二本松駅の中にある観光案内所に立ち寄り、
11番、二本松城!
早々にスタンプをゲットし、ガイドマップも入手。
スタンプをゲットしたからもう用はない!ということはせず、しっかりと二本松城へ向かいます。
二本松駅から二本松城址のある霞ヶ城公園までは、久保丁坂という坂を上り、丘陵をひとつ跨いでいかなければなりません。
二本松神社の脇から始まる久保丁坂。
これをわが健脚でもって、ひたすら上っていきます。
500メートルほどの坂なのですが、傾斜が半端じゃありません。
斜度を表示する道路標識はなかったのですが、おそらく20%ほど。
とある坂沿いの民家に「もう少しです。がんばって」なんて貼り紙もありました。
坂を上りきると、今度は下り坂。
下りは傾斜も長さも大したことはありません。
駅から歩くこと約18分、霞ヶ城公園入口に到着しました。
二本松城は、応永21年(1414年)に二本松満泰が居館を築いたことに始まります。
二本松家は元は足利幕府の管領・畠山氏の系譜を引きますが、勢力範囲は二本松周辺に限られていました。
天正13年(1585年)二本松義継は米沢城主・伊達政宗と敵対し、政宗に攻め込まれてしまいます。
義継は降伏し、政宗の父・輝宗に面会しますがが、一転、輝宗を拉致します。
政宗は粟ノ須(現二本松市)で父もろとも義継を討ち、二本松への侵攻を再開。
一時は人取橋の戦いで苦境に立つも、政宗は二本松城を攻め取りました。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を大軍勢で包囲すると、政宗は秀吉に降伏。
二本松と会津の地は、蒲生氏郷に与えられました。
蒲生氏郷の死後は上杉景勝に、関ヶ原の戦いの後は蒲生秀行(氏郷の子)に、その後加藤嘉明に移り、寛永20年(1643年)に丹羽長秀の孫である丹羽光重が白河小峰城から移ってきてからは、倒幕まで丹羽氏の居城となりました。
戊辰戦争では、二本松藩は奥羽越列藩同盟に加盟したため、新政府軍に攻められて落城してしまいます。
このとき城内の建物はほとんどが焼失してしまいました。
明治5年(1872年)の廃城令により、残っていた建物も破却され、廃城となりました。
霞ヶ城公園の入口にある像は、二本松少年隊の像です。
少年隊の奮戦と、我が子の出陣服を仕立てる母の姿を表しています。
戊辰戦争では奥羽悦列藩同盟に加盟した二本松藩。
対する新政府軍は白河小峰城を奪取し、ここをめぐる攻防(白河口の戦い)が激化します。
列藩同盟軍は白河小峰城の奪還をめざし、諸藩の軍勢を集め白河に幾度も攻勢を仕掛けます。
しかし藩祖・丹羽光重の父・長重が築き上げた石垣の小峰城を、列藩同盟軍は攻め落とすことができません。
そのうち新政府軍が軍勢を整え、手薄となっていた二本松城に攻め込んできました。
このとき主だった兵が白河にいた二本松藩では、少年であった藩士の子弟らも出陣することとなりました。
しかし戦況に利あらず、少年兵はひとり、またひとりと戦場の露と消えていきました。
彼らの歳は、上は17歳から下は13歳。
後世の人々は彼らの生死を悼み、彼らはやがて「二本松少年隊」と呼ばれるようになりました。
背後には石垣が高くそびえ立っています。
これらの高石垣は、加藤氏の時代に築かれたようです。
箕輪門【再建】は、箕輪村という村の樫の木を使い、門としたそうです。
外側には二重櫓、内側には平櫓が備わっています。
門の内側へ足を運ぶと、まず作業用の自動車が何台も停められていました。
作業で出たであろう廃棄物もところどころに落ちていました。
看板から察するに、おそらくは菊人形展の後始末をしているのでしょう。
さらに進むと、るり池、霞池という池があります。
そしてその池に流れ込む水が、上流からこんこんと流れてきています。
城というより日本庭園を歩いているかのようです。
通路は坂の上に続いているようです。
二本松城で唯一江戸時代から残っている建物である洗心亭【福島県指定文化財】。
「墨絵の御茶屋」と称されたこの茶屋は、天保8年(1837年)に城外の阿武隈川河畔に移築されました。
そのため戊辰戦争の戦火を免れ、再び城内に戻されています。
傘のような形をしているので、そのまんま「傘松」【二本松市指定天然記念物】。
アカマツの古木で、樹齢は約300年なのだそうです。
洗心堂の近くにある「洗心滝」。
だいぶ坂を上ってきているのですが、なかなかに豊かな水量。
城内の庭園へ水を導くこの水路は二合田用水といい、丹羽氏の時代に幕府に内密に引いたのだといいます。
通路を外れると、イロハカエデの落葉がふかふかのじゅうたんのように積もっています。
カエデはすっかり色あせて、うす茶色になってしまっていました。
季節が合えば、ここの景色はさぞ見事であろう・・・。
それにしても、雨水の流れ道をも覆っているカエデの落葉。
おかげで何度も足をとられてしまい、坂道を上るのにいささか難儀してしまいました。
「洗心滝」を過ぎたあたりから、坂道がきつくなってきます。
智恵子抄詩碑。
彫刻家で詩人の高村光太郎が、愛妻・智恵子を偲んで詠んだ詩が刻まれています。
あの光るのが阿武隈川
智恵子は二本松で生まれ、画家を志して上京します。
そこで高村光太郎と出会うのですが、精神病にかかってしまいます。
それでも故郷の景色は忘れず、安達太良山と阿武隈川の風景を想っていたそうです。
少年隊を顕彰する碑がある「少年隊の丘」。
さらに進んで搦手門跡を経て、本丸に到着。
本丸は全面が石垣で囲まれています。
あれが安達太良山
本丸に登ると、東は阿武隈高地、西は安達太良山を見渡すことができました。
90歳にもなる壮健なご老人が、安達太良の山々の写真を撮られていました。
私が船橋から来た旨を伝えると、ご老人は市川の旧日本軍関連施設に勤務していたことをお話しされました。
お元気な御仁にくらべ、私は息切れが・・・。
本丸から戻りました。
斜陽に照らされる箕輪門を尻目に、二本松駅へと歩き出すのでした。
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