歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

“だから荒野”⑨山岡少年の罪とは?妹は死んだのではなく!自分の行動で結果として殺してしまった!

2015年02月25日 | テレビの話し
前回の続きです。

それで、第七話のお話です。

サブタイトルが『悪魔と天使』です。

人のこころの内には、悪魔と天使が住んでいて、ときおり、ある場面で、悪魔にこころを支配され、いろいろな罪を犯す。

人はそれぞれに、生きていく上で、いろいろと大きな罪、小さな罪を犯し、それぞれに罪を背負い、くるしみ、さいなみ、つぐない、人生を送っている・・・・・・。

誠実とか、優しいとか、正直とか、真面目とか、自分自身に厳しい方は、一生その罪に向き合い、償い、生きていく・・・・・・。

それで、山岡少年の犯した罪です。


瓦礫のなかで、妹を見つけた山岡少年、


生きている!助けなければ!妹を背負い、荒野を彷徨い、


そして、でも、しかし、“何かが”あって、妹の小さな命の火は消えてしまった・・・・・・。


原爆の焼け野原で、少年のできることは限られています。あらゆる手を尽くした上での死であれば、罪の意識に嘖まれることは無かったと思うのです。

山岡少年の苦しみは、“ある場面”で、ある誤った行動の結果、妹を死なせてしまったと思うのです。その時、悪魔が山岡少年のこころを支配していた。

この山岡少年の姿、この食い縛る口元、これは原爆の被害に対してではなく、妹の死につながる、自分のとった罪深い行動への、怒りが、苦しみが、悔しさが、悲しさが、そうさせていた・・・、と思うのです。


山岡は平和祈念館で、毎日、毎日、写真と向き合い、少年の頃に犯した罪と向き合っていたのです。

ですから、山岡にとっての戦争は、被害者として、加害者として、二重に悲劇的で、とても、とても、罪深いのです。戦争とはそういう悲劇を必ず伴うのです。


と、云うのが、私の推測です。

それと、山岡少年の罪で思い出すのは野坂昭如の『火垂るの墓』です。戦争、焼け跡、兄と妹、そして、妹の死。

でも、『火垂るの墓』では、妹は栄養失調で亡くなるのですが、兄が妹の分まで食べて、妹を死なせたとの記憶はありません。

彼が、衆議院選挙で地元の新潟選挙区から立候補したときの、キャッチコピーが“飢えた親の顔を見たくない!”だったような記憶があります。

飢えた親は、子供の食べ物を奪い子を餓死させると、そう云う悲劇を戦争中に見て、そんな悲劇をくり返したくないと、そんな記憶があります。

もしかして、野坂少年は、無意識のうちに妹の分まで食べ、死なせてしまったと、そんなことが、あったのか?

『火垂るの墓』は自伝的な内容だそうで、野坂はそれ以来、いまでも、飢えて死んだ妹への償いとして、美食は避け、粗食で通し、常に腹一杯食べることをしない、と、何かで読んだ記憶があります。

私の、半世紀近い昔の記憶ですから、あてにならないかも?

でも、もしかして、山岡も?と、思ったのですが、山岡は第二話で、昼食にチャーシュー麺と炒飯を腹一杯食べているので、食料関連ではないと思いますが・・・・・・。

もしかして、危険な場面に遭遇し、一瞬、妹の存在を忘れ、無意識に、自分一人だけ、退避行動を起こし、結果として妹を殺してしまった?

山岡少年の、悪魔の囁きで犯した罪とは何だったのか? やはり、何らかのことで、自分を優先し、結果として妹は、死んだのではなく、殺してしまった・・・、そんな気がします。


次回、最終回ですべてが明らかになるのです。私の推測はどうなるか?


では、また。

コメント (2)
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