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近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

NHK“海軍はなぜ過ったのか” ①国体護持  

2010年09月13日 | テレビの話し
もう9月ですが、それでもまだ8月の夏休みに観たビデオの話しを続けます。

今日は、NHK特集“海軍はなぜ過ったのか”のお話です。この放送に先立って、「海軍あって国家なし」、「特攻やましき沈黙」、「戦犯裁判 第二の戦争」の3回が放送されたのです。

この3回の特集番組が放送されるのは知っていたのですが、3本ともまったく見ませんでした。暑苦しい夏の、暑苦しい終戦特集は“ちょっとどうも”で、見ませんでした。

でも、やっぱり、それなりに気にはなっていたので、この回“海軍はなぜ過ったのか”は「まとめ的」で、あの「沢地さん」と「半藤さん」が出演すると云うことで、一応録画しておいたのです。

それで、見終わってと云うか、途中でと云うか、「日米開戦前後」の海軍中枢の軍令部にいた「エリート軍人」の「生の声」を聞いていると“冗談じゃねェ!”“ふざけんじゃねェ”なのです。

でも、冷静に、落ち着いて、じっくり、考えると、戦争を計画した中枢の軍人は、“まぁそんなもん”かも知れないと思ったのです。何と、云っても、負けた戦争を指揮した軍人ですから。

第二次大戦の日本の戦死者(日中戦争を含む)は、軍人軍属が230万人、民間が80万人の、計310万人。アメリカの大平洋戦域での戦死者は9万2540人、ヨーロッパ戦域の戦死者が20万2057人で、計29万4597人でした。

大平洋戦域での戦死者は、日本はアメリカの30倍以上です。アジア諸国の犠牲者は、日本の数倍でしょうか?

戦死者の数からも、日米の正規軍同士の戦いは“メチャクチャ”だったのです。特攻と玉砕ですから、敗北が明らかになっても、死に続けたのですから・・・。これは、もう、国家間の紛争解決手段としての武力行使ではなくなっています。

では、いったい、何だったのでしょうか? 敗北が明らかになってきた時点で、戦争に勝利する事が目的ではなく、日本の「国体=天皇制」を守ることが目的となっていった・・・・・・・? 話が、難しく、微妙な方向にそれてきました。


それで、3人の方ですが、戦争資料館の方、沢地さん、半藤さんが、3回の放送を見て、番組の最後に結論的に、「戦争の教訓を伝える」、「時代の動きに敏感になる」「時代の選択を誤らない為に学ぶこと」を最後に述べていました。

でも、ネェ~、「教訓を伝え、学び、時代に敏感に」と云いますが、これって全部、かなり、ムズカシイことだと思います。

番組の冒頭で、「軍令部」にいた軍人が、反省として“明治末期から、大正、昭和に進むに従い、思い上がり、傲りが高じ身の程を知らぬ暴走をやり、ついに日本を破滅に追い込んだ”と発言していました。


この発言は、戦争に負けて30数年後に過去を振り返っての発言ですから、リアルタイムでは、当然、主観的には「思い上がりも傲りもなく、身の程を弁え、冷静に、沈着に、客観的に、状況を把握し、正しい判断を下していた」わけなのです。

他の反省会に出席者した、高級将校であった彼らの発言からは、負ける戦争を“勝つと思い込んだ”その事に反省し、戦争そのものを反省しているとは思えませんでした。

彼らは負け戦から、軍人としての責任において“次の戦争への教訓”として、語り伝える為に、昭和55年から11年間をかけて録音テープ400時間を残したような気がするのです。

第一次大戦後の1928年(昭和3年)にできた“不戦条約”の第一条には、“国家政策の手段としての戦争の放棄”、第二条には、“国家間の紛争解決手段としての武力行使の違法化”が謳われていました。主要国、そして日本も、調印していたのです。

でも、しかし、それでも第二次世界大戦争は起こったのです。

戦争は、愛する、親、夫、恋人、子供、兄弟、姉妹、を亡くし、傷つけ、辛くて、悲しくて、残虐、残酷で、非人道的で・・・・・・・、そんな現象を伝えても、学んでも、ナカナカなくならないのです。

でも、現実は、民族間、宗教間、国家間の紛争解決手段としての武力行使は、まったく有効ではなくなっていると思うのです。それでも、戦争がなくならないのは、人間は、やっぱり、争い好きなのでしょうか・・・・・・。

ここらで、いったん、お終いとします。


それでは、また明日。


※今朝、2年4ヶ月ぶりに忘れかけていた目眩が始まったのです。下を向いたり、首を後ろに反らすとやばいのです。
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