると、空間に開放感が出てきます。
3月は水戸の梅まつりということで、ここにも出店が来ていました。

梅の季節になると公園内のいたるところに出店が開きます。
そして偕楽園は、名勝に指定されている庭園のなかではめずらしく無料で入園できます。
それは、偕楽園が「民と偕に楽しむ公園」であるという、徳川斉昭(烈公)の理念がいまもなお生きているからなのだそうです。





偕楽園は入園料が無料なのですが、好文亭に入るときに限り入場料が190円(当時)かかります。



亭内の庭には遅咲きの梅が咲き誇っています。

「好文」とは梅のことを表します。
出典は『晋書』の「武帝紀」で、晋の武帝が学問に励むと梅が咲き誇り、武帝が学問を怠ったときは梅が咲かなかったそうです。
そこから梅は学問を象徴する花となり、「好文」の異名がついたといいます。
なお、晋の武帝は司馬炎、三国志に出てくる司馬懿の孫です。



3月の末に咲いた寒緋桜は見ごろを迎えていました。



好文亭は2階建ての奥御殿と平屋の別邸で構成されているように見えます。
奥御殿の2層目は「楽寿楼」と呼ばれます。

現在の好文亭は、昭和20年の水戸空襲での焼失後、昭和33年に再建されたものです。
また平成23年の東日本大震災でも被害を受けましたが、翌年に修復が完了しています。



それでは好文亭の中に入ります。
「陰」の世界からやや開放されつつある庭と比べると、邸内はかなり薄暗い印象を受けます。
邸内のはじめは北面の部屋で、陽光があまり入ってこないためです。



まずは別邸を縁側にそってめぐります。
邸内のそれぞれの部屋にはふすま絵に草木が描かれていて、薄暗い「陰」の邸内においていっそうの「陽」を放っているかのようです。



最初の部屋は菊の間



次は桃の間
これら2つの部屋は板敷きで、調理室として使われていました。





つつじの間は、藩主夫人のお供の女中が休息をとった控えの間でした。



松の間は藩主夫人の休息の間でした。



紅葉の間は藩主夫人のお付きの者の控え室でした。





竹の間は、倒幕後の明治2年から明治6年の間、藩主夫人の居室になっていました。



梅の間も藩主夫人の居室でした。
また皇室にゆかりのある部屋で、大正天皇が皇太子のときに行啓されたおりに、梅の間でお泊りになったそうです。
昭和天皇が皇太子のときに行啓されたおりにも、この部屋でご休憩をとられています。



1部屋だけふすま絵のない部屋は清の間と呼ばれています。
こちらも藩主夫人の部屋でした。

そしてここを越えると北面から南面へ変わります。
「陰」から「陽」への転移がここでも味わえるのです。



もう一度竹の間。





萩の間もつつじの間と同じく、藩主夫人のお供の女中が休息をとった控えの間でした。



桜の間も同じく、女中の控え室でした。


縁側の外に目を向けると、「陰」から望む「陽」の世界がきらびやかに見えます。



北面する縁側からは、梅や緋桜、そして奥に大杉森がわずかに望めます。





南面する縁側からも、梅が美しく咲き誇る姿を見ることができます。
奥には千波湖を望むことができます。

北面の庭と南面の庭には、空間の広がり、開放感に大きな違いがあるようです。
大杉森は「陰」、千波湖は「陽」の世界に属します。

好文亭から望む景色にあっても、このような陰陽の対比がなされているのです。



好文亭の奥御殿へ入ります。



奥御殿への通路は太鼓橋廊下とよばれ、床がアーチ状の橋をかたどったものとなっています。
また、左側には格子窓がついています。



外から見た太鼓橋廊下です。
格子窓は外から見えないつくりになっています。

太鼓橋廊下を渡ると、南面する18畳の広間へ。
塗縁ぬりえんという広間では、烈公が領内の老人を招待して養老の会を開いたという記録があります。





東塗縁から望む「陽」の佳景です。
これだけの情景、腰を下ろしてゆっくり眺めたいものですが、休息は禁止されています。

東西の塗縁にはさまれるかたちでたたずむのが、藩主の間であった御座の間です。



2本の竹以外には装飾がない質素な部屋です。
烈公はこの部屋で文人墨客と接したそうです。



この部屋の縁側に、「好文亭」の扁額がかかっています。
(扁額は、となりの西塗縁から見ることができます)
扁額の文字は烈公の自筆なのだとか。

御座の間の先には、東塗縁よりもさらに大きい西塗縁へ。



だから休息は禁止だってば!



まぁ、休憩したくなる気持ちもわからないではありませんが・・・。
たしかに東西の塗縁と、楽寿楼からの景色は素晴らしい。

そして素晴らしい景色を妨げることのないよう、烈公はこれらの間の雨戸を回転式にして戸袋がなくなるように設計しました。

 

西塗縁には、文字がぎっしり書かれている戸が4枚あります。
この部屋は詩歌の宴が催されたそうです。
宴で漢詩を作る際の辞書(カンペ?)として使われたそうです。



好文亭の奥御殿は、外から見ると2階建てのように見えますが、実際は3階建てです。
そして2階・3階部分は楽寿楼と呼ばれます。



斜度がかなりある階段です。
松本城(長野県)や丸岡城(福井県)などの天守閣にも引けを取らない斜めっぷり。



外から隠されている2階の部分には武者控えがあります。
こういった武者控えといい、外から見えない太鼓橋廊下の窓といい、ある種のからくり屋敷というか、出城のようにも感じます。

烈公は、この好文亭に身分を問わずさまざまな客を招待し、また偕楽園は庶民にまで開放されていたので、賊が侵入したさいの防衛策としたのでしょう。
好文亭の通路がかなり狭いのも、武器を振り回すのを困難にするためといいます。

 

からくりといえば、楽寿楼で飲食を楽しむため、烈公は配膳用の昇降機を取り付けました。
この昇降機は滑車を利用したもので、1階(右)で用意した食事を乗せて3階まで持ち上げるというものでした。



そして3階、楽寿楼の正室です。
正室は南面していて、楼からは東南の千波湖、西の大杉森と崖を眺めることができます。



南側には「楽寿楼」の扁額もかかっています。
「楽寿楼」の名は、『論語』の一節から引用しています。


    知者は水を楽しみ 仁者は山を楽しむ
    知者は動き 仁者は静かなり
    知者は楽しみ 仁者は寿いのちなが







楽寿楼から眺める「陽」の佳景をしばしながめて・・・・・・いたかったのですが、この日は観光客が多く、楽寿楼もそれほど広くないので、あまりじっくりとは景色を堪能できなかったのが少し残念です。
この時季は偕楽園がもっとも観光客でにぎわうので、致し方ないでしょう。



好文亭から出て、再び大杉森の「陰」の世界へ戻ります。