沼田城址である沼田公園へ。
観光案内所で、早々にスタンプをゲットしました。
これで帰ることはなく、沼田城を本格的に登城していきます。
「本丸跡」の石標が立っています。
沼田公園は、かつての本丸を主として整備された公園なのです。
こちらはオミナエシの花壇になっているようですね。
園内は色とりどりの花々に囲まれていて、城址であることを忘れさせられますね。
沼田城のシンボルとなっている、本丸の鐘楼【復元】。
真田信幸(信之)の長男・信吉が城主のころに建てられ、鐘も鋳造されたそうです。
現在ここに吊り下げられている鐘はありません。
信吉が鋳造させた鐘は現存していて【群馬県指定文化財】、市内の中央公民館に保管されているそうです。
鐘楼からさらに進むと、
往時の石垣に囲まれた一画。
狭い通路に崖が迫っており、撮影するのもひと苦労です。
沼田城で石垣がよく残っているこの場所は、本丸西櫓台の跡だそうです。
櫓台の上に植わっているのは、樹齢400年以上の御殿桜と呼ばれているヒガンザクラ。
鐘楼もチラ見できますよぉ。
先ほどのチラ見箇所から回り込んできました。
西櫓に上るための石段が備え付けられていたんですね。
これらの石垣や石段は、真田氏の時代から残っているものだそうです。
スタンプの画角は、間違いなくココです!
西櫓台をひと回りしてきました。
沼田城の最奥、捨曲輪へ。
こちらは沼田氏時代の沼田城の本丸にあたります。
崖っぷちにあるひとつのいわくありげな石。
平八石といい、真田昌幸によって謀殺された沼田平八郎景義の首が据えられ、首実検が行われたそうです。
そのそばには、平八郎をワナにはめた真田昌幸その人が・・・。
今でこそ「真田の城」!と掲げる沼田城ですが、真田の城になるまでは山内上杉→北条→長尾・上杉→北条→武田(真田)→織田(滝川)→北条→真田→北条→豊臣(真田)と主が目まぐるしく変わっているのです。
沼田城は、天文元年(1532年)ごろに沼田
顕泰は関東管領・上杉憲政の家臣でしたが、河越夜戦で上杉方が大敗したのを機に主家が没落していくと、沼田氏も北条氏康に飲み込まれてしまい、北条綱成の二男・康元が城主となります。
長尾景虎(上杉謙信)が関東に遠征してくると、沼田城は長尾軍が落とし、城代が置かれました。
天正6年(1578年)上杉謙信死後のお家騒動・御館の乱が起きると、北条氏政が沼田城を制圧、金子泰清らを城代としました。
このとき上杉は武田と同盟を結んだ(甲越同盟)ため、武田勝頼は真田昌幸に沼田城攻略を命じます。
天正8年(1580年)真田昌幸は金子泰清を調略し、また叔父の矢沢頼綱の軍勢を遣わし、沼田城を無血で占拠しました。
このとき沼田氏の当主であった平八郎景義は、北条軍などの助勢を得て沼田城の奪還をめざして兵を挙げました。
情勢不利と見た真田昌幸は、景清の伯父であった金子泰清を遣わして、沼田城におびき寄せます。
城内に誘われてしまった景義は、泰清らによって殺害されてしまったのです。
こうして沼田氏は滅亡しました。
天正10年(1582年)甲州征伐で武田が滅亡すると、真田は織田信長に下り、沼田城は信長の重臣である滝川一益の臣・滝川益重のものとなります。
しかし本能寺の変で武田遺領が混乱すると、真田は北条氏政に下り、さらに徳川家康に鞍替えします。
北条と徳川が和睦し、その条件に沼田城の割譲を徳川が承諾すると、真田は徳川から離反し上杉景勝に鞍替え。
徳川の第1次上田合戦などの侵略をことごとく退けます。
天正17年(1589年)関白豊臣秀吉による沼田裁定で、沼田城は北条に属することとなったものの、北条の反豊臣姿勢が改まらなかったため、天正18年(1590年)小田原征伐により北条は滅亡。
沼田城は真田昌幸の嫡男・信幸に与えられました。
信幸は沼田城を大きく改修し、本丸には5層の天守が建てられたそうです。
秀吉死後に起きた関ヶ原の戦いで、真田昌幸・信繁は西軍に、真田信幸は東軍に分かれることとなります。
東軍が勝利し、昌幸・信繁父子が九度山に流されると、上田の所領が信幸に与えられました。
このとき上田城は徹底的に破壊されたため、信幸は沼田を本拠とし、名を「信之」に改めました。
信之が松代に加増移封となっても、沼田は真田家の所領のままに据え置かれました。
信之の長男・信吉は父に先だって死し、次男の信政が本家を継いで2代藩主となり、沼田領は信吉の子・信直が領有しました。
しかし信政が死ぬと、隠居していた信之の決定で、信政の子・幸道が継ぐこととなりました。
これに信直が異を唱えましたが、幕府の裁定で幸道が後継と定まり、また沼田藩が分離することとなりました。
沼田藩の藩主となった信直は、松代藩との対抗意識もあって、家格を高めるために石高を大きく見積もったのでした。
そのため沼田藩が課せられた賦役は重い負担となり、これを重税を課することで対応するなどの悪政を敷いたため、天和元年(1681年)には磔茂左衛門の直訴もあって、ついに沼田藩は取り潰されてしまいます。
天和2年(1682年)沼田城は幕命により破却されることとなり、堀も埋められてしまいました。
この後沼田藩は本多、黒田、土岐の各氏が治めることとなりますが、城の復興はなされないまま、明治を迎えたのでした。
捨曲輪の崖っぷちからの眺め。
標高1,123メートルの三峰山。
その左後ろに見える・・・
この日は雲に隠れてしまいましたが、谷川岳がそびえています。
利根川が造り出した、河岸段丘の台地を見下ろします。
画像中央から少しだけ左上、対岸の丘陵地・・・
この丘に名胡桃城があります。
沼田城からは、直線距離で5kmも離れていない近さ。
沼田裁定では、名胡桃城は真田方とされており、沼田の北条方からすればさぞかし目障りな城だったことでしょう。
ときの城主もそう思ったのでしょう・・・これが大きな戦乱を招くことになるのですが、それはまた、別の話・・・。
本丸に戻ります。
かつては5層の天守があったこの場所には、真田信幸・小松姫夫妻像が置かれています。
徳川家康が関白・豊臣秀吉に帰順すると、秀吉は真田昌幸を家康の与力大名につけました。
これまでに度重なる抗争を繰り返してきた徳川・真田両家は、関係を緊密なものとすべく、真田信幸と小松姫の婚姻を取り交わしました。
小松姫は、家康の重臣で猛将の本多忠勝の娘でしたが、これを家康の養女としたうえで信幸に娶せたのです。
関ヶ原の戦い前、真田家は昌幸と信繁が西軍に、信幸が東軍につくこととなりました。
昌幸の軍勢は居城の上田に戻る際、信幸の居城・沼田城に立ち寄って宿を求めました。
昌幸「孫の顔を見たくなったので、沼田城に入れてくれんか」
これに対し城に留まっていた小松姫は、昌幸が沼田城を奪取する計略があると見てとって、
小松「この城はわが夫の城、夫の許しがなければ、たとえ義父様といえどもお城に入れるわけには参りませぬ」
小松姫の抗戦の構えにさすがの昌幸も引き下がり、沼田城近くの正覚寺で軍勢を休ませることとしました。
その翌日、小松姫は護衛を引き連れて昌幸に面会し、孫の顔を見せたのでした。
これには昌幸も「さすがは本多忠勝の娘だ」と感心したのだそうです。
現代的によみがえった夫妻に別れを告げ・・・
本丸御門跡へ。
池ですか???
いえいえ、こちらは本丸堀の名残なのだそうです。
右側にはしっかり石垣が残っていますが、真田家が幕府に提出した城の絵図面によると、この本丸堀だけ石垣が施されていたのだそうです。
遺構はあまり残っていませんが、多くの物語に彩られた沼田城。
沼田城自体の登城はこのあたりで終了なのですが、沼田城を語る上でかかせないもうひとつの城・・・
そこまで行ってはじめて、沼田城・コンプリート!といえるでしょう。
次に向かうのはまさにこのお城なのですが、それは・・・もう少し先のお話です。
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