投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月 3日(水)12時24分18秒
高坂正堯氏が亡くなられてから四半世紀も経つので、若い世代では名前すら知らない人も多いのでしょうね。
少し検索してみたところ、京大教授・中西寛氏の「恩師を語る」という記事はなかなか充実しています。
「恩師を語る 戦後日本を鋭く見つめた先覚者 高坂正堯」
https://www.kyoto-u.ac.jp/kurenai/201910/onshi/index.html
さて、『国際政治 恐怖と希望』(中公新書、1966)では、先に紹介した部分に続いて、善玉・悪玉説の例として「ルイ十四世の大臣ルーボア」、コンドルセ、「指導的自由貿易論者コブデン」等のエピソードを述べた後、
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こうしてつぎつぎに悪玉が作られ、それを打ち破った善玉がつぎつぎに期待を裏切ったことは、善玉・悪玉的な考え方をゆさぶってきた。しかしそれは、人間性のなかに奥深く根ざす考え方であるために、漠然たる形で、平和の問題に対する人びとの態度に影響を与えつづけているのである。
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と纏めてから、「問題の単純化」に移ります。(p16)
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問題の単純化
善玉・悪玉的な考え方と並んで見逃すことができないのは、国際政治の構造の単純化である。人びとは世界の平和について論ずるとき、国際政治の構造についての驚くほど単純な考え方から出発している。軍備をなくすることによって平和を求めるという考え方は、そのもっとも代表的なものである。その考え方の基礎には、諸国家が武器を持ってにらみあっている状態が国際政治であるという現状認識がある。そうでなければ、武器さえなくすれば平和が訪れるという確信を持てるはずがない。
また、国際連合による平和という考え方も、やはり同じような現実認識の上に立っている。だからこそ、各国がそれぞれ軍事力を持つのをやめて、世界連邦を作り、その警察軍が秩序を維持すればよいという考え方が生まれるのである。
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高坂氏は「平和の問題」、世界平和を具体的にどのように実現するか、という観点から、国際政治の構造を探って行きます。
そして、ここから谷口雄太氏の『分裂と統合で読む日本中世史』に出てくるいくつかの概念が登場します。
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こうした考え方は、諸国家が単純な力の単位であり、国際政治はその力の単位が並立する場所であるならば、正しいであろう。しかし実際には、国家は単なる力の単位ではないのである。国家は力の大系であると同時に利益の大系でもある。すなわちそれは、人びとの経済活動にとって、もっとも重要な単位なのである。もちろん、貿易関係は国境を越えておこなわれる。逆に、人びとの生活に直接関係のあるのは家庭であり、職場である。しかし、経済活動を構成するさまざまな循環、金の流れや物の流れがおこっているのは、国家という枠のなかである。経済計画がたてられ、国民の福祉のためのさまざまな政策がとられているのも、国家という枠組みのなかである。日本の繁栄はわれわれの生活と直接に結びついている。これに対して、アメリカや中国や朝鮮の繁栄とわれわれの生活はたしかに結びついてはいるが、その結びつきは比較にならない。このように各国がそれぞれ利益の大系である以上、各国家のあいだには利益の調和もあれば衝突もある。各国家のあいだの利益関係をぬきにして平和の問題を論ずるわけにはいかないのである。
しかも国家は、力の大系であり利益の大系であると同時に、価値の大系でもある。われわれは自分の欲する行動をとって生活している。しかし、それが社会に混乱をもたらさず、多くの人とのつながりを保っていくことができるのは、そこに共通の行動様式と価値体系という目に見えない糸が、われわれを結びつけているからなのである。国家から家に至るさまざまな制度も、この目に見えない糸によって支えられて、はじめて成立するのである。
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高坂氏は「国際政治の構造についての驚くほど単純な考え方」の例として、「軍備をなくすることによって平和を求める」考え方とか、「国際連合による平和」、即ち「各国がそれぞれ軍事力を持つのをやめて、世界連邦を作り、その警察軍が秩序を維持すればよいという考え方」を挙げ、「諸国家が単純な力の単位であり、国際政治はその力の単位が並立する場所であるならば、正しい」とされます。
しかし、「実際には、国家は単なる力の単位では」なく、「国家は力の大系であると同時に利益の大系でもあ」り、「価値の大系でもある」訳ですね。
さて、ここには確かに谷口著に登場する諸概念が存在していますが、高坂氏が「力」「利益」「価値」が「国家の成立要件たる三要素」と言っているかというと、この後の記述をみてもそうした表現はなく、これはあくまで谷口氏による要約・解釈ですね。
普通、「〇〇の成立要件」というと、個々の要件のひとつでも欠ければ〇〇が成立しないことを意味するので、「力」「利益」「価値」が「国家の成立要件」であるならば、「力」「利益」「価値」のどれか一つでも欠けば「国家」は成立しない、ということになりそうですが、高坂氏がそんなことを言っていないのは明らかです。
この掲示板で今までくどいほど論じて来たように、国際法の世界では「国家の成立要件」は「永久的住民」「明確な領域」「政府(統治機構)」の三要件、またはこれに「外交能力」を加えた四要件です。
これらの要件の一つでも欠いた政治権力は「国家」ではありません。
『中世に国家はあったか』に学問的価値はあったか?(その2)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4265aa905d56a7ccd5049839b7714e60
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d51f9128b3255b83b30ec2d78d4cf2e5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b3766036b42419ee7068af259357a99b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d6c7f70115b17e1ed5c2f828c32557a
国際政治の専門家である高坂氏はもちろん国際法を熟知されており、『国際政治』の参考文献にも、おそらく高坂氏が京大で国際法を学んだときの教科書と思われる田畑茂二郎の『国際法』(岩波全書、昭和31)が載っていますね。
ということで、高坂氏が「力」「利益」「価値」が「国家の成立要件たる三要素」だなどと言われるはずがありません。
ま、これが単に谷口氏が「成立要件」という言葉の正確な(法的な)意味を知らなかったというだけなら、別にクドクド文句を言うような話ではありませんが、谷口氏の高坂著の理解は他にも問題があります。
高坂正堯氏が亡くなられてから四半世紀も経つので、若い世代では名前すら知らない人も多いのでしょうね。
少し検索してみたところ、京大教授・中西寛氏の「恩師を語る」という記事はなかなか充実しています。
「恩師を語る 戦後日本を鋭く見つめた先覚者 高坂正堯」
https://www.kyoto-u.ac.jp/kurenai/201910/onshi/index.html
さて、『国際政治 恐怖と希望』(中公新書、1966)では、先に紹介した部分に続いて、善玉・悪玉説の例として「ルイ十四世の大臣ルーボア」、コンドルセ、「指導的自由貿易論者コブデン」等のエピソードを述べた後、
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こうしてつぎつぎに悪玉が作られ、それを打ち破った善玉がつぎつぎに期待を裏切ったことは、善玉・悪玉的な考え方をゆさぶってきた。しかしそれは、人間性のなかに奥深く根ざす考え方であるために、漠然たる形で、平和の問題に対する人びとの態度に影響を与えつづけているのである。
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と纏めてから、「問題の単純化」に移ります。(p16)
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問題の単純化
善玉・悪玉的な考え方と並んで見逃すことができないのは、国際政治の構造の単純化である。人びとは世界の平和について論ずるとき、国際政治の構造についての驚くほど単純な考え方から出発している。軍備をなくすることによって平和を求めるという考え方は、そのもっとも代表的なものである。その考え方の基礎には、諸国家が武器を持ってにらみあっている状態が国際政治であるという現状認識がある。そうでなければ、武器さえなくすれば平和が訪れるという確信を持てるはずがない。
また、国際連合による平和という考え方も、やはり同じような現実認識の上に立っている。だからこそ、各国がそれぞれ軍事力を持つのをやめて、世界連邦を作り、その警察軍が秩序を維持すればよいという考え方が生まれるのである。
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高坂氏は「平和の問題」、世界平和を具体的にどのように実現するか、という観点から、国際政治の構造を探って行きます。
そして、ここから谷口雄太氏の『分裂と統合で読む日本中世史』に出てくるいくつかの概念が登場します。
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こうした考え方は、諸国家が単純な力の単位であり、国際政治はその力の単位が並立する場所であるならば、正しいであろう。しかし実際には、国家は単なる力の単位ではないのである。国家は力の大系であると同時に利益の大系でもある。すなわちそれは、人びとの経済活動にとって、もっとも重要な単位なのである。もちろん、貿易関係は国境を越えておこなわれる。逆に、人びとの生活に直接関係のあるのは家庭であり、職場である。しかし、経済活動を構成するさまざまな循環、金の流れや物の流れがおこっているのは、国家という枠のなかである。経済計画がたてられ、国民の福祉のためのさまざまな政策がとられているのも、国家という枠組みのなかである。日本の繁栄はわれわれの生活と直接に結びついている。これに対して、アメリカや中国や朝鮮の繁栄とわれわれの生活はたしかに結びついてはいるが、その結びつきは比較にならない。このように各国がそれぞれ利益の大系である以上、各国家のあいだには利益の調和もあれば衝突もある。各国家のあいだの利益関係をぬきにして平和の問題を論ずるわけにはいかないのである。
しかも国家は、力の大系であり利益の大系であると同時に、価値の大系でもある。われわれは自分の欲する行動をとって生活している。しかし、それが社会に混乱をもたらさず、多くの人とのつながりを保っていくことができるのは、そこに共通の行動様式と価値体系という目に見えない糸が、われわれを結びつけているからなのである。国家から家に至るさまざまな制度も、この目に見えない糸によって支えられて、はじめて成立するのである。
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高坂氏は「国際政治の構造についての驚くほど単純な考え方」の例として、「軍備をなくすることによって平和を求める」考え方とか、「国際連合による平和」、即ち「各国がそれぞれ軍事力を持つのをやめて、世界連邦を作り、その警察軍が秩序を維持すればよいという考え方」を挙げ、「諸国家が単純な力の単位であり、国際政治はその力の単位が並立する場所であるならば、正しい」とされます。
しかし、「実際には、国家は単なる力の単位では」なく、「国家は力の大系であると同時に利益の大系でもあ」り、「価値の大系でもある」訳ですね。
さて、ここには確かに谷口著に登場する諸概念が存在していますが、高坂氏が「力」「利益」「価値」が「国家の成立要件たる三要素」と言っているかというと、この後の記述をみてもそうした表現はなく、これはあくまで谷口氏による要約・解釈ですね。
普通、「〇〇の成立要件」というと、個々の要件のひとつでも欠ければ〇〇が成立しないことを意味するので、「力」「利益」「価値」が「国家の成立要件」であるならば、「力」「利益」「価値」のどれか一つでも欠けば「国家」は成立しない、ということになりそうですが、高坂氏がそんなことを言っていないのは明らかです。
この掲示板で今までくどいほど論じて来たように、国際法の世界では「国家の成立要件」は「永久的住民」「明確な領域」「政府(統治機構)」の三要件、またはこれに「外交能力」を加えた四要件です。
これらの要件の一つでも欠いた政治権力は「国家」ではありません。
『中世に国家はあったか』に学問的価値はあったか?(その2)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4265aa905d56a7ccd5049839b7714e60
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d51f9128b3255b83b30ec2d78d4cf2e5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b3766036b42419ee7068af259357a99b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d6c7f70115b17e1ed5c2f828c32557a
国際政治の専門家である高坂氏はもちろん国際法を熟知されており、『国際政治』の参考文献にも、おそらく高坂氏が京大で国際法を学んだときの教科書と思われる田畑茂二郎の『国際法』(岩波全書、昭和31)が載っていますね。
ということで、高坂氏が「力」「利益」「価値」が「国家の成立要件たる三要素」だなどと言われるはずがありません。
ま、これが単に谷口氏が「成立要件」という言葉の正確な(法的な)意味を知らなかったというだけなら、別にクドクド文句を言うような話ではありませんが、谷口氏の高坂著の理解は他にも問題があります。