弘道館の敷地を出ました。
これで弘道館は終わり、ではありません。
弘道館の裏手に弘道館公園があり、弘道館の付随施設が置かれ、梅林がひろがっています。
この地図には載っていませんが、学生警鐘と孔子廟の間に鹿島神社の鳥居があり、太い道をたどった先に鹿島神社の本殿が建っています。
弘道館公園も梅の名所として知られています。
1株だけ様子が異なる梅。
強風か何かによっていったんは倒れてしまった梅の木が、なおも生き続け満開の花を咲かせています。
なんという生命力でしょうか。
このような姿も、徳川斉昭(烈公)が梅を愛したゆえんかも知れません。
弘道館の施設を順番に回っていきます。
まずは孔子廟。
この日は特別公開で、門内に入ることができ御廟も開いていました。
孔子廟は昭和20年の戦災で焼失し、後に再建されました。
戟門(正門)は焼失を免れ、現存しています。
水戸学は儒教の考え方も受け入れています。(この点で国学とは一線を画すものといわれます)
そのため烈公は弘道館内に孔子廟を建て、孔子、孟子、顔回らを祀りました。
次は鹿島神社です。
鹿島神宮の末社であり、武神・
水戸学の主張であった尊皇攘夷(皇室を奉じ、外敵を打ち払う)にふさわしいものです。
※「建御雷大神」は「武甕槌大神」とも書きます。前者は古事記上の表記、後者は日本書紀上の表記です。
鹿島神社の境内には烈公御手植えの梅があります。
「鈴梅」という白梅で、鹿島神社の神木となっています。
もともと御手植えの梅は3株あったのですが、戦災のため、「鈴梅」のみが残りました。
お次は種梅記碑です。
烈公が藩主に就任したとき、水戸領内に梅が少ないことを知り、江戸屋敷の梅の実を集め、水戸に送って育てさせたという由来を記した碑文です。
その隣りにあるのが八卦堂です。
八角形のお堂で、中には弘道館記碑が納められています。
この日は特別公開のため、八卦堂の扉は開かれ弘道館記碑が公開されていました。
藤田東湖が考案し烈公が撰文した弘道館記を、常陸太田産の寒水石に刻んだものです。
平成23年の東日本大震災では、八卦堂は無事でしたが弘道館記碑が大きく損壊しました。
この修復が完了したということで特別公開をしていました。
もうひとつの碑文、要石歌碑。
日本人が実践すべき太古からの道を歌い上げています。
鹿島神宮にあり地震を起こす大ナマズの頭を押さえているという要石になぞらえています。
歌碑の両脇にあるシイの木もなかなかの大きさです。
鹿島神社の鳥居から出ました。
弘道館の学生に時刻などを知らせた学生警鐘です。
寺院の鐘とは異なり小さめです。
外にあるのはレプリカで、本物は弘道館内の資料室に展示されています。
弘道館公園の敷地は、隣接する茨城県三の丸庁舎の敷地に隣接しています。
行き来も自由なので、弘道館の入口に戻らず、そのまま三の丸庁舎の方へ歩いていきました。