前回の続きです。
東京から九州の福岡を目指していた朋美が、いろいろあって長崎へ辿り着き、物語は展開していきます。
ふと、思ったのですが、高校時代の親友の滝川知佐子が福岡で美容院を経営し、高校時代の元彼は京都の医大へ進学し挫折し、長崎の老舗の陶器店に婿養子。朋美は東京郊外でマンション暮らし。
この三人は、いったい何処で高校時代を過ごしていたのか、ストーリーからはよく判らないのです。もしかして、見過ごしていた?それとも、ドラマのテーマとの絡んで、これから徐々に明らかに?それとも、ただ単に、必要性がないので触れないだけ?とか。
被爆地の長崎を舞台として、被爆をテーマとしてのドラマなのか、それとも、長崎は単に物語に、重さと厚さを加えるための、単なる背景なの?とか。
語り部の山岡孝吉の家に朋美が居候するのですが、80代の孝吉にとって、40代の朋美は若き人妻。同じ屋根の下で寝食をともに・・・、孝吉とて、こころに荒野だけを抱いている訳では無かろう、昼飯にチャーシュー麺に炒飯を平らげる老人なんだから、とか。
何て、横道的?枝葉末節的?下世話的な方面に思いを馳せたり、何となく、ドラマの展開に慣れたと云うか、飽きたというか、手の内が見えたと云うか・・・・・・。
そんな、こんなで、最初の頃は、面白い!面白い!と書きましたが、第四話あたりから、それとなく展開の謎が薄れ、結末が見えてきたようで、何となく面白みが薄れだし、15日放送の第六話は未だに観ていないのです。
それで、観てはイケナイ、イケナイと思い止まっていた、番組のホームページを先日、ちらっと覗いてしまったのです。
するとです、制作統括の“銭谷雅義さん”が、
『私も長くこの仕事に携わっていますが、今ままでに経験したことのない、奇跡の瞬間でした。これまで誰もみたことない深い人間ドラマが生まれたと思っています』
と、胸を張って、声高く、興奮ぎみに語っているのです。
今までに経験したことがなくて、奇跡の瞬間で、誰も見たことのなくて、深い人間ドラマで、兎に角、何か、歴史に残るような、大変なドラマのようです。
これは大変なことだと、こころを引き締め、思いを新たに、これまでの見た第五話までに抱いた思いを、手短に綴り終え、先ずは第六話を早く見なければと思う次第。
と、云う事で、原爆の地、長崎を舞台にしたことは、それなりに理由があり、心のなかの荒野と、戦争に寄って、原爆の炸裂に寄って地上に出現した荒野。この二つの荒野を絡ませての展開のようです。
心の荒野を意識した人間が、そのむかし戦争で、原爆で、荒野となった長崎で、いろいろと、彷徨い、巡り会い、悩み合い、求め合い、結末は、未来に希望を抱きつつ感動的に幕は下りる?
戦争を語り継ぐ、原爆を被爆を語り継ぐ、ムズカシイテーマです。先日も、沖縄戦を語り継ぐ、ひめゆり部隊の元隊員で、最後の語り部が引退する話しが新聞に載っていました。
親が、兄弟が、友が、死んでいく、殺されていく、その現場に居て、自分だけが助かった、生き残ってしまった、そのこころの傷は、苦しみは、体験者でないと理解できないのです。
それで、家族を失い、自分一人生き残った事への、償いとして、責任として、使命として、こころに荒野を抱え、荒野と向き合って、荒野を受けとめて、被爆の悲惨さを語り継ぐ“山岡孝吉”
訪れる人の少ない平和祈念館で、じっとイスに座り待ち続ける姿。偶に訪れる人達も、山岡の話は無視され、それでも語り続ける姿に、朋美の息子はこころを動かされるのです。でも、そう、簡単に、都合よくは・・・・・・とも、思ったりしました。、
それと、どうも、何か、一般論的に、抽象論的に、普遍的に、戦争の悲劇を悲惨さを、語っていくことの、歯がゆさと云うか、虚しさと云うか・・・、誰が、何で、どうして、ここに原爆を投下し、非戦闘員を虐殺した戦争犯罪だと・・・。
何て、思ったり、するのですが、それでは、敵を憎むとか、報復の連鎖とか、暴力に暴力で対抗する愚かさとか、いろいろムズカシクなるのです。
でも、しかし、戦争を、原爆を、人類が背負った罪として、贖罪として、何て、ことでは、何も解決しないと、思ったりするのです。
戦争は政治であり、経済であり、人間の仕業であり、かなり、かなり、泥臭い、銭金の絡む問題だと・・・・・・。
でも、原爆の、あまりの凄まじさ、惨たらしさが、敵とか、味方とか、そんなレベルを超えてしまったのかと・・・・・・。
話しが、おおきくなってしまいました。兎に角、だから荒野で、見方、考え方は、人それぞれなので・・・・・・。
人間、つらい事、悲しいこと、不安なこと、思いどおりにいかないこと、そんなことばかり、の、ようでもあり、面白く可笑しくもなく単調、の、ようでもでもあり、ただ云えることは、楽しいことはほんの少しだけ・・・・・・。
毎日が、楽しくて、楽しくては、そのうち単調になり、面白くも可笑しくもなくなるです。楽しくない時が続くことで、楽しいと思える時が現れる?
長崎の地で、朋美さんも、孝吉さんも、、章吾クンも、優太クンもそれぞれ、これから、いろいろと、絡み合って、
『経験したことのない奇跡が起こり、深い人間ドラマ』
が生まれる、そうなので、“銭谷雅義さん”期待しています。
それでは、第六話をこれから鑑賞します。
それでは、また。
東京から九州の福岡を目指していた朋美が、いろいろあって長崎へ辿り着き、物語は展開していきます。
ふと、思ったのですが、高校時代の親友の滝川知佐子が福岡で美容院を経営し、高校時代の元彼は京都の医大へ進学し挫折し、長崎の老舗の陶器店に婿養子。朋美は東京郊外でマンション暮らし。
この三人は、いったい何処で高校時代を過ごしていたのか、ストーリーからはよく判らないのです。もしかして、見過ごしていた?それとも、ドラマのテーマとの絡んで、これから徐々に明らかに?それとも、ただ単に、必要性がないので触れないだけ?とか。
被爆地の長崎を舞台として、被爆をテーマとしてのドラマなのか、それとも、長崎は単に物語に、重さと厚さを加えるための、単なる背景なの?とか。
語り部の山岡孝吉の家に朋美が居候するのですが、80代の孝吉にとって、40代の朋美は若き人妻。同じ屋根の下で寝食をともに・・・、孝吉とて、こころに荒野だけを抱いている訳では無かろう、昼飯にチャーシュー麺に炒飯を平らげる老人なんだから、とか。
何て、横道的?枝葉末節的?下世話的な方面に思いを馳せたり、何となく、ドラマの展開に慣れたと云うか、飽きたというか、手の内が見えたと云うか・・・・・・。
そんな、こんなで、最初の頃は、面白い!面白い!と書きましたが、第四話あたりから、それとなく展開の謎が薄れ、結末が見えてきたようで、何となく面白みが薄れだし、15日放送の第六話は未だに観ていないのです。
それで、観てはイケナイ、イケナイと思い止まっていた、番組のホームページを先日、ちらっと覗いてしまったのです。
するとです、制作統括の“銭谷雅義さん”が、
『私も長くこの仕事に携わっていますが、今ままでに経験したことのない、奇跡の瞬間でした。これまで誰もみたことない深い人間ドラマが生まれたと思っています』
と、胸を張って、声高く、興奮ぎみに語っているのです。
今までに経験したことがなくて、奇跡の瞬間で、誰も見たことのなくて、深い人間ドラマで、兎に角、何か、歴史に残るような、大変なドラマのようです。
これは大変なことだと、こころを引き締め、思いを新たに、これまでの見た第五話までに抱いた思いを、手短に綴り終え、先ずは第六話を早く見なければと思う次第。
と、云う事で、原爆の地、長崎を舞台にしたことは、それなりに理由があり、心のなかの荒野と、戦争に寄って、原爆の炸裂に寄って地上に出現した荒野。この二つの荒野を絡ませての展開のようです。
心の荒野を意識した人間が、そのむかし戦争で、原爆で、荒野となった長崎で、いろいろと、彷徨い、巡り会い、悩み合い、求め合い、結末は、未来に希望を抱きつつ感動的に幕は下りる?
戦争を語り継ぐ、原爆を被爆を語り継ぐ、ムズカシイテーマです。先日も、沖縄戦を語り継ぐ、ひめゆり部隊の元隊員で、最後の語り部が引退する話しが新聞に載っていました。
親が、兄弟が、友が、死んでいく、殺されていく、その現場に居て、自分だけが助かった、生き残ってしまった、そのこころの傷は、苦しみは、体験者でないと理解できないのです。
それで、家族を失い、自分一人生き残った事への、償いとして、責任として、使命として、こころに荒野を抱え、荒野と向き合って、荒野を受けとめて、被爆の悲惨さを語り継ぐ“山岡孝吉”
訪れる人の少ない平和祈念館で、じっとイスに座り待ち続ける姿。偶に訪れる人達も、山岡の話は無視され、それでも語り続ける姿に、朋美の息子はこころを動かされるのです。でも、そう、簡単に、都合よくは・・・・・・とも、思ったりしました。、
それと、どうも、何か、一般論的に、抽象論的に、普遍的に、戦争の悲劇を悲惨さを、語っていくことの、歯がゆさと云うか、虚しさと云うか・・・、誰が、何で、どうして、ここに原爆を投下し、非戦闘員を虐殺した戦争犯罪だと・・・。
何て、思ったり、するのですが、それでは、敵を憎むとか、報復の連鎖とか、暴力に暴力で対抗する愚かさとか、いろいろムズカシクなるのです。
でも、しかし、戦争を、原爆を、人類が背負った罪として、贖罪として、何て、ことでは、何も解決しないと、思ったりするのです。
戦争は政治であり、経済であり、人間の仕業であり、かなり、かなり、泥臭い、銭金の絡む問題だと・・・・・・。
でも、原爆の、あまりの凄まじさ、惨たらしさが、敵とか、味方とか、そんなレベルを超えてしまったのかと・・・・・・。
話しが、おおきくなってしまいました。兎に角、だから荒野で、見方、考え方は、人それぞれなので・・・・・・。
人間、つらい事、悲しいこと、不安なこと、思いどおりにいかないこと、そんなことばかり、の、ようでもあり、面白く可笑しくもなく単調、の、ようでもでもあり、ただ云えることは、楽しいことはほんの少しだけ・・・・・・。
毎日が、楽しくて、楽しくては、そのうち単調になり、面白くも可笑しくもなくなるです。楽しくない時が続くことで、楽しいと思える時が現れる?
長崎の地で、朋美さんも、孝吉さんも、、章吾クンも、優太クンもそれぞれ、これから、いろいろと、絡み合って、
『経験したことのない奇跡が起こり、深い人間ドラマ』
が生まれる、そうなので、“銭谷雅義さん”期待しています。
それでは、第六話をこれから鑑賞します。
それでは、また。