春先の本佐倉城【国指定史跡】登城リベンジ。
マムシ、イノシシ、カミツキガメには遭遇しませんように・・・。
妙見神社で祈願し、パンフレットの推奨ルートを忠実にたどって散策を続けます。
本佐倉城の内郭を構成する小高い山を下りました。
田が広がる窪地と、その先にはさらなる小高い山。
現在田んぼとなっているところには、かつては中池という池があったそうです。
そしてその池には中島小島が浮かんでおり、弁天神社が鎮座していました。
画像にある建物の背後に立つ山は向根古谷(Ⅸ郭)で、侍屋敷が密集していた郭でした。
窪地を取り囲むかのように立っている山は、それぞれ荒上(Ⅷ郭)、向根古谷(Ⅸ郭)、根古屋(Ⅹ郭)を構成し、それぞれに侍屋敷が集まっていた郭でした。
これまで散策したⅠ~Ⅵ郭と、このあと訪れるⅦ郭が内郭、Ⅷ~Ⅹ郭が外郭とされています。
向根古谷から見た内郭。
左が奥ノ山(Ⅱ郭)、右奥が城山(Ⅰ郭)です。
奥ノ山のふもとには妙見神社の鳥居が見えます。
かつて中島にあった弁天神社は、現在、向根古谷のふもとに移されています。
妙見神社の参道を進まずに、左の道へ。
根古屋(Ⅹ郭)、荒上(Ⅷ郭)の方へ進みます。
あたりが鬱蒼としてきました。
イノシシでも出るんじゃないか???
樹木が生い茂っていてよく見えませんが、道の左側は水の手という低地になっていて、ここにも貯水池があったそうです。
中池と並ぶ、城内の貴重な水源であったとされています。
荒上へと続く公道を外れ、
荒れるに任せた竹林の道へ。
右側から垣間見えるのが・・・
セッテイ空堀です。
竹が自由気ままに生えているので、画像からは良くわからないかもしれませんが、とても深い堀です。
何者かが不法投棄したと思われるドラム缶がありますが、空堀の規模を推しはかるにはいいかもしれません。
案内看板によると、崖上のセッテイ山までの高低差は約16メートルもあるといいます。
散策路はくだんのセッテイ空堀の中を通ります。
深いだけでなく、なかなかに幅が広くなっています。
反対側を向くと、空堀は東光寺ビョウ(Ⅵ郭)からのびていることがわかります。
最後の郭・セッテイ山へ。
坂道を上り、左右に土塁が控えるセッテイ虎口へ。
このあたりは発掘調査がされていないようですが、木戸や塀などが立てられていたと推定されています。
空堀といい、虎口といい、主殿のあった城山よりも厳重な構えになっているようにみえますね。
竹林の小径を進み、右に分かれる脇道へ。
ひっそりとたたずむ脇道を上り、
セッテイ山(Ⅶ郭)に到達しました。
広さは奥ノ山をやや小さくした程度と、それなりの面積はありますが、竹木がギッシリと生えているためかなり狭く感じます。
「セッテイ」という名称は「接待」に通じるとされ、賓客を接待するための館があった、あるいは賓客ではなく人質を住まわせるための館があったと推定されています。
人質を収容するというのであれば、その逃亡や奪還を防ぐために厳重な構えをしていたというのも頷けますね。
セッテイ山を下り、
倉跡・セッテイ空堀へ。
その名のとおり、セッテイ山(Ⅶ郭)と倉跡(Ⅲ郭)を隔てる空堀で、倉跡までの高低差は約10メートル。
2つの深い空堀で隔てられていることからも、セッテイ山が特別な郭であったことが読み取れますね。
この空堀から、外に出ましょう。
南奥虎口です。
左右の土塁で進路がねじ曲げられるという構造になっています。
また土塁には木戸がこしらえられ、さらに木戸からは柵がのびていたそうです。
そのため、外側から空堀の様子を窺うことはできなかったようです。
東光寺ビョウ(Ⅵ郭)に戻りました。
東光寺ビョウから見た南奥虎口。
前回の登城で、私を退却に追い込んだ忌まわしの立看板。
妙見神社の御加護か、危険な生物に遭遇することはありませんでした。
東光寺ビョウから、本佐倉城を後にします。
帰りは大佐倉駅から。
続100名城スタンプは、酒々井町中央公民館とこの駅に設置されています。
大佐倉駅のスタンプは、改札機の外、券売機の裏に置いてあります。
スタンプはすでに押印済み。
しかし・・・この絵柄はいったいどこだ???
う~む・・・・・・
京成電車に乗って、本佐倉城の登城はこれにて終了。
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