歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

“15歳の志願兵“ ③ 新聞はいつでも社会の公器です!

2010年09月08日 | テレビの話し
一昨日の続きです。

この“15歳の志願兵”は昭和18年の夏を背景として描かれています。18年は“第二次大戦末期”です。敗色は濃厚であったのです。

今だから「敗色濃厚」と云えるのですが、当時、ふつうの庶民は「敗色濃厚」とは思ってなかったようです。当時を知る母に聞くと、昭和20年8月15日まで、負けるとは思っていなかったそうです。

このドラマのエリート校、愛知一中の周囲では、それなりに敗色感が漂っていたように描かれています。でも、ホントにそうだったのかは、ちょっと疑問なのです。

人間はどうしても、過去を振り返るとき、それなりに自分を美化する傾向がありますし、また、当時知り得た情報と、戦後に知り得た情報が、無意識に混じりあってしまうことがあるのです。

そんなこんなで、必要以上に“軍部だけ”を悪者に仕立て、国民は単なる“犠牲者”に仕立てて仕舞いがちなのです。戦争は軍人が始めた事で、一般庶民には“責任が無かった”なんて事に、なったりするのです。

昭和16年12月8日未明の“開戦”を伝える、9日の夕刊です。この時、軍人も一般庶民も、ほんの一握りの人達を除いて、勝利を確信していたのです。


翌昭和17年2月15日、開戦から3ヶ月、日本軍は快進撃だったのです。一般庶民は勝利に、勝った、勝ったと、日の丸を振り、沸き返ったのです。

戦争は勝っている時は、とても、とても明るいのです。シンガポール陥落で、大東亜戦の“大局は決す”でしたが、でも、この後直ぐに、別な意味で大局は決したのです。


昭和17年6月5日、開戦から半年、ミッドウェー海戦の敗北で、日本軍は攻勢から守勢へと、戦況は大きく変化し始めるのです。このことは当時、あまり一般庶民は知らされていないのです。まだ、まだ、勝った、勝ったの大本営発表を信じていたのです。

昭和18年2月7日、開戦から2年2ヶ月、ガタルカナル島から“撤退”が始まります。紙面では、“新作戦の為の転進”と表現されています。大本営も、そろそろ、勝った、勝ったとばかりは云ってられなくなったのです。

でも、しかし、あくまでも撤退ではなく転進なのです。発表した側も、いつしか撤退ではなく、単なる作戦上の転進と、自己暗示にかかるのかも知れません。誰しもイヤなことは信じたくないのです。


そして、その年の6月25日に、学生の勤労奉仕が法制化され、女子勤労挺身隊も9月22日に制度化されます。わたしの母も挺身隊として、霞ヶ浦の航空隊で終戦まで働いていました。

そして、10月21日の学徒出陣です。こんな時代の流れのなか、愛知一中でも予科練の航空兵として、生徒を戦場に送り出したのです。


それにしても、“沸る滅敵の血潮”“進め悠久大義の道”“敵米英学徒を厭倒せよ”新聞は、煽りに、煽っているのでした。

新聞は、いつの時代でも“社会の公器”として、機能しているようです。

新聞やテレビが大声で煽る時は、それなりの注意が必要です。鵜呑みにすると、後で痛~い眼にあいます。

いまでは、“クリーンな政治”に“正義”ありと、新聞、テレビが一丸となって煽っていますが、それなりの注意が必要だと思うのです。

クリーンな政治を大声で叫び、政治家をクリーン度で評価するマスコミは、世界的にも“かなり珍しい”ようです。日本のマスコミの方々だけが異常に“清廉潔白好き”とは思えません。

マスコミ関係者にも配られたと云われる官房機密費に関して、“清廉潔白好き”大手新聞テレビは沈黙を決め込んでいます。やはり、どうも、単純な“清廉潔白好き”では、ないようです。クリーンキャンペーンには別の思惑が・・・・・・。

“15歳の志願兵”から、すこし逸れたようですが、15歳の少年を戦場に送ったのは、時の政権、軍部、新聞、教師、親、世間、・・・・・・ではないかと、思うのであります。

ドラマでは、時の流れに身を任せた校長や教師も描かれていましたが、それ以外の教師や親達は、我が生徒を、我が子を“戦場に送る事”に、“心のなかで”反対していた様子を描いていました。

あの方達は、我が生徒を、我が子を“戦場に送る事”に反対していたのであり、“戦争に反対”していたのではないのです。勝っている頃は、戦況報道に、バンザイ!バンザイ!を叫んでいた方々なのです。

誰に一番責任があるのか、直接的には時の軍事政権ですが、でも、それを選択したのは国民ですから、いろいろ、ムズカシイのです。

“15歳の志願兵”を、過去の悲しいお話として、涙して見ているだけでは、悲しいお話はくり返します。歴史はくり返します。でも、同じような現れ方、見え方はしません。

それで、いま現在、行われている民主党の党首選挙ですが、将来において、日本の“ありかた”を決めた、歴史的な転換点の始まりだったと、記録されるのでは?と、思ったりしているのです。

何故だァ! その理由を述べよ! と、云われても、それは、そう簡単には・・・・・・。これからも、時たま、ポツリ、ポツリと、綴ろうかな・・・・・・何て思っているのです。

まぁ、そんなところで、“15歳の志願兵”を観て感じたことに、いろいろと思いを巡らし、ポツリ、ポツリと綴ってみました。


それでは、また明日。


※お粥ばかりで、腹に力が入らん!明日の夕食から普通食です。夕食は肉を食べるぞォ!


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大腸検査でポリープ切除は楽でしたァ!

2010年09月07日 | 健康
本日は、「15歳の志願兵」はお休みします。

実は、なにを隠そう7月の人間ドックで“便潜血”で“要精密検査”だったのです。そして今日、肛門から内視鏡を入れられたのです。大腸内視鏡の検査は“生まれて初めて”の経験です。

ドックの時に、看護師さんに「胃カメラと大腸カメラでは、どっちが辛いの」と聞いたところ、両方経験している看護師さんは、「う~ん・・・・・・、それは、その、下からと、上からの差はありまが、人によって・・・、それは、う~ん、どちらとも・・・」と、かなり、迷った末の、曖昧な答えだったのです。

でも、しかし、本日経験してきた、私が、もし、そう問われたら、「大腸の方がずっと、ずっと楽ちん」と、即座に答えます。ホントに楽でした、何の苦痛も、違和感も、不快感も、まったくありませんでした。

敢えて、云うならば、朝4時から“経口腸管洗浄剤”2リットルを、コップに1杯、10分間隔で飲むのが、とてもイヤでした。味は薄い塩味です。

※それにしても、“137.155g”何て中途半端な量なのでしょうか、私、この粉末をペットボトルに入れる際、いくらか外にこぼしてしまったのです。たぶん「1.076g」位だったと思います。

最初の3~4杯は何となくいけたのですが、それを過ぎると、“もうケッコー、もう、イラナイ!”となるのです。まぁ“苦痛”と云うほどではありませんが。

開始からほぼ1時間、7杯飲んだところで、お腹がゴロゴロしてきて1回目の排便、その後は、5分間隔ぐらいで、計11回のトイレ通いでした。3回目の排便辺りで、便と云うよりも、洗浄剤が“ピュー”と出るだけでした。

洗浄剤は排便中も飲み続け、6時少し前にすべて飲み干し、6時半頃にはお腹も落ち着いてきました。

検査は9時からで、早めの7時45分に家を出て、病院到着は8時半。受付で手続きを済まして、検査用の不織布製、使い捨て“穴あきデカパン”と検査着に着替えて、検査待合室で15分ほど待機。

9時5分過ぎに名前が呼ばれ、検査室のベットに横になり、ケツをまくられ、指に体温測定用のクリップを取り付けられ、静脈に鎮痛剤?鎮静剤?を注射。医師が「はぃ、直ぐに効いてきます、直ぐに効いて来ます」と声とともに、カメラが挿入されました。

ホント、痛くなく、不快感もなく、違和感もなく、モニターを見ながらの“快適”な検査でした。最後に「ここにポーリプがありますから切除します」「悪性ではありませんから心配いりません」の言葉に安心して眺めていました。

ポリープの位置


ポリープの写真、右が切除後


ポリープを切除したので、3日間は流動食なのです。




本日の昼食はこれだけ!


甘ったるくて、どこが?“レモンティー味だァ!”


本日の検査手術料金は「18660円」でした。


流動食とお薬の料金は「2005円」でした。


薬局を出て、家に到着したのは12時少し前でした。

以上、大腸検査、ポリープ切除の報告を終わります。

そうでした、便の潜血ですが、ドックの頃は便が堅くて、排便時に肛門付近が切れて、ウォシュレットの時に“ビリビリ”穴の周囲が痛かったので“たぶん、それだァ”とは思っていたのです。

でも、しかし、親父が60歳の頃、出血しても痔と思い込み、精密検査をおこなわなかった為に、癌が他の臓器に転移し手遅れになって61歳で亡くなったのでした。そんな、こんなで、念の為の検査でした。

切除したポリープの組織検査の結果は2週間後です。まぁ、たぶん、外観的にも問題はなさそうです。

それにしても、3日間の流動食は辛い、今も空腹を堪えて書いているのです。明日は、「15歳の志願兵」です。


それでは、また明日。



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“15歳の志願兵“ ② 昭和18年は“大平洋戦争末期”ですか?

2010年09月06日 | テレビの話し
先週の続きです。

前回載せた“15歳の志願兵“のHPの文章なのですが、ちょっと、気になる事が少しあるのです。

【NHKのHPより転載】

    太平洋戦争末期、昭和18年(1943年)7月5日。愛知一中の決起集会で、
    全校生徒700人が戦争に行くことを決めた。エリート中学生のこの決断は
    大々的に報道され、全国の少年たちの心を戦場へと突き動かした。だが
    その裏には、中学生を戦場に送ることによって兵士不足を解消したい軍部
    の思惑があった。
    軍部が学校に圧力をかけ、中学生を「軍国少年」に変えていった真実が今、
    明らかになる。
    戦争に飲み込まれていく少年たちの青春、夢や友情、そして、少年たちを
    戦場へ送らざるを得なかった教師や親達の苦悩や葛藤、時代に翻弄されて
    いく人間たちを鮮烈に、詩情豊かに描いていく。
    戦後65年目を迎える2010年のNHKスペシャル終戦特集ドラマ。

それで、気になるのは、先ずは、「太平洋戦争末期、昭和18年(1943年)7月5日」とありますが、「太平洋戦争」と聞くと、昭和16年12月8日、真珠湾攻撃の対米戦争の開始から、昭和20年8月15日の敗戦までの期間をイメージします。

16年から20年ですから、18年を“末期”と云うのは、何となく抵抗があるのです。どちらかと云えば、単に期間としては真ん中あたりで、中間期だと思うのです。

私としては、これまで、中国大陸での日中戦争があり、太平洋の島々でのアメリカと、東南アジア、インドでのフランス、イギリス、オランダ、オーストラリアとの太平洋戦争があったと理解していました。

日中戦争と太平洋戦争をあわせって、アジアでの「第二次世界大戦」だと理解していました。ですから、“太平洋戦争末期”ではなく、“第二次世界大戦末期”との記述の方がイイと思うのです。

それでェ、調べてみたら、戦争の名称には、それぞれの立場で、それぞれの名称を主張していたのです。

知らなかったのですが、戦争の呼称は、真珠湾攻撃の2日後の12月10日、「大本営政府連絡会議」によって決定され、その2日後に閣議決定されたそうなのです。

驚きました、戦争の正しい呼び方は、何と閣議で決まるのでした。それで、正式な呼称は“大東亜戦争”でした。それと、そのときの閣議決定で、支那事変(日中戦争1937年~)をも含むと決められたのです。

それと、“大東亜”なんですが、“大”きな、“東”の、“亜”細亜で、大東亜なのでしょうね。あの頃は、どこでも、何でも“大”を付けたがったようです。

「大東亜戦争」を陸軍が主張し、海軍は「大平洋戦争」の呼称を主張したそうで、大東亜と決まった後でも、海軍内部では大平洋戦争と云っていたそうです。海軍はやはり海に拘っていたようです。

海軍の「大平洋戦争」の呼称には「日中戦争」は含まないそうです。海軍は、大陸の戦争には、あまり関心なかったようです。

NHKのHPで「大平洋戦争」と記述したのは、昭和12年の日中戦争を含めた「大東亜戦争」をイメージして、12年から20年ですから、18年は「末期」との表現になったと思います。

でも、しかし、日中戦争を含めて「大平洋戦争」と呼称したのは、占領期GHQの検閲で「大東亜戦争」表現を禁止し、その代わりに「大平洋戦争」とした事によるのです。

「大東亜戦争」の「東亜」と云う言葉に、単に地理的概念だけでなく、戦争の正当化を含んでいると解釈したのでしょう。“大東亜共栄圏とか、大日本帝国とか、神国とか、八紘一宇とか、鬼畜米英とか、軍国主義”とかに、繋がるイメージを嫌ったのでしょう。

日中戦争を含んだ「大平洋戦争」の呼称は一般的ではなく、敗戦後の、占領期に、占領軍によって、一時的に使用させられた表現だったようです。

“戦後65年目を迎える2010年のNHKスペシャル終戦特集ドラマ”の番組宣伝の紹介文として、あまり適切ではなかったのでは?と、やはり、ここは、「第二次大戦末期」とすべきだと、思ったりしたのです。

まだ、ちょっこし話が残っているので、いったんここで終わりにします。

それでは、また明日。




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“15歳の志願兵” ① 後の祭りで夏川結衣

2010年09月03日 | テレビの話し
このドラマだけは、以前に録りだめしていたものではなく、8月15日に“NHKスペシャル終戦特集ドラマ”として放送されたものを録画し、数日後の深夜に観たのです。こういうドラマは、やはり、深夜に観た方がよいのです。

このドラマは“全国屈指の進学校・旧制愛知一中”であった実話に基づいているそうで、原作本は「積乱雲の彼方に」、著者はこのドラマで描かれる昭和18年の「総決起事件」に3年生の時15歳で遭遇した当事者だそうです。

ドラマの内容・制作意図についてはNHKのHPから転載します。

   ※太平洋戦争末期、昭和18年(1943年)7月5日。愛知一中の決起集会で、
    全校生徒700人が戦争に行くことを決めた。エリート中学生のこの決断は
    大々的に報道され、全国の少年たちの心を戦場へと突き動かした。だが
    その裏には、中学生を戦場に送ることによって兵士不足を解消したい軍部
    の思惑があった。
    軍部が学校に圧力をかけ、中学生を「軍国少年」に変えていった真実が今、
    明らかになる。
    戦争に飲み込まれていく少年たちの青春、夢や友情、そして、少年たちを
    戦場へ送らざるを得なかった教師や親達の苦悩や葛藤、時代に翻弄されて
    いく人間たちを鮮烈に、詩情豊かに描いていく。
    戦後65年目を迎える2010年のNHKスペシャル終戦特集ドラマ。


少年達は時代に翻弄され、“祖国と大君”のため、自らの夢を捨て、命を捧げた、尊くも、悲しい“犠牲者”だと思います。

戦争の時代は、彼らの親の世代がつくったものであり、彼らの意志で選択した訳ではありません。そこが、とても、とても、悲しいのです。

戦場に我が子を送り出し、涙した親たちは、その責任をどこに向けているのか、政府に、軍部に、国家体制に、抽象的な時代の流れに・・・・・・で、いいのでしょうか?

それで、ドラマですが、冒頭に主役の少年(作者の友人)の口から、

“日本軍はいつまでも日露戦争の白兵突撃の勝利に拘らず、今こそ長い歴史に学ぶべき“と云わせているのです。

このあたりの話は、これまで見たり聞いたりした、当時の軍国少年とは、かなり異なっていたのです。やはり、かなりのエリートなのです。

決起集会で、卒業生である配属将校が、

・・・・・・「米国の学徒すらも戦っている時に、安閑と教科書を開いていてよいのか!

鬼畜米英に対して誇れるものは質である、物量に対して質的優位である!

大本営発表に対して懐疑心を抱く者に、君に敵に勝つ方策があるか問いたい、答えられない知識であれば、そんなものは迷信と同じだ、そのような知識で敵を倒すことはできない、国を救うことはできない!

国家なくして個人の学識など何の役にもたたない!

祖国の窮状を救わんが為、決戦の空へ、地へ、海へ向かうものである、潔く散りゆくものである死して悠久の大義に生きるものである!

日本人の誇りは我々の死に方にこそある、それを日本人の精神と呼ばなくともよい、一中の精神でよい、生まれた家の、己の精神でよい!

今こそ、各々の名刀という精神を研き、皆で忠国の道を志し、軍神の大義に徹しなければならない、敵に遅れをとってはならない! 急げッ! 起てッ! 愛知一中の学徒諸君よッ!」・・・・・・

これは、もう、四の五の言っている状況ではないのです。状況は今更なのです。生徒の心は揺さぶられます、起ち上がらない訳にはいきません。

私が、もし、その場に居たら、もう直ぐに起ち上がり、身を震わせ、拳を振りあげ、鬼畜米英に戦いを挑む決意を大声で叫んだかも・・・・・・。

だから、怖いのです、どうにも、こうにも、ならないのです。あの頃、あのような場で、面と向かって配属将校のアジテーションに反論することなど、ふつうの人は考えないし、考えたとしてもできないのです。

“おかしいなァ? 何か変だなァ?”と、みんなが思っていても、世の中は、表面的には何も、“おかしくも、変でもなく”回っていくのです。

後で、“おかしかった、変だった”と気が付いたとしても、もう、それは、後の祭りなのです。 

それで、夏川結衣ですが、最近、とても、いいおんな、いい女優に、なりました。


夫を、息子を、戦場に送り出し亡くし、たったひとり残された母親役、とてもよかったです。


「遠回りの雨」以来、とても、とても、気になるのです。1968年の生まれですから、今年で42歳でしようか、これからがとても楽しみです。


長くなったので、ここで一旦おわりにします、次回に続きます。


それでは、また来週。

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映画“地下水道”はタイトルが変?

2010年09月02日 | 映画の話し
夏休み中に観た映画の話を、ポツリ、ポツリですが、昨晩、寝床でボンヤリしていて思い出したのですが、

ーーー先ずは映画、“剣岳 点の記”に、“父親たちの星条旗”に、“転々”に、“アカルイミライ”に、“キューポラのある街”の5本を観ましたーーー

と、昨日の書いたのですが、一本忘れていました。あの“アンジェイ・ワイダ監督”の名作と云われる“地下水道”を観ていたのです。観た順番としては、“組曲虐殺”の後でした。

それで“地下水道”なんですが、日本語タイトルに違和感を感じたのです。上水道とか、下水道なら分かるのですが、「地下水道」は、有るようで無いのです。辞書にも有りません。

ポーランド語のタイトルは“Kanal”となっており、直訳すれば“運河”です。“カナル”と聞くと、近所の“フラワーカナル”を思い浮かべてしまいます。

でも、しかし、映画を観れば、直ぐに、それが、分かるのですが、カナルは下水道で、排泄物も流れる、臭くて、汚い、下水道・汚水道なのでした。

ポーランド語では、人工的に造られた水の流れ全体を指した言葉として使われているようです。日本語タイトルを付ける会議で“いくら何でも、「下水道」では、ちょっと汚くて臭くて・・・・・・”と、思い、「地下水道」になったのでは・・・・・・・。

まぁ、それは、それとして、映画の中身なんですが・・・・・・、もう、見終わって、絶望感だけでした。

ストーリーとしては、第二次大戦のドイツ軍占領下の“ワルシャワ蜂起”を描いた作品ですが、暗くて、臭くて、汚い下水道を、ドイツ軍に追われ逃げ惑う、民兵部隊の、暗く、悲しい、絶望的なお話なのです。

史実のワルシャワ蜂起は、占領末期の1944年の8月に起こり、2ヶ月ほどで蜂起軍は約22万人の犠牲者を出して、ドイツ軍に降伏してしまうのです。

蜂起軍は、ワルシャワ郊外まで迫って来たソ連軍の呼びかけに呼応して蜂起したのですが、ソ連軍は市内にに進駐せず、蜂起軍を見捨てたのでした。

蜂起軍を指揮していたのが、自由主義者が中心のロンドンの亡命政権だったことが理由のようで、蜂起の呼びかけはソ連の“謀略”だったようです。

そもそも、ポーランドと云えば、第二次大戦の直前1939年の“独ソ不可侵条約”の“秘密議定書”で、ソ連とナチスドイツがポーランドの分割支配を決めていたのです。

そのとき、侵攻したソ連軍がポーランド軍の将兵数万?を虐殺した“カティンの森事件”も有名です。そんなソ連ですから、蜂起軍を見捨てるぐらいは朝飯前だったのです。

事件の真実が明かされたのも、ソ連崩壊後の最近の事であり、「カティンの森事件」の和解も、具体化されたのは今年に入ってからであり、追悼式に出席する大統領の搭乗機が墜落した事故は、今年の4月の事です。

今も、あの戦争の歴史は終わっていないのです。

それにしても、ポーランドと云う国は悲劇的です。他国に、分断され、侵略され、支配され、、虐殺され、大変な歴史を背負った国です。

映画の最後、暗く臭く汚れた地下水道の先に明るい光が見え、これで地上に出られると思ったら、出口には鉄格子・・・・・・。

ワルシャワ蜂起が1944年で、映画制作年度が12年後の1956年で、ワイダ監督が31歳の時でした。12年前を描いたのですから、つい昨日、ポーランド国民の多くが経験した出来事を映画化したわけです。

翌年にカンヌ国際映画祭・審査員特別賞、そして、何故か「モスクワ世界青年平和友好映画祭青年監督賞」も受賞しているのです。カンヌは理解できるのですが、モスクワは理解できません。

監督賞を受賞したワイダ監督は、いったいどんなコメントをしたのでしょうか?

3年前の2007年、ワイダ監督は81歳で「カティンの森事件」を映画化しました。彼の父親は軍人で「カティン森」で殺されているそうです。

地下水道は、ホントに、ホントに、暗く、悲しく、絶望的な映画でした。

ワルシャワの街は、大戦でほとんど破壊されてしまったのですが、残っていた絵や写真をもとに、戦後町並みが再現されたそうです。ポーランド国民はかなり粘り強いようです。

昨日の朝刊にこんな記事が載っていました。


ポーランドも、自主管理労組「連帯」も、「ワレサ」さんも、あれから、いろいろあって、いろいろ変わっているようです。

それでは、また明日。


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“組曲虐殺”は、何か、とても退屈

2010年09月01日 | テレビの話し
今日から9月、でも、しかし、今日も暑い。

夏休みの間は、朝から夜明け頃までエアコンを入れたまま、とても、とても、ダラ、ダラ、ダラ、とした毎日を送っていました。まぁ“エアコン暮らし”は、今でも、そうですが・・・・・・。

兎に角、二週間ぶりの更新です、がァ、何故か、どうしたことか、毎日、毎日、更新していた日々よりも、夏期休暇中の方がブログへのアクセス数は増えているのでした。

再開したら、アクセス数が減ったりして・・・・・・、まぁ、それは、それとして、休み中は録りだめしたビデオを観たり、本を読んだりしていたのですが、ビデオはそれなりに観たのですが、読書の方は、予定より、かなり、チョット?なのでした。

ビデオの方は先ずは映画、“剣岳 点の記”に、“父親たちの星条旗”に、“転々”に、“アカルイミライ”に、“キューポラのある街”の5本を観ました。

テレビドラマは“天城越え”に、“15歳の志願兵”に、舞台中継“組曲虐殺”に、ドキュメント“日米開戦を語る 海軍はなぜ過ったのか~400時間の証言より~”の4本でした。

観た順番としては、“組曲虐殺”が一番最初で、次に“15歳の志願兵”、“海軍はなぜ過ったのか”、“父親たちの星条旗”と、8月ですから戦争関連なのです。

そして、戦後の“キューポラのある街”、そして時代はかなり下って、“転々”、“アカルイミライ”です。

“剣岳 点の記”と“天城越え”は、“組曲虐殺”の間に観たのでした。“組曲虐殺”ですが、3時間と長く、タイトルから受ける強烈さからは、かなり違っていて、緊張感に欠け、退屈で、途中に休憩を入れて、やっとの思いで観たのでした。

亡くなった“井上ひさし”の最後の作品でしたので、それなりに、襟を正し、姿勢を正し、画面を見つめていたのですが、どうも、わたしとしては、みんなで踊り歌う、ミュージカル仕立ては、どうも、駄目なのです。

まぁ、「井上ひさし」の舞台作品は、“唄って、踊って、笑いも入れて”なのでしょうが、それにしても、二人の“特高”が、何故か、かなり、“イイヒト風”に描かれていたのです。

これには、とても抵抗がありました。数の中には、そんな“特高”も居たのかも知れませんが、やはり納得できないのです。もしかして、これって史実に基づいているの? それとも作者の優しさでしょうか?

まぁ、それで、更新を二週間ぶりに再開したので、こんな感じで、しばらくは、夏休みに観た、映画や、ドラマや、ドキュメンタリーの感想など、ポツリ、ポツリと綴っていこうと思います。


それでは、また明日。



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