鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

本佐倉城リベンジ・第3章~Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ郭

2019-11-27 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 3 月 1 6 日 ( 土 )

午 後 2 時 2 5 分

千 葉 県 印 旛 郡 酒 々 井 町

本 佐 倉 城 Ⅳ 郭



春先の本佐倉城【国指定史跡】登城リベンジ。



東山馬場跡に到着した私は、本佐倉城のパンフレットを手に取り、その推奨ルートを律儀にたどることとしました。
そして・・・



東光寺ビョウ(Ⅵ郭)



東山馬場(Ⅴ郭)



名も無きⅣ郭



チラ見程度ですが倉跡(Ⅲ郭)まで足を運びました。



Ⅵ、Ⅴ、Ⅳ、Ⅲとくれば、次はⅡ、Ⅰとめぐるのがスジというものでしょう。



Ⅳ郭虎口からの通路を左に曲がり、



大堀切が現れます。
ひとつの高台を掘り進んでふたつに分け、それによってできあがった通路が堀切です。
この大堀切を挟んで左側が城山(Ⅰ郭)、右側が奥ノ山(Ⅱ郭)です。

Ⅳ郭から進むと、大堀切は高低差約2メートルのスロープになっています。
そしてスロープを上りきった地点に、木戸が構えられていたようです。



大堀切の底と奥ノ山とは、約6メートルほどの高低差でしょうか。



いったん下って、城山と奥ノ山の岐路。
ここでは左を選択、Ⅱ郭の奥ノ山ではなくⅠ郭の城山へ。
郭のカウントダウンよりも、パンフレットの推奨順路を律儀にたどっていきます。







下ったところにある岐路から、急激な上り坂となる城山通路
高低差は約7メートル、蛇行を繰り返す狭い通路です。
この先の城山は、その先には逃げ場がない詰め城、本佐倉城の最後の拠点になっています。



城山の入口・城山虎口に到達。
白い看板の立つあたりには、城山虎口の一ノ門が構えられていたようです。
一ノ門跡の後ろは一段高くなっているので、坂道は続きます。
さらには、虎口の周囲を塀が取り囲んでいました。
最後の砦でもあるので、とりわけ厳重な守りになっていますね。



虎口の二ノ門の役割を担っていた城山門の跡地。
城山の外側に向かって、塀は立てられていました。



城山門跡からは、もう一本の通路が伸びていました。
木橋を経由して奥ノ山へとショートカットできる通路です。



城山の突端、向かいが奥ノ山です。
平時にはここから木橋が架けられ、往来が可能になっていました。
戦時には木橋を叩き壊して往来不能にし、



大堀切を進まんとする敵軍を、頭上から攻撃する構えになっていました。



城山(Ⅰ郭)に入ります。

城山門を通過して目前にあったのは、遠侍(とおさぶらい)という警護兵の詰所であった建物です。
その隣りには、城主の屋敷である主殿
主殿よりさらに奥には、公的な行事や遊興的な催しが行われたと考えられる会所があり、その傍らには庭園や庭池などの痕跡が確認されています。
また、用途は不明ですが、ほかに建物4棟の痕跡も明らかになっています。

先に登城していた観光客に、引率していたボランティアガイド(と思われるお爺様)が、熱心に語っておられました。
お爺様は、ここでとある事件について語り出します。

オナラ事件。

これは某学校の某生徒が巻き起こした数回の騒動とは違い、たった2発のオナラがお家騒動に発展してしまうというお話です。


天正16年(1588年)本佐倉城、書院。新年の祝賀の席にて・・・

ぷぅぅぅ~

齢18になる近習の桑田万五郎、膳を配っている最中に放屁をしてしまったのです。
人間だれしも突発的な粗相はしてしまうもので、主君の千葉邦胤もそう考えて咎めませんでした。
しかし・・・

ぷぅぅぅ~

万五郎またしても放屁
邦胤もだまって見過ごすことはできず、万五郎を叱りつけました。
これに万五郎は、書院の中央でひざまずき、

「卒爾の失錯は庸常有之べきことなるに、かかる曠なる座中に於て斯くの如く顔面に辱を蒙る條、つれなき仕合なり」
(突発的な粗相は誰しもあることなのに、万座で恥をかかせるなんて、ひどいじゃないですか)


と口答えをしたため邦胤が激怒、座を立ち上がると万五郎を蹴飛ばし、刀に手をかけたのでした。
家臣たちが慌てて間に入り、万五郎を引き立てて、邦胤をなだめたため、この場は収まりました。

万五郎は別の家臣の屋敷にて謹慎することになりました。
数ヶ月後に邦胤の勘気は解け、万五郎は再び邦胤のそばに仕えることとなりました。
しかし万五郎は、万座で恥をかかせた主君への恨みを忘れずにいたのです。

同じ年の7月4日夜、万五郎は邦胤の寝所に忍び込むと、寝ている邦胤を短刀で2度刺して逃走しました。

「憎き小倅めが所為かな」
(やりやがったな、くそガキめ!)


邦胤が叫ぶと、宿直の者が駆けつけました。
邦胤は血だらけで倒れており、虫の息。

「・・・桑田面を脱さず討ち取れ」

そう言って息絶えてしまったのです。享年39歳といわれています。
万五郎は千葉家の追っ手によって捕捉され、斬首されたとも自害したともいいます。

邦胤亡き後の千葉家には嫡子・重胤がいたのですが、「若年のため家中をまとめきれない」として北条氏政が介入し、実子の直重を千葉家に送り込んで家督を継がせたのでした。





オナラ事件の舞台になった会所(書院)跡
その先は崖になっていて、



東山馬場(Ⅴ郭)を見渡すことができます。
現在は駐車場が整備され、城の間近まで車で来られます。便利な世の中になったものよのぅ。





城山を退去して、今度は奥ノ山へ。



通路ぎわは崖になっており、なかなかの深さ。



奥ノ山(Ⅱ郭)へ。



なかなかに広い郭です。



倉跡(Ⅲ郭)寄りにある土塁。
このあたりに妙見宮が祀られていました。
妙見宮は千葉氏の守護神とされ、当主が元服するときには妙見宮で儀式を行っていました。
もともと妙見宮は亥鼻(いのはな)の地(現在の千葉市中央区)にあったのですが、「小弓公方」足利義明やその同盟者・里見氏といった外憂が生じるようになると、妙見宮を城内に遷宮したうえで元服の儀式が行われたようです。





土塁で構成されていたと思われる虎口を抜けて、



倉跡(Ⅲ郭)に戻ってきました。



倉跡(Ⅲ郭)は本佐倉城最大の郭です。
ここでは発掘調査で炭化米が発見されており、倉庫群が建っていたと推定されています。





倉跡を奥ノ山ぞいに進むと、崖下へと通じる道が現れます。



進んでいくと、脇道から妙見神社の横に出ますが・・・



通路を下って、表から入ります。
小ぶりな鳥居をくぐり、



妙見神社で参拝。
奥ノ山に鎮座していた妙見宮は、奥ノ山の腰曲輪ともいうべき場所に移っています。

ここまではマムシ、イノシシ、カミツキガメといった危険生物には遭遇していません。
この先もこいつらには遭遇しませんように・・・と祈願し、本佐倉城の散策はまだまだ続きます。






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