鵺の背後で揺らいでいた五匹の蛇が、五弁の巨大な死の花びらと化して、左右上下から麗夢に迫った。だが、まさに五匹がその可憐な姿を貪り尽くさんと迫った時である。白拍子の、内からほのかに点るかのように見えていた光が、突然雷の燭光となって部屋の中を真っ白に染め上げた。大蛇も鵺も、おそらくは鏡の中の崇徳院でさえ、そのまばゆい光には視力を暫し奪われた事だろう。やがてその光が失せた時、五匹の蛇達は、その姿が様変わりしているのを知って動きを止めた。処女雪のように白かった衣装が、紫を基調とした華麗な狩衣に替わっている。烏帽子が消えた頭には、複雑な意匠を凝らした冠が金色に輝いている。簡素にまとめられていた黒髪も、その美しさを誇示するかのように扇に開いて肩や腕に広がっていた。そして、笛を持っていたはずの可憐な紅葉の手には、一張りの弓が握られていた。かつて頼政が鵺退治に借り受け、今義経が智盛の猛攻の前に思わず海に落としたあの弓だ。これにはさすがに崇徳院も余裕の表情を消した。
「なるほどな。じゃが、弓はあっても肝心の矢が無くてはなんの役にも立つまい。その弓は、あの矢と一対になってこそ闇を封じる力を発揮するはず。それでは我が力を止めだてすることはかなわぬ」
「矢はあります」
「何?」
麗夢は、無造作に右手を胸の前に持ってくると、それだけは変化の後も変わらず胸に突き立っていた矢を握りしめ、まるで矢筒から一本抜き出した、と言わぬばかりにあっさりと抜き取った。真っ赤な鮮血が抜けた矢の先を未練がましく追いかけ、紫の衣装がやや黒ずみながら濡れていった。だが、麗夢はそれには構わず、矢を弓につがえてみせた。
「そんなことをすれば、本当におことの命はないぞ。判っているのか?」
やや慌て気味に言った崇徳院の言葉を、麗夢は無視してぐっと弓を引き絞った。狙いは真っ直ぐ鵺の持つ鏡につける。そのまま、麗夢は鏡に語りかけた。
「崇徳院様、この矢には鏃(やじり)が無いのです。ご存じでしたか?」
「鏃? ちゃんと付いているではないか」
確かに崇徳院の見る通り、赤錆びた鏃が、その古ぼけた篦(の)の先に付いている。だが麗夢は、軽く頭を左右に振った。
「これは、遙けき古へに使われたものが、たまたま残っているに過ぎません。もし本来の鏃がこの先に付いていたとしたら、私もきっとこうして崇徳院様と対面遊ばすことは叶わなかったでしょう。よろしいか? この矢の鏃は、使われるたび新たに生まれ変わるのですよ。伊呂波、仁保平」
はっ!と勢いよく返事した二人の姿が、たちまち光の粒子となってはじけ飛んだ。ちょうど頭上に輝く天の川のように細かな光る砂粒と化した二人は、細く長くたなびきながら、麗夢が構える矢の先端に吸い込まれていった。やがて、矢全体が光の粉を篩いかけたようにきらきらと輝きだし、ぼろぼろの矢羽が、乱れのない美しい純白の姿に変化した。そして、赤錆びた上に麗夢の血を吸った鏃が、見る見る白銀の光を跳ねる切っ先を取り戻していった。やがて、矢全体に、伊呂波の爪か、仁保平の牙のように、触れる闇全てを切り裂き葬る神々しい力の漲りが甦った。さしもの崇徳院も、その矢が発散する力の程に、冷や汗が湧くのを覚えたかも知れない。だが、崇徳院とて生きながら天狗となり、今は魔界を統べる大魔縁となった身である。自分を抱える鵺や後ろに控える蛇達ほどには、その矢の切っ先を恐れもしなかった。崇徳院は言った。
「あっぱれよの夢守。しかし矢は一本のみ。我ら全てを射倒すには少々足りぬぞ」
崇徳院の鏡が三度さざ波を立てて黒雲を宿らせた。すると、当主の呼びかけに応えたのであろう。現世に開いたその暗い穴から、次々と異形の者共がわき出てきた。何千という目玉が床に転げ、ぎょろりとその視線を麗夢に向ける。あるいはいくつもの頭を持った鴉の様な鳥が、口々にぎゃあぎゃあと濁った鳴き声を上げて天井に舞った。妙に髭が長く、口の大きい鯉が、鰭(ひれ)の代わりに生えた蜥蜴(とかげ)の如き手足で床に立ち、鋭い牙の揃った口を大きく開けて麗夢に迫る。醜悪な人の顔を先端に付けた蛇が這い回り、鎌首をもたげて舌を出した。その後ろで幾つものしゃれこうべが転がり回り、疎らになった歯をかみ合わせてけたけたと不愉快な高笑いを上げる。亀、獣、鳥、魚、そして人の残骸。およそ人の怖気をどれだけ誘えるかを競うように現れる醜悪な混沌の軍団は、崇徳院のこみ上げる嗤いを背景に、舟の許す限りの空間へ充満した。
「どうじゃ夢守! 我が眷属はまだこんなものではないぞ。どんどん呼び出して、おことを押しつぶしてくれよう!」
麗夢は静かに応えた。
「矢は一本あれば充分でございます。それよりも今一度おたずねします。黙ってお引き下さらぬか?」
この大勢を見てもまるで動じようとしない麗夢の様子に、崇徳院の苛立ちは遂に臨界を越えた。崇徳院は初めてその余裕ある態度をかなぐり捨て、荒々しく言い放った。
「おこなる物言いはもうたくさんじゃ! 者共! この小癪なる小娘を挽き潰せ!」
幾つかの、表情を刻みうる者共が、一応に一つの顔を作った。うら若き乙女を散々に陵辱し、引き裂く喜びに飢えた残忍な笑みである。わらわらと、まさに蠢くように動き出した混沌の軍団は、目の前でただ一本の矢を構えるばかりの無力な娘に、その明らかに過大と見える力を振る舞おうと迫り来たった。その津波のような勢いの前にただ一人立つ麗夢は、向かってくる牛に両手の鎌を振りかざす蟷螂ほどの抵抗も出来ないように誰の目にも映った。だがその瞬間、麗夢の右手が引き絞った弓弦を離した。
「なるほどな。じゃが、弓はあっても肝心の矢が無くてはなんの役にも立つまい。その弓は、あの矢と一対になってこそ闇を封じる力を発揮するはず。それでは我が力を止めだてすることはかなわぬ」
「矢はあります」
「何?」
麗夢は、無造作に右手を胸の前に持ってくると、それだけは変化の後も変わらず胸に突き立っていた矢を握りしめ、まるで矢筒から一本抜き出した、と言わぬばかりにあっさりと抜き取った。真っ赤な鮮血が抜けた矢の先を未練がましく追いかけ、紫の衣装がやや黒ずみながら濡れていった。だが、麗夢はそれには構わず、矢を弓につがえてみせた。
「そんなことをすれば、本当におことの命はないぞ。判っているのか?」
やや慌て気味に言った崇徳院の言葉を、麗夢は無視してぐっと弓を引き絞った。狙いは真っ直ぐ鵺の持つ鏡につける。そのまま、麗夢は鏡に語りかけた。
「崇徳院様、この矢には鏃(やじり)が無いのです。ご存じでしたか?」
「鏃? ちゃんと付いているではないか」
確かに崇徳院の見る通り、赤錆びた鏃が、その古ぼけた篦(の)の先に付いている。だが麗夢は、軽く頭を左右に振った。
「これは、遙けき古へに使われたものが、たまたま残っているに過ぎません。もし本来の鏃がこの先に付いていたとしたら、私もきっとこうして崇徳院様と対面遊ばすことは叶わなかったでしょう。よろしいか? この矢の鏃は、使われるたび新たに生まれ変わるのですよ。伊呂波、仁保平」
はっ!と勢いよく返事した二人の姿が、たちまち光の粒子となってはじけ飛んだ。ちょうど頭上に輝く天の川のように細かな光る砂粒と化した二人は、細く長くたなびきながら、麗夢が構える矢の先端に吸い込まれていった。やがて、矢全体が光の粉を篩いかけたようにきらきらと輝きだし、ぼろぼろの矢羽が、乱れのない美しい純白の姿に変化した。そして、赤錆びた上に麗夢の血を吸った鏃が、見る見る白銀の光を跳ねる切っ先を取り戻していった。やがて、矢全体に、伊呂波の爪か、仁保平の牙のように、触れる闇全てを切り裂き葬る神々しい力の漲りが甦った。さしもの崇徳院も、その矢が発散する力の程に、冷や汗が湧くのを覚えたかも知れない。だが、崇徳院とて生きながら天狗となり、今は魔界を統べる大魔縁となった身である。自分を抱える鵺や後ろに控える蛇達ほどには、その矢の切っ先を恐れもしなかった。崇徳院は言った。
「あっぱれよの夢守。しかし矢は一本のみ。我ら全てを射倒すには少々足りぬぞ」
崇徳院の鏡が三度さざ波を立てて黒雲を宿らせた。すると、当主の呼びかけに応えたのであろう。現世に開いたその暗い穴から、次々と異形の者共がわき出てきた。何千という目玉が床に転げ、ぎょろりとその視線を麗夢に向ける。あるいはいくつもの頭を持った鴉の様な鳥が、口々にぎゃあぎゃあと濁った鳴き声を上げて天井に舞った。妙に髭が長く、口の大きい鯉が、鰭(ひれ)の代わりに生えた蜥蜴(とかげ)の如き手足で床に立ち、鋭い牙の揃った口を大きく開けて麗夢に迫る。醜悪な人の顔を先端に付けた蛇が這い回り、鎌首をもたげて舌を出した。その後ろで幾つものしゃれこうべが転がり回り、疎らになった歯をかみ合わせてけたけたと不愉快な高笑いを上げる。亀、獣、鳥、魚、そして人の残骸。およそ人の怖気をどれだけ誘えるかを競うように現れる醜悪な混沌の軍団は、崇徳院のこみ上げる嗤いを背景に、舟の許す限りの空間へ充満した。
「どうじゃ夢守! 我が眷属はまだこんなものではないぞ。どんどん呼び出して、おことを押しつぶしてくれよう!」
麗夢は静かに応えた。
「矢は一本あれば充分でございます。それよりも今一度おたずねします。黙ってお引き下さらぬか?」
この大勢を見てもまるで動じようとしない麗夢の様子に、崇徳院の苛立ちは遂に臨界を越えた。崇徳院は初めてその余裕ある態度をかなぐり捨て、荒々しく言い放った。
「おこなる物言いはもうたくさんじゃ! 者共! この小癪なる小娘を挽き潰せ!」
幾つかの、表情を刻みうる者共が、一応に一つの顔を作った。うら若き乙女を散々に陵辱し、引き裂く喜びに飢えた残忍な笑みである。わらわらと、まさに蠢くように動き出した混沌の軍団は、目の前でただ一本の矢を構えるばかりの無力な娘に、その明らかに過大と見える力を振る舞おうと迫り来たった。その津波のような勢いの前にただ一人立つ麗夢は、向かってくる牛に両手の鎌を振りかざす蟷螂ほどの抵抗も出来ないように誰の目にも映った。だがその瞬間、麗夢の右手が引き絞った弓弦を離した。