歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

女化道標 ”いろいろな問題”は牛久市文化財審議会で!

2009年04月02日 | 女化道標問題
昨日の続きです。

もう一度、説明板をじっくり、眺めます。


昨日は、この説明板の全体を見回し、文面、文字配列、平仮名表記等々で、いろいろ誤解を生じる表記になっている、と書きました。

先ず、一番は道標に刻まれた文字と、説明板の文字が異なることです。前回取り上げた“たぐ”を「たみや」と表記していること。

“南無阿弥陀佛”の「佛」を「仏」と表記していること、“ハ”をすべて「は」としていること、“志しこ”を「ししこ」とし、加えて、括弧で「乾猪子」と一括りで表記していること。

兎に角です。道標の文面は刻まれた文字をそのまま表記し、説明は、説明と標示して、別途記載すべきです。それと、文面は道標に刻まれた配列に従い、表記するべきです。

その方が、小学生にも分かり易く、誤解を生じず、とても、とても、良いと思います。

そして、そして、一番の問題は、「裏面」と「表面」の表記です。この道標は若柴に通ずる道と、龍ヶ崎に通ずる道との“分岐点”の案内です。

旅人が二股の分岐点で、どっちに行ったらいいのか?迷わない為の案内です。その事を考えれば、下の図で「A視」とある方向から見た面が「表面」と考えるのが自然だと思います。

でも、しかし、「A視」の面は、
     

写真では、読みとり難いので、
     
ねぇ~、どう考えても、分岐の道標ですから、こちら側を「表面」とした方が自然だと思うのです。でも、しかし、説明板ではこちら側を「裏面」としているのです。変でしょ!

それと、“この「石仏」は・・・・・・「道標」をかねて建立・・・・・・」と、説明板にはあるのですが、石仏は、ふつう、仏の像を彫ったもの云うのですが、仏教の経典の文字が彫られているだけで、石仏と云うのでしょうか? 

「道祖神」と彫ってあるだけの「石」を、「道祖神」と云うので、「南無阿弥陀佛」と彫ってあれば、「石仏」と云う! そんな解釈でしょうかねェ~?

それで、説明板の話は終わりにして、この「道標」そのもの何ですが、旅人が二股の分岐に差し掛かり、さぁ?ここは、どちらに行けば水戸道なの?と迷います。

何たって、“すぐは水戸道”と大きく彫ってあるのですが、どっちに行けば“すぐ水戸道”なのか標示してないのです。

“すぐに水戸道に出ます”と云われても、“西はたぐ於”と“犬いは志しこ”としか標示されていないのですから。

もしかして、裏側に何か?と思い、裏に回って始めて、“左わかしば”、“右りゅうがさき”を発見する訳です。“わかしば”は、水戸街道の中間地点にあたる宿場町なのです。

それを知らない旅人には、水戸道はいったいどっちなの?と、途方に暮れ、日が暮れ、妖しい女狐に化かされたり・・・・・・、何たって、ここは、女化ですからねェ。

それで、わたくし、道標を造ってしまいました。こういう文面であれば、とても、スッキリして、二百数十年経った今日、教育委員会や文化財審議会の手間を煩わす事もなかったのです。
     
それにしても、女化だけに不思議な道標です。不思議序でに、道標に刻まれた“宝暦14年”ですが、正式には無い!のです。

そう! 無いのです。宝暦の年号は6月に“明和”となり、宝暦14年は歴史上は明和元年と記録されているのです。

宝暦14年と刻まれているのは、それなりに珍しいのです。“女化”らしいのです。

ホント、いろいろある、女化道標です。

兎に角、ここで取り上げた問題点は、4月の文化財審議会で調査検討され、かなり、スッキリすると思います。

その文化財審議会ですが、公開が原則となっています。記録を見ると、過去の10回ほど開かれているのですが、一度も傍聴人は居ませんでした。

ここは、敢えて、時間のタップリある私が、始めての傍聴人に挑戦する決意を固め、その旨を教育委員会にメールで昨日送信しました。

兎に角、暫くもこの女化道標問題は続きそうです。

でも、ブログで取り上げるのは、結果が出るまで暫くお休みです。


それでは、また明日。






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女化道標“田宮問題”で新発見!

2009年04月01日 | 女化道標問題
昨日の続きです。

今日は「田宮問題」です。この問題は、「田宮」と書いて“たみや”と読むのか?“たぐう”と読むのか? “たくう”と読むのか? と云った問題です。

そして、その問題で、今回の牛久訪問調査に於いて、新たな事実を、それも、幾つも! 発見したのであります。(力が入っているのです)

それで、今回、説明板を改めて、


じっくり観察していたら、発見したのです!
     

「西はたみや」と書かれた下に、うっすらと「西はたぐお」の文字が読みとれるのです。しかし、“たぐお”の“お”は、いったい何なの?

他にも、「すぐは水戸道」の下には、「すぐ水戸道」とあり、「は」が抜けていた為に“書き加えて”いたのです。

もう一つ、「犬いはししこ」の下に、「犬いししこ」とあり、こちらも、「は」を書き加えていたのです。これまでも、この道標について、いろいろと問題があり、訂正を繰り返しているようです。

それで田宮の件ですが、道標をしっかり見つめ、じっくり観察すると、
          

うっすらと“西ハ”とも、“酉ハ”とも、読める文字が確認でき、その下はまったく解りません。現物よりも、いろいろと調整した写真の方がそれなりに文字が浮かびあがってきます。

それで、以前に教育委員会から送られて来た「牛久市史料」石造物編を見直すと、
         

「西ハたぐ於」とあります。これで、訂正前の“たぐお”の“お”の意味が解りました。「於」の読みを平仮名で表記したようです。

「於」を「お」と平仮名で表記したら、分けが判らなくなります。そこら辺で疑問が出され、訂正したものと思います。

「西ハたぐ於」は、“西の方角に「たぐ」と云う地名の場所がある”と云う意味でしょう。「たぐ」の表記は、読みとして「たぐー」とか、「たぐう」と同一と考えます。

分かり易くしたつもりが、誤解を生じる原因となり、訂正したのでしょうが、訂正するならば、「たぐ於」と表記して、括弧で説明を加えるべきでした。

ところが、何故か「たぐお」を訂正して、「たみや(田宮)」としてしまったのです。これは、何らかの、それなりの“解釈”の結果? それとも単に一般的な読みとしての「たみや」に書き換えた?

事実として、歴史的にも、今においても、地元では「田宮」を、「たみや」とはよみません。「たぐう」とか「たくう」とよんでいると、近所の住民数人から聞いていました。

この日の帰りに発見しました、これを見て下さい。


水戸街道は、「田宮」の信号機です。“Tagu”と表記してあります。“県公安委員会”は歴史的よみ、習慣的よみを尊重しているのです。

そして、跨線橋の本体には、何と!


“たくう”と表記してあります。“県道路建設課”は、公安委員会とは別なよみを選択しています。

このように、「田宮」のよみは、歴史的にも、今に於いても、かなり混乱していたのです。そこに、“牛久市教育委員会”が割って入り、「田宮」は「たみや」と主張し始めたのです。

私の解釈では、「田宮」の読みは、正しくは、ふつうに「たみや」だと思います。しかし、「たぐう」とか「たくう」と、一般的に“呼んだ”のであり、“読んだ”のではないと思います。

「たくう・たぐう」は、あくまでも「読み」ではなく、“訛”であると考えます。

「たみや」を一字少なくして、「たくー」とか「たぐー」と呼んだのです。これは、茨城訛の「短縮と濁音の法則」だと思います。

それで、結論ですが、教育委員会が敢えて、この際「田宮」の読みを「たみや」とするのは、それなりに理解できます。

でも、しかし、そのことは、別の機会にやるべき事柄であり、牛久市指定文化財である“女化道標”で、その説明板に「たみや」と表記するのは変です。

「牛久市史料」石造物編の文面が正しいとすれば、道標には“たぐ”と彫られているのです。“たみや”とは彫られていないのです。

道標の「たぐ」は、それは、それで、歴史的に重要な記録です。説明板の「たみや」表記では、明らかに歴史の改竄となってしまいます。

と、大げさに、書きましたが、この説明板の全体を見回し、文面、文字配列、平仮名表記等々を考えると、それなりの解釈で、それなりに表記したようには見えないのです。

兎に角、まぁ、それなりに、小学生にでも理解できるように、“判り易さ”に重点が置かれ、その事で、いろいろと誤解を生じる表記になってしまった気がします。

それで、“いろいろ誤解”を生じる話は、次回とします。


それでは、また明日。




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