歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

阿修羅様、その若さで懺悔の日々ですか?

2009年07月24日 | お寺・神社
昨日の続きです。

阿修羅像ですが、誰が? どんな想い? で建立したのでしょうか?

それで、すこし、ここで社会科のお勉強をします。阿修羅像の創られた時代の前後はこんな感じです。

710年に平城京に都が移り

712年に古事記ができます

720年に日本書紀です

712年に聖武天皇が即位

729年に聖武天皇が藤原不比等の“娘”を皇后(光明皇后)にする

752年に東大寺の大仏が建立

754年鑑真の来日

759年に万葉集

まぁ、こんな時代でした。それで、阿修羅像です。

それで、誰が?は、“聖武天皇”の后、“光明皇后”が創らせたのです。

どんな想い?は、光明皇后の母、“橘三千代”の一周忌(天平6年-734年)の供養のためでした。


阿修羅像だけを創らせたのではなく、“西金堂”を建立し、

【興福寺境内-CG画像】

“西金堂”


お釈迦様とか、


お釈迦様の十大弟子とか、


四天王とか、


“八部衆”とか、


また、金鼓(こんく)と、“バラモン”とか、

バラモンが打ち鳴らす、金鼓の音を聞きながら、皆さん懺悔をするそうなのです。

28体の像が安置されていました。


“八部衆”の中の一人が、阿修羅様なのです。


さすがに、皇后様です、母の一周忌に、こんな立派なお堂と、沢山の仏像を建立したのです。

それで、光明皇后の母、“橘三千代”ですが、これが、何と、旦那の聖武天皇の母“藤原宮子”と腹違いの妹なのです。

血縁関係が、ごちゃごちゃしているのです。権力闘争は血縁を巻き込み、入り乱れ、親子で、兄弟で、激しく闘う時代だったのです。

そして、また、天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発した時代であり、聖武天皇も、光明皇后も、仏教に深く帰依していたそうです。

そんな中での、一周忌の法要であり、西金堂の建立なのです。そして、西金堂は当時、唐からもたらされた『金“光明”最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』をもとに作られたと考えられているそうです。

“光明皇后”の、“光明”は、たぶん『金光明最勝王経』からつけられたと、推測しています。“光明皇后”は信心深い方だったようですからね。

それと、わたくしの名前も、お経の一部から付けられているのです。母の実家が天台宗のお寺なのです。

それで、『金光明最勝王経』は、懺悔、懺悔、懺悔で、沢山懺悔をして、過去の罪を悔い改め、お釈迦様に帰依する教えなのです。

親子兄弟でも権力闘争の激しい、陰謀渦巻く修羅場の時代、権力者は、懺悔、懺悔に、事欠かないと思います。

阿修羅、そして、“八部衆”の表情は静かに自分の心を見つめ、懺悔する姿なのでしょう。しかし、それにしても、何故に?“八部衆”は、青年の表情をしているのか?

阿修羅にいたっては、三面の顔が、10代~20代です。そんな若い時期に、懺悔をするような“罪”を犯したのでしょうか?

人間は生まれた時から罪深いの? 仏教は“性善説”ではなかった? けれども、当時の支配階級は、幼少の頃より罪深い行いをしていたのでしょうか?

阿修羅様は、ふつうの人間、ふつうの若者、そして、その若者が、憎み、恨み、悩み、苦しみ、そして、懺悔を繰り返し、そして、仏に帰依していく姿・・・・・・。


兎に角、造形的にも美しい阿修羅像です。


そして、わたしも、これから、すこしだけ、懺悔をしたいと・・・・・。


それでは、また来週。





コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする