CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

西宮散策記 on 2019-2-24 その3 西宮神社 境外末社 住吉神社

2019年03月17日 08時56分40秒 | 神戸市以外の兵庫県
2019年2月24日、徳若の万代大澤醸造で西宮蔵開2019年のイベントが開催されていたので
西宮に出かけていました。

その時に訪れた場所を写真紹介していきます。

今回はその第3回で住吉神社を取り上げます。
住吉神社は漁業の豊漁などに御利益のある神社ですが、この神社はえびす宮総本社の
西宮神社の境外末社として、また享和年間(1801-1804)、西宮港の防波堤建設事業の
無事成就を願って文化2年(1805)に住吉大神を勧請した歴史を持っています。

西宮散策シリーズの過去記事

西宮散策記 on 2019-2-24 その1 夙川公園


西宮散策記 on 2019-2-24 その2 西宮砲台


西宮神社 境外末社 住吉神社の基本情報
住所:西宮市西波止町4番4号
御祭神:住吉大神、西宮大神、速秋津姫大神
末社:稲荷社、金毘羅社、弁天社、濱戎神社
祭事:2月14日 初住吉祭、7月14日 例祭、7月31日 住吉祭(夏祭)
創建:文化2年(1805)
境内面積:229坪(757㎡)




現地説明板より説明文をそのまま引用紹介します。
西宮の漁業は遠く中世の頃より営まれていました。その後、江戸時代になると、進んだ
漁法を携えて遥か房総半島に移り住み、彼方の地の漁業発展に大いに貢献するほどでした。
この付近の浜は「御前の浜」と呼ばれ、この沖で獲れる鯛は夷三郎殿 (えびすさま) が
釣り始められた鯛、また「前の魚」と呼ばれ、その美味しさは全国に知れ渡っていました。
地曳網によってイワシもたくさん獲れ「手手かむイワシ」と威勢よく声をかけながら、
市中で売られていました。
西宮で、酒造米穀商を営んでいた、當舎屋金兵衛は享和年間(1801-1804)に西宮港を
風浪の影響より避けるために、沖へ600間(約1,090m)ほど築州を造成する大事業を企て、
この難事業の成就を祈請して、文化二年(1805)に住吉大神を勧請しました。
当初はもう少し浜の先に祀られていましたが明治2年(1869)にこの地に遷座されました。
当時は大消費地である江戸へ当地醸造の清酒が、「下り酒」としてこの港から船積みされ、
港は大いに活況を呈していました。
当神社は、これらの海上運漕仲に特に篤く信仰されてきました。
平成17年(2005)7月には御鎮座2百年を記念して境内整備事業が行われ、
金兵衛翁の顕彰記念碑も設置されました。


それでは境内の写真紹介を始めます

拝殿





本殿




史跡當舎屋金兵衛港湾修築碑

上の写真は史跡當舎屋金兵衛港湾修築碑


上の写真は現地説明板。文章部分をそのまま記載します。

當舎屋金兵衛(とうしゃやきんべえ)
元文5年(1740)~文政7年(1824)
西宮で米穀商を営む。兵庫(神戸)と大阪の間に風待港の機能を持つ良港がなかった
ことを憂いて、西宮の港を修築することを決意し、この事業完遂によって
西宮の町に発展をもたらそうとした。
そのために沖へ600間(約1090m)の築洲(防波堤)を築こうと計画し、
享和元年(1801)に築洲勧進帳を作成して広く助成を募る一方、築洲完成を描いた絵馬を
西宮神社へ奉納し、また当住吉神社を勧請するなど神明のご加護をひたすら祈念した。
工事も着々と進み、江戸への清酒の積み出しで賑わう西宮の港もより安全な港となった。
その後風雨のため築洲がたびたび破損して、当初の600間の築洲は完成を見ることはなかった。



上の写真は現地説明板の中の江戸時代の西宮港の絵図(拡大)


上の写真は現地説明板の中の現在の西宮港の絵図(拡大)

築洲勧進帳


上の写真は築洲勧進帳に関する現地説明板
内容を転記しておきます。(一部加筆) 

築洲勧進帳 (ちくす かんじんちょう)
そもそも、この西宮浦は上古神功皇后三韓を征し給い、御帰陣ましませし時も御船を
繋ぎ給い、天照大神の御告げありてみこころを広田の国に鎮(しずみ)まつりしより、
御前の浜とも唱え来たれり。はた、万葉集の歌にも「玉はやすむこの水門」とよみし
所なるを物換わり星移りいまはかた浜となりしかば、西は兵庫津より東は
浪速木津川安治川の川口まで会場10里が間、船繋(つなぐ)べき頼りなき故、
西南の風烈しき時は大濤のために諸国往来の船を覆され、水主(船頭)楫人旅客の
輩忽ち(たちまち)に大魚の食物となり、米穀金銭珍器重宝時の間に海底の藻くずと
なること眼もあてられぬありさま嘆きにもなおあまりあり。
奴つらつら思うに、人病にのぞみては良医をえて平癒を求む。海上の船々風波に逢う時は
湊に入ってこれをさくるより外なしと、いやしき身におほけなき心を記して此事を
なさばやと、年久しく寝食を忘れしに、幸いなるかな此浦の西にあたり、夙川
芦屋川はとしどし土砂流れ出る事夥しく(おびただしく)、いつしか今は川床も山の
ごとくなりて、東西両邊の田畑漏れ水に湿地となり、洪水の時は堤崩れ田畑砂入りて
耕作の便りを失う。是はた嘆かざるべきにあらず。いでその流れ出る土砂の勢いに
のり夙川の東浪打際より沖の方に向かひて古船に石砂を積み入れ海底に沈め置き、
出入りの時を待ちて川中の土砂をかき流さばおのずから築洲となるを、不絶とし月を
重ねてかくしもて行き、築洲沖の方へ凡600間ばかりの出るならば川床年々卑しく成り
河添い田畑かわきよく、洪水のときも川切りの患(うれい)なく、築洲よりの西の
白浜は新田となり、東の海中は湊となりて、陸には耕作の便りを得、海には風波の
患いなきこと疑いなければ、先年、御公儀様へも奉願上しかば、かたじけなくも
いんし寛政12年(1800)申(さる)12月14日願御免許給わりて身の悦び(よろこび)
これにすぎず。されど、もとより愚にまずしき身なれば、頓に成就すべき術(すべ)
もなし。願わくは諸方の君子、力を合わせて築洲普請の高案をも加し給い、
かつは多少にかぎらず助成をもなし給いねかしと希う(こいねがう)のみ。
   享和元年(1801)酉3月 / 摂津西宮浦 / 願主 當舎金兵衛

築洲の形を絵図にしるし、當所氏神恵比須の宮絵馬堂に奉納しかば、御往来の
序でもあらば御覧給わりたくなん。
築洲成就祈祷のため一切経を一石一字に書写し、海底に沈めたくさきに此のよし
記し諸方へみせ奉りぬ。志あらん御方は御好みにまかせ、一経にても
書写し給わらん事をねぎ(願い)奉る(まつる)。
(大正15年(1926)刊 「西宮町誌」より)




上の写真は現地説明板の遠景と樽廻船の縮小模型(石製)

住吉神社縁起

勧進帳の背面に記載されているものです。

境内遠景



境内摂社
 稲荷社
   
   上の写真は稲荷社 例祭は4月8日

 西宮濱戎神社
   
   上の写真は濱戎神社

 弁天社 
  
   上の写真は弁天社

手水舎


正面鳥居遠景


保護樹木 エノキ



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累計訪問者数 95万iPを突破 on  2019-3-14

2019年03月17日 04時27分05秒 | Weblog
2019年3月14日に累計の訪問者数が95万iPを突破しました。
憶えの為、記載しておきます。

本ブログも2004年に開設していますので15年近く続けています。
あと何年生きれるか判りませんが死ぬまで継続出来たらと考えています。

直近の週間アクセス数(2019.2.17 〜 2019.2.23)5,195ip、18,603PV 633位
 
          (2019.2.24 〜 2019.3.2)5,281ip、16,069PV 614位

          (2019.3.3 〜 2019.3.9)5,369ip、18,271PV 581位

アクセスしていただいた方々に感謝致します。
これを励みに無理をしない程度に継続していきたいと思います。


尚、2019年3月17日(日)現在の累計閲覧数は3,669,280PVです。

過去のアクセス数に関するメモ

週間アクセス数 9918位に on 2011-7-10~7-16

累計訪問者数 40万iPを突破 on 2014-10-13
 
累計訪問者数 45万iPを突破 on 2015-9-24

累計訪問者数 50万iPを突破見込み on 2016-5-1

累計訪問者数 55万iPを突破 on 2016-10-31

累計閲覧数 200万PVを突破 on 2017-3-13

累計訪問者数 60万iPを突破  on 2017-4-1

累計訪問者数 65万iPを突破  on 2017-8-24

訪問者数、閲覧数に異変

累計訪問者数 70万iPを突破  on 2017-12-26

累計訪問者数 75万iPを突破 on 2018-4-28

累計訪問者数 80万iPを突破 on 2018-8-3

累計訪問者数 85万iPを突破 on 2018-10-27

写真が無いと味気ないので最近撮影した写真を添付しておきます。





上の3枚の写真は旧神戸花時計前のモクレン科のコブシです。 撮影:2019-3-16(土)

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西宮散策記 on 2019-2-24 その2 西宮砲台

2019年03月16日 04時07分55秒 | 神戸市以外の兵庫県
2019年2月24日、徳若の万代大澤醸造で西宮蔵開2019年のイベントが開催されていたので
西宮に出かけていました。

その時に訪れた場所を写真紹介していきます。

今回はその第2回で西宮砲台を取り上げます。
阪神香櫨園駅で下車し南へ歩き御前浜(香櫨園浜)に西宮砲台跡があります。

西宮散策シリーズの過去記事

西宮散策記 on 2019-2-24 その1 夙川公園


上の写真は夙川の河口
左手(東側)の砂浜では御前浜公園の整備工事が進められていました
右手には芦屋浜の住宅群が見えています。
正面は西宮大橋で接続されている埋め立て地(西宮浜)


御前浜公園を西へ進んで行くと松並木の向こう側に西宮砲台が見えてきます。

西宮砲台の近景







上の4枚の写真は西宮砲台の近景
安全上の問題か周囲には金網があり内部を見ることはできません。

現地説明板





国指定史跡 西宮砲台
所在地:兵庫県西宮市西波止町字西波止5374の1番他
所有者:阪神電気鉄道株式会社
管理者:西宮市教育委員会
文化財指定:国の史跡(大正11年3月8日指定)

江戸時代末、国防不安を感じた江戸幕府は、大阪湾に砲台を築き本格的な大阪湾(摂海)
防衛に着手しました。砲台の位置は勝海舟が計画し、西宮ではこの「西宮砲台」のほか、
今津にも築かれました。西宮砲台の建設は文久3年(1863)に始まり慶応2年(1866)後半
になってようやく完成しました。
砂地に建てるため多数の松グイを打ち込んで地盤を固くし、その上に、瀬戸内海中部の
島々から運んだ花崗岩を積み上げています。通常の2倍の賃金を支払って熟練工を集め、
突貫工事で完成を急ぎましたが、あしかけ4年を要する難工事となりました。
砲台は石造三層の円堡で高さは約12m、直径17mで、外側には漆喰が塗られています。
2層目に見られる方形の12個の孔は、大砲で四方を狙うための11個の砲眼と窓で、内部
には井戸・弾薬庫が設けられました。
完成後試射をしましたが、煙が内部に充満し実際に使うことはありませんでした。
明治17年(1884)内部は火災で焼失。昭和49年(1974)に修復工事が始まり倒壊しない
ように鉄骨で補強されています。


説明書きに書かれていない事項を補充記載しておきます。
1)今津砲台は現存しませんが西宮市今津真砂町に今津堡塔の残石で出来た記念碑が
  建てられています。
2)大砲は2台装備
3)建設の係官として大坂町奉行 勘定方の矢口孝一郎、大坂西町奉行与力 嶋田栄太郎
  同じく与力の大須賀鎌次郎、勘定吟味方の林又七郎、普請役の郡司宰助、
  普請役代りの山内源太郎、小人目付 田中鎌作
4)西宮町総代の澤田源次郎が尽力 費用はすべて西宮町が負担した
5)和田岬砲台と同一の構造

上の写真は和田岬砲台の断面図
出典:明治期の和田岬砲台 神戸市教育委員会、神戸市兵庫区役所 (2011)
  http://www.city.kobe.lg.jp/ward/kuyakusho/hyogo/shoukai/img/23.12wadamisakihoudaiPDF.pdf

6)昭和9年(1934年)、 室戸台風による被災後に屋根の復原工事を施工
7)同時期に同じ仕様砲台が和田岬・川崎(湊川)・西宮・今津に建設された。
8)別称 「臼砲台」「石堡塔」
9)江戸幕府は大阪湾(摂海)防備のため小笠原長行に台場築立御用掛を命じ、
  戦奉行勝海舟と共に砲台の築造場所の調査を行わせました。

西宮砲台のGoo地図を添付しておきます。


史跡 西宮砲台の石碑


上の写真は大正12年(1923年)3月、国の史跡指定に伴い設置された標柱石
「史蹟西宮砲台」と書かれています。

西宮砲台の内部については同型で平成21年より解体修理が行われた和田岬砲台の
内部が参考になると思います。
そこで内部を見学された方のブログサイトへリンクさせていただきました。
 https://s.webry.info/sp/hinokuni123.at.webry.info/201311/article_3.html

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三島弥彦 日本初のオリンピック代表選手

2019年03月15日 04時29分27秒 | Weblog
2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の前半の主役で中村勘九郎が
演じる金栗四三と共に明治45年(1912)にストックホルム大会に参加した三島弥彦(生田斗真)
をテーマに取り上げます。

恥ずかしながら、金栗四三、三島弥彦ともに大河ドラマを観る前はまったく知らない
人物でした。

参照したのは下記の本とWebサイトです。
尚友ブックレット34 尚友倶楽部、内藤一成、長谷川怜 編集 三島弥彦 伝記と資料(2019)  

本の表紙を添付しておきます。

以降、特記のないものは上記の書籍からの引用です。

略年譜

明治19年(1986)2月23日 警視総監三島通庸・和歌子の五男として東京三田四国町に出生
明治21年(1888)10月23日 父・通庸が死去
明治24年(1891)9月   学習院初等科入学、以後中等科、高等科に進む

 上の写真は明治36年に撮影された三島弥彦
明治40年(1907)7月12日 学習院高等学科卒業
同年      9月   東京帝国大学法科大学に入学
明治44年(1911)11月18・19日 オリンピック派遣選手予選に出場(羽田運動場で実施)

上の写真は100mの記録(12秒)が記載された賞状

明治45年(1912)2月15日 オリンピック派遣選手に決定
        5月16日 新橋発
        5月17日 敦賀発

上の写真敦賀からウラジオストクの航海の船上での記念撮影
        6月2日  ストックホルム着
        7月5日  オリンピック入場式に旗手として出場
        7月6日  100m予選に出場 予選敗退
        7月10日 200m予選に出場 予選敗退
        7月12日 400m予選に出場 予選通過するも辞退
  注)明治→大正の改元は7月30日
大正2年(1913)2月7日  世界各地を歴訪後に帰国
        7月14日 大学を卒業し横浜正金銀行本店に入行
        11月11日 横浜正金銀行 サンフランシスコ支店勤務を命ぜられる
大正5年(1916)4月8日  横浜正金銀行ニューヨーク出張所勤務を命ぜられる
大正7年(1918)12月   横浜正金銀行ロンドン支店勤務
大正8年(1919)3月7日  兄の弥太郎死去
大正9年(1920)11月11日 横浜正金銀行本店勤務(現・神奈川県立歴史博物館)
大正12年(1925)1月   子爵鍋島直柔の5女の文子と結婚
大正13年(1926)12月3日 母・和歌子死去
昭和3年(1928)7月    横浜正金銀行上海支店支配人代理就任
              以降、海外支店及び本店に勤務
昭和18年(1943)2月22日 横浜正金銀行退職
昭和23年(1948)12月   大日本体育協会会賓就任
昭和26年(1951)     福貿易株式会社社長就任
昭和27年(1952)9月1日  第7回国民体育大会陸上競技役員就任
昭和28年(1953)     石丸証券社長就任
昭和29年(1954)2月1日  世田谷区深沢町の自宅にて69歳で死去(心臓麻痺)



上の写真は晩年の三島弥彦

第5回オリンピックストックホルム大会
第5回オリンピックストックホルム大会は明治45年(1912)5月5日より7月27日まで開催された。
参加国は28、男子2,359名、女子48名の計2,407名が参加した。
アジア地域より初めて参加した日本からは金栗四三(1891-1983)と三島弥彦が参加。
のちに第5代IOC会長となるアベリーオリンピックストックホルム大会・ブランテージや
第2次世界大戦で英雄となったジョージ・パットンも選手として参加した。





上の3枚の写真は第5回オリンピックストックホルム大会の入場式で旗手を務めた三島弥彦を
中心に撮ったものです。


上の写真は三島弥彦が使用したシャツとシューズ
一方の金栗四三は地下足袋のランニングシューズを使用して走った。


上の写真はストックホルムの陸上競技場




上の2枚の写真は第5回オリンピックストックホルム大会でプラカードを持つ金栗四三や
団長として参加した加納治五郎を中心として撮られた写真。
出典:NHKテレビ2019-1-9 22:25より放送の歴史秘話ヒストリア
                   「東京オリンピックに懸けた男たち」

金栗四三は54年8か月6日5時間32分20秒3で世界一遅いマラソン記録を残している




天狗倶楽部
天狗倶楽部は明治42年(1909)頃、大の野球好きであった冒険小説家の押川春浪を中心に
野球を中心に相撲、テニス、柔道、陸上競技、ボート競技など多岐にわたるスポーツの
愛好社交団体でメンバーには吉岡信敬(早稲田大学応援団初代団長)、中沢臨川(りんせん)
(文芸評論家)さらに野球殿堂入りした人物を5人輩出。
押川春浪のバンカラぶりは凄く明治学院で野球に目覚めた後、東北学院、札幌農学校(北大)
水産伝習所(現 東京海洋大学)、早稲田大学と転々とし多くの逸話を残している。
現在の学生相撲のルーツは天狗倶楽部の活動によるものです。



三島家 関係系図


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香港ダイニング Shige でのランチ on 2019-3-4

2019年03月15日 04時16分38秒 | 神戸情報
2019年3月4日、垂水センター街の香港ダイニング Shige でランチを
頂きましたので写真紹介します。
イタリア料理のUsagiのあった場所に2017年2月19日から営業した店です。


香港ダイニング Shigeの基本情報
住所:神戸市垂水区陸ノ町2−9  TEL:078-798-6056
料理ジャンル:中華料理
営業時間:ランチ:11:30〜15:00 LO14:30
     ディナー:17:00〜22:00 LO21:00
定休日:水曜日


公式FB:https://www.facebook.com/hongkongdiningshige/

地図は下記の訪問記で記載しています。
 香港ダイニング Shige でのランチ on 2017-9-18

shigeランチ1,080円(税込)をいただきました




上の2枚の写真は当日のメインとサラダ


上の写真はShigeランチの内容が書かれた看板


上の写真は3月の休み一覧表


上の写真はShige自慢の香港粥の説明
私は粥が大好きでお替りをすることが多い


上の写真はShigeランチと飲茶セットの説明看板


上の写真はお魚ランチの説明看板


上の写真は新メニューの香港撈麺(ろうみん)セットの説明看板






上の3枚の写真はメニュー表


上の写真はお店の外観

過去の訪問記:
香港ダイニング Shige でのランチ  on  2018-9-17

香港ダイニング Shige でのランチ on 2018-4-10

香港ダイニング Shige でのランチ on 2017-9-18

香港ダイニング Shige でのランチ on 2017-6-3

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グリドルキッチン MORISHIN パピオス明石でのランチ on 2019-3-13

2019年03月14日 04時40分42秒 | 神戸市以外の兵庫県
2019年3月13日、県立図書館の本を返却する要件で明石に出かけていました。
その時に頂いたグリドルキッチン MORISHIN パピオス明石でのランチを
写真紹介します。 初訪問です。

グリドルキッチン MORISHINの基本情報

住所:明石市大明石町1-6-1 パピオス明石 1F 
TEL:078-915-2878 050-5890-2506(予約)
営業時間:ランチは11:00〜14:30 ディナーは17:00〜23:00(L.O.)
定休日:なし(不定休) オープン日:2013年9月17日


「パピオスあかし」のオープンは2016年12月1日。

公式サイト:http://mori-shin.co.jp/


上の写真は当日いただいた鶏むね肉ステーキ200g 680円(税別)
これに食後、ホットコーヒー 100円(税別)を頂きました。




上の2枚の写真はランチのメニュー表です。


上の写真はお店の外観です。
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改元に関する話題 その2 平成改元 30年へて新証言

2019年03月14日 04時02分41秒 | Weblog
本日は改元に関する話題の第2回で平成改元 30年へて新証言という話題を取り上げます。
テレビで視聴したが写真を撮っていないので証言関連の写真はありません。

過去のシリーズIndex
 第1回 改元に関する話題 その1 光文事件

平成の改元に関わった元早稲田大学総長の西原春夫さんは1か月を切ったこの時期に
NHKの取材に応じて質問に答えて新証言をされました。

西原さんは、有識者(8人)からなる「元号に関する懇談会」に出席し、民間人として
初めて元号の選定に関わった人物です。

8人の有識者は西原さんの他に池田芳蔵氏、久保亮五氏、小林与三次氏、中川順氏
中村元氏、縫田曄子氏、森亘氏の7人です。

7人の方の肩書はNHKの池田芳蔵会長、物理学を専門とする東京大学の久保亮五教授、
日本新聞協会の小林与三次会長、日本民間放送連盟の中川順会長、
インド哲学を専門とする東京大学の中村元名誉教授、国連婦人の地位委員会の縫田曄子委員、
国立大学協会の森亘会長。

昨日(2019-3-13)のニュースで次のような報道がありました。
内閣官房幹部は予算委で、新元号候補の考案を国文学、漢文学、日本史、東洋史などの
専門家に委嘱する方針を明らかにした。立憲民主党の長浜博行氏への答弁。
政府は新元号選定で「平成」改元時の手続きを踏襲。4月1日に開く有識者懇談会で
数個の原案を示して意見聴取し、閣議で正式に決定する。



全文は下記サイトに書かれています。
 https://www.nhk.or.jp/politics/articles/statement/14769.html

発言の要旨を整理しておきます。

1)平成への改元は、昭和天皇の崩御が前提となるため、政府は準備作業を極秘としていた。
  昭和天皇が亡くなられた後、懇談会の設置が初めて公にされ、そのメンバーの陣容は
  当日の午後、有識者が官邸に入る際に明らかになった。
    注)昭和天皇の崩御は昭和64年1月7日午前6時33分

2)官邸で行われた「元号に関する懇談会」茶色と白色の2種類の封筒がおのおのが
 見られるよう机の上に置かれ、茶色の封筒には元号選定の手続きなどが書かれた紙が、
 白色の封筒の中には「平成」「修文」「正化」と新元号の3つの案が書かれた紙が入っていた。
 平成がいちばん最初に書かれていた記憶がある。
 政府側の第1候補なのかなという印象を持った。

3)懇談会は、的場順三内政審議室長の司会で進められ、有識者に対して、3案について
 まとめて意見を述べるよう求められた。

4)平成とはとか、修文とはとか、その中身はこういう意味ですという説明はなかった。

5)ある有識者が「平成がいいんじゃないか」と感想を述べたのを皮切りに、「平成」を推す
  声が相次いだ。

6)平成という案には反対しないという前提で、明治とか昭和というのが音がピシッと
  締まるのに対して、平成は、音が流れていく。大正というなんとなく個性や特色のない
  時代を想像させ、短い時代になってしまうような感じを持つ。
  そういうことは考えなくてよいのかと意見を述べた

7)何故「平成」になったかについて、やはり戦争ということがあったと思う。明治、大正、昭和
  という戦争の時代があった。戦後すでに40年の平和が続いたけれども、そういう時代に戻って
  ほしくない、「平成」は、平らかにして成るという、戦争のない平和な時代という意味を
  持っており、「これが合うんじゃないか」という感じを皆さん持たれた様子だった。

8)元号の選定は懇談会で自主的に決めた。政府からの誘導は無かった。

9)修文、正化を推す意見はありませんでした。

10)平成を振り返っての雑感(内容は略)



尚、今回の「元号に関する懇談会」の有識者として候補にあがっているメンバーは
教育界から鎌田薫前早稲田大総長、マスコミから日本新聞協会会長の白石興二郎氏
読売新聞グループ本社会長、上田良一NHK会長、民放連会長の大久保好男日本テレビ社長、
それに、ノーベル受賞者の山中伸弥京都大教授、作家の林真理子氏、宮崎緑・千葉商科大教授
榊原定征前経団連会長、法曹界からは寺田逸郎前最高裁長官の9人とのこと。


上の写真は3月1日のNHKテレビ朝の放送で懇談会のメンバーに女性を前回より1人多い
2人にするとの報道。


上の写真も同じく3月1日のNHKテレビ朝の放送で懇談会のメンバーは発表の当日、
外部にリークすることを防ぐため官邸に缶詰状態になることを報じたもの。

今回の「元号に関する懇談会」に関する報道内容にリンクさせていただきます。
 https://www.yomiuri.co.jp/politics/20190305-OYT1T50072/

 https://www.jiji.com/jc/article?k=2019030500926&g=pol


代替わりに関するブログ

 即位礼正殿の儀における松の間前庭の参列者と旛

 皇位継承に関わる51の儀礼・行事について


 即位礼正殿の儀  NHK「京都御所~秘められた千年の美~」を視聴して

 天皇陛下「退位奉告の儀」 代替わり、一連の行事始まる

 
 
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ピッコロ ミント神戸店でのランチ on 2019-3-1

2019年03月13日 06時09分01秒 | 神戸情報
2019年3月1日、ピッコロ ミント神戸店でランチを頂きましたので
写真紹介します。
今まで何回か入ったことのある店ですがブログへの投稿は2回目です。

ピッコロ ミント神戸店の基本情報

住所:神戸市中央区雲井通7丁目1−1 ミント神戸 B1F  TEL:078-242-3281
営業時間:11:00~21:30  定休日:不定休
料理ジャンル:カレー    開店日:2014年8月18日


公式サイト:http://www.piccolo.ne.jp/


上の写真は当日頂いたオムライスランチ730円(税込)です。

下の写真は最初に出てくるサラダ



下の写真お店の外観です。



過去の訪問記:
 ピッコロ ミント神戸店でのランチ on 2018-7-20
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西宮散策記 on 2019-2-24 その1 夙川公園

2019年03月13日 05時57分41秒 | 神戸市以外の兵庫県
2019年2月24日、徳若の万代大澤醸造で西宮蔵開2019年のイベントが開催されていたので
西宮に出かけていました。

その時に訪れた場所を写真紹介していきます。

今回はその初回で夙川公園(正式名称は夙川河川敷緑地)を取り上げます。
阪神香櫨園駅で下車し海側の西宮砲台跡に向かう途中で通りました。

香櫨園と言う名称は明治40年(1907)、大阪の商人である香野蔵治と櫨山喜一の
手によって開設された香櫨園遊園地に因むものである。
ただ、香櫨園遊園地が設置されていた場所は現在の阪急夙川駅の北西側、羽衣町、霞町、
松園町、相生町、雲井町、殿山町一帯であった。8万坪に及ぶ広大な敷地であったそうです。
参照サイト:Wikipedia及び下記サイト
 http://www.omaehama.org/archive/history/titbit.htm








上の3枚の写真は歩き始めて最初の頃の夙川公園
Wikipediaによれば
夙川公園は南は香枦園浜の海岸部から北は銀水橋までの約4km、20.8haにわたって
整備された都市公園である。なお、公園へ続く川沿いの道路は夙川オアシスロード
と呼ばれている。
1937年(昭和12年)、当時の金額で34万円余りの費用と約5箇月の時間をかけて
造成され、同年5月17日午前10時から上流の阪急甲陽線苦楽園口駅東側で竣工式が
盛大に行われた。
1949年(昭和24年)、1,000本のサクラの若木の植樹が行われ、桜博士と呼ばれる
笹部新太郎が管理、育成、植樹の指導をした。
1990年(平成2年)、「日本さくら名所100選」に選定された。


桜の時期には人気の場所であるので、桜に関する情報として西宮市のサイトにリンク。
 https://www.nishi.or.jp/access/koen/shukugawa.html



上の写真は阪神香櫨園に下りてすぐの所に掲示されていた地図です。


上の写真は夙川公園と周辺の案内地図(酒蔵通りを過ぎたところに掲示)


上の写真は松葉坂付近。
ボランティアの方々が清掃の奉仕をされていました。ご苦労様です。
またランニングの方、犬をつれた散歩の方を多くお見受けしました。


上の写真は翠橋


上の写真は桜並木(まだ開花時期までは大分ありそうですが・・・・)


上の写真は中央図書館、郷土資料館などが入る建物
10時からの開館だったので中には入らず。
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幻の大津京

2019年03月12日 04時25分49秒 | 滋賀県情報
大津宮はWikipediaによれば次のように纏められています。
近江大津宮(おうみおおつのみや/おうみのおおつのみや)は、飛鳥時代に天智天皇が
近江国滋賀郡に営んだ都。天智天皇6年(667年)に飛鳥から近江に遷都した天智天皇は
この宮で正式に即位し、近江令や庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行。
天皇崩後に朝廷の首班となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672年)の
壬申の乱で大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。
史料上は「近江大津宮」のほか「大津宮(おおつのみや)」・「志賀の都(しがのみやこ)」
とも表記されるが、本来の表記は「水海大津宮(おうみのおおつのみや)」であったとの
指摘もある。1974年(昭和49年)以来の発掘調査で、滋賀県大津市錦織の住宅地で
宮の一部遺構が確認され、「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定されている。


現在、林博通氏の著書「幻の大津京を掘る」(2005)を借りており、この書籍及び
ネットの情報より大津宮や大津京の実態に少しでも近づかれたらと思い筆をとりました。

大津宮跡の発見
昭和49年(1974)11月18日、「近江大津宮錦織遺跡」の発掘調査が開始されました。
発掘調査は翌年(1975年)の3月まで継続。

上述のWikipediaの文章のように大津宮跡は「近江大津宮錦織遺跡」として昭和54年(1979)
7月2日、国指定の史跡に指定されました。平成22年2月22日追加指定
ここで、文化庁の国指定文化財等データベースの解説文を引用紹介します。

近江大津宮[[錦織]にしごり]遺跡: 近江大津宮は、天智天皇の宮都であり、同天皇6年(667)
3月に遷都が実行された。天智天皇7年、中大江皇子は天智天皇としてこの近江大津宮で
即位し、同年にはすでに内裏や濱臺が、8年には大蔵、9年には宮門、10年には新臺に
漏尅、西小殿、内裏佛殿、内裏西殿、新宮、大炊省などの諸建物が記録に見え、宮都の整備の
進展がたどれる。
天智天皇10年12月、天皇の崩御があり、続いて起る壬申乱による大友皇子の自縊とともに
廃都となる。したがって近江大津宮は6年間という短期間の宮城であり、宮城内の諸施設の
建設は記録に見えるものの、その京域については濱臺の名が見えるに過ぎず、関連諸建物の
建設や條坊の施行については全く記事を見ないだけに、実質的な整備はなお、十分では
なかったものと考えられている。
この近江大津宮の所在地については、記録・伝承を欠くこともあって、今日、大津市錦織町に
比定する説をはじめ南滋賀町、滋賀里町にあてる諸説があり未だに帰結するところを見ない。
昭和49年以来、滋賀県教育委員会が数次にわたって実施して来た大津市錦織2丁目周辺の
発掘調査により、近江大津宮推定地の一つである錦織2丁目御所之内地域の一劃、滋賀宮址
顕彰碑の建碑地を中心に天智天皇のころに属する遺物をはじめ、雄大な規模、斉整な配置を
もつ諸遺構が発見された。建物は、東西4間以上、南北1間以上の門跡をはじめ、この門から
東にのびる回廊を6間まで確認しさらに東に及ぶことが知られている。
この回廊の5間目から直角に北へ9間以上のびる柵が連なり、門・回廊・柵で囲まれる範囲は
広場となっている。この地域の北方、錦織1丁目字御所大平の地域でも、東西4間以上、
南北1間以上の建物が発見され、その西縁から西方へ柵が2間のび、その西端は南北に長く
7間以上連なる柵に連なる。建物の南には広場をつくり、その南に、南北の柵から東へ行く
5間以上の柵が見られる。
錦織1・2丁目の両所に見られるこれらの遺構は共に建物軸を真北にとり、相互に関連する
形で整然と配置され、巨大な柱穴と掘方を伴う柵列のあり方などを通じて考えるならば、
一種の官衙の構造であることを示している。遺物の時期が天智天皇のころにあること、
遺構の構造が宮の一画を暗示することからすれば、この遺跡は近江大津宮の重要な一部と
見ることも可能である。ただ、大津市南滋賀町、滋賀里町等の擬定地については十分な調査が
なされていない現在、錦織地区の本遺跡についてとりあえず明確な遺構をもつ地域をとりあげ
保存をはかるものである。


平成10年追加指定分
[近江大津宮錦織遺跡]おうみおおつみやにしごりいせき: 近江大津宮は、大津市西部、
JR西大津駅の北方約500メートルに位置し、天智6年(667)、天智天皇により
飛鳥の地から遷都された都である。しかし、壬申の乱(672年)によって近江朝廷側が
敗れ、この宮は廃棄された。この大津宮は、『日本書紀』に「浜台、大蔵、宮門、朝庭、
殿、漏刻台、内裏仏殿、内裏西殿、大蔵省第三倉、新宮、大炊」等の宮にかかわる建物等の
記載があるが、その実態はほとんど明らかではなかった。昭和49年、滋賀県教育委員会
による発掘調査により、当地一帯で宮の中心部分の一部が確認されるようになり、
内裏正殿・南門・回廊・塀・倉等が検出された。
指定は、当該地が住宅密集地であるため、保存のできる場所から実施しており、今回は、
南門の遺構の所在する地域を追加して指定し、保存を図ろうとするものである。




上の2枚の写真はJR大津京駅で見つけた大津宮錦織遺跡の説明板




上の2枚の写真は昭和49年(1974)11月から昭和30年(1975)3月にかけて発掘調査
された近江大津宮錦織遺跡の発掘状況を示した写真と図
内裏の南門(SB001)と回廊(SC001)及び足場組の柱穴(SX001)と見られる遺構を確認

出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page19,page119




上の2枚の写真は内裏正殿の遺構
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page124、128


上の写真は近江大津宮錦織遺跡の発掘地点を記載した地図
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page146


上の写真は大津宮中枢部(錦織地区)の推定復原図
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page155


上の写真は内裏正殿(SB015)の平面復原図及び復原立面図
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page151

大津京遷都の理由
諸説があり確定したものはありません。
663年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたことを第一要因として考えるのが
一般的な傾向で、支持されています。
琵琶湖は水上交通されていますの要所で湖西に遷都して畿内と北陸・東国方面への交通
が便利であり防衛上も有利な位置であると思われます。
有力氏族や職人などの居住状況など宮を営むのに必要な環境が整っていたことも
有力な理由の1つであった。
さらに、従前より比良宮という行宮(あんぐう)が存在していた。
天智天皇はもともと大津に宮を造ることを構想していたとも考えられます。

関連事項として7世紀頃の古代山城の分布を添付しておきます。

白山江で大敗した日本の各地に百済からの避難した人達により多くの山城が建設された

大津京の所在地(候補地)






上の3枚の写真は大津宮所在地各説を地図と共に示したものです。
出典:林博通 著「幻の大津京を掘る」(2005)Page112,113、178

日本の首都の変遷

日本の首都の変遷を簡潔に纏められていますので添付しました。

出典:「再現・長岡京」 (表紙を下に添付しました)
向日市文化財調査事務所編、向日市埋蔵文化財センター編 (2001年3月)



何かまとまりの無い内容になってしまいましたがこの辺でアップします。
今後、関連地域や博物館を訪問し内容を補充していきたいと考えています。
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