鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

弘道館公園

2014-04-03 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 5 3 分

水 戸 市 三 の 丸

国 指 定 特 別 史 跡 ・ 弘 道 館



弘道館の敷地を出ました。
これで弘道館は終わり、ではありません。



弘道館の裏手に弘道館公園があり、弘道館の付随施設が置かれ、梅林がひろがっています。
この地図には載っていませんが、学生警鐘と孔子廟の間に鹿島神社の鳥居があり、太い道をたどった先に鹿島神社の本殿が建っています。



弘道館公園も梅の名所として知られています。









1株だけ様子が異なる梅。



強風か何かによっていったんは倒れてしまった梅の木が、なおも生き続け満開の花を咲かせています。
なんという生命力でしょうか。
このような姿も、徳川斉昭(烈公)が梅を愛したゆえんかも知れません。


弘道館の施設を順番に回っていきます。
まずは孔子廟
この日は特別公開で、門内に入ることができ御廟も開いていました。



孔子廟は昭和20年の戦災で焼失し、後に再建されました。
戟門(正門)は焼失を免れ、現存しています。

水戸学は儒教の考え方も受け入れています。(この点で国学とは一線を画すものといわれます)
そのため烈公は弘道館内に孔子廟を建て、孔子、孟子、顔回らを祀りました。


次は鹿島神社です。



鹿島神宮の末社であり、武神・建御雷大神(たけみかづちのおおかみ)をお祀りしています。
水戸学の主張であった尊皇攘夷(皇室を奉じ、外敵を打ち払う)にふさわしいものです。

※「建御雷大神」は「武甕槌大神」とも書きます。前者は古事記上の表記、後者は日本書紀上の表記です。

鹿島神社の境内には烈公御手植えの梅があります。



「鈴梅」という白梅で、鹿島神社の神木となっています。
もともと御手植えの梅は3株あったのですが、戦災のため、「鈴梅」のみが残りました。


お次は種梅記碑です。





烈公が藩主に就任したとき、水戸領内に梅が少ないことを知り、江戸屋敷の梅の実を集め、水戸に送って育てさせたという由来を記した碑文です。


その隣りにあるのが八卦堂です。



八角形のお堂で、中には弘道館記碑が納められています。
この日は特別公開のため、八卦堂の扉は開かれ弘道館記碑が公開されていました。



藤田東湖が考案し烈公が撰文した弘道館記を、常陸太田産の寒水石に刻んだものです。



平成23年の東日本大震災では、八卦堂は無事でしたが弘道館記碑が大きく損壊しました。
この修復が完了したということで特別公開をしていました。


もうひとつの碑文、要石歌碑





日本人が実践すべき太古からの道を歌い上げています。
鹿島神宮にあり地震を起こす大ナマズの頭を押さえているという要石になぞらえています。



歌碑の両脇にあるシイの木もなかなかの大きさです。




鹿島神社の鳥居から出ました。



弘道館の学生に時刻などを知らせた学生警鐘です。
寺院の鐘とは異なり小さめです。
外にあるのはレプリカで、本物は弘道館内の資料室に展示されています。



弘道館公園の敷地は、隣接する茨城県三の丸庁舎の敷地に隣接しています。
行き来も自由なので、弘道館の入口に戻らず、そのまま三の丸庁舎の方へ歩いていきました。




弘道館昇殿

2014-04-03 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 0 6 分

水 戸 市 三 の 丸

国 指 定 特 別 史 跡 ・ 弘 道 館





弘道館昇殿。正庁の玄関・・・・・・



ではなくその脇にある出入口で靴を脱ぎます。



まずは正庁【国指定重要文化財】から。



この部屋は諸役会所といい、おもに来客者の控えの間として用いられました。

玄関から見えた力強い「尊攘」の書。
徳川斉昭が水戸藩の藩医・松延年に書かせた安政3年(1856年)の作ですが、ものすごいインパクトです。
斉昭自身もかなり豪快な筆づかいの書を遺していますが、この書はそれをも凌駕する、光圀から起こる水戸学が積み重ねてきたエネルギーが込められているかのようです。


館内の釘隠しは三つ葉葵の御紋が施されています。



そして軒先からも梅を愉しむことができます。



武芸の試験場であった対試場も、前庭にあります。




正庁の最奥にある正席の間です。
この日は老年層を中心に観光客が多い日だったので、じいさまがそのまま写っています。



24畳敷きの部屋で、藩主や重臣が臨席して文武の試験を行い、諸般の儀式を挙げたところです。
外の対試場は至近にあり、藩主らはこの部屋から観覧したそうです。

この部屋の掛け軸は、弘道館の建学の精神「弘道館記」の拓本です。
「弘道館記」は藤田東湖が考案し、徳川斉昭が作成したもので、漢文で書かれています。
これを石碑に刻み、その拓を掛け軸にしたものです。



弘道とは何ぞ。人能く道を(ひろ)むるなり。
(「弘道」とはいかなる意味だろうか。それは人が「道」を広め、人が「道」をもとに生きることができるという意味である)
道とは何ぞ。天地の大経にして、生民の須臾(しゅゆ)も離るべからざる者なり。
(では「道」とはいかなる意味だろうか。それは自然界の大きな秩序を立てているものであり、生きている人間がしばらくもそれを離れてはならないものである)

このような問答形式で「道」が天孫降臨以来どのように変遷してきたかを述べ、建学の精神を記しています。
そしてところどころに不自然な改行があったり、不自然な空白があったり、行頭がそろっていなかったりします。
行頭の飛び出している部分の文字は「皇」「神」「王」などで、「東照宮(家康を表す)」にも不自然な改行、「義公(光圀)」「威公(初代藩主・頼房)」「国家」「祖宗」などに不自然な空白があります。
このような記述をすることで、皇室や偉大な先祖に敬意を表しているそうです。

予習はしてきているのですが、やはり弘道館は難しい(?_?)



次は離れの至善堂【国指定重要文化財】です。
正庁が藩士の勉学、試験の間であるのに対し、至善堂は藩主一家の勉学の間でした。
藩主の子息は、二の間・三の間・四の間で勉学に励み、その中には最後の将軍となった徳川慶喜もいました。



そして最奥の御座の間は、藩主の休息の間として用いられていました。
のち戊辰戦争で朝敵とされた徳川慶喜は、この部屋で恭順の意を表して謹慎していました。

右上に「至善堂」の扁額が懸っています。
そして左の掛け軸は要石歌碑の拓本です。



行末毛 富美奈太賀幣曽 蜻島 大和乃道存 要那里家
(ゆくすえも ふみなたがえそ あきつしま やまとのみちぞ かなめなりける)

太古の昔から我が国に伝わる大和の道はいつまでも変わらない大いなる道であるから、これを固く信じ迷い惑わされることなく、信念をもって正しく歩むように、という教えを記した徳川斉昭の和歌で、歌碑には万葉仮名で刻まれています。
斉昭の文字は豪快ですねぇ。





中庭の梅は終わっていましたが、花はなくても十分素晴らしい!



弘道館内の資料展示館を拝見して外に出ました。

ううぅ、やはり弘道館は難しい(?_?)
水戸学をまとめるのも難しいよ(?_?)
いや、こんなぼやきブログごときが水戸学とか高尚な学問を扱うべきじゃないんだよ、きっと。
うんうん、このブログはあくまで旅日記ですからねぇ。

時間があったらまとめますわ。








遅咲きの梅が盛りを迎えていました。
梅は学問を表す花・・・・・・もう少し水戸学について学んでみようかな、と考えました。
しかし難しいなぁ。



◆参考文献
『弘道館』 http://www.koen.pref.ibaraki.jp/park/kodokan01.html
『弘道館記』 http://www.j-texts.com/kinsei/kodo2.html
『常盤神社』「烈公の名文」(安見隆雄氏) http://www.komonsan.jp/mitogaku/cat34/post_277.html