前回の続きです。
前回は、山岡孝吉の罪について、いろいろと憶測、推測を述べました。今度の日曜日が最終回で、そこで“山岡少年”の犯した罪もすべては明らかになります。
そして、謎を引っ張っていた亀田章吾クンのボランティア?も、それなりに、償い、赦され、認められるのでしょう。
それで、亀田章吾クンですが、前々回でしたか?、朋美に子供の頃、坂の上で暮らすお年寄りに、新鮮な魚を買って届けて喜ばれ、その度に“お駄賃として50円貰っていた”と、嬉しそうに話したのです。
そして、今回、亀田章吾クンがボランティアをしている、老婦人の甥が弁護士と現れ、“亀田が遺産を乗っ取ろうとしている!亀田は詐欺師だァ!これまでも、勝手に預金通帳から金を引き出している!”と、告げるのです。
亀田は金を引き出したことを認めます。そこで、朋美は、その金額を聞くと、驚く事に、何と去年一年間で“80万円”だったのです。
私が驚いたのは、それっぽっちで!と思ったからです。老婦人の“家の構え”から想像するに“はした金”だと、その程度で、弁護士を伴い、ケンカ腰で喚き散らすか?明らかに、甥が叔母の遺産を独り占めしたいとの、欲望が丸出しに描かれているのです。
亀田章吾クンにとって、年間80万円は最低限度の経費と報酬だと、小さな親切の、小さな必要悪で、お駄賃なのです。
そして、“山岡孝吉”も、そんな“お駄賃”を自分の通帳からも、勝手に引き出されていた事は知っていたのです。そして、それを許していたのです。
無料の善意だけの奉仕よりも、それなりに有料の方が、それなりに気遣いもなく、それなりに継続する。亀田と山岡との間で互いに暗黙の了解が成立しているのです。
もしも、奉仕を有料として、事前に、書面で契約書を交わし、毎月、毎月、請求書と領収書を交わす何てことは、人の温もりがなく味も素っ気もなく、善意も感謝もなくなるとのメッセージなのです。
“それを云っちゃ~、それをやっちゃ~、お終いよ的”なのです。とても、とても、寅さん的関係、それこそが、人の世の知恵なのだと・・・です。
作者の意図として、西洋的、キリスト教的、ユダヤ教的、契約社会、訴訟社会を否定している?かも?です。←これ、私の独断と偏見
もうひとつ、以前働いていた食堂の親方“泉谷しげる”に、朋美がお年寄りの為の、食事宅配サービスを始めたいと話した時のやりとりです。
親方泉谷は、
『それは誰のためのケータリングですか?』
『独り暮らしのお年寄りのために、少しでもお役にたてればと思って』
『それって、ボランティアってやつか?』
『いえ、それは・・・・・・』
『う~ん、そういうのって長続きしねえぞ~』
そして、
『ボランティア精神だけでもダメ。儲けばっかり考えてても駄目。難しいいんだよ、まあ、そこんとこよ~く考えてな』
魚を届けて50円、お年寄りのお世話をして80万円、そして、親方泉谷しげるに、商売としても、継続していく為にも、しっかりとした、それなりのやり方、それなりの心構え、云わせています。
一つのメッセージを、三つエピソードで、作者の意図を伝えているのです。と、云う、ことは、です。最終回で、孝吉の罪と償い、亀田の罪と償いは、それなりに絡んでくる筈ですが、でも、しかし、孝吉の罪は、とても、とても、重たい、原爆と妹の死ですから、どう絡ませるのか?
それと、朋美の、優太の、浩光の、罪と償いと、新しい人生の始まりに、どう絡ませるのか?
最終回では、これまでのすべてが、エンデイングに向かって、見事に、奇跡的に、一つのメッセージに集約されて、感動的な人間ドラマとして結実する・・・・・・そんな筈です。
まあ、兎に角、制作統括の“銭谷雅義さん”の、
『私も長くこの仕事に携わっていますが、今ままでに経験したことのない、奇跡の瞬間でした。これまで誰もみたことない深い人間ドラマが生まれたと思っています』
の言葉に期待しています。
それでは、また。
前回は、山岡孝吉の罪について、いろいろと憶測、推測を述べました。今度の日曜日が最終回で、そこで“山岡少年”の犯した罪もすべては明らかになります。
そして、謎を引っ張っていた亀田章吾クンのボランティア?も、それなりに、償い、赦され、認められるのでしょう。
それで、亀田章吾クンですが、前々回でしたか?、朋美に子供の頃、坂の上で暮らすお年寄りに、新鮮な魚を買って届けて喜ばれ、その度に“お駄賃として50円貰っていた”と、嬉しそうに話したのです。
そして、今回、亀田章吾クンがボランティアをしている、老婦人の甥が弁護士と現れ、“亀田が遺産を乗っ取ろうとしている!亀田は詐欺師だァ!これまでも、勝手に預金通帳から金を引き出している!”と、告げるのです。
亀田は金を引き出したことを認めます。そこで、朋美は、その金額を聞くと、驚く事に、何と去年一年間で“80万円”だったのです。
私が驚いたのは、それっぽっちで!と思ったからです。老婦人の“家の構え”から想像するに“はした金”だと、その程度で、弁護士を伴い、ケンカ腰で喚き散らすか?明らかに、甥が叔母の遺産を独り占めしたいとの、欲望が丸出しに描かれているのです。
亀田章吾クンにとって、年間80万円は最低限度の経費と報酬だと、小さな親切の、小さな必要悪で、お駄賃なのです。
そして、“山岡孝吉”も、そんな“お駄賃”を自分の通帳からも、勝手に引き出されていた事は知っていたのです。そして、それを許していたのです。
無料の善意だけの奉仕よりも、それなりに有料の方が、それなりに気遣いもなく、それなりに継続する。亀田と山岡との間で互いに暗黙の了解が成立しているのです。
もしも、奉仕を有料として、事前に、書面で契約書を交わし、毎月、毎月、請求書と領収書を交わす何てことは、人の温もりがなく味も素っ気もなく、善意も感謝もなくなるとのメッセージなのです。
“それを云っちゃ~、それをやっちゃ~、お終いよ的”なのです。とても、とても、寅さん的関係、それこそが、人の世の知恵なのだと・・・です。
作者の意図として、西洋的、キリスト教的、ユダヤ教的、契約社会、訴訟社会を否定している?かも?です。←これ、私の独断と偏見
もうひとつ、以前働いていた食堂の親方“泉谷しげる”に、朋美がお年寄りの為の、食事宅配サービスを始めたいと話した時のやりとりです。
親方泉谷は、
『それは誰のためのケータリングですか?』
『独り暮らしのお年寄りのために、少しでもお役にたてればと思って』
『それって、ボランティアってやつか?』
『いえ、それは・・・・・・』
『う~ん、そういうのって長続きしねえぞ~』
そして、
『ボランティア精神だけでもダメ。儲けばっかり考えてても駄目。難しいいんだよ、まあ、そこんとこよ~く考えてな』
魚を届けて50円、お年寄りのお世話をして80万円、そして、親方泉谷しげるに、商売としても、継続していく為にも、しっかりとした、それなりのやり方、それなりの心構え、云わせています。
一つのメッセージを、三つエピソードで、作者の意図を伝えているのです。と、云う、ことは、です。最終回で、孝吉の罪と償い、亀田の罪と償いは、それなりに絡んでくる筈ですが、でも、しかし、孝吉の罪は、とても、とても、重たい、原爆と妹の死ですから、どう絡ませるのか?
それと、朋美の、優太の、浩光の、罪と償いと、新しい人生の始まりに、どう絡ませるのか?
最終回では、これまでのすべてが、エンデイングに向かって、見事に、奇跡的に、一つのメッセージに集約されて、感動的な人間ドラマとして結実する・・・・・・そんな筈です。
まあ、兎に角、制作統括の“銭谷雅義さん”の、
『私も長くこの仕事に携わっていますが、今ままでに経験したことのない、奇跡の瞬間でした。これまで誰もみたことない深い人間ドラマが生まれたと思っています』
の言葉に期待しています。
それでは、また。