会津藩の少年部隊・白虎隊が自刃したという飯盛山。
入口には白虎隊記念館といった資料館がある。
右側にあるのは、「動く坂道」という名のエスカレータ的なものと思われる。
このエスカレータ、なんと有料である。
私は当然、自らの健脚で階段を上っていく。
こしゃくなエスカレータめ!!
某学校の鬼コース程度の階段で金を払うと思うてか!!
・・・こうして、会津屈指の悲劇の地であるにもかかわらず、私は早くも引き気味になっていた。
階段を上りきって、慰霊の地へ。
この右側に白虎隊自刃の地が、左側には白虎隊隊士の墓がある。
自刃の地方向へ歩みを進めると、まず目に入る異形の碑。
「ローマ市寄贈の碑」と呼ばれている。
案内板によると・・・
白虎隊士の精神に深い感銘を受けたローマ市は昭和3年にローマ市民の名をもって、この碑が贈られた。
この碑の円柱は赤花崗で、ベスピアス火山の噴火で埋没した、ポンペイの廃墟から発掘した古代宮殿の柱である。
墓石表面にイタリー語で
「文明の母たるローマは、白虎隊勇士の遺烈に、不朽の敬意を捧げんが為め、古代ローマの権威を表すファシスタ党章の
裏面に「武士道の精神に捧ぐ」と刻まれてあったが第2次世界大戦後占領軍の命により削りとられた。
(原文ママ)
とある。
齢60は超えているであろう翁が、
「占領軍は会津の武士道精神を恐れてこのようなことをしたのでしょう」
と結んだ。
この翁は飯盛山の語り部のようだ。
さて、この碑を寄贈した主体である「ファシスタ党」、歴史の授業を覚えている人なら、いかにもイタリーなお名前の独裁者・ムッソリ~~ニの政党である。
そして全体主義を表す「ファシズム」の語源となった悪名高い政党なのだ。
「自己の身を犠牲にして忠節を尽くす」という「会津武士道」なる精神は、残念ながらファシズムなどの全体主義にとっては極めて都合のいい考え方といえる。
戦時中の日本は断じてファシズムとは違うものであるが、国論をまとめるために「会津武士道」が利用されたことは否定できまい。
・・・と心中で語り部に反駁しながら、飯盛山を回っていく。
次は飯沼貞雄翁の墓。
案内板によると・・・
白虎隊士自刃者中唯一の蘇生者、飯沼貞吉少年(後貞雄と改めた)は印出新蔵の妻ハツに助けられ、後逓信省の技師となり、仙台逓信局工務部長に進み、逓信事業に挺身し多大の貢献をなし、昭和6年78才で仙台市において歿した。
白虎隊の実録も飯沼貞雄氏によって知ることができた。
昭和32年9月戊辰戦役90年祭に財団法人前島会仙台支部の手によつて、ここに墓碑と顕彰碑が建てられた。
(原文ママ)
飯沼翁の墓碑から少し進んでいくと、見晴らしがひらけ会津若松市内が一望できる。
この場所こそ白虎隊自刃の地であるという。
自刃の地に立つ白虎隊士の像。
その目線の先には・・・
往時は城下の火災で落城したように見えた鶴ヶ城の天守がある。
ここも案内板を借用・・・
慶応四年(一八六八)八月二十三日(新暦十月八日)、年齢が十六~十七歳で構成された士中二番隊の白虎隊士は猪苗代から十六橋を越えて進軍した西軍と戸の口原で交戦するも、敵の軍事力に圧倒されて退き、戸の口洞門をくぐってこの地に至った。
炎上する城下を前に、玉砕か帰城かを巡って、激論を交わした。
敵陣突入を提案する者もいれば、鶴ヶ城が簡単に落城するはずはないとして帰城を主張する者もいた。
しかし、最終的に「誤って敵に捕らえられ屈辱を受けるような事があれば、主君に対して大変申訳なく、祖先に対しても申訳ない。この場は潔ぎよく自刃し、武士の本分を明らかにするべき」との決断にはじめて、全員が同意し、一同列座し南鶴ヶ城に向かって訣別の意を表し、全員が自刃した。
後、一名が蘇生。その名は飯沼貞吉である。
なお、鶴ヶ城開城はその一か月後であった。
(原文ママ)
鶴ヶ城は新政府軍(西軍)から砲弾を雨あられと浴びせられていたが、落城することはなかった。
状況判断の誤り、それに基づく集団心理が、白虎隊士の悲劇につながる。
自刃の地とは反対側、白虎隊士の墓へ。
献香の煙が絶えない正面は、自刃した19隊士の墓。
正面に向かって右側は、会津戦争で戦死した31隊士の墓。
左側には、会津藩少年武士の慰霊碑が立つ。
白虎隊とは別部隊の少年兵の慰霊碑である。
このあたりから翁の語りは、悲哀が一層込められたものとなっていく。
「会津の城下は戦渦に巻き込まれ、西軍の兵により略奪された・・・」
「会津藩は降伏後、不毛の地である
「西軍は会津の戦死者を葬ることを禁じた・・・」
こうして、「会津ってかわいそう、明治政府(薩長)ひどい・・・!!」って感じてしまいがちですが、その手は桑名の焼きハマグリってもんだ。
たしかに会津城下で略奪はあっただろう。
しかし会津藩兵も本国に退却する際に、略奪行為を行っている。(『郡山市史』など)
略奪を受けた地の人が明治政府軍に加わっていたならば、同様の行為に及ぶことは想像に難くない。
こういったヴァンダリズムをすべて薩長のせいとするのは間違っている。
斗南に飛ばされたことについては・・・
会津藩は降伏後、国替地として猪苗代と下北のふたつを提示されている。
普通なら会津の近場の猪苗代を選ぶのに、会津藩の首脳はあえて下北半島への移住を選んだのだ。
その上での困窮であるので、領地の削減はともかく、必要以上に明治政府が会津へ仕打ちをしたとは言えない。
下北半島は青森ひばという材木資源があり、近隣の八戸藩はこれを有効に活用していたのに、斗南藩ではそれができなかった。
そもそも、斗南=不毛の地 と言うのは、下北半島の人々に失礼とは思わないのか。
会津藩士の戦死者埋葬を禁止したというのは虚構以外の何物でもない。(『会津若松市史』も埋葬禁止を否定している)
明治政府はむしろ戦死者埋葬が進まないので、死者埋葬を命じたくらいである。
なのになのに、翁は平気でこのようにのたまい、飯盛山の案内看板にも死者埋葬禁止が記載されているのである。
きわめて残念なことである。
・・・と翁の面前で、ほかの観光客の面前で、公然と論破!!・・・するべくもなく、
「はい、はい、冗談半分に聞いておきますね」
と思いながら立ち去っていったのだった。
日本100名城登城の旅・第10弾「おくのほそ道」第35話へ続く。
日本100名城登城の旅・第10弾「おくのほそ道」第34話編集後記へ続く。
最新の画像[もっと見る]
- カピバラ革命1周年 12ヶ月前
- カピバラ革命1周年 12ヶ月前
- カピバラ革命1周年 12ヶ月前
- ダチョウ王国・第5章~初カピ詣で 12ヶ月前
- ダチョウ王国・第5章~初カピ詣で 12ヶ月前
- ダチョウ王国・第5章~初カピ詣で 12ヶ月前
- ダチョウ王国・第5章~初カピ詣で 12ヶ月前
- ダチョウ王国・第5章~初カピ詣で 12ヶ月前
- ダチョウ王国・第5章~初カピ詣で 12ヶ月前
- ダチョウ王国・第5章~初カピ詣で 12ヶ月前
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます