続きです。
池袋駅東口から、線路下を潜る地下道を通り西口に抜けました。
この地下道なのです。昔、この地下道の入り口のところに小さな空き地があり、道の反対側には、日活の映画館がありました。
そうだ! 日活と書いて思い出した! お正月のことです。近所のお姉さんに連れられて、裕次郎の「紅の翼」を観たのです。ギュギュウ詰めの二階席で立ち見だった事をハッキリ覚えています。お姉さんは裕次郎が大好きでした。
そう。地下道入り口の小さな空き地の話しです。
ここで、たった一度、それなのに今でも忘れられない記憶があります。小学生の頃です。
学生服に角帽を被った男の人が、小さな黒板に桁数の多い「足し算・引き算・掛け算・割り算」の数式を書き、簡単にすらすらと解いていくのです。
私は驚き「尊敬の目」で学生服の男を見つめていました。
男の人は、ガリ版刷りの薄いパンフレットを取り出し「この中に、計算のやり方が書いてある。これを読めば、誰でも計算が簡単にできる」そんな事を巧みな話術で説明していました。
そのとき父親から、「啖呵売」と言って、インチキだと教わりました。でも、面白かったのです。
あの頃は、火事で焼け残った「万年筆」を売る人、最後まで「ハブ」を見せないで変な「塗り薬」を売る「蛇い使い」、バナナの叩き売り・・・・・・。
懐かしい思い出です。
西口広場を抜け、立教の脇を通り西武池袋線、椎名町の駅前に出ました。
ここでは、ある事件のあった場所を見たかったのです。
それは、今から何と58年前、昭和23年に発生した「帝銀事件」です。
こんな事にも興味があるのです。
右側が「長崎神社」、左側の角にある茶色のマンションが「帝國銀行椎名町支店」があった場所です。当時とはまったく異なる風景ですが、事件の起きた現場に、今自分が立っている、そんな感覚たまらなくいいですね。
暫く事件の匂いを探して辺りを彷徨いていたら、こんな建物を発見しました。
建物は蔓草で覆われ、人が暮らしている様子はなく、廃屋に間違いないです。上の写真の奥の突き当たりが、長崎神社です。左側に少しだけ現場だった茶色マンションが写っています。30m位の距離です。
建物は歯科医院だったのです。神社に通じる道側に玄関があり「道歯科医院」の金文字が取り付けられていました。金文字は色あせ「医」の部分は取れて無くなっています。
横書きの文字は、現在の「左から右」ではなく、「右から左」へと書かれている事。建物の老朽化の進行具合。
間違いなく、事件当日の混乱をこの歯科医院の建物は目撃していた筈です。
蔓草に覆われた建物を見ながら、ひとり興奮してしまいました。
加賀百万石、配水塔の弾痕になかなか辿りつけませんね・・・・・・。
もう少し、おつき合い下さい。 つづく
池袋駅東口から、線路下を潜る地下道を通り西口に抜けました。
この地下道なのです。昔、この地下道の入り口のところに小さな空き地があり、道の反対側には、日活の映画館がありました。
そうだ! 日活と書いて思い出した! お正月のことです。近所のお姉さんに連れられて、裕次郎の「紅の翼」を観たのです。ギュギュウ詰めの二階席で立ち見だった事をハッキリ覚えています。お姉さんは裕次郎が大好きでした。
そう。地下道入り口の小さな空き地の話しです。
ここで、たった一度、それなのに今でも忘れられない記憶があります。小学生の頃です。
学生服に角帽を被った男の人が、小さな黒板に桁数の多い「足し算・引き算・掛け算・割り算」の数式を書き、簡単にすらすらと解いていくのです。
私は驚き「尊敬の目」で学生服の男を見つめていました。
男の人は、ガリ版刷りの薄いパンフレットを取り出し「この中に、計算のやり方が書いてある。これを読めば、誰でも計算が簡単にできる」そんな事を巧みな話術で説明していました。
そのとき父親から、「啖呵売」と言って、インチキだと教わりました。でも、面白かったのです。
あの頃は、火事で焼け残った「万年筆」を売る人、最後まで「ハブ」を見せないで変な「塗り薬」を売る「蛇い使い」、バナナの叩き売り・・・・・・。
懐かしい思い出です。
西口広場を抜け、立教の脇を通り西武池袋線、椎名町の駅前に出ました。
ここでは、ある事件のあった場所を見たかったのです。
それは、今から何と58年前、昭和23年に発生した「帝銀事件」です。
こんな事にも興味があるのです。
右側が「長崎神社」、左側の角にある茶色のマンションが「帝國銀行椎名町支店」があった場所です。当時とはまったく異なる風景ですが、事件の起きた現場に、今自分が立っている、そんな感覚たまらなくいいですね。
暫く事件の匂いを探して辺りを彷徨いていたら、こんな建物を発見しました。
建物は蔓草で覆われ、人が暮らしている様子はなく、廃屋に間違いないです。上の写真の奥の突き当たりが、長崎神社です。左側に少しだけ現場だった茶色マンションが写っています。30m位の距離です。
建物は歯科医院だったのです。神社に通じる道側に玄関があり「道歯科医院」の金文字が取り付けられていました。金文字は色あせ「医」の部分は取れて無くなっています。
横書きの文字は、現在の「左から右」ではなく、「右から左」へと書かれている事。建物の老朽化の進行具合。
間違いなく、事件当日の混乱をこの歯科医院の建物は目撃していた筈です。
蔓草に覆われた建物を見ながら、ひとり興奮してしまいました。
加賀百万石、配水塔の弾痕になかなか辿りつけませんね・・・・・・。
もう少し、おつき合い下さい。 つづく