鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

浜松城・第1章~出世大名家康くん

2019-07-09 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 2 8 分

浜 松 市 中 区

J R 浜 松 駅



わが本拠を発って約6時間、JR浜松駅までやってきました。
う~~~ん、静岡は長かったですねぇ。

浜松駅の北口から、今回の登城旅が始まります。
目的地は言うまでもありませんね・・・浜松にある浜松城【浜松市指定史跡】です。


駅の北口にあったのは徳川家康公の銅像ではなく、



何だ、このかぼちゃのお化けみたいなのは・・・出世大名家康くん!?



北口から、高架沿いに東へ・・・どうやらこの御仁が家康くんのようですね。
ちょんまげは浜名湖のうなぎ、袴にはYAMAHAのピアノ
そしてこの画では隠れていますが、紋付の家紋は葵ではなく静岡温州みかんがあしらわれています。


出世大名家康くんは、浜松市の公式マスコットキャラクターで、徳川家康の生まれ変わりを称しています。
平成23年(2011年)に浜松市長によって公式のマスコットに指定され、赤塚不二夫のキャラクターであるうなぎイヌに代わって「はままつ福市長」に就任したのでした。

平成25年のゆるきゃらグランプリでは、「天下統一宣言」を行い、さらに浜松市を挙げてのバックアップにより選挙戦を優勢に戦いますが、終盤で栃木県佐野市のさのまるに逆転を許して敗北。
家康くんは「宣言」時に公約したとおりにうなぎのまげを落とし、「出家大名」となってしまったのでした。

この「出家」は、「ピアノとみかんはそのままで、なぜうなぎだけ?」という漁業関係者の声もあったようで、翌年に「復活の儀」を行って見事に蘇生。
そして平成27年(2015年)ついにゆるきゃらグランプリを獲得したのでした。



「はままつ福市長」もいらっしゃるかもしれない浜松城へは、浜松駅から約2キロほどの行程になりそうです。
そこで今回も、



レンタサイクルの力を借ります。
今回の自転車はえらいカラフルですね~、さらにハンドルにはスマホさんを据え付けるポケットが備えられています。
城攻め旅史上最高にヤル気のあるレンタサイクルです。



自転車を借りられる場所は駅北口から東へ、新幹線の高架沿いに進んだところにあるはままつペダルというお店です。
電チャリ、折り畳み自転車、ロードレーサーなどあらゆる種類の自転車を借りられ、ロッカーなどのスペースもあるそうです。
私はシティサイクル・・・要するにママチャリを4時間500円で借りることとしました。


※はままつペダルは、平成31年1月に新幹線の高架下から遠州鉄道の高架下に移転しました。
 浜松駅からは少しだけ遠くなってしまいました。



スマホさんの地図で確認しつつ、



国道152号沿いの浜松市役所へ。
市役所と、その隣りの元城小学校との間から脇道を進み、



浜松城公園へと到着しました。




午 前 1 0 時 4 8 分

浜 松 城 公 園


さて浜松城公園入口のあたりは、浜松城の二の丸だったところです。
二の丸は江戸時代に政庁が置かれた場所で、藩政を行っていた表御殿と藩主の私的場所であった奥御殿が建っていました。
現在は浜松市役所元城小学校が建っています。



さて、自転車をどこに停めよう?
城内に自転車を停められるような場所はなさそうですし、市役所の駐輪場はやや遠い場所にあるようです。
天守とは逆方向ですが、浜松城公園の駐車場に向かい、そこの駐輪スペースに停めることにしました。



ここにも出世大名家康くんがいらっしゃいますなぁ。
おやおや、出世法師直虎ちゃん???
直虎ちゃんは本当に出家していますが、「出家法師」じゃないんですね。


公園の駐車場から進み、



本丸に到達。
桜の木に覆われている模擬天守、天守の前に立ちはだかる櫓門は天守門【再建】。
曲輪をとりかこむ石垣は、組成する石がとても粗々しいですね。



天守門付近から見下ろすと、あのお方は・・・



若き日の徳川家康公の像のようです。
私の目が良くないせいか、あまり若々しくは見えませんねぇ。
たぬきに喩えられた晩年と比べれば体躯がスリムなので、壮年期の家康公なのでしょうか。


徳川家康は、はじめ三河(愛知県東部)の岡崎城に拠っていました。
織田信長と同盟を組むと東へ勢力を伸ばし、さらに甲斐(山梨県)の武田信玄とも同盟して今川氏真を攻め、遠江(静岡県西部)を獲得しました。
元亀元年(1570年)、居城を曳馬(ひきうま)に移し、さらに名を「浜松」と改めたのでした。

浜松城に移った家康を待っていたのは、強敵である武田との闘争でした。
隣国の駿河(静岡県中部)を攻め取った信玄は信長包囲網に加わり、西進作戦を開始します。
家康は武田軍の侵攻を受けますが、盟友の信長も余力はなく、ほとんど独力での対応を迫られます。
元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いで信玄の兵力と用兵の前に惨敗を喫し、家康の生涯最大の危機を迎えますが、直後に信玄が病死して難を逃れました。

信玄の死後に当主となった武田勝頼との闘いも、はじめは劣勢のまま推移しますが、天正3年(1575年)長篠の戦いでの大勝を機に勢力を盛り返していきます。
しかしこれ以降、信長との関係は対等なものから従属的なものとなっていき、信長の指示により嫡子の信康と正妻の瀬名姫(築山殿)を処断しなければなりませんでした。
(信長の指示ではなく、父子関係が悪化したため家康の判断で処断したともいわれています)

天正10年(1582年)信長とともに甲州征伐に加わり、武田勝頼を滅亡させます。
その功績で信長より駿河を与えられますが、こののち信長は本能寺の変で死亡。
本能寺の変後のどさくさで武田の旧領であった甲斐と信濃(長野県)を攻め取り大大名となりますが、そのころには豊臣秀吉が信長の後継者として台頭していました。

天正12年(1584年)小牧長久手の戦いで豊臣軍を破りましたが、外交戦では後れを取り、また近畿を領有する秀吉とは国力で大きな差があったのでした。
家臣間にも親豊臣と反豊臣とで亀裂が生じ、三河時代以来の重臣・石川数正(かずます)が出奔してしまいます。
ここに及んで家康は秀吉のもとに上洛し、秀吉に臣従することとなります。

天正14年(1586年)家康は居城を駿府城に移します。
石川数正の出奔により、浜松城の機密が漏れてしまうことを恐れたためともいいます。



秀吉が天下統一を果たすと、家康は江戸城へと移封されてしまいます。
当時は未開の地であった関東が、家康雄飛の地となっていくわけですが、これはまた別の話ですね。
ともあれ、浜松時代の困難に打ち克ったことが、家康の出世へとつながっていることは間違いないでしょう。





さて私は天守門【再建】をくぐり、浜松城の中心部・天守曲輪へと入っていきます。






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